「殿下に愛されなくても、私は私でいられるのですか?
「私たち貴族は、何が特別なのですか?」
震える声でそう尋ねたイザベラの瞳には、怒りよりも戸惑いが浮かんでいた。
十五年間、自分を支えてきたものが崩れようとしている。
そんな顔だった。
私は娘の手からローゼン侯爵夫人の手紙をそっと抜き取り、伏せて置いた。
「立ったままでは落ち着かないわ。イザベラ、座りましょう」
「……はい」
娘はドレスの裾を握りしめたまま、ぎこちなくソファへ腰を下ろした。
私は向かい側ではなく、その隣に座る。
「お母様……?」
「ごめんなさいね」
イザベラが目を瞬いた。
「どうして、お母様が謝るのです?」
「私に言いたいことがあるのなら、私に言えばいい。あなたを巻き込むべきではなかったわ」
「手紙のことではありません!」
珍しく強い声だった。
「私が怖いのは……お母様が何をなさろうとしているのか、分からないことです」
膝の上で両手を強く握っている。
「私は幼い頃から、公爵令嬢として恥じぬよう教育されてきました」
「ええ」
「平民とは違う。選ばれた立場なのだから、常に気高く、完璧であれと」
その声が震えた。
「殿下の隣に立つに相応しい女性でいなければならないと」
「……ええ」
「だから頑張ってきたのです」
胸が痛んだ。
知っている。
この子がどれほど努力してきたのか。
「なのに……」
イザベラが俯く。
「平民の女性まで私たちと同じような服を着て、同じように美しくなってしまったら……」
スカートを握る指先が白くなる。
「私には、何が残るのですか?」
私は何も言わなかった。
今は、言わせるべきだ。
十五年間、この子が飲み込んできたものを。
「ただでさえ殿下は……あの男爵令嬢といる方が楽しそうなのです」
ぽたり。
ドレスへ涙が落ちた。
「私が話しかけても、堅苦しいと言われます。でも、彼女が失敗すると殿下は笑うのです。作法を間違えても、『君は面白いな』って……」
「イザベラ……」
「私は間違えないように、ずっと頑張ってきたのに」
二滴目が落ちる。
「間違えたら、公爵家の恥になるから。殿下の婚約者に相応しくないと言われるから。だから、ずっと、ずっと……!」
声が詰まった。
「なのに、どうして……」
私はようやく理解した。
この子が怒っている相手は、男爵令嬢だけではない。
自分自身なのだ。
十五年間、必死に積み上げてきたものが、愛されるためには何の役にも立たなかったのではないか。
その恐怖に怯えている。
だからこそ、「身分」に縋る。
自分が彼女より上だと証明できる、最後の拠り所だから。
「イザベラ」
私は娘の手を包んだ。
「一つ、聞いてもいい?」
「……はい」
「あなたは、貴族が特別なのはなぜだと思う?」
「それは……」
イザベラは涙を拭いながら答えた。
「王家から認められた血筋と、身分があるからです」
「それだけ?」
「……違うのですか?」
私は答えを教えなかった。
「あなたはどう思う?」
イザベラが困った顔をする。
「分かりません……」
「では、思い出してみて」
私は娘の手を握ったまま続ける。
「あなたは三つの国の言葉を話せるわね」
「……はい」
「歴史も、法律も、外交儀礼も学んだ」
「はい」
「初めて他国の使節を迎えた日のことを覚えている?」
イザベラが僅かに目を見開く。
「あのときあなたは十三歳だった。使節の一人がこちらの言葉をほとんど話せなくて、あなたが彼の母国語で挨拶したでしょう?」
「……覚えています」
「あの方、とても喜んでいたわ」
娘の表情がほんの少し緩む。
「カーテシーだってそう。足に血が滲んでも練習をやめなかった」
「だって……公爵令嬢ですから」
「血筋があなたに外国語を覚えさせたの?」
「え?」
「公爵家の血を引いて生まれた瞬間、三カ国語を話せた?」
「そんなわけ……」
そこで娘は止まった。
「そうでしょう?」
私は微笑む。
「それは全部、あなたが身につけたものよ」
「私が……」
「血筋ではない。あなた自身が努力して手に入れたもの」
娘が自分の手を見る。
「あなたが積み上げた教養も、礼儀も、知識も、誰かが美しい服を着たくらいで消えてしまう?」
「……消えません」
「男爵令嬢がどんな服を着ても?」
少し間があった。
「……消えません」
「でしょう?」
私は娘の手を優しく握った。
「だったら、誰かを下に置く必要なんてないのよ」
イザベラが顔を上げる。
「本当に価値のあるものは、誰かから奪わなくても持っていられるの」
その言葉に、娘はしばらく黙っていた。
けれど――。
「でも……」
やはり来た。
「それでも私は、殿下が好きです」
涙で濡れた瞳が私を見る。
「幼い頃から、いつか殿下と結婚するのだと思って生きてきました。殿下に褒めていただければ嬉しかったし、ダンスを踊れた日は眠れないほど幸せでした」
「ええ」
「だから……簡単に『もう要りません』なんて思えません」
「思わなくていいわ」
「……え?」
イザベラが目を丸くした。
「好きなのでしょう?」
「……はい」
「だったら、好きでいていいのよ」
私は笑った。
「気持ちは、命令して消せるものではないもの」
「でも、お母様は……」
「私が言いたいのは、殿下を諦めなさいということではないわ」
私は一度言葉を切った。
「殿下に選ばれなかったら、自分には価値がない――そう思わないでほしいの」
娘の瞳が揺れた。
「あなたが身につけた教養も、知識も、優しさも、努力も。殿下に愛されるためだけに存在するものではない」
「……」
「全部、あなたのものよ」
私は娘の胸元へ指を当てる。
「あなた自身の人生を選ぶための武器なの」
「私の……人生」
「そう」
これまでこの子の未来は、最初から決められていた。
公爵令嬢として生まれる。
王太子の婚約者になる。
王太子妃になる。
いずれ王妃になる。
そこから外れれば、失敗。
少なくとも、周囲はそう教えてきた。
そして私も――母親でありながら、それを止めなかった。
「ごめんなさい、イザベラ」
「また……どうして謝るのです?」
「私もあなたを、その箱の中に入れていたから」
娘が息を呑んだ。
「公爵令嬢なのだから。王太子妃になるのだから。そう言って、あなたが何をしたいのか聞いたことがなかった」
私は自分でも驚くほど、素直に言えた。
「母親失格ね」
「そんな……!」
「だから今、聞かせて」
私は娘を見る。
「イザベラは、どうしたい?」
「……」
答えは返ってこなかった。
当然だ。
十五年間、一度も尋ねられなかった質問なのだから。
「分かりません」
やがて、娘が小さく言った。
「ええ」
「私……そんなこと、考えたことがありません」
「それでいいのよ」
「いいのですか?」
「十五年考えなかったことを、五分で決められるわけないでしょう?」
イザベラがぽかんとして――。
小さく笑った。
本当に小さな笑みだった。
でも、今日初めて見た笑顔だった。
「お母様、最近少し変ですわ」
「あら。お父様にも似たようなことを言われたわ」
「お父様が?」
「ええ。変なものでも食べたのかと」
「まあ……」
イザベラがくすりと笑う。
ようやく十五歳の少女らしい顔になった。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「お母様」
「何?」
「一つ……お願いしてもよろしいですか?」
「もちろん」
娘は少し迷ってから言った。
「例の服を……私にも見せてください」
一瞬、意味が分からなかった。
「平民の女性たちに売っている、あの服です」
「ええ」
「今日、街で着ている方を馬車から見ました」
イザベラは少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……綺麗だと思いました」
私は何も言わない。
「今までなら、きっと『平民のくせに』と思っていたはずです」
その言葉を口にするのは、勇気が必要だっただろう。
「でも今日は……少しだけ、違って見えました」
「どう違ったの?」
「楽しそうでした」
娘が呟く。
「皆、自分で選んだ服を着て……とても楽しそうだった」
私は胸が熱くなるのを感じた。
「だから、見てみたいのです」
イザベラが私を見る。
「平民の女性たちが、何をそんなに喜んでいるのか」
私は微笑んだ。
「ええ。もちろん」
「ありがとうございます」
たったそれだけ。
世界はまだ何も変わっていない。
イザベラは今でも王太子を愛している。
身分への意識だって、一日で消えるはずがない。
それでも――。
娘は初めて、自分より下だと思っていた人々の世界を「見てみたい」と言った。
それで十分だ。
私はイザベラの手を握った。
「では明日、一緒に行きましょう」
「……どちらへ?」
「南区画よ」
イザベラの顔が固まった。
「わ、私が!?」
「見たいのでしょう?」
「そうですけれど! 公爵令嬢が南区画を歩くなんて――」
言いかけて。
イザベラ自身が口を閉じた。
私は笑いを堪える。
「……今、気づいた?」
娘の頬が真っ赤になった。
「お母様!」
久しぶりに、声を上げて笑った。
娘も恥ずかしそうにしながら、やがて笑った。
その日の夜。
私はまだ知らなかった。
イザベラが初めて自分の目で平民の暮らしを見ることになるその外出が――。
彼女と『あの男爵令嬢』を、初めて同じ場所へ引き寄せることになるとは。
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