第十一話:居場所の理由
深夜。ロビーを包む静けさの中に、かすかな衣擦れの音だけが響いていた。
喉の乾きを覚えて部屋を出たユイは、3階の廊下から吹き抜けになったロビーを見下ろし、ぴたりと足を止めた。
薄暗いロビーの隅、フロントのカウンター越しに灯る小さなランプの明かり。
そこに、ふたりの姿があった。
帳簿を開く庄吉の横で、レイナがカウンターに肘をつき、静かに彼を見つめている。
普段の賑やかな掛け合いも、破天荒なノリもない。
ただ、レイナがそっと手を伸ばし、庄吉の手に自分の手を重ねた。
庄吉もそれを振り払うことなく、愛おしそうにレイナの頭を撫で、見たこともない柔らかい眼差しで微笑み返している。
交わされる言葉はない。
だがそこには、途方もない年月と生死の境目を越えてきた者同士にしか通じ合わない、圧倒的な温もりと静かな絆が満ちていた。
(……あ)
物陰から息をのんで見つめていたユイの胸が、キュッと締め付けられる。
——絆とか、愛とか。
そんな言葉で片付けるにはあまりに深くて、誰も踏み込めないふたりだけの世界。
それに引き換え、自分の人生はどうだっただろう。
視界の端で明かりが揺れるたび、現世での嫌な記憶が蘇ってくる。
冷え切った我が家。
帰宅しても互いに口をきかず、部屋のドア越しに怒号と食器の割れる音が響いていた両親の冷ややかな空気。
自分の存在なんて最初からいなかったかのように、誰もユイの顔を見ようとしなかった。
そして学校。
グループの輪に入れず、机の上で寝たふりをしてやり過ごした昼休み。
誰からも話しかけられず、自分から声をかける勇気もなく、ただ空気のようにそこに漂っているだけの日々。
家にも、学校にも、息を吸える場所なんてどこにもなかった。
だからこそ、夜の街で出会い、初めて自分を見つめてくれた彼氏に縋りついたのだ。
彼だけが自分の世界のすべてで、たった一つの居場所だった。
なのに、必死にしがみつけばしがみつくほど
「重い」と突き放され、最後の居場所すら奪われてビルから跳んだ。
あれは愛なんかじゃなく、ただ居場所を求めて暴れていただけだったんだと、庄吉とレイナの姿を見て痛いほど思い知らされる。
と同時に、小さな痛みが胸を突いた。
(私……なんで、ここにいるんだろう)
家も学校も失って、最後に行き着いたこの場所。
こんなにも深くて温かい絆を持つふたりの場所に、私はただ甘えて、居座っているだけなんじゃないか。
翌日の昼下がり。
ロビーのソファで、ユイはいつものように膝を抱えていた。
ローテーブルの上には、食べかけのポップコーンと、庄吉が淹れてくれた温かいお茶。
カウンターの奥で黙々とガラスコップを拭いている庄吉の背中に、ユイは意を決して声を投げかけた。
「あのさ……」
「なんだ」
振り返りもせず、淡々と応じる声。
「……なんで、私を追い出さないの?」
コップを拭く庄吉の手が、わずかに止まる。
ユイは自分の膝に顔を埋めるようにして、小さく呟いた。
「他の客には『朝十時にバスが出ます』って淡々と言ってるじゃん。なのに、私には一度も『いつまでいるんだ』って言わない……。自殺した奴なんて、命を粗末にした奴なんて、あんたは一番嫌いなはずでしょ」
静寂がロビーを包む。
庄吉は拭き終えたコップを棚に置くと、ゆっくりとユイの方へ歩み寄ってきた。
ローテーブルを挟んで立ち止まり、俯くユイを見下ろす。
「追い出す理由がないからだ」
無骨で、素っ気ない声。
「……え?」
「行く場所がないなら、勝手にそこにいればいい。俺たちが何か言う筋合いはない」
「でも……っ、私、ただ逃げて、ここに居座ってるだけで……!」
思わず顔を上げたユイの瞳に、涙が滲む。
そんなユイのまっすぐな視線を受け止めながら、庄吉は深みのある静かな声で言った。
「『そうするしかなかった』んだろう。あの時のお前は」
——っ。
息が止まった。
家にも学校にも居場所がなく、追い詰められて息が詰まりそうだったあの頃の自分。
憐れみも、説教も、慰めすらない。
ただ、あの地獄のような絶望の中にいた自分を、まるごと肯定されたような言葉。
「……っ、なによ、それ……」
こらえきれずに涙がボロボロと溢れ出すユイの横から、ふいに軽やかな声が降ってきた。
「——ほらね。追い出されたらどうせ寂しいくせにー」
いつの間にか奥から現れたレイナが、ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら、ユイの肩を軽くつつく。
「っ……! 別にっ、寂しくなんてないし!」
「はいはい、素直じゃないねぇ。じゃあ特等席のソファ、もうちょっと綺麗に使いなさいよね。ポップコーンのカスが落ちてんだから」
「自分で掃除するし! 散らかしてないし!」
真っ赤になった顔を隠すようにソッポを向くユイ。
レイナは
「もー、相変わらずトゲトゲなんだから」とクスクス笑いながら、どこか慈しむような目を庄吉と合わせる。
涙を拭い、照れくささを誤魔化すように慌ててポップコーンのカップに手を伸ばそうとしたユイの背中に、庄吉の不器用な声が落ちる。
「——ユイ」
ぴくり、と肩が跳ねた。
初めて、名前を呼ばれた。
驚いて振り返ったユイに、庄吉はいつもの無表情のまま、あごをしゃくってみせた。
「お茶、冷めるぞ」
「……言われなくても、飲むし」
ユイは両手でカップを包み込み、ゆっくりと一口すすった。
温かいお茶の湯気が、鼻奥をツンと刺す。
誰からも必要とされず、「重い」と拒絶された自分が、初めて見つけた本当の居場所。
天国でも地獄でもない、この古いホテルの陽だまりの中で、ユイは静かに目を閉じた。




