たかが一着の服に何を恐れているの?
翌朝、王都の空気が変わった。
仕掛けたのは、私たちだ。
朝一番に発行された新聞各紙には、昨夜のセシリア・ベルの姿が大きく取り上げられていた。
『大女優セシリア・ベル、舞台を降りて選んだ一着』
『貴族でも平民でもない。女性が自分で選ぶ、新しい服』
『南区画クロエ商会にて販売開始』
もちろん、偶然ではない。
記者にはあらかじめ声をかけていたし、セシリアが劇場から出てくる時間も伝えてあった。
記事に何を書くかまでは命じていない。
ただし――何を書けば読者が食いつくか、その材料は十分に用意した。
そして新聞のインクが乾くより早く、結果は出た。
昼前。
公爵邸へ飛び込んできたクロエは、挨拶もそこそこに私の執務机へ分厚い紙束を叩きつけた。
「奥様、とんでもないことになりました」
「売れなかった?」
「逆です!」
クロエが紙束を指差す。
「注文票です!」
「……全部?」
「全部です」
思わず数える気を失うほどの枚数だった。
「朝から店の前に列ができました。用意できた分はすぐ完売。試着用まで売ってくれと言い出す人が出る始末です」
「まあ」
「しかも、ほとんどの客が同じことを言うんですよ。『セシリアと同じ服が欲しい』って」
私は一枚の注文票を手に取った。
客の名前。
希望する大きさ。
受取予定日。
そして代金。
昨日まで、一着も売れなかった服だ。
商品は何も変わっていない。
変わったのは――意味だけ。
「皆、お金を持っていなかったわけじゃなかった」
クロエが呟く。
「買いたくなかったわけでもない。ただ、『自分が着てもいい』と言ってくれる誰かを待っていたんですね」
「ええ」
私は注文票を置いた。
「セシリアが、最初の一人になってくれた」
だから二人目は怖くない。
二人目が現れれば、三人目はもっと怖くない。
そして百人が着れば、それはもう「身分不相応」ではない。
――流行になる。
「問題はここからね」
「はい」
クロエの顔が商人のものへ変わった。
「作る人間が足りません」
やはり。
「注文に生産が追いついていない?」
「まったく。今の人数じゃ、せっかくの注文を逃します」
「孤児院の子供たちを働かせるのは論外よ」
「分かっています。あそこはまず教育です」
クロエが即答した。
「となると、縫製経験のある女性を集めるしかない」
「募集しましょう」
「賃金は?」
「相場より少し高く」
「利益率が落ちますよ」
「最初はそれでいいわ」
私は注文票の山を見る。
「技術を持った人間が集まれば、生産数を増やせる。生産数が増えれば一着あたりの費用を下げられる。何より――」
「何より?」
「『女が自分で稼いで服を買う』市場を作るのに、作っている女性を安く買い叩いていたら笑い話でしょう?」
一瞬の沈黙。
クロエが吹き出した。
「やっぱり奥様、商人には向いてませんね」
「あら?」
「普通の商人なら、まず人件費を削ります」
「では、あなたは?」
「……今回は奥様に乗ります」
「結構」
私たちは顔を見合わせて笑った。
事業としては、上々の滑り出しだった。
だからこそ――私は忘れていた。
何かを変えれば。
変えられることで困る人間も、必ず現れるということを。
◇
三日後。
王城のサロンで開かれる定例の茶会へ足を踏み入れた瞬間、私は悟った。
――なるほど。
こちらが本番ね。
普段なら華やかな笑い声が満ちているはずの部屋が、異様なほど静かだった。
高位貴族の夫人たちが一斉に私を見る。
笑顔はある。
ただし、目だけが笑っていない。
「クライス公爵夫人。ごきげんよう」
最初に声をかけてきたのは、ベアトリス・ローゼン侯爵夫人だった。
保守的な価値観で知られ、社交界でも大きな影響力を持つ女性だ。
「ごきげんよう、ベアトリス様」
私は何食わぬ顔で席についた。
「今日は随分と静かですこと」
「ええ」
ベアトリスは扇を開く。
「皆様、嘆いていらっしゃるのです」
「何を?」
「王都の風紀を」
来た。
私は紅茶へ口をつける。
「最近、妙な格好をした平民の娘が増えましたでしょう?」
「妙な?」
「貴族令嬢の真似事ですわ」
扇の向こうから、冷たい目が覗く。
「装飾こそ控えめですが、あの洗練された形。平民には不釣り合いです」
別の伯爵夫人が口を挟んだ。
「聞けば、クライス公爵夫人が関わっていらっしゃるとか」
「ええ」
私はカップを置いた。
「私の事業です」
ざわり。
空気が揺れた。
「やはり……」
「公爵夫人ともあろうお方が」
「平民相手の商売など……」
あちこちから囁きが漏れる。
ベアトリスが扇を閉じた。
「なぜ、そのようなことを?」
「利益が出るからですわ」
静まり返った。
「……利益?」
「商売ですもの」
私は微笑む。
「欲しい人がいて、買える価格で商品を提供する。何かおかしなことが?」
「そういう問題ではありません!」
ベアトリスの声が響いた。
「身分には、身分に相応しい装いがあります!」
「なぜ?」
「なぜって……!」
「王国法で定められているのかしら?」
沈黙。
「平民がこの形の襟を着てはいけない。この丈のスカートを穿いてはいけない。そう定めた法律があるのでしたら、ぜひ教えてくださいませ」
誰も答えない。
当然だ。
特定の儀礼服や紋章、身分を示す装飾には規則がある。
だが、私たちが作った服はそのどれにも触れていない。
「法律の話をしているのではありません!」
ベアトリスの頬が紅潮する。
「節度の話です!」
「なるほど」
「平民には平民の装いがある。それを乱せば、身分秩序そのものが揺らぎます」
「たかが一着の服で?」
私は首を傾げた。
「……何ですって?」
「たかが一着の服で揺らぐほど、私たち貴族の立場とは脆いものなのですか?」
ベアトリスの顔が強張った。
「わ、私はそのような意味で――」
「では、何を恐れていらっしゃるの?」
今度こそ。
誰も言葉を発しなかった。
私はゆっくりとサロンを見回す。
宝石。
絹。
レース。
この場にいる女性たちが身につけているものだけで、平民一家が何年暮らせるだろう。
けれど――。
それらを取り上げられたら、私たちは何者なのだろう。
「私は、貴族の価値とは着ている服の値段ではないと思っています」
「……」
「まして、誰かに粗末な服を着せることで証明するものでもありません」
私はベアトリスを見る。
「領地を治めること。民を守ること。国を豊かにすること。その責任を果たすからこそ、私たちは特権を与えられている」
前世を思い出すまでもない。
二十年間、公爵夫人として生きてきた私自身が知っている。
権力には責任が伴う。
それを忘れた瞬間、特権はただの搾取になる。
「平民の女性が美しい服を着たくらいで失われる誇りなら――」
微笑む。
「最初から、大した誇りではありませんわ」
「……っ!」
何人かが息を呑んだ。
ベアトリスの顔は真っ赤だった。
さすがに言い過ぎたかしら。
まあ、いい。
「公爵夫人」
ベアトリスが震える声を絞り出した。
「あなたは……平民と貴族の境界を壊すおつもり?」
私は少し考えた。
「いいえ」
意外だったのだろう。
ベアトリスが瞬きをする。
「私は服を売っているだけですわ」
「な……」
「その結果、誰かが勝手に作った境界が壊れるのでしたら――」
私は紅茶を一口飲む。
「それは、その境界に壊れるだけの理由があったのでしょうね」
今度こそ、完全な沈黙が落ちた。
私は席を立った。
「とても有意義なお茶会でしたわ」
完璧なカーテシーをする。
「それでは皆様、ごきげんよう」
背中へ無数の視線が突き刺さる。
怒り。
侮蔑。
そして――恐怖。
構わない。
私が嫌われるだけなら、安いものだ。
三年後、イザベラを処刑台へ送る未来に比べれば。
◇
「――お母様!」
公爵邸へ戻るなり、聞き慣れた声が飛んできた。
イザベラだった。
「どうしたの?」
「どうしたの、ではありません!」
娘は珍しく顔を紅潮させている。
その手には、一通の封書。
嫌な予感がした。
「今日、ローゼン侯爵夫人からお手紙をいただきました」
私は足を止めた。
「……ベアトリス様から?」
「ええ」
イザベラは封書を握りしめる。
「お母様が、平民に貴族の真似をさせていると」
やはり。
自分ではなく――娘へ来たか。
「イザベラ」
「教えてください、お母様」
娘の青い瞳が揺れている。
怒っている。
けれど、それだけではない。
不安なのだ。
十五年間、正しいと教えられてきた世界を、母親が突然否定し始めたのだから。
「貴族と平民が同じ格好をするようになったら……」
イザベラは唇を噛んだ。
そして、私が最も聞きたくなかった言葉を口にした。
「私たち貴族は、何が特別なのですか?」
胸の奥が冷えた。
ベアトリスの言葉より。
茶会で浴びた敵意より。
その一言の方が、ずっと恐ろしかった。
なぜなら私は知っている。
この問いに間違った答えを与え続けた先に――。
娘が処刑される未来がある。
私はイザベラを見つめた。
どうやら次に変えなければならないのは、社交界でも、商売でもない。
――私の娘自身らしい。
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