一級品の絹を買い占めたとおっしゃいますが、夏の茶会で汗だくになるドレスが一級品ですの?
季節が春から初夏へと移り変わるにつれ、王都の日差しは一日ごとに眩しさと熱を帯びるようになっていた。
ヴェルネ子爵領の寄合い所から私たちが戻って一週間後、王城の東庭園に面した大サンルームにて、王妃陛下主催の茶会が開かれた。
先日の『春の王室園遊会』が数百人を招く公式行事だったのに対し、今日の茶会は、王妃陛下が親しい高位貴族の夫人や令嬢たち三十名ほどを招いて開く、内々のサロンに近い催しである。ただ、今回はそこに「来たる社交界の夏に向けた、新しい装いの披露」という特別な趣向が添えられていた。
高いガラス張りの天井から初夏の陽光が降り注ぎ、開け放たれた扉の向こうからは、新緑の庭を渡る風が吹き込んでくる。
会場の一角には、招かれた私とイザベラ、マーガレット伯爵令嬢、そしてイザベラの学友として特別に招待されたリリアナの姿があった。さらに今日は、王妃陛下の計らいで、公務の合間を縫ったエドワード殿下と、王宮での用向きを終えた夫のアレクシスも、テラス席の控えに顔を揃えている。
そして、私たちの向かい側の席には、やはりというか、ローゼン侯爵の妻であるベアトリス夫人が陣取っていた。
「――王妃陛下。本日はこのような素晴らしい席にお招きいただき、誠にありがとうございます」
茶会の始まりを告げる紅茶が配られた直後、ベアトリス夫人が真っ先に立ち上がり、恭しく一礼した。
前回の園遊会で百年前のレースを見誤り、王妃陛下の前で恥をかいた彼女だったが、今日のその顔には、あの日の屈辱をすっかり拭い去ったかのような自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「先日の園遊会では、クライス公爵夫人が地方の珍しいレースを披露されましたけれど……やはり王室の夏を彩る正装には、一点の曇りもない『本物の一級品』こそが相応しいと存じます。そこで本日は、我が夫ローゼン侯爵の推薦により、王室御用達として百年の歴史を誇る『オルバン服飾商会』が仕立てた、最高峰の夏衣をご覧いただきたく存じますわ」
ベアトリス夫人が扇を合図のように揺らすと、控えの間から、白髪の厳格そうな老人――オルバン服飾商会の当主と、一人の若い令嬢が姿を現した。
モデルとして歩み出てきたのは、保守派のソフィア伯爵令嬢だった。
「まあ……っ、なんて豪華なお召し物かしら!」
保守派の夫人たちの席から、一斉に感嘆の声が上がった。
ソフィア嬢が纏っていたのは、目の覚めるような濃紺と純白の絹を幾重にも重ねた、重厚なドレスだった。スカートには張りを持たせるためのペチコートが何枚も仕込まれ、胸元から裾にかけては、黄金色の絹糸による緻密な刺繍が隙間なく施されている。
ベアトリス夫人が、誇らしげに胸を張って私の方を見た。
「皆様、どうぞあの生地の厚みと光沢をご覧くださいまし。あれは東部の三都市でも最も由緒ある平地の織り元が、最上級の太い春繭だけを使って織り上げた、正真正銘の『一級本絹』でございます。……なんでも近頃は、それが手に入らないからと、山奥の痩せた土地で取れた細い糸に麻を混ぜた『二級品の裏地布』でドレスを仕立てる商会もあるやに伺いましたけれど、こうして並べば、どちらが王室の威信に相応しいかは一目瞭然ですわね」
会場の視線が、ソフィア嬢の豪奢なドレスと、私たち四人が着ている軽やかなドレスへと交互に向けられた。
ローゼン侯爵とガルシア商会が、東部の完成布を資金力で根こそぎ買い占めた理由はこれだったのだ。私たちから平地の絹布を奪ったうえで、その最高級の生地を老舗のオルバン商会へ卸し、王妃陛下の目の前で「一級品と二級品の格の違い」を見せつけようという算段である。
確かに、ソフィア嬢のドレスに使われている絹は、冬の夜会であれば誰もが羨むような見事な織り上がりだった。
けれど――私はガラス天井から差し込む初夏の強い日差しと、ソフィア嬢の首筋を見つめて、静かに眉を寄せた。
「……確かに、見事な刺繍と生地の厚みですね、ローゼン侯爵夫人」
上座に座る王妃陛下が、ティーカップを置いて穏やかに声をかけられた。
「ソフィア嬢も、よく着こなしています。ただ……少しばかり、顔色が赤いようだけれど、大丈夫かしら?」
「え……? い、いえ、王妃陛下! わたくしは、その、このような名誉ある役目を賜りまして、少し高揚しているだけでございますわ……!」
ソフィア嬢は完璧な淑女の笑顔を作って否定したが、その声はわずかに上ずっていた。
それも無理はない。今日は五月の終わり近く、日中の気温はすでに夏本番に迫るほど上がっている。そんな陽気の中で、風をまったく通さない高密度の厚い絹を三枚も四枚も重ね、さらにその下を鯨骨の硬いコルセットで限界まで締め上げているのだ。
ベアトリス夫人が「ではソフィア様、皆様に後ろ姿のトレーンもご覧いただきましょう」と促し、ソフィア嬢が重いスカートを引きずるようにして一歩、二歩とターンをしかけた――そのときだった。
「……っ、あ……」
ソフィア嬢の白い額に玉のような汗が浮かび、その足元が糸の切れた人形のようにぐらりと傾いた。
「ソフィア様!?」
ベアトリス夫人が驚いて声を上げるよりも早く、すぐ近くの席から二つの影が風のように飛び出した。
淡い水色と若草色の薄絹の裾をふわりと翻して駆け寄ったのは、イザベラとリリアナだった。
「ソフィア様、おつかまりになって!」
イザベラが倒れかけたソフィア嬢の肩を正面からしっかりと抱きとめ、同時にリリアナが反対側から彼女の背中を支えて、近くの長椅子へとゆっくり座らせた。
「誰か、冷たいお水と濡らした布を! それと、日差しを避けるためにそちらの衝立を動かしてください!」
リリアナの指示は、驚くほど的確で素早かった。かつて平民として食堂で働き、夏の厨房で体調を崩した人々を介抱した経験がある彼女は、躊躇うことなくソフィア嬢の足元を少し高くし、風通しの良い向きへと体勢を整えた。
さらにイザベラは、自分の肩に掛けていた白い薄絹のショールを迷わず外すと、周囲の貴族たちの視線からソフィア嬢の胸元を隠すようにふわりと掛けた。
「リリアナ様、マーガレット様。わたくしがこのショールで目隠しをいたしますから、ソフィア様の背中の編み上げと、襟元の留め金を少しだけ緩めて差し上げて」
「はい、イザベラ様!」
マーガレットも駆け寄り、三人の令嬢が息を合わせて、ソフィア嬢の背中を締めつけていた硬いコルセットの紐を素早く緩めた。
「はあっ……、はあ……っ」
胸元の圧迫から解放されたソフィア嬢が、大きく息を吸い込む。
イザベラは自分の手元の扇ではなく、先ほど外したばかりの薄絹のショールを二つに畳み、ソフィア嬢の頬へそっと柔らかな風を送り続けた。
「もう大丈夫ですわ、ソフィア様。ゆっくり息をなさって。お水が参りましたから、少しだけお口を潤してくださいませ」
「イザベラ、様……、リリアナ様……っ」
コップの水を一口飲んだソフィア嬢は、自分の肩に掛けられたイザベラのショールに触れ、ハッとしたように目を見張った。
「なんて……なんて軽くて、ひんやりと涼しい布なの……? わたくし、あんなにひどいことを申し上げたのに、どうして……」
先日、学園の東屋でエドワード殿下に近づき、イザベラを挑発するような言葉を投げかけたのはソフィア嬢自身だった。また、クラリス嬢の騒動の背後にいたのも彼女のグループである。
それなのに、イザベラは少しも恩着せがましい顔を見せず、ただ友人を気遣うような穏やかな青い瞳で微笑んだ。
「体調が優れない方を前にして、昨日のことなど関係ございませんわ。お顔に赤みが戻ってきて、本当に安心いたしました」
ソフィア嬢は、羞恥と感謝で唇を震わせ、イザベラの薄絹のショールを握りしめたまま深くうつむいた。
テラスの控え席からその様子を見守っていたエドワード殿下が、愛おしさと誇らしさに満ちた眼差しでイザベラを見つめているのに気づき、私は静かに立ち上がってベアトリス夫人の前へと歩み出た。
「――ローゼン侯爵夫人。ソフィア様のお加減が落ち着かれて、何よりでございましたわね」
「え、ええ……。ですが、これはソフィア様がたまたま朝から体調を崩されていただけのことで、ドレスのせいでは……」
動揺を隠そうと扇を強く握るベアトリス夫人に対し、私は穏やかに、しかし会場の全員に聞こえるはっきりとした声で言った。
「いいえ、夫人。ソフィア様が纏っておられる東部の『一級本絹』は、確かに素晴らしい織り上がりですわ。ただし、それは寒さの厳しい冬の夜会や、火の気のない石造りの大広間で着るための生地なのです」
私は自分の袖口――ヴェルネ子爵領の山間部で織られた薄絹が、初夏の風に揺れて真珠のように輝くさまを示した。
「東部の筆頭問屋であるガルシア商会は、私たちの工房に布を渡すまいとして、現地の織り元からこの春に織り上がった厚手の本絹を無理やりすべて買い占めました。そして、季節も着る人の体調も考えず、『高価な一級品だから』という理由だけで、初夏の茶会のドレスにそのまま仕立てさせたのです。……夫人、どれほど高価な糸を使っていようと、着ているご令嬢が暑さと重さで息もできなくなり、汗だくになって倒れてしまうような服を、本当に『一級品』とお呼びになりますの?」
「っ……! そ、それは……」
ベアトリス夫人が言葉を詰まらせる。
「一方で、夫人が先ほど『山奥の二級品の裏地布』とおっしゃった私たちの生地をご覧ください。ヴェルネ子爵領の清らかな水と空気の中で、職人たちが細い生糸と上質な麻を交互に織り上げたこの薄絹は、従来の絹の半分以下の重さしかなく、風をそのまま肌へ通します。先ほどイザベラたちは、あれほど素早く駆け寄ってソフィア様を介抱いたしましたが、誰一人として息を切らしてもいなければ、額に汗ひとつ浮かべておりません」
周囲の貴婦人たちが、改めてイザベラ、マーガレット、リリアナの三人を見つめた。
三人が纏う水色や若草色、淡い桃色のドレスは、サンルームの陽光を受けて真珠色の柔らかな光沢を放ち、その上に重ねられたハルシュタイン領の古典薔薇レースが、まるで涼しい水面に浮かぶ花のように気品高く映えていた。
するとそのとき、ベアトリス夫人の後ろに控えていた白髪の老人――王室御用達の老舗、オルバン服飾商会の当主が、ふらりと前へ進み出た。
「……クライス公爵夫人。ぶしつけなお願いとは存じますが、どうか老いぼれの職人の目として、お嬢様のお召し物の袖口を、間近で拝見することをお許し願えませんでしょうか」
「オルバン殿!? 何を言っておられるのです!」
ベアトリス夫人が慌てて止めようとしたが、老当主は耳を貸さなかった。
私が「ええ、どうぞ」と頷くと、老当主はイザベラのそばへ歩み寄り、眼鏡の奥の鋭い職人の目で、イザベラが差し出した袖口の薄絹とレースの縫い目を食い入るように見つめた。
数秒後、老当主の口から、深い溜息が漏れた。
「……完敗でございます、公爵夫人」
「オルバン殿……?」
「私どもオルバン商会も、この山間部の薄絹の存在は知っておりました。ですが、これほど薄く透ける生地は、普通に縫えば縫い代が表に透けて見苦しくなり、少し引けば縫い目から裂けてしまうため、ドレスの表地にするのは不可能だと諦めていたのです。……しかるに、このお召し物の縫い目はどうだ」
老当主は震える声で、周囲の貴婦人たちへ振り返った。
「生地の端を極細の幅で二度内側に折り込み、髪の毛ほどに細かい針目で袋状に縫い包む『折り伏せ縫い』が、ドレスの隅々にまで完璧に施されております! 表からはもちろん、光を透かしても縫い代が一切見えず、それでいてどんな動きにも耐える強さがある。これほどの針仕事ができる熟練の縫い子を、公爵夫人は一体どこから集められたのですか!?」
私は、工房で針を動かしてくれているエマたちの笑顔を思い浮かべながら、誇らしげに微笑んだ。
「どこからでもございませんわ。ずっとこの王都の片隅で暮らし、家族のために懸命に針を動かしてきた、私たちの大切な女性職人たちの手仕事です。古着の小さなほつれ一つにも心を込めて直してきた彼女たちの技術が、山間部の織り元さんたちの誇りと出会って、この『天女の羽衣』を生み出したのですわ」
サンルームの中に、静かな、しかし深い感動の波が広がった。
オルバン商会の老当主は、ベアトリス夫人に向き直ると、深々と頭を下げた。
「ローゼン侯爵夫人、誠に申し訳ございません。ガルシア商会から持ち込まれた一級絹に目が眩み、着るお方の心地よさという服作りの原点を忘れておりました。今日の品評、私どもオルバン商会の負けでございます!」
「なっ……オルバン殿まで、何を……!」
頼みの綱だった老舗の当主にまで自ら白旗を揚げられ、ベアトリス夫人は顔を真っ赤にして立ち尽くした。
そこへ、上座の王妃陛下がゆっくりと立ち上がられ、穏やかな拍手を送られた。
「――素晴らしいものを見せていただきました、クライス公爵夫人、そしてイザベラ嬢たち。どれほど高価な糸を買い占めても、着る人を思いやる心と、職人の手仕事への敬意がなければ、真の一級品にはならないのですね」
王妃陛下は、長椅子でイザベラのショールを羽織っているソフィア嬢にも優しい目を向けられた。
「イザベラ嬢、リリアナ嬢、マーガレット嬢。あなた方の素早い気配りと優しさは、その美しいドレス以上に、この茶会の席を涼やかに彩ってくれましたよ。……本日をもって、クライス公爵夫人の商会が仕立てるヴェルネ領の薄絹とハルシュタイン領のレースの装いを、今年の王室の『公式推奨夏衣』と定めます」
会場中から、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
さらにオルバン商会の老当主が私の前へ進み出て、「クライス公爵夫人。もしお許しいただけるなら、今後はガルシア商会の仲介ではなく、私どもの商会もクロエ商会様を通じてこの薄絹の仕立てや販売に協力させていただけませんでしょうか!」と頭を下げたのである。
王室御用達の最大の老舗が、ローゼン侯爵とガルシア商会の陣営から離れ、私たちの手を取った瞬間だった。
茶会がお開きとなった夕暮れ時、私はアレクシスとともに、東庭園の白いバラが咲くテラスへと出た。
少し先の東屋では、エドワード殿下とイザベラが並んで立ち、夕風に吹かれながら語り合っているのが見えた。
「……今日は本当に驚いたよ、イザベラ」
風に乗って、エドワード殿下の穏やかで熱を帯びた声が聞こえてくる。
「ソフィア嬢が倒れかけたとき、君が誰よりも早く駆け寄って、自分の大切なショールを掛けてやっただろう。以前、彼女に言われた言葉を思えば、簡単なことではなかったはずだ」
「いいえ、エドワード様。あの瞬間は、ただ身体が勝手に動いただけですわ」
イザベラは水色の薄絹のドレスを夕風に揺らし、少し照れたように微笑んだ。
「それに……さきほどソフィア様が帰られるとき、小さな声で『先日は心ないことを申してごめんなさい。あなたのドレス、本当に涼しくて美しかったわ』とおっしゃってくださいましたの。誰かを負かすためではなく、誰かを助けるためにこのドレスを着ていて、本当によかったと思いましたわ」
エドワード殿下は、眩しそうに目を細め、イザベラの白い手をそっと自分の手で包み込んだ。
「君という人は、会うたびに私が知らなかった新しい美しさを見せてくれるな。……私だけのものにしておくのが惜しいくらいだが、それでも、君の隣は誰にも譲るつもりはないよ」
「まあ、エドワード様ったら……」
頬を染めて笑い合う二人の姿に、私の隣でアレクシスが満足そうに息を吐いた。
「見事な決着だったな、エレオノーラ。ガルシア商会が莫大な資金を使って買い占めた厚手の春絹は、オルバン商会にも見放され、今頃倉庫で不良在庫の山になっているはずだ。ローゼン侯爵も、今度ばかりは懐に相当な痛手を負っただろう」
「ええ。商売の力でねじ伏せようとした結果が、自分の首を絞めることになったわね」
私は夫の腕にそっと自分の手を重ね、夕陽に染まる王城の庭を見渡した。
議会での法律成立、学園での和解、園遊会での勝利、そして今日の茶会での東部商流の逆転と老舗との提携。
半年前、娘が三年後に悪役令嬢として断罪される未来を知って震えていた私は、もういない。イザベラはかつての敵であった令嬢にさえ手を差し伸べられる強さと優しさを身につけ、エドワード殿下と揺るぎない絆で結ばれている。
「さあ、あなた。約束通り、これで初夏の山場はすべて越えたわ。今夜からは少しだけ、夫婦の時間をゆっくり楽しめそうね」
「ああ。今度こそ、誰にも邪魔はさせないさ」
アレクシスが私の指先に優しく口づけを落とす。
初夏の爽やかな風が、真珠色の『天女の羽衣』をふわりと揺らして吹き抜けていった。私たちの改革と家族の物語は、まばゆい季節の光の中で、また新たな一歩を踏み出そうとしていた。
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