第七話:断ち切られた手
ロビーの壁掛け時計が、静かにコチコチと音を立てている。
夕方のチェックインラッシュも落ち着き、静寂を取り戻したカウンターに、フロント係の男が背筋を伸ばして立っていた。
昨日の「フリーズ」が嘘のように、その表情はいつもの冷徹な鉄面皮に戻っている。
だが、ロビーの自動ドアが開き、やってきた「二人組」がカウンターの前へ歩み寄った瞬間、彼の薄い唇がわずかに硬く結ばれた。
やってきたのは、泥のように疲弊した顔をした三十代半ばの男と、その手にしっかりと握られた、まだ六歳にも満たない幼い少年の手だった。
男のスーツはシワだらけで、髪はボサボサに乱れている。
「あ、あの……ここ、どこですか? 事故でも起こしたのかな、俺……」
男はおどおどとした目で周囲を見回しながら、掠れた声で尋ねた。
フロント係の男は、いつもと変わらぬ完璧な所作で淡々と帳面を開く。
二人の背負う過酷な「手荷物(業)」を察しながらも、その声には一切の感情を交えない。
「いらっしゃいませ。二名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」
「え……? 予約……? バス……?」
何一つ事情を説明してくれないフロント係の無機質な対応に、男は戸惑い、顔を青ざめさせる。
「パパぁ、お腹すいた……」
状況が理解できず、父親のジャケットの裾を引っ張る無邪気な少年。
ロビーのソファでその光景を眺めていた居候のユイは、ハッと息を呑み、勢いよく立ち上がった。
「……ちょっと。審査、どうなったの」
男が呆然としたまま少年の手を引いてソファへと移動したあと、ユイはたまらずカウンターへと駆け寄った。
フロント係の手元にある二枚の乗車券。そこに印字された文字を盗み見たユイの目が、大きく見開かれる。
「……うそ……分かれてる……?」
「当然だ」
フロント係の男は冷ややかな声でと言い放つ。
「お子様は自らの意思で命を絶ったわけではない。何の罪も未練もない無垢な魂だ。明朝十時、天国行きの白いバスにお乗りいただく」
「……じゃあ、あの父親は……?」
「我が子の命を奪い、自らの命も手放した。過酷な業を背負った魂だ。……行き先は『黒』。地獄行きの便となる」
その決定に、ユイの胸の中でドス黒い怒りと切なさが激しく渦巻いた。
ユイはスタスタとロビーへ歩み寄ると、ソファで頭を抱えて震える父親の前に仁王立ちした。
「ねえ!! なんでこの子まで巻き込んだのよ!?」
ユイの激しい怒声に、父親はビクッと肩を跳ね上げ、顔を上げた。
「自分だけで死ねばよかったじゃない! なんでこの子の未来まで勝手に終わらせてんのよ! 生きたかったかもしれないのに……っ!」
自ら命を絶った自分自身の過去と重なり、ユイの声は涙混じりに震えていた。
生きている時、誰かに助けてほしかった。
生きたかった。
その権利を、一番信頼している親に奪われた少年の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。
父親はボロボロと涙をこぼしながら、ぐしゃぐしゃの顔で頭を振った。
「ち、違うんだ……! 会社が倒産して、闇金に追われて……俺が死んだら、この子は一人になっちゃうんだよ! 親戚もいない、施設に預けられて、世間の冷たい目に晒されて……そんなの耐えられるわけないだろ!?」
「だからって殺していい理由になるわけないでしょ!!」
「愛してるからだよ!!」
父親の悲痛な叫びが、静まり返ったロビーに空しくこだました。
「愛してるから、一緒に連れていくしかなかったんだ! 一人にして逝けるわけないだろ……っ!」
「愛してるからって……一緒に死ぬなんて、勝手すぎるよ……!」
ユイが言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛み締める。
そのやり取りを、カウンターの脇からレイナが静かな、どこか悲しげな眼差しで見つめていた。
「……パパぁ、お腹すいた……」
ロビーの隅のソファで、幼い少年がトロンとした目で父親の袖を引っ張る。
自ら命を絶つ直前、まともな食事など摂れていなかったはずだ。父親は顔を真っ青に染め、ガタガタと震える手で我が子の頭を撫でることしかできない。
「……お客さま」
無機質な声で声をかけたのは、カウンターの奥から歩み寄ってきたフロント係の男だった。
彼は小さなトレイをそっと少年の前に差し出す。
その上に乗っていたのは、湯気の立つ温かい一杯のうどんだった。
少し不揃いな麺と、油揚げが乗った、ごくありふれたもの。
「……?」
「生前、ご自宅の近くの小さな店で……お父さまと一緒に召し上がったものですね。当ホテルは、お客様の記憶にある最期の温もりを再現するようになっています」
フロント係の淡々とした言葉に、父親の体がビクリと跳ねた。
それは、会社が傾き、すべてを失う少し前――家族で笑い合っていた最後の休日、二人で分け合って食べた「ゆかりの味」だった。
「うわぁ、おいしそう!」
少年は嬉しそうに割り箸を割り、夢中でうどんをすする。
「おいしいね、パパ?」
と無邪気に顔を上げられた父親は、喉まで込み上げてくる嗚咽を必死に堪え、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら
「……ああ、美味しいな」
と震える声で返すのがやっとだった。
その夜。
静まり返ったホテルの二階の一室で、父親は布団の中でスヤスヤと眠る少年の寝顔をずっと見つめていた。
これが、この子と一緒に過ごせる最後の夜だ。
明日になれば、この子は光の中へ行き、自分は暗闇へ落ちていく。
(俺が……俺があんな選択をしなければ……)
今さらどんなに後悔しても、もう遅い。
父親は少年の小さな手をそっと自分の手のひらに重ね、音を殺して、朝が来るまでただ泣き続けた。
そして、最後の朝が訪れた。
午前八時。
二階のダイニングルームでは、宿泊客たちのための朝食ブッフェが始まっていた。
ビジネスホテルによくあるような簡素なセルフサービスの会場には、綺麗に並べられたトーストやスクランブルエッグ、スープ、そして温かいコーヒーの香りが漂っている。
それぞれに行き先を控えた死者たちが、静かに皿に向き合っていた。
その一角のテーブルで、父親と少年は並んで座っていた。
「パパ、これおいしそう!」
少年は昨夜のうどんで少し元気が出たのか、プレートに小さなパンやウインナーを嬉しそうに乗せている。
しかし、父親の皿には何も乗っていなかった。コーヒーカップを握る手が、かすかに震えている。
「……食べないの?」
「あ、ああ……パパは、ちょっとお腹がいっぱいでね。……お前、それ美味しいか?」
「うん! これ、あまくておいしいよ。ねえパパもひとくち食べる?」
少年がフォークに刺した小さなパンを差し出す。
父親はそれをじっと見つめ、喉を詰まらせながら、小さく首を横に振った。
「……ううん、それはお前が全部食べなさい。……たくさん食べて、大きくなれよ」
周囲の客たちが、沈痛な面持ちで、あるいは何も言わずにその親子の姿を横目で通り過ぎていく。
誰も声をかけない。
それがこのホテルのルールであり、干渉してはならない境界線だった。
カウンターの遠くから、その様子を静かに見つめていたユイは、たまらなくなって視線を逸らし、レイナは小さく息を吐いて目を伏せた。
午前九時五十分。
ロビーの外に、眩しいほどの光を放つ白いバスが静かに停車した。
「……天国行きの便が到着いたしました。お時間です」
フロント係の静かな案内が響く。
父親は少年の前に膝をつき、両肩を強く抱きしめた。溢れ出る涙で視界が歪み、声がうまく出ない。
「……ごめんね、ごめんね……パパの勝手で……本当にごめんね……」
「パパ、なんで泣いてるの? 一緒に行かないの?」
幼い少年は、父親の涙を小さな手で拭おうとする。自分たちが永遠に離れ離れになることなど、知る由もない。
「……パパはね、ちょっと遅れていくから……お前は先に、あのお兄さんと一緒にお行き……」
「えー、一緒がいいよぉ」
「ダメだ!!」
父親は思わず声を荒らげ、すぐにハッとして我が子を強く抱きしめた。
「……言うことを聞きなさい。あっちへ行けば……美味しいものがたくさんあって、温かいお布団があるから……。パパのことなんて、全部忘れて……幸せになりなさい……」
フロント係の男が歩み寄り、少年の小さな手をそっと引き取った。
少年は何度も振り返りながら、男に連れられて白いバスのステップを上っていく。
ドアが閉まる直前、少年は無邪気に手を振った。
「パパ! バイバイ! 早く追いかけてきてねー!」
プシュー、とドアが閉まる音と共に、白いバスは滑らかに走り去っていった。
光の中に消えていくバスを見送りながら、父親はその場に膝から崩れ落ち、声を上げて泣き叫んだ。
自分の愛が、我が子を天国へ送り、自分を地獄へ落とし、そして二人を永遠に引き裂いたのだという残酷な現実を噛み締めながら。
しばらくして、黒い重厚なバスが静かにロビーの前に滑り込んできた。
地獄行きの便だ。
父親は立ち上がり、魂が抜けたような足取りで自動ドアへと向かう。
その背中に、フロント係の男が淡々と、けれど静かに声をかけた。
「……お客様」
父親が足を止めて振り返る。男は冷たい瞳の奥に、深い哀愁を宿しながら告げた。」
「……人間は、絶望すると愛さえも刃に変えてしまうものだ。だが、その刃で我が子を傷つけた罪は、どれほど泣こうとも消えはしない。……行ってらっしゃいませ」
父親は深く深くお辞儀をし、一度も振り返ることなく黒いバスの中へと消えていった。
エンジン音が遠ざかり、再び静寂が戻ってきたロビー。
カウンターにもたれかかったユイは、ポツリと呟いた。
「……胸くそ悪いな。愛してるなら、泥啜ってでも生きろよ……」
その言葉に、フロント係の男は遠い目をして、自らの胸の奥にある「かつて生きられなかった記憶」をそっと押し殺すように息を吐いた。
「……まったくねぇ」
奥から顔を出したレイナが、優しくユイの頭を撫でる。
「でもね、ユイ。あの父親の罪は消えないけれど……あの子が最後に『パパ、バイバイ』って笑えたことだけが、あの父親が遺せた唯一の救いだったかもねぇ」
黄昏の空が、静かに夜の闇へと溶けていく。
トランジットホテルは今夜も、人間の愛と業を飲み込みながら、変わらずそこに佇んでいた。




