最終話:トランジットの朝
カラン、と心地よいドアベルの音が響く。
ロビーのソファで膝を抱えていたユイは、その音に顔を上げ、すっと立ち上がった。
新しく支給された、シックな黒のベストに白いシャツ、そして動きやすいスラックスの制服。裾を整えながら、ユイはカウンターの奥へと向かう。
「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね」
自然と口から出たその声は、かつて自分が初めてこのホテルの扉を叩いた時の怯えた響きとは違う、どこか澄んだ落ち着きを帯びていた。
カウンターの向こうで帳簿をめくっていた庄吉が、ちらりとユイの姿を一瞥する。
無愛想な顔のまま、しかしどこか満足そうに、庄吉はあごをしゃくってみせた。
その隣で、レイナがパッと華やかな笑みを浮かべ、ユイの肩を軽く叩いた。
「似合ってるじゃない、ユイ。すっかりこのホテルの顔だねぇ」
「……べつに、似合わなくたっていいし」
顔を赤らめてそっぽを向くユイに、レイナは
「はいはい、照れない照れない」と楽しそうに笑う。
ホテルの制服をまとい、正式にこの場所の一員となってからの毎日は、想像以上に忙しく、そして充実していた。
朝はカーテンを開けてロビーに光を通し、部屋のシーツを整え、お茶を淹れる。
そして何より、このホテルの仕事は多岐にわたっていた。
例えば、ロビーの隅で――。
「こらおじいちゃん、そこトイレじゃないってば!」
「ん? なんだ、ここはワシの家の便所じゃないのかね」
「違うでしょ、壁に向かって何やってるの! ほら、お茶冷めちゃうからこっち戻るよ」
ユイがトコトコと小走りで駆け寄り、ぽかんとしているおじいちゃんの服をキュッと引っ張ってロビーの中央へと連れ戻す。
レイナがカウンターの端から「はいはい、お疲れさまー」と笑いながらお茶の用意をしている。
ソファに戻されたおじいちゃんに、ユイは小さく息をつきながらお茶とお菓子を差し出した。
「おじいちゃん、こっちが指定席だからね。はい、どうぞ」
「おや、若いお嬢さん。気が利くねぇ。……で、ここは一体どこなんだ?」
「ちょっと一息つくための、トランジットホテル。ね、ゆっくりしていってよ」
ユイが優しく微笑みかけると、おじいちゃんは
「そうかい、ありがとねぇ」と嬉しそうに目を細めてお茶をすする。
現世の記憶の糸がこんがらがって、どこかへ行ってしまいそうなお年寄りたちをこうして連れ戻し、他愛のないおしゃべりをするのも、今のユイの日常になっていた。
ほかにも、生前の商売の愚痴を延々とこぼす頑固なおじさんに庄吉が渋い顔で相槌を打っていたり、見慣れない機械の使い方が分からなくて困っているおばあちゃんにユイが使い方を教えてあげたり。
かつてのユイなら、他人の面倒なんてまっぴらごめんだと殻に閉じこもっていたはずなのに。
そして、このホテルの最も大切な仕事は
——傷ついた客たちの話し相手になることだった。
その日も、ロビーの隅で、小さな少女が一人でうずくまっていた。
現世での息苦しさに耐えかねて、自ら命を絶ち、気がつけばこの古いホテルの前に立っていたという子だ。
膝に顔をうずめ、震えているその背中は、かつてのユイの姿をそのまま映し出しているようだった。
おじいちゃんの相手を一段落させたユイは、そっとトレイを持ち、少女のところへと歩み寄ると、その隣のソファに腰を下ろした。
「……熱いから、気をつけてね」
湯気の立つ温かいお茶を、そっとローテーブルに置く。
びくりと肩を震わせた少女が、腫れぼったい目でユイを見上げた。
「私……もう、どこにも行けない……。誰も私を見てくれなかったの……」
掠れた声で、ポロポロと涙をこぼす少女。
ユイは自分の胸の奥がキュッと痛むのを感じながら、けれどもう怯えはしなかった。
彼女は少女の頭にそっと手を伸ばし、あの時、庄吉が自分にかけてくれた言葉を思い出しながら、静かに微笑んだ。
「大丈夫だよ。……そうするしかなかったんだもんね、あの時のあなたは」
少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
けれどそれは絶望の涙ではなく、ずっと張り詰めていた心がほどけていくような、安堵の涙だった。
少女は震える両手で温かいお茶のカップを包み込み、ゆっくりと息をついた。
カウンターの隙間からその様子を見つめながら、庄吉は手元のグラスを布巾で磨く手を止め、小さくふっと息をついた。
レイナが彼の腕にそっと寄り添い、窓の外に広がる夕暮れの空を見上げる。
空の向こうは天国でも地獄でもなく、ただ優しく穏やかな、終わらない黄昏色が広がっていた。
やがて、夕暮れから夜へと時間が移り変わる。
ロビーの温かなランプの明かりの下で、庄吉とレイナ、そして制服に身を包んだユイの三人がそれぞれの持ち場に立っている。
カラン、と、また新しいドアベルが鳴り響いた。
扉の向こうで、また一人の迷い子が、不安そうに足を踏み入れようとしている。
顔を上げた庄吉が、いつもの、けれど誰よりも温かい声を響かせた。
「いらっしゃいませ。一名様のご予約ですね。お迎えのバスは明朝十時に出発いたします。お食事とご出発のご用意はお早めにお願いいたします」
庄吉の言葉に合わせるように、ユイもまた、新しい客に向かってまっすぐに頭を下げた。
ここは、旅の途中の古いホテル。
傷ついた魂が少しだけ歩みを止め、明日へと向かうための、温かな陽だまり。
誰もがそれぞれの「居場所」を見つけ、時計の針は、今日も静かに動き続けている。




