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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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8/25

私は、あなたを嫌っていたわ

馬車の車輪が石畳を叩く音が、いつもより荒々しく響いていた。

窓の外には、王都南区画の街並みが流れていく。

焼きたてのパンの匂い。荷車を引く御者の声。軒先から客を呼び込む商人。足早に行き交う人々。

向かいに座ったイザベラは、先ほどから窓に釘付けだった。

今日はいつもの華美なドレスではない。

目立たない紺色の外出着に、深めのフード。

それでも育ちの良さまでは隠せないけれど、遠目なら公爵令嬢だとは分からないだろう。

「……皆様、とても歩くのが速いですわね」

最初に出てきた感想がそれだった。

思わず笑いそうになる。

「仕事がありますもの」

「それは分かりますけれど……」

イザベラが不思議そうに人々を目で追う。

「誰も周囲を気にしていないように見えます」

「そうね」

私は窓の外を見る。

「誰かに見られるために歩いているわけではないから」

「誰かに見られるためではない……」

娘はその言葉を小さく繰り返した。

公爵令嬢として生まれたイザベラは、物心ついた頃から常に「見られる側」だった。

歩き方。

座り方。

笑い方。

食べ方。

誰と話すか。

何を着るか。

そのすべてが、クライス公爵家の令嬢として評価される。

だからこそ、ただ目的地へ急ぐ人々の姿さえ、娘には新鮮に映るのだろう。

やがて馬車が止まった。

「着いたわ」

「……本当に、私も行くのですね」

「あら。帰る?」

「帰りません!」

即答だった。

私は笑いながら馬車を降りた。

もちろん護衛はいる。

ただし、娘が萎縮しないよう少し離れてついてくるよう命じてある。

クロエ商会の店舗へ近づくと、店先には今日も女性たちが集まっていた。

「次はこっちを買おうかしら」

「あなたには青の方が似合うわよ」

「でも赤も可愛くない?」

楽しそうな声。

イザベラが立ち止まった。

「……服を選ぶだけで、あんなに楽しそうにするものなのですね」

「あなたは楽しくない?」

「私は……」

考え込む。

「いつも仕立屋が屋敷へ来て、お母様や侍女と相談して決めていましたから」

「自分で選んだことは?」

「……あまり」

また一つ。

私は、自分が娘に与えてこなかったものを見つけてしまったらしい。

「入りましょう」

扉を開ける。

カラン、とベルが鳴った。

「いらっしゃいま――」

カウンターのクロエが私たちを見て、一瞬だけ目を丸くした。

私は目だけで合図する。

特別扱いは不要。

クロエはすぐに理解した。

「いらっしゃいませ。ごゆっくりご覧ください」

「ありがとう」

イザベラは恐る恐る店内へ足を踏み入れた。

色とりどりのワンピース。

布地を見比べる女性たち。

鏡の前で服を身体に当てて笑う少女。

そして値札。

「……本当に、この値段なのですね」

「ええ」

「私の手袋より安いですわ」

「それは比較対象が悪いわね」

「でも……」

娘が一着のワンピースに触れる。

袖口を裏返し、縫い目を見る。

襟を見る。

裾を見る。

その表情が少しずつ変わっていく。

「丁寧……」

「でしょう?」

「装飾を減らしているだけで、作りは粗雑ではありませんわ」

さすが公爵令嬢。

高級な服を十五年間見続けてきただけあって、見るところが細かい。

「それに……」

背中を確認する。

「紐がありません」

「一人で着られるようにしてあるの」

「一人で?」

「この服を買う女性の多くには、着替えを手伝う侍女はいないもの」

イザベラの手が止まった。

「……そうか」

小さな呟きだった。

「服というのは、着る人の生活に合わせて作るものなのですね」

私は思わず娘を見る。

「どうしたのです?」

「いいえ」

嬉しかっただけ。

けれど、それを言えば照れるだろうから黙っておく。

そのときだった。

「私も、そこが素敵だと思います」

すぐ隣から声がした。

イザベラの身体が硬直した。

私も振り返る。

亜麻色の髪を緩く編んだ少女が立っていた。

質素な服。

柔らかな茶色の瞳。

間違えるはずがない。

リリアナ・フェルド男爵令嬢。

三年後――。

イザベラと王太子の婚約を破綻させる、物語の中心人物。

娘の呼吸が浅くなる。

「……あなた」

リリアナも気づいた。

一瞬、目を見開く。

それから周囲を確認し、小さく頭を下げた。

「こんなところでお会いするとは思いませんでした。イザベラ様」

イザベラの指先が震えている。

私は動かなかった。

助け舟も出さない。

昨日、この子は言った。

自分で見てみたい、と。

ならば――自分で向き合うところまで見守ろう。

「あなた……なぜ、ここに?」

「それは……」

リリアナが少し気まずそうに笑った。

「寮を抜け出してきました」

「は?」

イザベラの顔が、公爵令嬢から十五歳の少女へ戻った。

「ぬ、抜け出した?」

「はい」

「王立学園の寮を?」

「はい」

「許可なく?」

「……はい」

「なんて、はしたない……!」

出た。

私は口を挟まない。

ところがリリアナは怒らなかった。

「そうですよね」

素直に肩を落とす。

「私もそう思います」

「だったらなぜ!」

「見たかったんです。この服」

リリアナがワンピースへ触れる。

「学園でも話題になっています。町の女の子たちが、この服の話をするとき、本当に楽しそうだから」

「それだけで寮を抜け出したの?」

「それだけです」

「……理解できませんわ」

「よく言われます」

リリアナが笑った。

イザベラは呆れたように彼女を見る。

けれど――。

以前のような、刺すような敵意はなかった。

「でも」

リリアナの指がワンピースの袖をなぞる。

「実物を見たら、来てよかったと思いました」

「どうして?」

「一人で着られるから」

イザベラが瞬きをした。

「私、少し前まで町の食堂で働いていたんです」

「……え?」

「朝は誰より早く起きて、床を掃いて、野菜を切って、お皿を運んで。服が汚れたら自分で洗っていました」

リリアナが少し恥ずかしそうに笑う。

「男爵家に引き取られて初めて侍女に着替えを手伝ってもらったとき、どうしていいか分からなくて」

「……」

「今でも、背中の紐を締められると息苦しくて。だから、こういう服を見ると安心するんです」

イザベラは何も言わない。

ただ、リリアナを見ていた。

おそらく初めてなのだ。

「王太子殿下のそばにいる男爵令嬢」ではなく。

リリアナという少女自身を見たのは。

「殿下は……」

イザベラが口を開く。

声が震えた。

「殿下は、あなたといると楽しそうですわ」

リリアナの笑顔が消えた。

「私には『堅苦しい』と仰るのに。あなたが作法を間違えれば笑って許す」

「……」

「あなたの飾らないところが、お好きなのでしょうね」

一瞬。

リリアナが困ったような顔をした。

「それは……違うと思います」

イザベラの目が鋭くなる。

「何が違うの?」

「殿下のお気持ちは、私には分かりません」

慎重な答えだった。

「でも、少なくとも私は……殿下といると、少し怖いです」

「怖い?」

意外な言葉だった。

「失敗すると笑ってくださいます。でも私は、何がおかしいのか分からないことがあるんです」

リリアナが自分の指を握る。

「皆さんが知っていることを、私だけ知らない。殿下は優しく笑ってくださるけれど……時々、自分が珍しいものとして面白がられているだけなのかなって」

イザベラの表情が変わった。

「それに」

リリアナは真っ直ぐ彼女を見る。

「私は、イザベラ様の方がずっとすごいと思っています」

「……私?」

「はい」

「なぜ?」

本気で分からないらしい。

リリアナは少し笑った。

「三カ国語をお話しになるでしょう?」

イザベラが目を見開いた。

「どうして、それを」

「学園では有名です。それに、去年の外国使節の歓迎式典で通訳をなさったことも」

「……」

「私は今、外国語の授業で一番下のクラスなんです」

リリアナが情けなさそうに笑う。

「だから、ずっと憧れていました」

「憧れ……?」

「はい」

「私に?」

「はい」

イザベラは完全に固まった。

無理もない。

自分から王太子を奪う敵だと思っていた少女から、突然「憧れている」と言われたのだから。

「……でも」

イザベラが呟く。

「私は、あなたを嫌っていたわ」

リリアナが黙った。

私も息を止めた。

イザベラの拳が震えている。

「殿下があなたと笑っているのを見るたび、腹が立った。どうして私ではないのって」

「……はい」

「あなたが失敗して殿下に笑って許されるたび、ずるいと思った」

娘は逃げなかった。

「私が同じ失敗をしたら、公爵家の恥になるのにって」

リリアナは黙って聞いている。

「だから……」

イザベラが唇を噛む。

「あなたのことを、何も知らないのに嫌っていた」

長い沈黙。

そして。

「私も怖かったです」

リリアナが言った。

「イザベラ様のこと」

「……私が?」

「だって、いつも完璧なんですもの」

困ったように笑う。

「私がどれだけ頑張っても、絶対に追いつけない人だと思っていました」

二人が互いを見る。

敵意ではない。

まだ友情でもない。

ただ――初めて相手の姿が見えた。

そんな目だった。

その沈黙を破ったのは、イザベラだった。

「……サイズよ」

「はい?」

「この服」

イザベラがワンピースを持ち上げた。

「背中に紐がないのは、大きさをあらかじめ分けているからなの」

「大きさを?」

「小、中、大。三種類ですわ」

襟の裏に縫い付けられた印を示す。

「これは中。あなたなら……」

リリアナを上から下まで見る。

「ちょっと、何ですか?」

「動かないで」

「は、はい」

真剣に見比べる。

「おそらく小ね」

「分かるんですか?」

「服はよく見ていますもの」

ほんの少し得意げだ。

「着てみたら?」

リリアナが目を丸くした。

「いいんですか?」

「私の許可は必要ないでしょう?」

イザベラが言った。

そして――ほんの少し笑った。

「あなたが着たい服なのでしょう?」

胸の奥が熱くなった。

昨日までの娘なら、絶対に言わなかった言葉だった。

「……はい!」

リリアナも笑う。

「着てみます!」

二人が試着室の方へ歩いていく。

その背中を見ながら、私はゆっくり息を吐いた。

安心してはいけない。

イザベラは今でも王太子が好きだ。

嫉妬だって消えたわけではない。

リリアナとの間に、これから何も起きない保証などどこにもない。

それでも――。

今日、二人は初めて話した。

物語の役割ではなく、一人の人間として。

それだけで十分だ。

「……奥様」

いつの間にか隣に来ていたクロエが、小声で言った。

「あの子が例の?」

「ええ」

「思っていた感じと違いますね」

「私もよ」

そう答えてから――。

私は引っかかった。

違う。

あまりにも違う。

私の知っているゲームのリリアナは、確かに明るく素直な少女だった。

けれど、ここまで周囲を冷静に見ていただろうか。

そもそも――。

「……クロエ」

「はい?」

「孤児院の読み書き教室、講師が足りないと言っていたわね」

クロエの顔が引きつる。

「奥様」

「何?」

「その顔をするとき、だいたい碌なことを考えてませんよね」

「失礼ね」

私は扇を開いた。

「少しスカウトしてみようかと思っただけよ」

「男爵令嬢を?」

「元平民で、今は貴族。両方の世界を知っている。子供たちに教えるには、これ以上ない人材でしょう?」

「学園の生徒ですよ」

「休日だけなら問題ないわ」

「本人の意思は?」

「もちろん聞くわよ」

「……なら、まあ」

クロエがため息をついた。

そのとき。

試着室の方から、リリアナの明るい声が聞こえた。

「イザベラ様! 一人で着られました!」

「だから言ったでしょう! それより裾を踏まないで!」

「わっ!」

「もう!」

私は思わず笑った。

ゲームなら。

この二人は、敵になるはずだった。

けれど現実では、未来はまだ決まっていない。

人は選べる。

関係だって変えられる。

ならば三年後の結末も、変えられるはずだ。

そう思った――そのときだった。

「奥様」

クロエの声が低くなった。

一枚の紙を差し出してくる。

「これ、今朝ギルドから回ってきたものなんですが」

受け取る。

そして私は、笑みを消した。

そこには、王家の紋章があった。

『王太子殿下の名において、クライス公爵家が関与する南区画服飾事業について説明を求める』

――王太子。

ついに。

娘を処刑台へ追いやる物語の中心人物が、こちらを向いた。

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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