その服は平民には似合わない
クロエから突きつけられた期限は、七日。
その七日目の朝――。
「……できた」
私は目の前に掛けられた一着のワンピースを見つめ、ようやく息を吐いた。
場所は、王都南区画にある小さな縫製工房。
まだ正式な事業として立ち上げたわけではない。クロエの伝手で腕のいい縫い子を集め、七日間だけ借りた場所だ。
目の前には一着のワンピース。
華美な刺繍も宝石もない。
けれど、腰の位置や襟元、袖の形まで計算し、貴族令嬢のドレスにも通じる洗練されたシルエットを取り入れている。
「何度見ても信じられませんね」
隣でクロエが腕を組んだ。
「客の採寸もせずに服を作って、それを店に並べて売るなんて」
「だからこそ、意味があるのよ」
私は机の上に置かれた三枚の型紙を広げた。
「人の身体は一人一人違う。でも、ある程度の範囲に分けることはできます」
前世では当たり前だった考え方。
サイズ。
小、中、大。
将来的にはもっと細分化する必要があるだろう。
けれど、最初は三つでいい。
「この三種類の型紙を基準にして、同じデザインの服を作るのです」
「客ごとに型紙を作らない」
「ええ」
「注文を受ける前に作っておく」
「その通り」
「……やっぱり、とんでもないですね」
クロエが呆れたように笑った。
「褒め言葉?」
「今回は褒めてます」
私は少しだけ笑った。
さらに、服を一人の職人が最初から最後まで仕立てるのではなく、裁断、縫製、仕上げと工程を分ける。
熟練職人にしかできない部分と、訓練すれば習得できる作業を分離することで、一着あたりに必要な時間を減らす。
完全な大量生産にはほど遠い。
それでも、注文服より価格を大きく下げられる見込みは立った。
そして何より――。
「綺麗ですね」
若い縫い子の一人が、完成した服をうっとりと見つめていた。
その言葉に、私は満足する。
そう。
それが重要なのだ。
安いから買うのではない。
欲しいから買う。
女性が自分の稼いだお金で、自分が美しいと思った服を選ぶ。
その市場を作る。
「さて」
クロエがワンピースを手に取った。
「約束通り、こいつを売ってみましょう」
「お願いするわ」
「本当に売れたら、うちの販路を使わせます」
「覚えているわ」
「売れなかったら?」
「この話は終わり」
「結構」
クロエがにやりと笑う。
「商売人らしくなってきましたね、公爵夫人」
こうして――私たちの最初の商品が、店頭に並んだ。
◇
そして昼になった。
一着も売れなかった。
「……おかしい」
クロエが呟く。
店の前には、何人もの女性が立ち止まっていた。
反応は悪くない。
むしろ、いい。
「まあ……素敵」
「これ、本当にこの値段なの?」
「私のお給金でも買えるわ」
そんな声が何度も聞こえてくる。
けれど――誰も店に入らない。
服を見つめる。
値札を見る。
一瞬、欲しそうな顔をする。
そして周囲を窺い、目を伏せて去っていく。
それが朝から何度も繰り返されていた。
「値段か?」
「いいえ」
「品質?」
「それも違うと思うわ」
「じゃあ、何なんです?」
私にも分からなかった。
前世の知識では説明できない。
欲しい商品がある。
買える価格で売られている。
それでも買わない。
ならば、数字に表れない何かがある。
「……見てきます」
私は目立たない外套を羽織った。
「奥様?」
「お客様に聞くのが一番早いでしょう?」
店を出る。
ちょうどそのとき、一組の母娘がワンピースの前で足を止めた。
娘は十五歳くらいだろうか。
イザベラと同じ年頃。
質素な服を着た少女が、ショーウィンドウ越しにワンピースを見つめている。
「お母さん……これ、すごく素敵」
「ああ」
「私のお給金でも買えるよ」
その声は弾んでいた。
「来月のお給金を少し残しておけば――」
「やめな」
母親の声が低くなる。
少女の笑顔が消えた。
「……どうして?」
「あんたには必要ないよ」
「でも、私――」
「よく見なさい」
母親がワンピースを指差す。
「あんな洒落た服、まるでお貴族様の令嬢が着る服じゃないか」
「だから素敵なんじゃない」
「馬鹿」
母親は周囲を気にするように声を潜めた。
「平民の娘があんな服を着いて歩いてごらん。近所から何を言われると思ってるんだい」
少女が黙った。
「身分不相応だ、生意気だって笑われるよ」
「……」
「私たちには、私たちに相応しい服があるんだ」
その言葉を聞いた瞬間――胸の奥に何かが刺さった。
私たちには、私たちに相応しい服がある。
貴族には貴族の。
平民には平民の。
公爵令嬢には、公爵令嬢の。
それは服だけの話ではない。
公爵令嬢なのだから、王太子の婚約者として完璧であれ。
公爵令嬢なのだから、平民に侮られるな。
公爵令嬢なのだから、婚約者を奪われても黙っているな。
公爵令嬢なのだから――。
(……そうか)
ようやく分かった。
同じだ。
この少女を店の外に立たせているものと。
三年後、イザベラを処刑台へ向かわせるもの。
その正体は、同じなのだ。
――身分相応。
そのたった四文字。
「さあ、行くよ」
母親が少女の腕を引いた。
少女は何度も振り返りながら、やがて人混みへ消えていった。
最後まで、その目はワンピースを追っていた。
「……奥様」
いつの間にか、クロエが後ろに立っていた。
「聞いていた?」
「ええ」
「どうやら、私たちは商品の値段ばかり計算して、一番高いものを計算に入れていなかったようね」
「一番高いもの?」
私は人混みへ消えていった少女を見る。
「勇気よ」
クロエが黙った。
「最初の一人になるには、勇気がいる。周囲から笑われるかもしれない。身分不相応だと後ろ指をさされるかもしれない」
欲しい。
買える。
それでも買えない。
この国の女性たちを縛っていたのは、貧しさだけではなかった。
「奥様……どうします?」
クロエが悔しそうにショーウィンドウを見る。
「もう少し地味な服にしますか? 平民が着ても目立たないように」
「いいえ」
即答した。
「それでは、何も変わらないわ」
「ですが、売れなければ商売になりません」
「ええ。だから売ります」
「どうやって?」
簡単なことだ。
誰も最初の一人になりたくないのなら――。
「最初の一人を、こちらで作ればいいのよ」
「……はい?」
私は外套を脱いだ。
公爵夫人エレオノーラとして、背筋を伸ばす。
「人は、誰かが着ている服を欲しがる」
「それは、まあ……」
「では、王都中の女性が憧れている人間に、この服を着せたら?」
クロエが目を瞬いた。
「まさか……」
「クロエ」
私は笑った。
「王都で今、一番人気のある女優は誰?」
数秒の沈黙。
やがてクロエの顔にも、悪い笑みが浮かんだ。
「……奥様」
「何かしら?」
「あなた、やっぱり商人より商人ですよ」
「光栄だわ」
「王立劇場の看板女優、セシリア・ベルです。平民出身ですが、貴族の男たちまで彼女を見るために劇場へ通う」
「完璧ね」
「でも、セシリアは簡単には動きませんよ。金だけで仕事を受ける女じゃない」
「なおさら結構」
私は踵を返した。
「新聞社にも連絡して」
「新聞?」
「ええ」
ただ有名人に服を着せるだけでは弱い。
必要なのは――物語だ。
なぜ彼女がこの服を着るのか。
なぜ平民の女性が美しい服を着ていいのか。
その理由ごと、王都に売る。
前世なら、こう呼んだだろう。
――マーケティング、と。
「七日の期限は今日までですよ?」
クロエが楽しそうに言った。
「分かっているわ」
「あと半日です」
「十分よ」
私は笑った。
三年後、私の娘を殺す『常識』。
それを壊す最初の一撃が、まさか一着のワンピースになるとは思わなかった。
「今日中に、この服を売ります」
そして私はまだ知らなかった。
この一着が翌日――。
王都中の女性を巻き込む、大騒動を引き起こすことを。
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