娘の初めての街歩きに、夫と二人で護衛につくのは過保護でしょうか?
春の王室園遊会が華やかな評判のうちに幕を閉じてから、十日あまりが過ぎた。
季節はすっかり暖かくなり、王立学園でも新しい学年が始まっている。前世の記憶を取り戻したあの日、「娘が断罪されるまであと三年」と指折り数えた時間は、いつの間にか一年が過ぎ、卒業パーティーまで残り二年となっていた。
もっとも、今のイザベラを見ている限り、悪役令嬢として破滅する影はどこにも見当たらない。
「――お母様、お父様。本当にこの装いで、街で浮いたりいたしませんでしょうか?」
休日の朝、公爵邸の玄関ホールに降りてきたイザベラは、少し緊張したように自分のスカート裾を確かめていた。
今日の彼女が着ているのは、私たちの工房で仕立てた淡いミントグリーンの街着用のワンピースに、ハルシュタイン領の小花レースを襟元にだけあしらった清楚な一着だ。プラチナブロンドの髪も華美な髪飾りはつけず、白いリボンで柔らかく束ねている。
「ええ、とてもよく似合っているわよ、イザベラ。春風みたいに爽やかだわ」
私が微笑んで太鼓判を押すと、イザベラはほっとしたように頬を緩めた。
今日、イザベラはエドワード殿下と一緒に、王都の商業地区とクロエ商会の工房へ「お忍びの視察」に出かけることになっている。園遊会のあと、エドワード殿下が「私たちが資料を集めて関わった法律が、実際の街や工房でどのように息づいているのか、イザベラと一緒に自分の目で見て学びたい」と正式に申し出てくださったのだ。
もちろん、王太子と公爵令嬢が二人きりで街を歩くわけにはいかない。目立たない私服姿の近衛騎士たちが周囲を固めるほか、私とアレクシスも「クロエ商会での定期打ち合わせ」という名目で同行することになっていた。
「しかし……本当に馬車を分けて乗る必要があるのか? 同じ馬車で商会の前まで乗りつければ済む話だろう」
私の隣で、外出用の落ち着いた外套を羽織ったアレクシスが、少し不服そうに眉を寄せた。
「だめよ、あなた。今日は視察とはいえ、あの子たちが初めて学園や王城の外で一緒に歩く大切な日なのよ。大通りの角から商会までの少しの間くらい、両親が同じ馬車で睨みを利かせるのではなく、若い二人だけで歩かせてあげなくては」
「睨みを利かせるつもりはない。ただ、街中は荷馬車も多いし、エドワード殿下がちゃんとイザベラをエスコートできるのかどうか……」
「ふふ、先週までの私よりもあなたの方がずっと過保護ね。大丈夫よ、私たちは少し後ろから、ただの買い物客のふりをして見守りましょう」
私が夫の腕を軽くつついて窘めていると、屋敷の前庭に紋章のない控えめな馬車が到着し、いつもよりずっと軽装のエドワード殿下が降り立った。白いシャツに深い緑のベストを合わせたその姿は、王太子というより品のいい裕福な商家の若旦那のようで、出迎えたイザベラが「まあ……」と小さく息を呑んで頬を染めたのが分かった。
「待たせたな、イザベラ。クライス公爵、公爵夫人、本日は同行をお許しいただきありがとうございます」
「いいえ、エドワード殿下。現場の職人たちも、お二人が来てくださるのをとても楽しみにしていますわ」
こうして私たちは二台の馬車に分かれ、午前の活気に満ちた商業地区へと向かった。
大通りの角で馬車を降りると、予定通り、イザベラとエドワード殿下が先を歩き、私とアレクシスは十歩ほど後ろから並んで石畳の道を歩いた。先日、私たちが二人きりでレストランへ向かったときと同じ道だ。
前を歩く二人は、最初は少しだけ緊張した様子で背筋を伸ばしていた。
王城の広い回廊や学園の中庭とは違い、商業地区の通りには焼き立てのパンの香りや果物売りの威勢のいい掛け声、そして買い物籠を提げた平民たちの笑い声が溢れている。イザベラは珍しいガラス細工の露店や、色とりどりの春の花を積んだ手押し車に目を輝かせ、エドワード殿下もまた、行き交う荷馬車の荷札や商店の看板を興味深そうに見つめていた。
そのとき、前方から布の反物を積んだ手押し車が賑やかに通りかかった。
「危ない、イザベラ」
エドワード殿下がとっさに一歩動き、イザベラを建物の壁側へと庇うようにして自分が通り側に立った。そして、ごく自然な仕草で自分の右手を差し出したのである。
「少し人通りが増えてきたな。はぐれるといけない、手をつないで歩こう」
春の風に乗って、少しだけ照れを含んだエドワード殿下の声が後ろの私たちにも届いた。
イザベラは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから耳の先までほんのりと桜色に染めて、自分の白い指先を彼の手に重ねた。
「……はい、エドワード様。先日の東屋でおっしゃってくださいましたものね。殿下のお隣は、わたくしの場所だと」
「ああ。街中でも、それは変わらないさ」
指先を絡めて寄り添い、顔を見合わせて微笑み合う二人。
そのあまりにも瑞々しく微笑ましい光景に、私は胸がいっぱいになって夫の袖を引いた。
「見て、あなた。あんなに自然に手をつないで……本当にいい雰囲気だわ」
「……少し距離が近すぎないか。まだ昼日中の往来だぞ」
「もう、お父様の顔になっているわよ。あの日、私を荷馬車から庇って手をつないでくださったのは、どこのどなただったかしら?」
私が悪戯っぽく見上げると、アレクシスは気まずそうに咳払いを一つして視線を逸らし、代わりに私の手をぎゅっと握りしめた。
「……あれとこれとは話が別だ」
「いいえ、ちっとも別ではありませんわ」
私たちがそんな会話を交わしているうちに、前を行く二人は、香ばしい甘い匂いが漂う小さな焼き菓子の屋台の前で足を止めていた。
イザベラが蜂蜜と林檎を焼き込んだ小さなタルトに目を留めたのに気づき、エドワード殿下が自分の懐から革の小銭入れを取り出したのだ。王太子である彼が、自分の手で銅貨を数えて店主に渡し、紙に包まれた温かいタルトを受け取ってイザベラへ差し出す。
「熱いから気をつけろ。半分ずつ食べよう」
「まあ、エドワード様が屋台でお買い物をなさるなんて……! ありがとうございます、いただきますわ」
白い包み紙の上から小さなタルトを二つに割り、一口かじったイザベラが「すごく甘くて美味しいですわ!」と目を細める。エドワード殿下も自分の分を口にし、口の端に少しだけついた砂糖の粉をイザベラに指摘されて真っ赤になりながら拭っていた。
王妃になることだけを義務として背負い、笑うことさえ忘れていたかつての娘が、今は愛する人と街角で一つの焼き菓子を分け合って笑っている。それだけで、ここまで走り続けてきたすべての苦労が報われるような気がした。
やがて二人は、目的地のクロエ商会へと到着した。
店舗の入り口の脇には、先日成立したばかりの法律に基づき、商業ギルド公認の『雇用・取引相談窓口および簡易台帳案内所』という真新しい木の看板が掲げられていた。
私とアレクシスも追いつき、出迎えてくれたクロエの案内で、店舗の奥にある工房へと足を踏み入れた。
そこには、窓から差し込む明るい日差しの中で、十数名の女性職人たちが大きな裁断台や 작업机を囲み、手作業で一針ずつ丁寧に布を縫い合わせる活気ある光景が広がっていた。ミシンのような機械はないけれど、型紙の規格化と役割分担が定着し、以前よりもずっと無駄のない美しい流れで作業が進んでいる。
「奥様、旦那様! それにイザベラ様、エドワード殿下まで……!」
襟元のレース付けを担当する机から、エマがぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
先月まで在宅での補修作業から再開していたエマだが、法律が施行され、商業ギルドの定期巡回が始まったことで夫の職場への懸念も完全に晴れ、今週から週に三日、この工房へ通って後輩たちの指導にも当たってくれていたのだ。エマの隣には、同じくあの三十人の退職者のうち、家庭の都合と安全が確認できて真っ先に復帰を果たした五人の元縫い子たちの笑顔もあった。
「エマさん、皆さん。お仕事の最中にごめんなさいね。今日はエドワード殿下とイザベラが、ぜひ皆さんの働く様子を見たいと申して伺ったのよ」
私が紹介すると、エマたちは慌てて前掛けを整え、深く頭を下げた。
エドワード殿下は作業机の上に広げられたハルシュタイン領のレースと、横に置かれた『簡易賃金・雇用台帳』に目を留め、穏やかな声で尋ねた。
「これが、委員会で議論した簡易台帳ですね。実際に現場で使ってみて、記入の手間や不便はありませんか?」
「はい、殿下! 数字と印を書くだけですので、文字があまり得意でない者でもすぐ慣れました」
エマは胸を張り、イザベラとエドワード殿下を交互に見つめて言った。
「それに、お二人が王宮の古い記録や地方のご令嬢方のお手紙から、私たちのような小さな工房の実態を調べて議会へ届けてくださったと、奥様から伺いました。もし『五十人以上』という制限がついていたら、この工房も、地方でレースを編む人たちも守られないところでした。私たちがこうしてもう一度、仲間と一緒に太陽の下で針を持てるようになったのは、殿下とイザベラ様のおかげです!」
他の縫い子たちからも、「本当にありがとうございます」「娘も新しい靴を履いて、毎日元気に駆け回っております!」と次々に感謝の声が上がった。
エドワード殿下は、針仕事で少し硬くなったエマたちの指先と、その誇らしげな笑顔を見つめ、深く胸を打たれたように息を呑んだ。
「……王宮の書庫で羊皮紙の束をめくっていたときは、ただ必死だった。だが、あの数字の向こうには、これほど確かな技術と笑顔があったのだな」
彼は隣に立つイザベラを振り返り、静かに、しかし強い決意を込めて頷いた。
「来てよかったよ、イザベラ。議会の法律が誰のためにあるのか、私は今日、初めて本当の意味で理解できた気がする」
「ええ、わたくしもですわ、エドワード様。皆さまの縫い目の一つ一つが、この国の宝物ですもの」
若い二人が職人たちと温かい言葉を交わす姿を見届けたあと、私たちは事業全体の状況を確認するため、クロエの案内で二階の事務室へと上がった。
事務室には、ちょうど定期巡回の報告に来ていた商業ギルド長のハインツも待っていた。
テーブルの上に広げられた注文帳を見た私は、その数字の多さに目を見張った。
「まあ……春の園遊会のあと、こんなにご注文が増えたの?」
「はい。王妃陛下が『内々の茶会でも紹介したい』とおっしゃってくださったことが社交界中に広まりまして、これまで保守派に遠慮していた伯爵家や子爵家の奥様方からも、ハルシュタイン領のレースを使った春夏のドレスの仕立て依頼が殺到しているのです」
商売としては、これ以上ないほどの追い風だった。
ところが、報告するクロエの琥珀色の瞳にも、隣に座るハインツの顔にも、なぜか手放しで喜ぶような色は浮かんでいなかった。
「……クロエ? 注文が増えているのに、何か問題でも起きているの?」
私の問いに、クロエはハインツと視線を交わし、重い口を開いた。
「はい、奥様。実は……ハルシュタイン領のレースは順調に届いているのですが、肝心のドレスの土台となる『上質な絹布と細番手の綿布』の在庫が、来月の半ばにも底をつきそうなのです」
「布が底をつくですって? 先日、小規模な生産者さんたちを束ねた代替の仕入れ網を整えたばかりでしょう?」
「ええ。普段の街着の分なら、今の小規模な織り元さんたちの仕入れ網でなんとか回せておりました。ですが、今回の園遊会を機に貴婦人方からの大口注文が一気に増えたことで、小さな織り元さんたちの手織り機だけでは生産が追いつかなくなってしまったのです」
そこへハインツが、険しい表情で一枚の報告書を差し出した。
「しかも奥様、単なる生産能力の限界だけではございません。ここ一週間ほど、東部の三つの商業都市において、不穏な動きが出ております」
「東部の商業都市で……?」
「はい。これまでクロエ商会へ布を卸してくれていた東部の小規模な織り元数軒から、『申し訳ないが、来月からはクロエ商会へ布を回せなくなった』と相次いで連絡が入りました。理由を調べさせたところ、東部三都市の市場を牛耳る大手卸商組合が、地元の織り元たちに対して『王都のクロエ商会と直接取引を続けるなら、うちが独占している上質な生糸や染料を今後一切売らないし、来期の買い取り契約も打ち切る』と通告して回っているようなのです」
事務室の空気が、一気に張り詰めた。
「……ローゼン侯爵ね」
アレクシスが低く呟いた。
「議会で『働く女性への不当な就労妨害』は法律で封じられ、社交界でもベアトリス夫人が敗れた。だから今度は、法律の規制対象外である『原料の卸売と商取引の契約』という純粋な経済の力を使って、私たちの事業の喉元である東部の布供給そのものを完全に締め上げにきたか」
私は唇を噛んだ。
確かに、先日成立させた法律は「労働者が働くことを第三者が妨害する行為」を禁じるものであり、商人が「誰に原料の糸を売り、誰から布を買い取るか」という商取引の自由まで強制することはできない。
東部の三都市は、もともとローゼン侯爵家の経済的な牙城だ。私たちが王都の議会と社交界で勝利を収めたことで、侯爵は本気で私たちの服飾事業を「原料切れ」によって立ち枯れさせようと動いてきたのである。
「もし来月、王妃陛下の茶会や貴婦人方からいただいたご注文のドレスが『布がなくて仕立てられません』ということになれば……せっかく築いたクライス公爵家の商会への信用は地に落ち、エマさんたちの仕事も再び止まってしまいますわ」
イザベラが危機感を滲ませて言い、エドワード殿下も真剣な眼差しで地図の上の東部三都市を見つめた。
「王都の中で待っているだけでは、この包囲網は破れないな」
「ええ、その通りよ、エドワード殿下」
私は立ち上がり、窓の向こうに広がる東の空を見据えた。
これまで私たちは、王都の工房、王都の議会、王都の社交界で戦ってきた。けれど、エマたちが安心して針を動かし続けられる未来を本当に盤石なものにするためには、いよいよ敵の経済の本拠地である『東部三都市』の商流そのものに踏み込まなければならない。
「クロエ、ハインツ殿。東部三都市のどの卸商が糸と染料を握っているのか、そして現地の織り元さんたちが今どんな条件で縛られているのか、今日中に詳しい資料を揃えてちょうだい」
「はい、奥様!」
せっかくの穏やかな街歩きの休日に、またしても大きな壁が立ちはだかった。
けれど、私の隣には頼もしい夫がいて、目の前には今日の視察で「働く人々の笑顔」を胸に刻んだイザベラとエドワード殿下がいる。
「ローゼン侯爵が商売の力で勝負を挑んでくるのなら、受けて立ちましょう。王妃陛下の茶会までに、東部の布の道を必ず私たちの手で切り開いてみせますわ!」
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