わからない、だから教えてほしい
王立劇場の裏口は、表舞台の華やかさが嘘のように薄暗かった。
舞台を終えた役者や裏方たちが忙しく行き交う中、私はクロエとともに細い廊下を進む。
残された時間は、半日もない。
今日中に、あの服を一着売る。
それがクロエと交わした約束だ。
案内された楽屋の扉を叩くと、中から低くよく通る声が返ってきた。
「どうぞ」
扉を開ける。
白粉と香水の甘い匂い。
大きな鏡の前に、一人の女性が座っていた。
セシリア・ベル。
平民の娘から王立劇場の看板女優まで登り詰めた、王都で最も有名な女性の一人。
舞台では金色に見えた髪を無造作に下ろし、深い緑の瞳だけを鏡越しにこちらへ向けている。
「クライス公爵夫人から直々のご指名と聞いて、どんな難題を持ち込まれるのかと思いましたけれど」
立ち上がりもしない。
公爵夫人に対する態度としては、褒められたものではない。
だが、私はむしろ気に入った。
クロエといい、この女といい。
どうやら私は、私に頭を下げない人間に縁があるらしい。
「舞台の直後にごめんなさい、セシリア」
「構いません。それで?」
「あなたに、服を着てもらいたいの」
私が合図すると、クロエが持っていた包みを開いた。
例のワンピースが姿を現す。
その瞬間――。
セシリアの目が変わった。
「……見せて」
立ち上がる。
布に触れ、縫い目を確かめ、襟元から腰のラインまで丹念に見る。
さすが女優だ。
衣装を見る目は肥えている。
「綺麗ね」
やがて彼女が呟いた。
「飾りは少ないのに、身体が一番美しく見える場所を分かってる」
「ありがとう」
「でも……」
セシリアの指が止まった。
「これは私の舞台衣装じゃない」
「ええ」
「貴族のドレスでもない」
「ええ」
「町の女のための服ね?」
私は微笑んだ。
「その通りよ」
セシリアがこちらを見る。
「平民の女性が、自分で稼いだお金で買える服として作ったの」
「……なるほど」
「そして今夜、あなたにこれを着てほしい」
「どこで?」
「舞台の上ではないわ」
私は正面玄関の方角を指した。
「終演後、その服を着て劇場の正面玄関から出てちょうだい」
沈黙。
数秒後。
セシリアが笑った。
ただし、そこに好意はなかった。
「お断りします」
「理由を聞いても?」
「本当に分からないんですか?」
声の温度が下がった。
「あなたは公爵夫人だから」
セシリアはワンピースを置いた。
「何を着ようが、誰も笑わない。あなたが粗末な麻の服を着れば、それさえ『公爵夫人の新しい流行』になるでしょうね」
「……」
「でも私たちは違う」
緑の瞳が鋭くなる。
「平民が少しでも貴族らしい格好をすれば、『身分をわきまえろ』と言われる。笑われる。仕事を失うことだってある。商売をしている家なら、取引先から目をつけられることもある」
その声には、芝居ではない怒りがあった。
「美しいものを着たい。そんな気持ちは平民の女にだってあるんです」
一歩。
彼女が私へ近づく。
「でも、美しいものを選ぶだけで勇気がいる」
さらに一歩。
「公爵夫人のあなたに分かります?」
目の前で足を止めた。
「笑われる怖さが」
私は答えなかった。
「自分なんかが、って思わされる悔しさが」
答えられない。
「欲しいものを目の前にして、『これは私には相応しくない』って自分に言い聞かせる気持ちが」
そしてセシリアは言った。
「あなたに、私たちの何が分かるんです?」
静寂が落ちた。
クロエも何も言わない。
セシリアの言う通りだった。
私は公爵家に生まれた。
生まれた瞬間から、最高の服が用意された。
欲しいものを「身分不相応だから」と諦めた経験などない。
だから――。
「分からないわ」
セシリアが目を見開いた。
「……何ですって?」
「あなたの気持ちは、私には分からない」
はっきりと言った。
「私は生まれながらの貴族よ。護衛なしで町を歩いたこともなければ、着ているものを理由に笑われたこともない」
「だったら――」
「だから、教えてほしいの」
セシリアの言葉が止まった。
私は頭を下げなかった。
同情するような顔もしなかった。
ただ、一人の人間として彼女を見る。
「あなたたちが何を怖がっているのか。何に傷ついてきたのか。私には分からない」
そして一歩、近づく。
「でも、知らないままでいるつもりもない」
セシリアが黙っている。
「教えてちょうだい。その鎖が、どれほど重いのか」
「……鎖?」
「『身分相応』という鎖よ」
あの少女を思い出す。
欲しい服を目の前にして、最後まで振り返りながら去っていった少女。
そして――イザベラ。
公爵令嬢だから。
王太子の婚約者だから。
平民に負けてはいけない。
家の名誉を守らなければならない。
その果てに、三年後。
私の娘は処刑される。
「平民だから、美しい服を着てはいけない」
私は静かに言った。
「貴族だから、完璧でなければならない」
セシリアの瞳が僅かに揺れた。
「どちらも同じだと思うの」
「……同じ?」
「ええ」
私はワンピースを手に取った。
「生まれた場所だけで、『あなたはこう生きなさい』と決めつけられる」
そしてセシリアを見る。
「私は、それが嫌なのよ」
初めてだった。
娘を救うためでも。
公爵家を守るためでも。
利益を上げるためでもない。
この世界そのものに対する、私自身の怒りを口にしたのは。
「私はこの国を変えたい」
セシリアは笑わなかった。
「……一着の服で?」
「ええ」
「馬鹿みたい」
「そうね」
「公爵夫人が言う台詞じゃありませんよ」
「最近、よく言われるわ」
クロエが後ろで小さく吹き出した。
セシリアはしばらく私を見つめていた。
やがて、ワンピースへ視線を落とす。
「……私に何をさせたいんです?」
「この服を着て、正面玄関から出る。それだけ」
「それだけ?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「あなたが着れば、これは『身分不相応な服』ではなくなる」
セシリアが眉を上げる。
「王都で一番憧れられている平民女性が選んだ服になるのよ」
沈黙。
そして。
「……なるほど」
今度はセシリアの口元にも、微かな笑みが浮かんだ。
「公爵夫人」
「何?」
「あなた、思ったより悪い女ですね」
「クロエにも似たようなことを言われたわ」
「私はもっと上品に言いましたよ」
「嘘をおっしゃい」
三人の間に、初めて笑いが生まれた。
しかしセシリアは、すぐに真顔へ戻った。
「一つ条件があります」
「聞きましょう」
「もし貴族から圧力がかかったら?」
「私が受けるわ」
即答した。
「劇場に圧力がかかったら?」
「クライス公爵家が後援者になる」
「私が仕事を失ったら?」
「あなたが一生舞台に立たなくても困らない額を補償する」
「……本気なんですね」
「最初から本気よ」
セシリアは私の顔を見つめ――。
やがて、ワンピースを掴んだ。
「ギャラは高いですよ」
「望むところよ」
「後悔しても知りませんからね」
「それはこちらの台詞」
セシリアが笑った。
「では、着替えてきます」
◇
終演後。
王立劇場の正面玄関には、大勢の観客が残っていた。
馬車を待つ貴族。
役者の出待ちをする市民。
新聞売り。
そして――クロエが急遽呼び集めた記者たち。
大扉が開く。
ざわめきが止まった。
セシリア・ベルが現れた。
宝石はない。
豪華な舞台衣装でもない。
あのワンピースを着て。
一歩。
二歩。
セシリアが堂々と階段を下りていく。
視線が集中する。
そして――。
「……素敵」
誰かが呟いた。
若い女性だった。
「何、あの服?」
「見たことない」
「セシリア様の新しい衣装?」
「違うみたい」
「でも……綺麗」
ざわめきが広がっていく。
セシリアは立ち止まった。
記者の一人がすかさず声を飛ばす。
「セシリアさん! そのお召し物は?」
打ち合わせ通りの質問だ。
セシリアは振り返った。
そして、舞台の上と同じ美しい笑顔で答える。
「私が自分で選んだ服よ」
周囲が静まる。
「貴族でも、平民でも関係ないわ」
ワンピースの裾を摘み、優雅に一回転する。
「女が自分で稼いだお金で、自分が好きな服を着る。それの何がいけないの?」
空気が変わった。
私は群衆の端から、その光景を見ていた。
セシリアは続ける。
「明日から、クロエ商会で買えるそうよ」
クロエを見る。
「――ですよね、会長?」
「もちろんです!」
商人の声が響いた。
その瞬間だった。
「あの!」
一人の少女が、人混みから飛び出した。
私は息を呑んだ。
昼間、母親に手を引かれて去っていった――あの少女だった。
母親も後ろにいる。
「その服……」
少女は震える声で聞いた。
「本当に、私でも買えるんですか?」
クロエが答える。
「もちろん」
「私が着ても……いいんですか?」
今度はセシリアが笑った。
「あなたが着たいなら」
少女はしばらく動かなかった。
やがて――。
ぎゅっと拳を握る。
「……買います」
私の胸が大きく鳴った。
「私、その服を買います!」
クロエがこちらを見る。
私は彼女を見る。
クロエの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「公爵夫人」
「何かしら?」
「期限内です」
陽が完全に沈む、その直前。
最初の一着が――売れた。
たった一着。
けれど私には、それが王国を揺るがす最初の亀裂に見えた。
「……売れたわね」
「ええ」
クロエが右手を差し出す。
最後まで差し出されなかった手だった。
「約束です」
私はその手を見る。
「クロエ商会の流通網。王都だけじゃない。東部三都市まで、全部使ってください」
私はその手を握った。
「共同経営者になってくれるの?」
「ええ」
クロエは獰猛に笑った。
「一緒に市場をひっくり返しましょう、パートナー」
その横から、セシリアが口を挟む。
「あら。私を忘れてません?」
「あなたは広告塔でしょう」
「安くない広告塔ですけどね」
「分かっているわ」
三人で笑った。
こうして私は、二人の『共犯者』を手に入れた。
商人クロエ。
女優セシリア。
そして――一着のワンピース。
まだ誰も知らない。
この夜、たった一着売れた服が。
翌朝には王都中の女性を巻き込み――。
貴族社会を激怒させる大騒動へ発展することを。
お読みいただきありがとうございました。
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