第三話:フロントの裏側にて
客のチェックインが一段落した深夜のフロント。
フロント係はカウンターの隅で分厚い台帳を閉じ、やれやれといった様子でメガネのブリッジを押し上げた。
そこへ、自動ドアをくぐってフラフラとレイナが戻ってくる。
足元が少しおぼつかないのは、今日も今日とて現世を駆けずり回ってきた証拠だ。
「ふあー、疲れた……! 今回の案件、山奥の谷底だったからマジで足が筋肉痛なんだけど。死人なのに筋肉痛になるの納得いかなくない?」
「気のせいだ」
フロント係は表情一つ変えず、手際よくグラスにミネラルウォーターを注ぎ、カウンターの向こうへ滑らせた。
レイナは
「冷たっ、生き返る〜」
と言いながらグラスを両手で包み込み、一気に半分ほど飲み干した。
それから、カウンターの端に肘をついて、ジトッとした目をフロント係に向ける。
「ねえ、庄ちゃん。さっきの若い夫婦、見た?」
「ああ。あの家族か」
「あの子、あんなに早く自分で手続き済ませてバスに乗っちゃってさ。お父さんとお母さんが来るの、ちょっとすれ違っちゃったじゃん。なんか、切なくない?」
グラスを置く音が、静かなロビーにカチリと響く。
フロント係は手元の羽ペンをインク壺に浸すと、淡々と言い放った。
「お前が普段からスケジュールを狂わせるから、こちらの連絡網やタイムラインがズレるんだ。あの子の足取りが早かったのは、親に余計な心配をかけたくなかったからだろ。お前のバタバタとは関係ない」
「うっ……それは、まぁ、否定しないけどさぁ……」
図星を突かれたのか、レイナはバツが悪そうに視線を泳がせ、カウンターの木目を爪先でトントンと叩いた。
しばらくの静寂。ロビーの掛け時計の針が、静かに時を刻む音だけが響く。
「……でもさ」
レイナはふと、窓の外の暗闇に目をやった。
遠くで、次の行き先を告げる白いヘッドライトの光が微かにまたたいている。
「あのお父さんとお母さん、部屋でちゃんと卵焼きの話とかしてさ、泣きながらも笑って眠りについたよ。……結果オーライ、ってことで良くない?」
フロント係はペンを止め、少しだけ視線をレイナのほうに向けた。
相変わらず無表情のまま、鼻を鳴らすように小さく息を吐く。
「……勝手にトラブルを持ち込むな。次をやらかしたら、お前の回収手当を半額にする」
「えーっ!? それは鬼! 悪魔! 私がどれだけ汗水垂らして走り回ってると思ってるの!?」
「お前が走るのは自業自得だ。だいたい、誰のせいで俺がこんなフロント係をやっていると思っている」
「うっ……それを言われると弱いけど! でも、そもそも庄ちゃんをここに連れて来たの私じゃん!」
フロント係はふっと視線を落とし、微かに口元を緩めた。
「涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、俺にここの鍵を持たせたもんな、お前は」
「……っ、それ! 言わないでよー!!」
レイナは顔を真っ赤にしてカウンターに突っ伏し、バタバタと両手で自分の頭を叩く。
荒唐無稽な修羅場も、疲れた顔の彼女の愚痴も、このホテルではすべて日常のひとコマに過ぎない。
静まり返ったトランジットホテル。
明日もまた、何処かの現世で未練を断ち切れぬ誰かが、この扉を叩く。
フロント係は背筋をスッと伸ばすと、再び宿泊台帳に視線を落とした。




