二級品のくず布とおっしゃいましたね? 王妃陛下の茶会では、これを『天女の羽衣』と呼びますのよ
東部の山間部、ヴェルネ子爵領で開かれる寄合いまで、残された時間はわずか三日しかなかった。
その日の夜から翌日にかけて、クロエ商会の工房には一晩中、暖かいランプの灯りがともり続けた。
もちろん、私が職人たちに無理な徹夜を強いたわけではない。事情を聞いたエマと、先日職場へ復帰したばかりの五人の熟練の縫い子たちが、「私たちがもう一度針を持てるようにしてくれた奥様と、地方で泣き寝入りしかけている織り元さんたちのために、どうしてもこの一着を縫い上げたいのです」と自ら名乗り出てくれたのだ。
ミシンのような機械はない。けれど、彼女たちにはこれまで積み上げてきた「型紙によるパーツの分担」と、エマが古着の補修で培った「折り伏せ縫い」という確かな手仕事があった。
身頃を裁断する者、透けるほど薄い生地の端を内側に二度折り込んで極細の針で縫い包む者、そしてハルシュタイン領の古典薔薇レースを襟元と袖口にかがりつける者。六人の職人の手がまるで一つの生き物のように動き、二日目の夜が更ける頃、ついに一着の初夏用ドレスがトルソーの上に姿を現した。
「……なんて美しいのかしら」
仕上がったばかりのドレスを前に、私は思わず息を呑んだ。
山間部の細い生糸と上質な麻を交互に織り上げた薄絹を、贅沢に二枚重ねにした淡い水色のドレス。エマの言った通り、折り伏せ縫いで仕立てられた生地には表からも裏からも一切の縫い代が透けて見えず、ランプの光を受けると、二枚の薄絹が重なり合って真珠のような柔らかい光沢を放っていた。少し風が吹くだけで、まるで天女の羽衣のようにふわりと揺れる。
「これなら、どんな劇場の照明にも、王城の庭園の日差しにも負けませんね、奥様」
クロエが誇らしげに胸を張り、エマたちも疲れた顔の中に輝くような達成感を浮かべて頷いた。
そして三日目の早朝。
公爵邸の前庭には、車輪と幌を補強した快速馬車と、運送業者の親方が率いる二台の荷馬車が並んでいた。王都からヴェルネ子爵領の入り口にあたる宿場町までは、整備された北東街道を早馬で走れば、その日の昼過ぎには到着できる距離にある。
「――本当なら、私も馬を並べて一緒に行きたいところだが」
出発前の馬車の脇で、アレクシスが私の外套の襟元を直しながら、少しだけ眉を寄せて言った。
「昨日、王都に滞在しているヴェルネ子爵本人と会い、事情はすべて話してある。子爵も自分の領地の職人がガルシア商会に買い叩かれていたことに憤慨していてな。この親書と、同行する子爵家の家令がいれば、現地の寄合い所で領主の権威をそのまま示すことができるはずだ」
「ありがとう、あなた。あなたが王都でヴェルネ子爵を説得し、ローゼン侯爵の動きに睨みを利かせてくださるからこそ、私は安心して現地へ行けるのよ」
私が微笑んで見上げると、アレクシスは護衛の騎士や親方たちが少し離れた場所にいるのを確かめ、私の手を強く握りしめた。
「いいか、エレオノーラ。ガルシア商会は東部の商流を何十年も支配してきた連中だ。万が一にも無茶はするな。明日、君が無事に屋敷へ戻ってきたら……今度こそ、何の心配もせずにゆっくりと君を抱きしめさせてくれ」
「ええ、約束するわ。明日の夕餉までには、必ず最高の吉報を持って帰ってきますからね」
夫の青い瞳に宿る深い愛情を胸に刻み、私はクロエ、そしてヴェルネ子爵家の家令とともに馬車へと乗り込んだ。
午後の日差しが傾き始めた頃、私たちの馬車は山あいの渓谷に沿ったヴェルネ子爵領の宿場町へと滑り込んだ。
澄んだ雪解け水が流れる水路のあちこちで水車が回り、家々の軒先からは、トントン、カラン、と手織り機の筬を打つ乾いた音が響いてくる。のどかで美しい山村だったが、宿場の中央にある寄合い所の前には、どこか重苦しく張り詰めた空気が漂っていた。
私たちが馬車を降りて寄合い所の開け放たれた障子戸へ近づくと、中から傲慢でよく通る男の声が聞こえてきた。
「――いいですか、皆さん。何度も同じことを言わせないでいただきたい」
広い板の間の正面に据えられた机の前に、狐のように細長い目をした中年の男――ガルシア商会の主席番頭が座っていた。その前には、作業着姿の村の織り元たちが二十人あまり、肩を落として座らされている。その大半は、手が荒れた年配の女性や母親たちだった。
「この山間部で取れる生糸は細すぎてムラがあり、平地の一級品の絹織物には到底及びません。麻を混ぜて織ったこんなペラペラの薄い布など、王都の貴族の夜会服には使い道のない『二級品のくず布』なのですよ。それを毎年、私どもガルシア商会が情けで裏地用に引き取ってやっているのです」
番頭は机の上に広げられた分厚い契約書を、扇子の柄でピシャリと叩いた。
「ところが最近、王都の新興商会にそそのかされて、よそへ布を流そうとしている者がいると聞きましてね。商業の秩序を守るため、本日ここで『今後五年間、村で織るすべての布を従来の二級品価格でガルシア商会に独占納入する』という覚書に判を押していただきます。……もし判を押せないとおっしゃるなら、春にお貸しした生糸代と前貸し金を、今この場で耳を揃えて一括返済していただきましょうか!」
「そ、そんな……! まだ春の布を売り始めたばかりで、今すぐ全額返せるわけがございません!」
織り元の代表らしき白髪の老婦人が、震える声で訴えた。
「それに、また五年もあの端値で縛られたら、若い娘たちに満足な手間賃も払えず、村の織り機は途絶えてしまいます……!」
「それはあなた方の都合でしょう。嫌なら金を返すか、判を押すか、二つに一つです。ほら、日が暮れる前に順番に前へ出なさい!」
番頭が手代に命じて朱肉を差し出させ、老婦人が泣く泣く印判を握りしめてにじり寄った――まさにその瞬間だった。
「――お待ちなさいな。その契約書に判を押す必要はございませんわ」
私は入り口の敷居を跨ぎ、寄合い所の板の間へと真っ直ぐに声を響かせた。
室内の全員が驚いて振り返る。私の後ろからは、大きな衣装箱を抱えたクロエと運送屋の親方、そして礼装を着たヴェルネ子爵家の家令が静かに進み出た。
「な、何者だ、あんたたちは! ここはガルシア商会と織り元組合の重要な寄合いの場だぞ!」
立ち上がった番頭を真っ直ぐに見据え、私は静かに名乗った。
「私はエレオノーラ・クライス。王都でクロエ商会とともに服飾事業を営んでおりますわ。……ガルシア商会の番頭さん、ずいぶん熱心にこの村の布を『二級品のくず布』と貶めていらっしゃいましたけれど、本当にこの布の価値がお分かりになっていて?」
「く、クライス公爵夫人だと……!?」
番頭の顔色が一瞬で変わった。王都の本会議でローゼン侯爵の動議を打ち破った私たちの名前は、当然ながら彼の耳にも届いているはずだ。
しかし、番頭はすぐに商人の狡猾な笑みを貼り直し、鼻を鳴らした。
「これはこれは、噂の公爵夫人でしたか。わざわざこんな山奥までご足労いただき痛み入りますが、あいにくこの村の織り元たちは、我がガルシア商会と『前貸し契約』で結ばれております。先日の法律は労働者の退職強要を禁じただけで、商人同士の優先買取契約まで無効にする力はなかったはずですかな?」
「ええ、その通りよ。私は法律を盾に無理を通しに来たのではありません。純粋な『商い』のお話をしに参りましたの」
私はクロエに目配せをし、先ほどの白髪の老婦人と織り元たちの前で衣装箱の蓋を開けさせた。
中から取り出した一着のドレスを、窓から差し込む山の澄んだ陽光の中へふわりと広げて見せる。
「あ……っ、ああ……!」
板の間に座っていた女性たちから、一斉に息を呑む音が漏れた。
陽光を受けた水色のドレスは、二枚の薄絹が風をはらんで真珠のように輝き、襟元の古典薔薇のレースと溶け合って、まるで朝の霧をそのまま縫い上げたかのような気品を放っていた。
「奥様……そのお召し物の生地は、もしかして……」
老婦人が、信じられないものを見るように膝行して近づき、震える指先でドレスの裾にそっと触れた。
「ええ。三日前、この村から見本として分けていただいた、あなた方の薄絹よ。ガルシア商会の番頭さんはこれを『コシのない二級品のくず布』とおっしゃったけれど、王都の熟練の縫い子が折り伏せ縫いで仕立て直せば、これほど軽やかで気品ある初夏の正装に生まれ変わるの。先日、私たちのドレスをご覧になった王妃陛下が開かれる次のお茶会では、きっと皆様がこれを『天女の羽衣』と呼んで絶賛なさるわ」
「わ、私たちの織った布が……王妃様のお茶会に……!?」
老婦人の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。後ろに座る若い娘や母親たちも、「私たちの細い糸は、くず糸なんかじゃなかったんだね……!」と手を取り合って声を詰まらせる。長年「二級品だ」と蔑まれ、削り取られてきた職人たちの誇りが、目の前の一着のドレスによって鮮やかに蘇った瞬間だった。
「ば、馬鹿な……! そんな仕立て方で誤魔化しても、うちの契約がある限り、この村の布は一反たりとも他へは渡さんぞ!」
焦った番頭が声を荒らげ、机の上の前貸し契約書を掲げた。
「見ろ! ここには『春の貸付金が完済されるまで、織り元が生産した絹布の優先買取権はガルシア商会にある』と明記されている! 今すぐ貸付金を全額返せない以上、すべてうちの言い値で引き取る権利があるのだ!」
「あら、その条文なら、私もよく存じておりますわ」
私は一歩前へ進み、クロエに革袋を机の上へ置かせた。ずしり、と金貨の重たい音が板の間に響く。
「『貸付金が完済されるまで』優先買取権があるのよね? だったら話は簡単だわ。この村の織り元さんたちが春にガルシア商会から借りた前貸し金と、今日までの正規の利息分――すべて今この場で、私たちの商会が新しい買い取り契約の『前払い手付金』としてお支払いし、あなた方へ全額一括返済いたします」
「なっ……なんだと!?」
「さらに、あなた方が『二級品の端切れ』として帳簿に記載していたこの薄絹を、私たちは本来の価値に見合う『特級品価格』――これまでの買い取り値の二倍の適正価格で、今後三年間、継続して買い取る契約を結ぶわ。秋冬には、織る前の細い生糸を肌着用の高級撚り糸としてそのまま買い取ります」
番頭の顔から、サーッと血の気が引いた。
「ま、待て! たとえ今日の借金を返しても、うちの商会を敵に回せば、大河の川舟にこの村の荷は一箱も載せさせんぞ! どうやって山奥から王都へ反物を運ぶ気だ!?」
「川舟なんざ、最初から頼んじゃいねえよ、番頭さん」
私の後ろから、運送屋の親方が太い腕を組んで前に出て、豪快に笑い飛ばした。
「この羽みたいに軽い薄絹なら、俺たち王都の運送組合の定期荷馬車に積んで、北東街道を陸路でまっすぐ王都まで運べる。毎週決まった曜日に俺たちがここまで直接引き取りに来るから、あんたたちの川舟の枠なんて一つも要らねえのさ!」
「り、陸路の荷馬車だと……!? しかし、他領の商人が勝手に村へ入り込むなど――」
「――勝手な入り込みではない。我が主、ヴェルネ子爵閣下の公式なご認可である」
最後に、ヴェルネ子爵家の家令が一歩進み出て、子爵の紋章が入った親書を番頭の目の前に突きつけた。
「子爵閣下は本日をもって、当領の山間部で織られる薄絹を『ヴェルネ領公式特産品』に指定し、クライス公爵夫人の商会との直接取引を全面的に推奨される。なお、今後いかなる商人であれ、正当な理由なく当領の職人に対して生糸や染料の不当な売り惜しみや取引妨害を行った場合、領主権限により当領内の街道および川港の通行手形をただちに剥奪するとの仰せだ!」
「つ、通行手形の剥奪……っ!?」
番頭は親書の紋章を見て、雷に打たれたように棒立ちになった。
ヴェルネ子爵領の街道を通れなくなれば、ガルシア商会はさらに北の交易都市との商路そのものを失うことになる。二級品と侮っていた山村の布を押さえ込もうとした結果、自分たちの本業の首を絞められる形になったのだ。
「……お、覚えておれ……! このこと、必ず本店の主人とローゼン侯爵様にご報告するからな……!」
番頭は真っ青な顔で未調印の契約書をかき集めると、手代たちを怒鳴りつけながら、逃げるように寄合い所から飛び出していった。
嵐のように番頭たちが去ったあと、寄合い所には静かな山の風と、信じられないような歓喜のざわめきが広がった。
「奥様……! 本当に、本当にありがとうございました……!」
白髪の老婦人を先頭に、織り元の女性たちが涙を流しながら深く頭を下げた。
「いいえ、お礼を言うのは私たちの方よ。あなた方がどんなに安く買い叩かれても、手を抜かずに美しい糸を紡ぎ、丁寧に織り続けてくださったからこそ、この『天女の羽衣』が生まれたのですもの。さあ、王妃陛下の茶会に間に合うよう、今織り上がっている反物を早速お譲りいただけるかしら?」
「はい! 蔵にある一番いい反物を、今すぐすべてお出しいたします!」
こうして私たちは、ガルシア商会の買い占めによる布不足の危機を乗り越えただけでなく、これまで誰も見向きもしなかった『極上の薄絹』の独占的な仕入れルートを、ヴェルネ子爵領との固い絆とともに手に入れたのだった。
翌日の夕方、親方の荷馬車いっぱいに積まれた真新しい薄絹の反物とともに王都の公爵邸へ戻った私を、玄関ホールで待っていたアレクシスが、周囲の目も憚らずに強く抱きしめてくれた。
「お帰り、エレオノーラ。ヴェルネ子爵から先ほど早馬が届いたぞ。見事な采配だったそうだな」
「ただいま、あなた。ええ、これで王妃陛下の茶会も、貴婦人方からのご注文も、これまで以上に素晴らしいドレスでお応えできるわ」
彼の胸の温もりに包まれながら、私は安堵の息を吐いた。
けれど、その夜遅く。
アレクシスの書斎へ、王宮のエドワード殿下から一通の密書が届いたことで、私たちはローゼン侯爵の次なる狙いを知ることになる。
「……エレオノーラ、これを見ろ」
アレクシスが差し出したエドワード殿下の手紙には、緊張感のある筆跡でこう記されていた。
『本日、ローゼン侯爵が王宮の典礼院を通じて、来週開かれる王妃主催の茶会に、隣国との交易を扱う王室御用達の老舗「オルバン服飾商会」の最新作を献上する手続きを取った。しかも侯爵は、東部の一級絹を買い占めたガルシア商会とオルバン商会を結びつけ、クライス家のドレスと同じ日に、王妃陛下の御前で「どちらが王室御用達に相応しいか」の品評を求めようとしている』
私は手紙から顔を上げ、ランプの炎を見つめた。
山間部の薄絹で私たちが生き残ったと知ったローゼン侯爵は、買い占めた東部の最高級の一級絹と、王都で百年の歴史を持つ王室御用達の老舗を使って、正面から私たちのドレスを品質と格式で叩き潰しにきたのだ。
「……いいわ、ローゼン侯爵。買い占めた一級品の絹と、私たちが織り元さんやエマたちと繋いだ『天女の羽衣』。どちらが本当に着る人を幸せにする服か、王妃陛下のお茶会で白黒つけさせていただきましょう!」
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