ローゼン侯爵夫人。その見慣れないとおっしゃったレースは、三日前にあなたが絶賛された王妃陛下ゆかりの紋様ですわ
春の王室園遊会を三日後に控えた夜、王立劇場の大ホールは、巨大な水晶のシャンデリアが放つ眩い光と、着飾った貴族たちの熱気に包まれていた。
今夜上演されているのは、王家の春の祝祭に合わせて毎年開かれる『奉納特別公演』である。二階の正面に設けられた王室専用の特別席には王妃陛下が座られ、そのすぐ隣の特等席には、ローゼン侯爵の妻であるベアトリス夫人が、保守派の貴婦人たちを従えるようにして扇を広げていた。
私は少し離れたクライス公爵家のボックス席から、隣に座る夫のアレクシスとともに舞台を見下ろしていた。
やがて第三幕の鐘が鳴り、深紅の緞帳がゆっくりと上がる。
舞台の中央に立った主演女優のセシリア・ベルに照明が当たった瞬間、客席のあちこちから「まあ……!」という感嘆の吐息が漏れた。
古代王朝の王女を演じるセシリアが纏っていたのは、夜空を思わせる深い藍色の絹のドレスだった。金糸や宝石を過剰に縫い付ける従来の重苦しい舞台衣装とは異なり、身体の線を美しく見せながら、舞台の上を舞うように動ける立体的な裁断を施してある。そして何より観客の目を奪ったのは、その胸元から袖口、さらに長く引くトレーンの裾にかけて惜しみなくあしらわれた、雪のように白い精緻なレースだった。
セシリアが朗々とした声で台詞を紡ぎながら一歩踏み出すたび、手作業で編まれた立体的な薔薇の紋様が燭台の光を透かし、まるで本物の白薔薇が舞台の上で咲き誇っているかのように浮かび上がる。
「……見事だな、エレオノーラ」
隣で舞台を見つめていたアレクシスが、低い声で囁いた。
「ハルシュタイン領の職人たちが復刻した百年前のレースと、君の工房の縫い子たちの技術が、ここまで美しく噛み合うとは」
「ええ。エマたちが夜遅くまで、一針ずつ魂を込めて縫い付けてくれたの。それに、セシリアの立ち居振る舞いがドレスに命を吹き込んでくれているわ」
幕が下りると、劇場全体が割れんばかりの拍手に包まれた。
その後の幕間の休憩時間、私がアレクシスの腕に手を添えて二階のロビーへ出ると、シャンパングラスを手にした貴婦人たちの輪の中心で、ベアトリス・ローゼン夫人が誇らしげに語る声が聞こえてきた。
結い上げた銀髪に大粒の真珠を飾ったベアトリス夫人は、まさに伝統的な貴族社会の権威を体現したような女性だった。
「――ご覧になりまして? 先ほどの第三幕でセシリア嬢が纏っていた衣装の白レース。私の目に狂いがなければ、あれは百年前の王妃陛下がことのほか愛された、古典薔薇の紋様ですわ」
取り巻きの夫人たちが「さすがはローゼン侯爵夫人、よくご存じですこと」「ええ、息を呑むほど高貴な編み目でしたわね」と口々に相槌を打つ。
ベアトリス夫人は満足そうに扇を揺らし、少し離れた場所にいる私に気づいたのか、ちらりと冷ややかな視線を投げかけてから声を張り上げた。
「近頃は、どこの馬の骨とも知れない商人が作る、簡素で安っぽい仕立ての服を『新しい流行』などともてはやす向きもあるようですけれど……やはり王室の行事に相応しいのは、ああした由緒正しい伝統の手仕事ですわ。歴史の重みを知らない者に、本当の気品など作れるはずがございませんもの」
周囲の保守派の夫人たちが、扇で口元を隠してくすくすと笑った。
この舞台衣装を王立劇場の衣装方へ納めたのがクロエ商会であり、私たちの工房が仕立てたものだとは、まだ公表していない。ベアトリス夫人は、自分の審美眼を誇示するあまり、これから自分が攻撃しようとしている相手の作品を、王妃陛下のすぐそばで高らかに褒めちぎってしまったのだ。
私は反論する代わりに、アレクシスと静かに目配せをして微笑んだ。
舞台の照明は、これで完璧に整った。
そして三日後の午後。
雲ひとつない青空の下、王城の南庭園で『春の王室園遊会』が幕を開けた。
白大理石の噴水が陽光に煌めき、咲き誇る色とりどりの薔薇と緑の芝生の上に、白い天幕がいくつも張られている。招かれた高位貴族や学園の上級生たちが華やかに談笑する中へ、私たちクライス公爵家はエドワード殿下、マーガレット伯爵令嬢、そしてリリアナとともに足を踏み入れた。
「少し緊張するかしら、イザベラ」
庭園へ続く階段を降りながら尋ねると、私の隣を歩くイザベラは、プラチナブロンドの髪を春風に揺らして凛と微笑んだ。
「いいえ、お母様。だってこのドレスには、ハルシュタイン領の職人さんたちやエマさん、それにマーガレット様やリリアナ様、皆の想いが織り込まれているのですもの。どんな宝石のドレスより誇らしいですわ」
イザベラのすぐ隣を歩くエドワード殿下も、澄んだ空色のドレスに身を包んだ婚約者を、眩しそうな、そしてどこか独占欲を滲ませた優しい瞳で見つめていた。
「ああ。今日の君は、庭園のどの花よりも美しいよ、イザベラ。胸を張って歩こう」
「……っ、ありがとうございます、エドワード様」
私たちが庭園の中央へ進むと、周囲の貴族たちの視線が一斉に集まった。
今日、私とイザベラ、そしてマーガレットとリリアナが纏っているのは、従来の夜会服のように重たい鯨骨のコルセットや過剰な宝石で身体を締めつけるドレスではなかった。柔らかな絹と上質な麻を重ね、歩くたびに春風をはらんで優美に揺れる軽やかなシルエット。そしてその襟元と袖口、スカートの裾には、あのハルシュタイン領の『古典薔薇紋様』の白レースが、それぞれのドレスの色合いに合わせて気品高くあしらわれていた。
すると、中央の大きな天幕の前から、深紅の重厚なドレスを纏ったベアトリス・ローゼン夫人が、十数名の保守派の夫人や令嬢たちを引き連れて、ゆっくりと私たちの前へ進み出てきた。その後ろには、先日学園でエドワード殿下に近づいたソフィア伯爵令嬢の姿もある。
「ごきげんよう、クライス公爵夫人、イザベラ様。それにエドワード殿下も」
ベアトリス夫人は完璧な礼をとったあと、閉じた扇の先で私たちの装いを上から下までなぞるように見つめ、憐れむような笑みを浮かべた。
「まあ……。本日の王室園遊会にも、ご自身の商会で扱っておられる『実用服』とやらでお越しになりましたのね。議会で働く平民のための法律を通されたばかりですから、その宣伝も兼ねていらっしゃるのでしょうけれど」
夫人のよく通る声が、周囲の貴族たちの足を止めさせた。
「重たい装飾を省いて動きやすくされたのかもしれませんが、伝統と格式を重んじる王城の庭園には、いささか簡素すぎて街の商家の娘の晴れ着のようにも見えますわ。特にその袖口や胸元のレース……機械や型紙で量産されたのかしら、ずいぶん見慣れない、変わった編み方をしておりますこと。王太子殿下の隣に立たれるお方が、そのような伝統のない間に合わせの装いでいらっしゃるのは、王家の威信にも関わるのではございませんか?」
庭園の空気が、ぴりりと張り詰めた。
ソフィア嬢をはじめとする保守派の令嬢たちが、「やはり公爵夫人の商会の服は、王室の場には相応しくありませんわね」と言わんばかりに冷ややかな視線をイザベラへ集中させる。
かつてのイザベラなら、大勢の前で「王太子殿下の隣に相応しくない」と貶められれば、屈辱で顔を歪めるか、怒りに任せて言い返していたかもしれない。
けれど、今のイザベラは違った。
彼女はスカートを握りしめることも、視線を落とすこともなく、エドワード殿下の隣で一歩前へ出ると、澄み切った青い瞳でベアトリス夫人をまっすぐに見つめ返した。
「ローゼン侯爵夫人。わたくしたちのドレスのレースに目を留めていただき、ありがとうございます。ですが、こちらは型紙で量産した間に合わせの品ではございませんわ」
イザベラの凛とした声が、噴水の水音に乗って周囲へ響いた。
私は娘の隣に並び、穏やかな微笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「ええ、ベアトリス夫人。夫人がこのレースを『見慣れない、伝統のない編み方』とおっしゃったのは、少しばかり意外でしたわ。なぜならこちらは――つい三日前の夜、王立劇場の奉納特別公演で夫人がご覧になり、『百年前の王妃陛下が愛された古典薔薇の紋様だ、近頃の安っぽい流行り物とは格が違う』とロビーで絶賛していらっしゃった、あの舞台衣装とまったく同じ職人たちが編んだレースなのですから」
「……なっ……!?」
ベアトリス夫人の顔から、余裕の笑みが凍りついたように消え去った。
周囲の貴婦人たちが「えっ、三日前のセシリア・ベルの衣装と?」「確かあの夜、ローゼン侯爵夫人が一番熱心に褒めていらっしゃったわよね……」と一斉にざわめき始める。
そこへ、イザベラの隣に控えていたマーガレットが、ハルシュタイン伯爵家の令嬢としての誇りを胸に一歩進み出た。
「わたくしからもご説明させていただきます、ローゼン侯爵夫人。このレースは、我がハルシュタイン伯爵領に百年以上前から伝わる王妃陛下ゆかりの『古典薔薇紋様』でございます。あまりに高度な手作業を要するため一度は途絶えかけておりましたが、クライス公爵夫人の法案によって働く環境が守られた領地の女性職人たちが、感謝と誇りを込めて当時の編み図から復刻いたしました」
マーガレットは自分の袖口のレースにそっと指を添えた。
「そして、それをこれほど動きやすく優美なドレスへと仕立て上げたのは、クライス公爵夫人の工房と、王都で暮らす熟練の縫い子の方々の手仕事です。……わたくしの父、ハルシュタイン伯爵も、領地の伝統がこのように新しい形で蘇ったことを心から誇りに思っておりますわ」
「そ、そんなはずは……あれは王立劇場の衣装方が用意した古来の品では……」
ベアトリス夫人が初めて言葉を詰まらせ、扇を持つ手をわずかに震わせた、そのときだった。
「――いいえ、クライス公爵夫人とマーガレット嬢の言う通りですよ、ローゼン侯爵夫人」
凛とした、気品あふれる声が庭園の空気を揺らした。
周囲の貴族たちが慌てて道を開け、一斉に深く頭を下げる。侍女たちを伴って白薔薇のアーチの下から歩み出てこられたのは、エドワード殿下の母君である王妃陛下その人だった。
「お、王妃陛下……!」
蒼白になったベアトリス夫人が慌てて膝を折る中、王妃陛下は穏やかな笑みを浮かべて私たちの前へと進まれた。
「エドワードから事前に報告を受け、今朝の衣装目録も確認して楽しみにしていました。三日前の舞台でセシリア嬢が纏っていた衣装も、今日あなた方が着ているドレスも、すべてクライス公爵夫人の商会がハルシュタイン領の職人たちと手を携えて仕立てたものですね」
王妃陛下はイザベラの袖口のレースにそっと目を留められ、心から感嘆したように頷かれた。
「重苦しい装飾で着る者を縛るのではなく、織り手と縫い手の確かな技術によって、これほど軽やかで気品ある正装を生み出すとは見事です。……ねえ、ローゼン侯爵夫人。あなたも三日前の劇場では、私のすぐ隣の席で『やはり百年前の王妃が愛した伝統の手仕事は、歴史の重みと気品が違う』と、それは熱心に褒めておられたでしょう? まさか三日経ったからといって、同じ職人が編んだ同じ紋様のレースが、急に下品に見えるようになったわけではありますまい?」
逃げ場のない、しかしどこまでも優雅な王妃陛下の問いかけだった。
庭園中の視線が、ベアトリス夫人に突き刺さる。もしここで「やはり下品だ」と言い張れば、三日前に王妃陛下の前で語った自分の審美眼が嘘だったと認めることになり、さらには百年前の王妃ゆかりの紋様とハルシュタイン伯爵家の面目を同時に泥に塗ることになる。
ベアトリス夫人は、唇を固く噛みしめ、白粉の下の頬をわなわなと震わせた。
そして数秒の沈黙のあと、彼女は絞り出すような声で深く頭を下げた。
「……め、滅相もございません、王妃陛下。日差しの加減で見誤っておりましたが……近くで拝見すれば、なるほど、三日前の舞台と同様に、誠に由緒正しく見事な手仕事でございますわね……」
保守派の社交界の頂点に君臨していた夫人が、大勢の貴族たちの前で自ら非を認め、私たちのドレスを称賛せざるを得なくなった瞬間だった。
「ええ、そうでしょうとも。エドワード、それにイザベラ嬢」
王妃陛下は向き直り、並んで立つ若い二人を慈愛に満ちた眼差しで見つめられた。
「あなた方が学園で、リリアナ嬢やマーガレット嬢たちと力を合わせ、地方の産業や働く人々のために熱心に学んでいたこともすべて聞いています。ただ古いしきたりに従うだけでなく、何がこの国の人々を幸せにするのかを自分の頭で考え、行動できることこそ、次代の王家に求められる真の気品です。……クライス公爵夫人、今度私が開く内々の茶会にも、ぜひその職人たちのレースや仕立て服を紹介してちょうだい」
「身に余る光栄にございます、王妃陛下。職人たちも、どれほど励みになるか分かりません」
私とイザベラが揃って深く礼をとると、王妃陛下の言葉を引き金にしたかのように、周囲の貴婦人たちの態度が手のひらを返したように一変した。
「まあ、王妃陛下のお墨付きですわ!」「クライス公爵夫人、ぜひ我が家の娘のドレスもご相談させてくださいませ」「ハルシュタイン領のレース、あんなに涼やかで美しいなら夏の夜会にもぴったりですわね!」
先ほどまで遠巻きに様子を窺っていた夫人たちが、我先にと私やマーガレット、そしてリリアナの周りへ集まってくる。ベアトリス夫人とソフィア嬢は、その華やかな歓声の輪から押し出されるようにして、誰にも気づかれないうちに静かに天幕の奥へと姿を消していった。
園遊会が盛況のうちに終盤を迎えた頃、私は押し寄せる夫人たちへの応対をクロエの手控えとマーガレットの母君であるハルシュタイン伯爵夫人に少しだけ手伝っていただき、一息つくために庭園を見渡せる白いバルコニーへと足を向けた。
そこにはすでにアレクシスが待っており、私の姿を見ると、冷たい果実水のグラスを差し出してくれた。
「お疲れ様、エレオノーラ。議会に続いて、社交界の正面舞台でも見事な勝利だったな」
「ええ。でも、今日一番輝いていたのは私ではなくて、あの子たちよ」
私はグラスを受け取り、バルコニーの手すりから眼下の薔薇園へと視線を向けた。
噴水の近くでは、エドワード殿下とイザベラ、そしてリリアナとマーガレットが、若い令息や令嬢たちに囲まれて楽しそうに語り合っていた。
リリアナが自分のドレスの袖口のレースを見せながら縫い子たちの丁寧な仕事ぶりを誇らしげに話し、マーガレットが領地の歴史を補足する。そしてその中心で、イザベラは誰かを蹴落とすためではなく、周囲の人々の良さを引き出すために、太陽のように明るく穏やかな笑顔を咲かせていた。
時折、エドワード殿下がイザベラの耳元に何かを囁き、イザベラがほんのりと頬を染めて彼を見上げる。その姿には、王妃陛下から正式に認められた婚約者としての気品と、互いを信頼し合う恋人同士の瑞々しい幸福感が溢れていた。
「……あの子が十三歳のとき、初めての舞踏会で作ってあげた青いドレスを、布の封鎖を乗り切るために差し出してくれた日のことを覚えているわ」
私は手すりに指先を添え、懐かしさで胸を熱くしながら呟いた。
「あのときは、娘の大切な思い出のドレスを犠牲にしてしまったようで、母親として胸が痛かった。けれど、あの一着から始まった小さな一歩が、エマたちの暮らしを守り、地方の伝統を蘇らせ、今日こうして王妃陛下にまで祝福される新しいドレスになってイザベラのもとへ帰ってきたのね」
隣に立つアレクシスが、私の肩をそっと引き寄せ、その髪に優しく唇を触れた。
「すべて、君が諦めずに蒔き続けた種が咲かせた花だ。……ローゼン侯爵夫妻も、これでしばらくは正面からクライス家に手を出すことはできまい」
「ええ。……でも、油断はしないわ」
私は庭園の出口の方角を見つめた。
議会で法案が通り、学園の嫌がらせの芽を摘み、社交界の園遊会でも勝利を収めた。私が前世の記憶を取り戻したときに恐れていた「イザベラが孤立して悪役令嬢になる未来」は、今や大きく書き換えられつつある。
けれど、ローゼン侯爵という老獪な政治家が、これで完全に力を失ったわけではない。そして、私たちの服飾事業と新しい流通網が王都から地方へと本格的に広がっていけば、そこにはまた新しい課題や、まだ見ぬ試練が待ち受けているはずだ。
「どんな壁が現れても、今の私たちなら大丈夫よ。ね、あなた」
「ああ。どこまでも一緒に行こう、エレオノーラ」
春の陽射しを浴びて煌めく噴水の向こうで、イザベラの澄んだ笑い声が響く。
悪役令嬢の母として始まった私の挑戦は、社交界の春を鮮やかに染め上げ、いよいよ次なる大きな季節へと歩みを進めようとしていた。
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