第六話:未練の軌道
夕暮れ時のトワイライトタイムロビーの大きな窓の外には、終わりなき黄昏の空が広がっている。
だが、今日のロビーの空気は、いつもの静けさとは決定的に違っていた。
――白髪の老人があの白いバスに乗って旅立ったあの日から、フロント係の様子はおかしかった。
いつもならどんな客が来ようとも微動だにせず、淡々と冷徹な仕事をこなしていた彼が、ふと遠い空を見つめて動きを止める。
その背中には、言葉にできない底知れない疲弊と痛みが纏わりついているようだった。
そして――ついに、その限界は訪れた。
「……おい、庄ちゃん?」
ロビーの隅のソファで気だるそうにしていたユイが、異変に気づいて顔を上げる。
カウンターの奥。
いつもなら絶対に崩されない姿勢で立っているはずのフロント係が、音もなく床に崩れ落ちていた。
慌てて駆け寄ったレイナと共に体を支えようとするが、その身体はひどく冷たく、呼びかけに対する返事どころか、かすかな息遣いすらない。
完全に意識が飛んでいた。
(――あ、そっか)
ユイはふと、床に倒れ伏した男の顔を見下ろして思う。
この人も、死人なんだ。
いつも当たり前のようにそこにいて、冷淡で完璧な機械みたいにホテルを回していたけれど、この男だって自分と同じ、生と死の狭間を彷徨う「死者」の一人でしかなかったんだ。
「――っ! 庄ちゃん……嘘でしょ!?」
普段は飄々としていて余裕を崩さないレイナが、文字通り顔面を青ざめさせて声をうわずらせる。
これほど取り乱している彼女を見たのは、ユイにとっても初めてだった。
「どうすんだよこれ……あと少しで、夕方のチェックインが始まっちまう時間だよ!」
レイナが焦燥に駆られたようにロビーの壁掛け時計を仰ぐ。
午後四時を指そうとしている針が、やけにうるさく響く。
このトランジットホテルにおいて、フロント係が不在のまま定刻を迎えるなど、本来あり得ない異常事態だった。
その時、床に倒れ伏した男の傍らで、ユイはふっと小さく息を吐いた。
彼女は乱れた制服の裾をパタパタと払い、いつもの不貞腐れた態度をすっと引っ込めると、重い足取りでカウンターの内側へと回り込む。
「……仕方ないでしょ。このままで客が来たら私たちが困るし」
「ユイ、お前……」
「レイナさんはそいつを奥の部屋まで引っ張ってよ。……チェックインの対応くらい、この人の真似してれば何とかなるでしょ」
冷めた、けれどどこか腹を括った少女の声が、静まり返ったロビーに響く。
夕方のチェックイン時刻。
ロビーの自動ドアが開き、最初の客がぽつりと足を踏み入れた瞬間、カウンターの裏では早くも大パニックが起きていた。
「いらっしゃいませー……って、あー、えっと……」
ユイが冷や汗をにじませながらモタモタしていると、自動ドアをくぐってやってきたのは、いかにも現世のノリを引きずったままのテカテカしたスーツの男だった。
彼はカウンターの前に立つと、ユイの制服姿とあどけない顔を見てニタニタと下品に顔を綻ばせる。
「あれぇ? こんな可愛いお姉ちゃんがフロントやってるのぉ? 退屈だろ、俺の部屋に遊びに行こうぜ。一晩楽しく過ごしてくれてもいいんだぜ?」
――ゾッとするほど、気持ちが悪い。
現世での嫌な記憶が蘇り、ユイのなかにドス黒いイライラが渦巻く。
普段の彼女なら無視するところだが、不慣れな代理業務でイライラがマックスに達していたユイは、つい面倒くさそうに毒づいてしまった。
「……あー、お客様。審査、もう降りてますけど」
「は? 審査ってなにが?」
「……えっと、確か『地獄行き』、ですね。あ、」
しまった、という顔でユイが口を真一文字に結ぶ。
もちろん、このホテルでそんな不吉な宣告を勝手にしていいルールなどない。
しかし、死生観も曖昧なままやってきたおじさんは、そのダイレクトな単語を浴びせられ、顔面を真っ青に染め上げた。
「じ、じごく……!? おい、ふざけんな! 俺はまだ若いし、これから――」
「あ、じゃあお迎えのバスは明朝十時、部屋は二〇二号室なんで、どうぞ勝手に消えてください」
ユイがやけくそ気味にピシャリと言い放つと、おじさんは恐怖とパニックで完全に腰を抜かし、
「うわぁぁぁ!」
と情けない悲鳴を上げながらトランクを放り出してエレベーターへと駆け込んでいった。
カチリ、と扉が閉まる音を聞き届けてから、ユイはどっと疲れたようにカウンターへ突っ伏す。
「……やっちゃった」
「いやあ、見事な脅し文句だったじゃないか。あの親父、今夜は一睡もできないねぇ」
いつの間にかカウンターの脇から顔を出していたレイナが、ケラケラと楽しそうに笑う。
しかし、その後の一連の騒動は、まさに阿鼻叫喚のダイジェストだった。
「どうしても愛人に会わせろ」
とロビーで号泣する男を冷ややかな目でいなし、
「ここは何処だ! 俺の会社はどうなる!」
と逆ギレする男には、レイナと二人掛かりで事務的にトランクを押し付ける。
次から次へとやってくる厄介な宿泊客たちを、ユイが不器用ながらも必死にさばき続け、どうにか夕方のヤマ場を乗り切ったのだった。
ロビーの喧騒がようやく静まり返った頃。
ユイはドッと疲労感をにじませながらカウンターにもたれかかり、大きく息を吐き出した。
「ふう……終わった……。死人なのに、なんでこんなに疲れるわけ……」
「お疲れ様、ユイ。なかなかの名演技(?)だったよ」
レイナはそう言って労うように苦笑を浮かべたが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥の色が張り付いていた。
「……で、そっちはどうなのよ」
ユイが顎でクイッと指し示したのは、ロビーの奥へと続く静まり返った通路の先だった。
半開きになったドアの隙間から覗き込むと、ベッドの上には、普段のピシッとした制服を脱がされ、ただの白シャツ姿で横たわる男の姿があった。
あの白髪の老人と対峙したときから蓄積していた歪みが、彼の内部のシステムを完全に破壊し尽くしたかのようだ。
「ねえ、レイナさん……この人、このまま消えたりしないよね?」
ユイが不安そうにレイナを見上げる。レイナは答えず、ただじっと眠る男の青白い顔を見つめたまま、唇をぎゅっと噛み締めるのだった。
やがて、
「ちょっと一息ついてくる」とユイがロビーのほうへ戻っていき、静まり返った奥の部屋には、レイナだけが残された。
彼女は静かに息を呑み、横たわる男の顔をじっと見下ろす。
――レイナが冷え切った男の手に自分の手を重ねた、
その時だった。
それまで微動だにせず、死んだように眠っていた男の眉間が、苦痛に歪んだようにわずかに動いた。
「……ん……っ」
か細く、掠れたうめき声が漏れる。
レイナはハッと息を呑み、男の顔を覗き込んだ。
完全にフリーズしていたはずのシステムが、バグを起こしたかのように不規則なノイズを孕み始める。
男のまぶたが痙攣するように震え、そして、途切れ途切れの声が掠れた唇から零れ落ちた。
「……レイナ……」
「――っ!」
レイナの胸が大きく跳ねる。彼が自分の名前を呼んだことではない。
その声のあまりの弱々しさと、そこに纏わりついた底知れない恐怖に息が詰まったのだ。
男の意識はまだ現実に戻っていない。
熱に浮かされたように、あるいは悪夢の底にもがくように、彼は目を閉じたまま、うわ言のように言葉を紡ぎ続ける。
「……ごめん……おれ……」
彼がうなされながら零した、途切れ途切れの謝罪の言葉。
何を悔い、何に怯えているのか。
その奥底にある感情までは分からない。
だが、普段の鉄面皮な彼からは絶対に想像もつかないほど生々しい苦悶が、その口からこぼれ落ちていた。
胸を締め付けるような切なさと、どうしようもない愛おしさがこみ上げる。
レイナはふっと息を吐くと、ゆっくりと身体をかがめ、冷え切った彼の額にそっと自分の額を寄せた。そして、わずかに震える唇を重ね合わせる。
体温などない。
ただ、長い長い時間の果てに凍りついた彼の魂の痛みを、ほんの少しだけでも分け合うかのような、静かな口づけだった。
――その瞬間だった。
それまで微動だにしなかった男の身体が、小さくびくりと跳ねた。
「……っ」
掠れた息を吸い込む音。
止まっていた歯車が激しい音を立てて再稼働するように、男のまぶたが重そうに持ち上がる。
曇ったガラスの向こう側を見るような焦点の定まらない瞳。
彼の視界に最初に入ってきたのは、すぐ間近にあるレイナの顔だった。
その唇に残るわずかな温もりが、彼の内部でフリーズしていたシステムを強制的に現実に引き戻す。
「……レイナ……?」
「おや、やっと起きたかい。……いつまでその遠い空を飛んでるつもりだったのさ、フロント係さん」
「……俺は……」
起き上がろうとした男の身体がガクリと揺らぐ。
レイナはすかさずその肩を支え、しっかりと抱き止めた。
その一部始終を、半開きになったドアの隙間から――
こっそりと覗き見ていたユイは、自分の目を疑った。
(え……? え……?)
さっきまで魂が抜けたように倒れていたフロント係が目を覚ましたことだけでも驚きなのに、あの冷酷で気だるげなレイナが、あんな柔らかい顔で男を支えている。さらに、二人の間に流れるただならぬ空気感や、レイナの纏う気配を肌で感じ取り、ユイはハッと息を呑んだ。
(なんか……私が踏み込んじゃいけない、すごく深くて重いものを見ちゃった気がする……!)
恋愛経験なんて乏しいユイでも、それがただの「同僚」の距離感ではないことくらい直感で分かる。
心臓がバクバクと騒ぐのを必死に抑えながら、ユイは音を立てないよう、そっと後ろへ身を引いた。
その時、ロビーのほうから新たな客の到来を告げるベルの音が静かに響いた。
(……やば、次の客だ!)
これ以上あの部屋にいるのは気まずすぎると、ユイは慌てて引き返し、再びフロントのカウンターへと小走りで戻っていく。
静まり返った奥の部屋では、レイナがよろめくフロント係の体をしっかりと支え続けていた。
「……レイナ。俺は、いったい……」
「無理しなくていいさね。……今日のところは、もうおしまいだよ」
すっかり消耗しきった彼をベッドの縁に座らせ、レイナはキッパリと言い放つ。
「あんたはそこで大人しくしてな。残りのチェックインは、あの新人と……アタシがどうにかするからさ」
「いや、しかし……仕事が……」
「いいから黙って座っときな。……これ以上アタシを心配させるんじゃないよ」
その少しだけ掠れた、けれど絶対的な強さを含んだレイナの言葉に、フロント係はそれ以上言葉を紡げなかった。
彼は力なく息をつくと、静かにうなずき、ベッドの端に腰掛けたまま目を伏せる。
レイナはそんな彼の様子をひとしきり見つめると、ふっと小さく息を吐き出し、部屋を出るために振り返った。
扉の向こうでは、また新たな宿泊客を迎え入れるために、ユイの緊張した声がロビーに響き始めている。
凍りついた過去の呪縛からようやく引き戻された男をその場に残し、レイナは静かに部屋のドアを閉めるのだった。




