第四話:終着駅のひと手前
「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」
煤けたようなロビーの空気の中、低く落ち着いた声が響いた。
俯いたままカウンターの前に立つのは、湿った黒髪で顔を半分隠した女子高生だった。
少し乱れた制服のポケットに両手を突っ込み、彼女は不貞腐れたように鼻を鳴らす。
「……わかったよ」
「どなたかお部屋にお呼びになりますか? 一名だけお呼びすることができます」
「別にいい。誰も呼ばないで」
彼女は嘲笑うようにフッと息を吐き、フロント係を睨みつけた。
その瞳には、現世に対する冷めきった絶望が深く沈んでいる。
――どうせ言ったって、私なんかに会いに来てくれる奴なんていないし。
そもそも、もう誰にも会いたくない。どうせ私のことなんて、誰も……。
自分なんて最初から、誰にとってもどうでもいい存在だったんだ。そう全身で叫んでいるかのような、トゲトゲしい投げやりな言葉。
しかし、フロントに立つ男は、無理に慰めることも、憐れむような顔をすることもしなかった。
自らその糸を切ってしまった人間に対して彼が抱く感情は、冷徹なまでの静けさを孕んでいる。彼はただ淡々と宿泊台帳にペンを走らせ、真鍮の鍵をカウンターへ差し出す。
「左様でございますか。では、三〇四号室へどうぞ。――なお、部屋の鍵を閉めない限り、扉は外からの訪問を受け入れますので」
「……フン。だから、誰も来るわけないって言ってるでしょ」
彼女は鍵を乱暴にひったくり、重い足取りでエレベーターへと消えていった。
扉が閉まる音を聞き届けてから、ロビーのソファの影からレイナがひょっこりと姿を現した。
彼女はヒールを鳴らしながらカウンターへと歩み寄り、腕を組んでフロント係を覗き込む。
「ねえ、庄ちゃん、あの子……」
「自殺だ。自分で選んだんだ。俺が何か言う筋合いはない」
フロント係はペンを置くこともせず、淡々と言い放つ。
その横顔には、一切の妥協を許さない冷徹な空気が漂っていた。
「でもさ……」
「放っておけばいい。そのうち審査が降りて朝にはバスが来る」
「……私、聞いてくる……!」
フン、と鼻を鳴らしたレイナは、カウンターを蹴るようにして背を向け、そのままエレベーターのほうへと歩き出した。
その後姿を見送りながら、フロント係は小さく息を吐き、やれやれ、と頭を振るのだった。
三〇四号室の前。ノックをする音もなく、レイナはガチャリと気怠そうにドアを開けて部屋へと踏み込んだ。
「ちょっと、そこのトゲトゲさん。お話を聞かせてもらうよ」
部屋の隅のベッドに体育座りで小さくなっていた女子高生は、突然現れた不審な女に驚き、鋭い目を向ける。
「……なんだよ、アンタ。誰も呼んでないって言ったろ」
「誰も呼んでないのは知ってるよ。だけどさ、その割には背負ってる荷物が重すぎて、こっちまで肩が凝るんだよねぇ」
レイナは構わず部屋の中へ入り込み、窓際の椅子に腰を下ろした。
「……あんたに何が関係あるって言うの。どうせ誰も、私のことなんて……」
「あたしに関係あるかないかは、話を聞いてから決めるさね。……で、アンタ、何があったわけ? その歳でここにいるってことは、そういうことだろ」
レイナのどこか有無を言わせぬ落ち着いた声に、少女はしばらく黙り込んでいたが、やがて震える唇をかみしめ、ぽつりぽつりと話し始めた。
家にも学校にも居場所がなくて、彼氏だけが自分の世界のすべてだったこと。
それなのに、些細なすれ違いから大喧嘩になり、彼から冷たく突きつけられた
「お前、ずっと重いんだよ。いい加減消えてくんね?」
という拒絶の言葉。
たった一つの心の拠り所だった世界から完全に追い出され、暗闇のパニックと絶望のあまり、彼の目の前で衝動的にビルから身を投げたこと――。
すべてを吐き出し終えたとき、少女の目からこらえきれなかった涙がポロポロと零れ落ちていた。
静かに最後まで聞き終えたレイナは、やれやれと頭を振りながらも、その瞳に冷ややかな怒りを宿していた。
「なるほどねぇ……。言ってやるべき言葉を間違えたのはあっちの方じゃないか。ちょっと、本人から直接事情を聞いてこないと、あたし気が済まないわ」
「……は? え、ちょっと、どこ行くの……?」
少女の戸惑う声を背に、レイナはニヤリと不敵に笑うと、部屋の扉をあけて現世へと飛び出していったのだった。
レイナが部屋から飛び出して、どれくらいの時間が経っただろう。
ロビーの静寂を破るように、フロントのカウンターに置かれたスマホの着信音が乾いた音を立てて響いた。
フロント係は静かに画面を一瞥し、通話ボタンを押して耳に当てる。
受話器の向こうから、いら立ったようなレイナの声が漏れ聞こえた。
『――おい庄ちゃん、今そっちに向かってる。彼氏捕まえて来たからあの子もロビーに降ろしてやってくれ』
短く「了解した」とだけ返すと、フロント係は画面を切り、内線のボタンを押した。
「――お客様がお見えなので、ロビーまでお越しください」
通話を切るのと同時に、エレベーターの到着を告げる鈴が鳴る。
扉が開き、重い足取りで現れた女子高生は、ロビーの床に転がる見慣れた人影を認めて、ぴたりと足を止めた。
「……なんで、お前が……」
そこに転がっていたのは、顔を真っ青にし、恐怖とパニックに引きつったあの日の彼氏だった。
レイナは冷めた目を向けながら、彼女のほうへと顎をしゃくる。
「連れてきてやったよ。直接、顔を見て話しな」
彼女の脳裏に蘇るのは、あの日の絶望だ。
自分のすべてを否定されたあの言葉。
救いを求めて、せめて自分の死に様で後悔させてやりたかったその目の前の男が、今、みじめな格好で自分の前に転がっている。
だが、彼氏のほうもまた、目の前で恋人に飛び降りられたトラウマと、自分の言葉が人を殺してしまったという恐怖に耐えかねていた。
彼女の視線を受け止める余裕など、とうになかった。
「……っ、なんだよ!」
少年は恐怖と現実逃避から、震える声で、あの時とまったく同じ言葉を叫んだ。
「お前が勝手に飛び降りたんだろ……! そういうところが重いんだよ!」
――バチンッ!
乾いた高い音が、静まり返ったロビーに響き渡った。
チャラついた態度は完全に消え失せ、冷ややかな怒りを宿したその手で、レイナは彼氏の頬を思い切り叩いていた。
「いい加減にしなよ、クソガキが」
レイナの低い声が、ロビーの空気を凍らせる。
カウンターの中から、フロント係が静かに目を上げ、その修羅場を見つめていた。
自ら命を絶った少女に向ける、底の見えない静かなまなざしで。
その光景を、女子高生はただ呆然と見つめていた。
――あんなにも苦しくて、あの言葉に人生を奪われて、自分のすべてだった彼のために死ぬことでしか存在を証明できなかったはずなのに。
いざこうして現実の醜さと彼の器の小ささを目の当たりにした瞬間、彼女の中で、ドロドロしていたはずの執着が、音を立てて冷めていくのを感じた。
「……なんだよ、それ」
少女は乾いた笑いを漏らし、自分で自分の髪を乱暴に掻きむしった。
「こんな奴のために、私……バカみたいじゃん」
レイナは一瞥すると、腰が抜けた男の首根っこを掴み、
「さっさと自分の世界に帰りな」
と強引に現世の扉へと押し戻した。
男が惨めに消え去ると、ロビーには再び静けさが戻った。
やがて、夜が明けて朝が来た。
迎えのバスがクラクションを鳴らし、他の宿泊客たちが次々と乗り込んでいく。
だが、女子高生の姿はそこになかった。
天国行きか地獄行きかの審査の扉は、彼女の前に開かなかった。
いや、正確には、彼女自身がそのどちらへも、そしてあのバスへも乗ることを拒絶したのだ。
「……あたしは、乗らないから」
ロビーのソファに深く腰掛け、彼女は冷めた目で出発していくバスを見送る。
彼への執着も、死んだことへの後悔も、綺麗さっぱり消えたわけじゃない。
でも、だからといって、ここで大人しく成仏する気にもなれなかった。
天国でも地獄でもなく、この中途半端なトワイライトのホテルに、彼女は自分の足で「居座る」ことを選んだ。
コトン、と小さな音がした。
いつの間にかカウンターの奥から歩み寄っていたフロント係が、湯気の立つ温かいお茶のカップを、ローテーブルの上にそっと置いた。
特に言葉はない。
ただ、そこには
「勝手にしていろ」
という冷たさと、奇妙な同居を許容する無言の肯定があった。
少女はお茶の湯気を見つめ、それから少しだけ乱れた前髪を払うと、小さく息を吐いた。
これからこのホテルには、人生の岐路で命を落とした様々な人間がやってきては、それぞれの理由で去っていくだろう。
そのすべてを、彼女はこの場所から見届けることになる。




