第二話:助手席の子供
「いらっしゃいませ。二名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」
静まり返ったロビーに、いつもと変わらぬフロント係の低く澄んだ声が響く。
カウンターの前に立つ若い夫婦は、まるで全身の血が抜け落ちたかのように青ざめ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
日常の私服に身を包んだまま、自分たちに何が起きたのかさえ呑み込めていない様子で。
「……」
「どなたかお部屋にお呼びになりますか? 一名様だけお呼びすることができます」
フロント係の丁寧な問いかけに、夫がハッと顔を上げた。血走ったその目が、すがるようにカウンターへと食い込む。
「……息子に、会わせてください。助手席に乗っていたんです……最後にどうしても会っておきたいんです」
「お願い! 息子に会わせて……!」
母親が崩れ落ちるようにカウンターにしがみつき、嗚咽を漏らしながら泣いている。
フロント係は小さくため息を吐きながら、手元の内線電話の受話器を上げ、慣れた手つきでボタンを押した。耳に当てて、ぶっきらぼうに呟く。
「……レイナ、今フロントでチェックインしているお客様なんだが……お子様に会いたいそうだ。現世から探して連れてきてくれ」
受話器の向こうから、気だるげな声が返ってくる。
『――りょーかい。探してくるわ』
プツリと通話が切れた。
フロント係は受話器を戻すと、丁寧な笑みを崩さぬまま夫婦に告げた。
「ただいま連れてまいります。お掛けになってお待ちください」
永遠のようにも思える時間が流れていた。
ロビーの空気は凍りついたままだ。
男は床に座り込み、天井を見上げてぶつぶつと何かを呪うように呟き続け、妻はうつむいたまま一言も喋らない。
自分たちの運転で我が子の未来を奪ってしまったのかもしれないという、狂おしい自責の念に押し潰されそうになりながら。
そこへ、フロント係のデスクに置かれたスマートフォンが、乾いた電子音を立てた。
画面を一瞥したフロント係は、かすかに眉をひそめ、それからじっとディスプレイを見つめる。
レイナから届いたメッセージを見た瞬間、彼の脳裏に、あの時の少年の顔がふと蘇っていた。
――『お父さんとお母さん、両方とは会えないの?』
病院のベッドでまだ息のあったはずの両親の元へ戻ることもできず、しかし一人でここにやってきたあの少年。
――『お父さん、お母さん、先に行って待ってるね。大好きだよって伝えてください』
そう言い残し、少年は小さな背中に大きなカバンを背負って、白いバスへと乗り込んでいったのだった。
「……伝える約束だったな」
小さく零したその声は、静まり返ったロビーの空気に溶けて消えた。
フロント係は静かにスマホを伏せ、カウンターの向こうからまっすぐ夫婦を見据えた。
「……お客様」
その声は、これまで以上に低く、しかしホテルマンとして毅然とした響きを帯びていた。
「バスが来るまでお部屋でお休みになられてはいかがでしょうか。お子様も、朝食をしっかりお召しになって出発いたしました」
男の口が、間抜けにぽかんと開いた。
妻が、かすれた声で呟く。
「……それって、どういう……」
「そのままの意味です」
フロント係は感情を押し殺したような、しかしどこか静かなトーンで続けた。
「あの子は、あなた方よりずっと早くここにたどり着き、手続きを済ませて、すでにバスに乗って旅立たれました。ですから――『生きている人間』として現世から連れてくることは、もうできません」
ガタガタと、男の身体が震え出した。
自分が守るべきだったはずの息子。助手席で生きているとばかり信じ込んでいた我が子は、生き延びてなどいなかった。
親の助けを待つまでもなく、とっくに自分たちの先を歩いていってしまっていたのだ。
「最後の一時を過ごす」どころか、もう姿を見ることも、触れることもできない。
自分たちは親として、最後に何もしてやれなかった――。
「……そっか」
妻が、カタリと床に両手を突いた。
「あの子、もう……行ったんだ……」
ポロポロと、妻の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。それは絶望の涙ではなく、心の底から張り詰めていた狂おしい執着と自責の糸が、プツリと切れた音だった。
恐怖も、後悔も、あの子を置いていけないという呪縛も、すべてはすでに過去のものだったのだと、その事実が二人を強制的に現実に引き戻す。
男はしばらく呆然としていたが、やがてガックリと肩を落とし、妻の隣に崩れ落ちるように座り込んだ。二人は寄り添うようにして、静かに泣いた。
カウンターの奥。
フロント係は、無言のまま羽ペンを置き、分厚い宿泊台帳をパタンと閉じた。そして、二人に聞こえるようにそっと語りかける。
「あの子は出発される際、こう仰っていました。『お父さん、お母さん、先に行って待ってるね。大好きだよ』……と」
男がハッと顔を上げ、妻が湿った瞳でフロント係を見つめる。
「あの子は誰よりも強く、そしてお二人を深く愛していらっしゃいました。決して置いていかれたわけではありません。ただ、少しだけ先にお手洗いや準備を済ませて、旅先で待っているだけです」
「っ……あぁぁっ……!」
男は顔を両手で覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
妻もその背中にしがみつき、胸に届いた我が子の言葉を噛みしめるように泣いた。
「……お部屋をご案内いたします」
静まり返ったロビーに、ルームキーの金属音が冷たく、しかし優しく響く。
フロント係は立ち上がり、ゆっくりと廊下への扉を開けた。
夫はゆっくりと立ち上がると、妻の手を取り、しっかりと握りしめた。
「……部屋で休もう。向こうで待ってるんだから。朝食で何食べたか、向こうで話さないとだな」
「そうね……あの子、卵焼きが好きだったわね……」
二人はしっかりと寄り添い、フロント係の後に続いて、静かにホテルの奥へと歩いていった。
深夜のロビーには、ただ穏やかな時間が流れていた。




