第九話:カッコつけるのも大概にしろ
「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」
フロントカウンターで、フロント係は背筋をスッと伸ばし、完璧な角度でお辞儀をした。
だが、自動ドアをくぐって入ってきた小柄で頑固そうな手帳を手にしたおじいさんは、記帳台の前に立つなり、その顔を穴が開くほど凝視した。
「……庄吉?」
「はい? 何かご不審な点でも——」
「お前、なんで生きて帰ってこなかったんだよ!!」
突然ロビーに響き渡った怒号に、ロビーのソファで雑誌をめくっていたユイが跳び起きた。
「えっ、なになに!? 修羅場!?」
フロント係は眉ひとつ動かさず、業務用の笑みを貼り付けたまま応じる。
「……お客様、当ホテルでは他のお客様のご迷惑となる大声での発言はご遠慮いただいております。まずはチェックインのお手続きを——」
「手続きなんぞどうでもいいわ! 庄吉! お前、何澄ました顔してフロントに立ってんだよ! 『俺の代わりに、レイナさんと幸せになれ』だあ!?」
おじいさんは怒りに肩を震わせ、胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。
「カッコつけて俺にレイナさんを譲るみたいな言い方して出征していったくせに! 振られた俺の立場はどうなるんだよ! っていうか……なんでお前、死んだ後もしれっとレイナさんの隣にちゃっかり居座ってんだよバカヤロー!!」
奥から冷たいアイスコーヒーのグラスを手に出てきたレイナが、目を丸くしたあと、ふっと愛おしそうに目を細めた。
「あらあら……源ちゃん? お久しぶりねぇ」
「レ、レイナさん……! 相変わらず、お綺麗で……って、そうじゃなくて!」
源三——おじいさんはハッと正気に戻ると、再びフロント係を指さした。
「こいつですよ! こいつは出征前、泥だらけになって俺と殴り合った挙句、勝ったくせに『あいつと幸せになれ』なんて遺言みたいに言い残していったんです! なのに俺が戦後、決死の覚悟でレイナさんに告白したら……!」
「えっ、殴り合い!? 告白!?」
ユイがポップコーンの袋を抱えたまま、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「『私の気持ちは変わらない』って……即撃沈だよ! 告白した瞬間に振られたんだぞ!」
「うわあああ! 撃沈! 切ないけど超ウケる!」
「笑い事じゃない! 気持ちは変わらないって言われて、俺は失意のまま何十年も過ごしたんだぞ! なのに大往生してここに来てみたら何だ!? 当の本人が死んだあと速攻でホテルのフロントにしれっと戻ってきて、ずっと隣をキープしてやがった!!」
「……っ、お客様、それは……当ホテルの業務上の配置であって……」
「業務上だと!? だいたいお前は昔からカッコつけすぎなんだよ! 『俺はお国を守る強い男になる』とか威張ってた癖に、近所のデカいノラ犬に追いかけられただけで『助けてくれーっ!』って泣き叫んで俺の背中に隠れてただろ!」
ユイが爆笑した。
「待って爆笑なんだけど!! 犬に負けて泣いてたの!?」
フロント係の額に青筋が浮かぶ。
「……っ! お客様、それは幼少期の……っ、いや、お前! 昔のどうでもいい話をいちいち掘り返すな! 今は関係ないだろ!!」
「うわ、プロの仮面が割れてタメ口になった!」ユイが大喜びする。
「関係大ありだね!」
源三は勢いに乗って畳みかける。
「夜の学校の裏を通った時だってそうだ! 便所行くのが怖くて俺を連れ回したくせに、便所に入る直前、ドア越しに『終わるまで絶対待ってろよ! 絶対だぞ!』って泣きそうな声で叫んでただろ!」
「うわあああ! 外に立たせて自分だけドア閉めて叫んでたの!? 『絶対待ってろ』はダサすぎる! 完全なビビりじゃん!」
「ふふっ」
レイナが口元を抑えてくすくす笑う。
「そういえば、今でも深夜の館内見回りに行くときは『レイナ、フロントから動くなよ。絶対だぞ』って言うもんねぇ」
「レイナまで余計なこと言うなよ!! あれは警備上の安全確認だ! 頼むから二人とも黙ってくれ……!」
彼は耳まで真っ赤にし、両手で顔を覆って茹でダコのようにうなだれた。
「手に負えんな、昔から! レイナさんの前でだけ露骨にカッコつけて、足元のみかん箱に派手に蹴っ躓いてドブに落ちただろ!」
「もうやめろ源三!!」
夜が深まり、ユイもレイナもそれぞれの部屋へと戻っていった。
シーンと静まり返ったロビーのベンチに、ふたりが並んで腰掛けている。
フロントの小さな灯りだけが、若い姿のままの彼と、すっかり年老いた源三の影を床に長く落としていた。
「……レイナさん、相変わらず綺麗だな」
源三がぽつりと呟いた。
「……ああ、変わらないよ」
「俺だけこんなシワシワのおじいちゃんになっちまったよ。……なぁ庄吉。俺、あの日からずっと一生懸命生き抜いたぞ。お前の分まで時代を跨いで、泥臭く、精一杯な」
彼は膝の上で拳を握りしめ、静かに、しかし深く首を振った。
「……知ってる。お前が立派な人生を全うしたことくらい、見れば分かる」
「ハッ、お前に言われると腹が立つな」
源三はポケットから煙草の箱とライターを取り出すと、一本を差し出した。
「ほら、」
「……悪いな」
彼はそれを受け取り、源三から差し出された火を借りて煙草に火をつけた。
紫煙がゆっくりとふたりの間に立ち上り、天井へと消えていく。
それからふたりは煙草を燻らせながら、昔の街並みのこと、戦後の復興のこと、残された者たちのその後について、東の空が白むまで途切れることなく語り明かした。
翌朝。
澄み渡った朝陽がロビーに差し込む中、外から静かにバスのクラクションが響いた。
「お迎えのバスが到着いたしました」
フロントカウンターの前に立ち、彼はいつもの完璧な姿勢でお辞儀をする。
源三はゆっくりと立ち上がり、自動ドアの手前で脚を止めた。
ゆっくりと振り返り、まっすぐに彼を見つめる。
「……レイナさんを頼んだぞ、庄吉」
彼はスッと背筋を伸ばし、かつての友でありライバルであった男の目を正面から見つめ返した。
「——ああ。」
「ふん。じゃあな、カッコつけのビビり野郎」
源三はフッと口元を緩め、背中越しにひらひらと手を振った。
「じゃあな、源三」
バスが走り去るのを、彼は最後まで姿勢を正して見送っていた。
隣にそっと立ち止まったレイナが、彼の手を優しく握る。
「……よかったわね、庄ちゃん」
「……何がだよ」
「カッコ悪くて、すっごく格好よかったわよ」
そう言われて、彼はまた耳を少し赤くしながら、気まずそうにフイッと顔を背けるのだった。




