第一話:スイートルームの修羅場
「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします。」
どこか浮世離れした静けさが漂うロビーに、フロント係の低く澄んだ声が響く。
「ああ、わかったよ」
「どなたかお部屋にお呼びになりますか? 一名様だけお呼びすることができます」
「……レイナ……レイナを呼んでくれ」
男はどこか浮かれたような、あるいは何かにすがりつくような足取りで鍵を受け取ると、吸い込まれるようにエレベーターの中へと消えていった。
フロント係の男は表情ひとつ変えず、分厚い宿泊台帳にサラリとペンを走らせる。
それから数分後。自動ドアが再び静かに開き、二人目の男が息を切らせて駆け込んできた。
同じように淡々と手続きを済ませ、部屋へと案内されかけたその時、男はすがるような目でフロントを振り返った。
「なあ……レイナは? レイナはまだ来てないのか?」
「……どなたかお部屋にお呼びになりますか?」
「レイナだよ! 俺をここに呼んだのは彼女のはずだ!」
さらに数分後。今度は三人目の男が滑り込んできた。手続きを終えるやいなや、彼は切羽詰まった声でカウンターに両手をつき、身を乗り出す。
「おい! 俺を呼んだ『レイナ』って女はどこにいる!? いつまで待たせるんだよ!」
それぞれ別々の部屋へ案内されたはずの男たちだったが、待てど暮らせど指定した「レイナ」は現れない。痺れを切らした彼らは、次々と部屋を飛び出し、吸い寄せられるようにロビーのフロント前へと舞い戻ってきたのだった。
気がつけば、カウンターの前には三人の男が揃い踏みしていた。
「おい、どうなってんだよ! 俺の部屋には誰も来ないぞ。レイナはどこだ!」
「は? お前もレイナを待ってるのかよ。ふざけるな、彼女が一番愛しているのは俺だ!」
「何を言ってるんだ、彼女と最後に約束をしたのは俺のほうだ!」
厳かなロビーの静寂が、一瞬にしてドロドロとした執着とエゴが渦巻く修羅場へと変わる。
「俺こそが本命だ」「いや俺だ」と、胸ぐらを掴み合わんばかりの勢いで言い争う男たちを、フロント係の男は冷めた眼差しで見下ろしていた。
マウントの応酬がピークに達したその時、フロント係のポケットでスマホが「ピコン」と軽快な通知音を鳴らす。
画面を開くと、他の客に頼まれた「指定の人物」を探して駆け回っているレイナからメッセージが届いていた。
『ごめん、今そっち向かえない! 他の指名案件の手配で外走り回っててマジで死にそうだから、そっちはよろしく〜笑』
それを見たフロント係は、目の前で「俺が本命だ!」と醜く罵り合う三人の男たちと画面を交互に見やり、やれやれと片手で文字を打ち込んで送り返す。
『……現世で『会いたい人』に指名されるのは結構だが、お前のせいでロビーが動物園状態だ。』
『え、じゃあさ、仲良く同じ部屋にでもブッ込んでおいてよ!♥』
『……了解。まとめてスイートに放り込んでやるよ』
メッセージを閉じると、フロント係はうるさくわめき散らす男たちに向かって、冷ややかに言い放った。
「お客様方。ロビーでの大声はお控えいただいております」
男たちがぎょっとして振り返る。フロント係はジャラリと鍵束を鳴らし、薄ら笑いを浮かべた。
「そこまでお互いの絆がお気になるなら、直接お話し合いになるといい。――最上階のスイートルームへ、ご案内いたします」
豪華絢爛な最上階のスイートルーム。
重厚な扉がガチャンと音を立てて閉まり、三人の男たちは広すぎる空間に取り残された。
はじめのうちは、お互いに気まずそうにソファや窓際に散らばり、視線を合わせまいとしていた。だが、重苦しい沈黙に耐えかねた一人が、鼻を鳴らして口を開いた。
「……で、お前らはどういう関係なんだよ。俺は半年前からレイナと付き合ってた。彼女は俺の仕事の愚痴をいつも優しく聞いてくれて、週末は必ず俺の部屋に泊まりに来てたんだ」
その言葉に、二人目の男が鼻で笑う。
「半年前? 笑わせるな。俺とレイナの付き合いはもう一年に及ぶ。この前なんて、彼女の誕生日を二人きりで祝って、お揃いのブランドの財布まで買ったんだぞ。お前、都合のいいキープにされてたんじゃないのか?」
「なんだと……!?」
カッとなった一人目が掴みかかろうとした瞬間、それまで黙って窓の外の無の景色を眺めていた三人目の男が、冷ややかな声を挟んだ。
「……お前ら、二人ともバカだな。俺なんて、先週の金曜日に彼女から『結婚を前提に同棲しよう』って言われたんだが?」
ぴたり、と室内の空気が凍りついた。
全員の視線が交差する。一人目が目を見開き、二人目が絶句し、三人目が険しい顔で二人を睨みつける。
「……は?」
「な、なんだと……?」
「いや、待てよ。お前、毎週土曜日は俺の家にいたはずだぞ?」
「お前こそ、水曜の夜は俺の部屋で手料理食ってたろ……!」
驚異的なスケジュール管理能力と、微塵の隙もない完璧な嘘の数々。
男たちはここでようやく、自分たちが語り合っている「愛しい彼女の思い出」が、すべてまったく同じ手口で複製されたまやかしだったことに気づき始める。
「……もしかして、あいつ……」
「俺たち、全員……」
怒号やマウントの応酬は急速にしぼんでいき、代わりに言い知れない虚無と冷たい空気がスイートルームを支配した。
男たちは誇りを打ち砕かれ、その場にガックリと崩れ落ちる。
静まり返ったスイートルーム。
「……やってられねぇな。一服するか」
重苦しい現実に耐えかねた一人が、現実逃避するようにポケットからタバコを取り出した。
男はライターを取り出し、カチリと火をつけた。その重厚な金属製のボディを見て、向かいのソファに座っていた男がハッとして自分のポケットを探る。
「……おい。それ、どこで手に入れた」
「は? なんだよ急に。これか? これは、レイナにもらったんだけど……」
言いかけて、男は言葉を詰まらせた。
質問した男が、自分のポケットからまったく同じ意匠のライターを取り出し、テーブルの上にポンと置いたからだ。
「お前……そのライター」
冷や汗を流しながら、二人がもう一人の男を見る。
三人目の男も、言われるがままに自分のポケットから同じライターを取り出し、乾いた笑いを漏らした。
「レイナがこの間くれたんだよ。『私の代わりだと思って、肌身離さず持っててね』って……」
「それ……俺も持ってるぞ。……同じこと、言われて……」
三つのライターが、照明の光を冷たく反射してテーブルの上に並んでいる。
自分たちは「世界で一番愛された特別な男」などではなく、あの女に同じおもちゃを配られた、その他大勢の「客」に過ぎなかった。
「なんだよそれ……俺たち、全員遊ばれてたのかよ……」
「死んでまで、こんなピエロ劇を見せられるとはな……」
泥沼の修羅場は、あまりにもシュールで哀しい「連帯感」へと変わっていった。
一睡もできず、男たちは絶望と虚しさの中、一夜を過ごした。
翌朝。客室の扉が静かにノックされた。
扉を開けると、そこには昨日と変わらない涼しい顔をしたフロント係が立っていた。
「おはようございます。おや、皆様お食事会場にいらっしゃいませんでしたね」
うっすらと笑みを浮かべるフロント係に、男たちは虚ろな目を向けるだけだった。
「もういいんだ……俺たちは、ただ遊ばれただけなんだよ」
「食事なんてどうでもいい。……早く、ここを出ていかせてくれ」
すっかり気力を失い、全員が肩を落として項垂れている。
男たちはトボトボとロビーへ降り、朝のロビーの長椅子に腰掛けた。
あんなに熱かった「本命争い」の火は完全に鎮火し、ただ静かに迎えの時間を待つしかなかった。
やがて、ロビーの掛け時計が午前十時を指す。
エントランスの自動ドアが開き、外へ視線を向けると、そこには二台のバスが静かにエンジンをアイドリングさせて停まっていた。
一方は、曇りのないピカピカの「白い観光バス」。
もう一方は、どこか重苦しい陰を帯びた「黒い観光バス」。
フロント係がカウンターから静かに歩み寄り、淡々と言い放つ。
「皆様、出発のお時間となります」
男たちは重い足取りで立ち上がり、どちらのバスへ向かうべきか迷うように足を止めた。そんな彼らに、フロント係は意味深な笑みを浮かべたまま、そっと問いかけた。
「最後に、何か生前のお品物はございますか?
……例えば、ライターとか」
フロント係の言葉に、男たちはわずかに眉をひそめた。
「ライターって……レイナにもらったライターくらいしか……」
一人が自嘲気味に息を吐き、ポケットに手を突っ込む。
「バカだよな。あんなに遊ばれてただけで腹が立つのに……このライターだけは、なぜか部屋に置いてこれなかった……」
隣の男も苦笑しながら首を横に振った。
「俺もだよ……。あんな女忘れてやるって思ったのに、なんだかんだ言って、好きな女にもらった大事なものだもんな……」
三人目の男も無言のままポケットを探り、それぞれの手に、あの冷たい金属の塊が握りしめられた。
男たちは諦めたように、そっとレイナのライターを取り出す。
それを眺める彼らに、フロント係はふっと柔らかく、どこか見透かしたような笑みを浮かべた。
「お客様方、おめでとうございます。非常に運がいい」
フロント係は、眩しく輝く「白い観光バス」の扉を指し示す。
「それは、天国行きのバスのチケットとなります。どうぞ、白いバスにお乗りください」
男たちは驚きに目を見張り、そして自分の手に握られたライターを見つめ直した。
あれだけ恨めしく、けれどどうしても捨てられなかった小さな金属の塊が、自分たちを救ってくれたのだと気づいた時、胸の奥で燻っていたわだかまりがスッと溶けていくのを感じる。
「……そっか。あいつ、最後まで俺たちのこと……」
乾いた笑いと微かな安堵を浮かべながら、三人は深く息を吐き出し、それぞれの足取りで眩い光を放つ白いバスへと乗り込んでいった。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
フロント係が静かに一礼すると、扉が閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。
ロビーの静寂に戻った空間で、彼が小さく息をついた、その時。
自動ドアが開き、パタパタと軽い足音が響いた。
「ねぇ、おっさんたちもう行った?」
フラフラとロビーに入ってきたのはレイナだった。現世で別の客の「会いたい人」を探すのに奔走していたのか、お気に入りの服は少し汚れ、完璧だったはずのメイクも崩れ、気だるげに髪をかき上げている。
フロント係は冷めた視線を向け、あきれたように言った。
「……お前、自分を『会いたい人』に指名した客全員に同じ目印のライターを渡すのはやめろ。せめて時期をズラせ。こっちが処理に困る」
「だってしょうがないじゃん! みんな寂しそうにするから、お守り代わりに渡しただけだもん。まさか寿命が尽きる日が綺麗に被るなんて思わないでしょ!」
レイナは不満そうに頬を膨らませ、カウンターに突っ伏した。
それから、ちらりとフロント係の顔を盗み見ると、少し意地の悪そうな、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……ねえ、庄ちゃん。おっさんたちがロビーで大喧嘩してたとき、参加しなかったの?」
フロント係は手元の宿泊台帳を閉じると、フッと小さく笑った。
「……した方が良かったか?」
その言葉に、レイナはぷいっとそっぽを向いて、少しだけいじけるような素振りを見せる。
「……別に、なんでもないし」
荒唐無稽な修羅場も、疲れた顔の彼女の愚痴も、このホテルではすべて日常のひとコマに過ぎない。
――さあ、次のチェックインの時間だ。
フロント係はため息ひとつ吐くと、再び表情を引き締め、ピンと背筋を伸ばした。




