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第五話:ずっと、家で待っているから

「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」


 杖をついた白髪の男がゆっくりとカウンターの前に歩み寄り、気まずそうに帽子を指先でいじった。



「あの……ここには、どうやってきたもんか……よくわからんが」



「よくあることです。手続きは後でまとめてやりますから、まずはそちらにお掛けください」



カウンターの奥から顔を出したレイナが、すかさず温かいお茶の入った湯飲みを差し出す。

フロント係は手際よく書類を引き寄せると、淡々とした口調で定型の案内を続けた。



「……それと、どなたかお部屋にお呼びになりますか? 一名だけお呼びすることができます」



その言葉に、初老の男は少しだけ驚いたように目を見張り、それから急に気恥ずかしそうに視線を足元へと落とした。

しばらくの沈黙の後、男はぽつりと言った。



「あぁ……じゃあ、婆さんを呼んでくれんか」



 フロント係は手元のペンを止めず、


「奥様ですか、かしこまりました」


と復唱する。


しかし、男はどこか居心地悪そうに、ごくりと喉を鳴らしてから付け加えた。



「ただのう……婆さん、ボケちまって……。俺のことは、もうすっかり忘れてるかもしれんが……それでも、いいかね?」



その言葉に、ペンを走らせていたフロント係の手が、ほんの一瞬だけぴたりと止まった。

そのやり取りをロビーのソファから眺めていた居候のユイは、気になってたまらなくなったようにスタスタとカウンターへ近づき、フロント係の袖を軽く引っ張った。



「ねえ、どうすんの? 忘れてるかもしれないのに連れてくるの?」



ひそめられた声に、フロント係の男は小さく息を吐いた。それから、カウンターの前に立ち尽くす白髪の男に向き直り、いつもの無愛想な声音を少しだけ和らげて告げる。



「……確認いたします」


白髪の男はロビーのソファに腰掛けている。

なんとなく行き場のない気まずさを漂わせるその背中を見ているうちに、ユイは胸の奥がキュッと締め付けられるような、妙に放っておけない気持ちになってきた。

 

ユイはスタスタと男の隣に歩み寄り、軽く手を挙げて言った。



「じゃあ、おじいちゃん、奥さん来るまで私とおしゃべりしようよ」



白髪の老人は面食らったようにまばたきをし、それから申し訳なさそうに皺の刻まれた顔をほころばせた。



「構わんが……こんなジジイの話なんて、若い人にはつまらないだろ……」


「いいよ、色々教えて」



ユイが隣に腰を下ろすと、老人は遠くを見るような、それでいて大切にしまっていた宝物を取り出すような目を細めた。



「……俺と婆さんはの、学生の頃に出会ったんだが、ちょうど戦争中でな。俺には赤紙が来て、小さな島国へ出征になったんだ」



その言葉がロビーの空気に落ちた瞬間。

カウンターの奥で帳面をめくっていたフロント係の手が、ぴたりと止まった。



「俺は生き残ったが、一緒に行った仲間たちは全員死んだ……。いっそ死んだ方がマシかと思ったんだが、婆さんのことが忘れられなくてな……迎えの船が来るまで、なんとか生き延びた」



白髪の老人はそう言って、自分のしわがれた手を見つめた。

あの戦争の泥や、帰りの船の底で感じた冷たさが、今もその指先のシワに染みついているかのようだった。

その言葉の端々が、静まり返ったロビーに染み込んでいく。


カウンターの奥で、フロント係はペンを握ったまま、ただ黙ってその話を聞いていた。

顔の表情は硬くこわばり、視線は手元の帳面に落とされたまま、微動だにしない。

レイナもまた、ティーカップを持ったまま動きを止め、遠い目をしながら二人のやり取りを見守っている。


ユイは老人の言葉の重さに少しだけ息を呑みながらも、そっと尋ねた。



「……生きて帰ってきて、すぐに奥さんに会えたの?」


「いや……」



老人は苦笑いのような、泣き笑いのような、ぐっと歪んだ顔をした。



「結局敵国の捕虜になってな……そのあと三年は会えなかったよ。でも、戻って来た時に婆さんが待っててくれてな……そこからずっと一緒だった」



老人は懐かしむように目を細め、ぽつりぽつりと紡いでいく。



「結婚して、子どもができて、今は孫もたくさんいる。幸せな人生だった」



戦後の過酷な抑留生活を耐え抜き、ようやく辿り着いた日常。

戦争の影を背負いながらも、二人で築き上げた何十年もの温かい時間が、その言葉の隅々にまで満ちていた。



「だからのう、せめて最後に『今までありがとう』と言いたかったんだが……もう俺のことは覚えてないだろうな」



白髪の男は、どこか諦めたような、それでいて胸の奥の未練がほどけないような、ひどく寂しげな笑みを浮かべた。


その言葉を聞いた瞬間、カウンターの奥でずっと黙り込んでいたフロント係が、ゆっくりと顔を上げた。

彼の視線は、ロビーのソファに座る老人の背中を見つめ、それからカウンターの脇で腕を組むレイナへと向けられる。



「……レイナ……なんとかしてやれないか」



その声はいつものぶっきらぼうな響きではなく、絞り出すような、ひどく掠れたものだった。

レイナは困ったように眉をひそめ、小さく首を横に振る。



「だってばあちゃんはもう……現世で意識が朦朧としてて……」



「……頼む……」



遮るように落とされたその一言に、レイナは息を呑んだ。

レイナはしばらくフロント係の目をじっと見つめ返していたが、やがて観念したようにふっと小さく息をついた。



「まったく……相変わらず甘いねぇ、庄ちゃんは」



レイナは歩み寄ると、白髪の老人の前に立った。



「じいちゃん。ばあちゃんをここに連れてきてあげるけど……でもね、向こうの記憶が曖昧になってるから、もうあなたのことも何も覚えてないかもしれないよ? それでもいいの?」



その問いかけに、白髪の老人はわずかに驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな、すべてを受け入れるような笑みを浮かべた」



「……ああ。かまわんさ。最後に、もう一度あの人の顔だけでも見たい。それだけで十分だ」



老人の濁りのない、真摯な瞳を見つめた後、レイナは小さく頷いた。



「……わかった」



奥さんがロビーに到着するまでの間、気まずさと切なさを紛らわせるように、ユイは身を乗り出して老人に話しかけた。



「ねえ、おばあちゃんのどんなところが好きだったの?」


「そうだな……昔から気丈で、俺がくだらないことで悩んでると、いつも呆れた顔で引っ叩いてくれてな……」



ユイが相槌を打ちながら言葉を交わすうち、ロビーの空気が少しだけ柔らかくなっていった。


それからしばらくして、奥の通路からゆっくりと足音を響かせながらレイナが戻ってきた。

その傍らには、車椅子に腰掛けた小柄な老婆の姿がある。


老婆は白髪をきれいにまとめ、どこか不安げに周囲を見回していた。


レイナは老婆の車椅子をそっと押し、白髪の老人のソファのすぐそばまで進み出ると、優しく声をかけた。



「ばあちゃん、ちょっとお客さんだよ。この人、誰かわかる?」



白髪の老人は息を呑み、震える手で膝の上の帽子をぎゅっと握りしめた。


老婆はゆっくりと顔を上げ、目の前にいる夫の顔をしげしげと見つめた。

しかし、その目に浮かぶのは親愛の色ではなく、深い霧の向こうを見るような戸惑いの表情だけだった。



「……誰だったかいのぅ……?」



掠れた声で首をかしげる老婆を見て、ユイは思わず小さく息を吐き、目を伏せた。



「……やっぱり……」



カウンターの奥でその様子を見つめているフロント係も、ただ無言のまま拳を固く握りしめている。

 

しかし、老婆は夫を忘れていることへの申し訳なさよりも、どこか遠くを見つめるように、ぽつりと言葉を紡ぎ出した。



「……あたしはね、待ってる人がいるの。ずっと。ここで待ってるんじゃなくて……お家で待ってないと、帰って来ても会えないから……」



「待ってる人?」



ユイが思わず聞き返すと、老婆は柔らかく、けれど切なげに微笑んだ。



「大好きだった人が戦争に行ったから……。あたしがしっかり待ってないと、あの人が帰ってきたときに行き場所がないからさ。だから、こんなところで寄り道してちゃダメなのよ」



トロンとした目で、しかしどこか強い意志を込めてそう呟く老婆。

何十年も共に暮らし、子供や孫に囲まれた賑やかな日常があったはずなのに、病がその記憶の大部分を削り取ってしまった。

今残っているのは、戦争に行ったきりの若い夫を必死に待っていた、遠い昔の記憶だけだった。


目の前にいる「老いた夫」の顔はわからなくなってしま体ても、心のいちばん奥底にある

「あの人を待たなきゃいけない」という想いだけが、今もずっと彼女を動かしている。


その言葉の意味に気づいた瞬間、白髪の男の目から、大粒の涙がすっとこぼれ落ちた。



「……そうだな」



男は震える声でそう呟き、両手で顔を覆った。

忘れられてしまったわけじゃない。

何十年もの愛おしい記憶は消えてしまったかもしれないけれど、彼女はずっと、自分を待つための時間を生き続けてくれていたのだ。


ユイは胸がいっぱいになり、小さく息を吸い込みながら、老婆の車椅子の傍らにそっとしゃがんだ。



「そうだね。ちゃんとお家で待ってないと、帰ってきたときに困っちゃうもんね」



老婆は


「そうだよ」


と、どこか誇らしげにこくりと頷いた。

カウンターの奥では、フロント係の男が静かに目を閉じ、深く息を吐き出していた。

失われた記憶の残酷さと、それでも決して消えなかった想いの温かさが、静まり返ったロビーの空気を優しく包み込んでいく。



「……じゃあ、帰ろうか」



レイナが穏やかな声でそう告げ、車椅子のグリップに手をかけた。その気配に気づいたのか、おばあちゃんはふと顔を上げ、ロビーのソファに座る白髪の老人に目を留めた。


見知らぬ、けれどどこか懐かしいような顔を見つめ、おばあちゃんはトロンとした目で声をかける。



「……あぁ、そこの人」



白髪の老人がハッと顔を上げる。おばあちゃんはゆっくりと、しかしはっきりとした口調で頼んだ。



「もし、あの人に会ったら……『愛してる、ずっと待ってるから』って、伝えてもらえんかの」



目の前にいるのがその「本人」だとは気づいていない。

けれど、彼女のあふれ出る想いは、巡り巡って間違いなく最愛の夫の胸に届いた。


白髪の老人はこみ上げる涙をもう隠そうともせず、ぐしゃぐしゃになった顔で力強くうなずいた。



「……あぁ……必ず、伝えるよ」



車椅子がゆっくりとロビーの奥へと消え、静けさが戻ってきた空間で、白髪の老人は深く息を吐き出した。そして、ぽつりと呟く。



「ありがとう……最後に、顔が見れてよかった……」



その言葉に、ユイは胸を詰まらせながら小さく頷いた。

老人は優しい目をし、隣に立つユイに向かって穏やかに微笑む。



「お姉さんも、ありがとうな。こんなジジイの話を聞いてくれて」


「うん……あのさ、悲しくなかった? 奥さんが、もう覚えてなくてさ……」



ユイがどうしても気になってしまい、少しだけ声のトーンを落として尋ねる。

すると白髪の男は首を横に振り、遠くを見るような、それでいて満ち足りた表情で答えた。



「いや……いいんだ。俺は、アイツと一緒にいられて、本当に幸せだったから」



その清々しいまでに温かい答えに、ユイはそれ以上言葉を返すことができなかった。


一区切りついたロビーに、フロント係の低い声が響いた。



「……お部屋までご案内します」


「あぁ……」



白髪の老人はゆっくりと立ち上がり、フロント係の後を追おうと足を一歩踏み出した。

しかし、その場でピタリと動きを止める。

老人は怪訝そうに眉を寄せ、フロント係の背中をじっと見つめた。



「お前さん……どこかで見たことあるような……気のせいか、戦争中に兵舎にいた奴に似た顔をしていてな……」



その言葉に、フロント係の足がピタリと止まる。

振り返ることもできず、ただ背筋をまっすぐに伸ばしたまま、男は押し黙っていた。



「……お部屋までご案内します」



静かにそれだけ告げて老人の荷物を受け取り、滞りなく部屋へと案内を済ませたフロント係は、すぐにロビーへと戻ってきた。


ちょうどそのとき、戻ってきたレイナが、ピリッと張り詰めた空気を感じ取って足を止める。

フロント係の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。



「……庄ちゃん……」



その名前を呼ばれた瞬間、フロント係の男はわずかに肩を揺らしたが、すぐに何も言わずにすっと背筋を伸ばした。



「……しばらく暇だな。俺は休憩してくる。何かあったら呼んでくれ」



それだけ言い残すと、彼は足早にカウンターの奥へと消えていった。


取り残されたロビーに、気まずいような、奇妙な静けさが広がる。

ユイは遠ざかっていく背中を目で追いかけながら、首をかしげてレイナを見上げた。



「ねえ、なんかアイツ、今日変じゃなかった? いつもは『冷徹!』って感じなのにさ」



レイナは少しだけ苦笑いを浮かべ、肩をすくめて言う。



「……ちょっとね。おじいちゃんに甘いからさ、庄ちゃんは」


「へえ……?」



レイナの言葉に、ユイはますます首をかしげた。


いつもは感情を見せず、淡々と仕事をこなすだけのフロント係が見せた微かな動揺と、不器用な優しさ。


二人の間に流れる言葉にできない重みと温かさを噛みしめるように、静まり返ったロビーには穏やかな時間が流れていた。

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