悪役令嬢の筋書きをなぞりたいのなら、舞台の照明はこちらで用意いたしますわ
休日の午後、クライス公爵邸の中庭に面したサロンには、華やかな春の空気と少しばかりの緊張感が同居していた。
テーブルを囲んでいるのは、私とイザベラ、エドワード殿下、リリアナ、マーガレット伯爵令嬢、そして商会のクロエ。さらに今日は、もう一人特別な客人を招いていた。
「お久しぶりです、クライス公爵夫人、イザベラ様。こうしてまたお声をかけていただけて光栄ですわ」
艶やかな黒髪を揺らし、部屋がぱっと明るくなるような笑顔で一礼したのは、王都で一番の人気を誇る平民出身の女優、セシリア・ベルだった。以前、私たちの服飾事業を立ち上げた際、舞台衣装や街着の広告塔として評判を広げてくれた立役者である。
「忙しいところを来てくれてありがとう、セシリア。来月の『春の奉納特別公演』でも主役を務めるのでしょう?」
「ええ。春の王室園遊会の三日前に、王立劇場で上演される古代王朝の演目です。王妃陛下をはじめ、ベアトリス・ローゼン夫人たち高位貴族の奥様方が最前列でご覧になる舞台ですから、今から気が引き締まる思いですよ」
セシリアの言葉に、マーガレットが少し心配そうに眉を寄せた。
「そのベアトリス夫人のことでございますが……。先日、母が出席したお茶会で、夫人がずいぶん強い口調でお話しになっていたそうなのです。『議会でどんな法律が通ろうと、王室の園遊会は伝統と格式を重んじる場。平民の作業着を作るような商会の服で出席する方がいれば、どれほど見劣りするか教えて差し上げましょう』と……」
保守派の重鎮であるローゼン侯爵が議会で一歩引いた分、妻のベアトリス夫人は、自分の庭である社交界で私たちの鼻を明かすつもりなのだろう。
「しかも、学園ではリリアナ様の教科書や栞を動かして、イザベラ様が嫌がらせをしているように見せかける誰かが潜んでいます。もし園遊会の当日やその直前に、お二人の衣装や持ち物にまで悪戯をされたら……」
リリアナが不安そうに胸元を押さえると、エドワード殿下が静かに、しかし力強い声で言った。
「だからこそ、受け身で待つわけにはいかない。園遊会を迎える前に、学園の中で暗躍している者の尻尾を確実に掴んでおく必要がある」
「ええ。そして同時に、ベアトリス夫人が掲げる『伝統と格式』という言葉を、正面から覆す準備も進めましょう」
私は微笑み、マーガレットが今日、ハルシュタイン伯爵家の書庫から持ってきてくれた古い木箱に視線を向けた。
「マーガレットさん。お父上が持たせてくださったという品を見せていただけるかしら?」
「はい、公爵夫人!」
マーガレットが木箱の蓋を開けると、中から黄ばんだ羊皮紙の編み図と、息を呑むほど精緻な白レースの見本が現れた。
「こちらは百年ほど前、当時の王妃陛下にも献上されていたハルシュタイン領の『古典薔薇紋様』のレースですわ。あまりに手間がかかるため近年は途絶えかけていたのですが、今回の法案成立に感激した領地の熟練の職人たちが、当時の編み図を元に手作業で復刻してくれたのです」
「まあ……なんて気品のある編み目なの!」
セシリアとクロエが同時に感嘆の声を上げた。
「ベアトリス夫人は、私たちの服を『伝統を知らない商人の服』と批判なさりたいのでしょう。だったら、セシリア。あなたが三日前の奉納公演で着る王女の舞台衣装に、この百年前の古典紋様レースと、私たちの工房の動きやすい立体裁断を取り入れてもらえないかしら?」
私の提案に、セシリアの瞳がきらりと輝いた。
「なるほど! 平民の私がいきなり園遊会へ出席することはできませんが、その三日前の王立劇場の舞台なら、ベアトリス夫人たちの目の前で披露できますわね。劇場の貴婦人方に『なんて高貴で伝統的な衣装なの』と先に絶賛させておいてから、園遊会の当日にイザベラ様たちが同じ伝統紋様のドレスで現れれば……」
「ええ。自分たちが三日前に褒めちぎった王家ゆかりの伝統レースを、園遊会の席で『下品だ』と貶すことはできなくなるわ」
クロエが「さっそくエマたち一番腕のいい縫い子を集めて、手作業で仕立てに入ります!」と力強く頷いた。
これで社交界の表舞台への仕掛けは決まった。残るは、学園の舞台裏で「イザベラを悪役令嬢に仕立て上げようとしている犯人」の炙り出しである。
「――それにつきましては、セシリアさん。ぜひプロの女優としての知恵をお借りしたいのです」
身を乗り出したのは、イザベラだった。
「学園の控え室には、規則によって各家の侍女や使用人は立ち入れません。つまり、リリアナ様の教科書や栞を動かしたのは、間違いなく同じ控え室を使っている生徒の誰かですわ。その人物に『今度こそイザベラがリリアナに嫉妬して手を出すはずだ』と信じ込ませ、こちらの用意した罠に誘い込むための演技を教えていただきたいのです」
セシリアは扇を口元に当て、楽しそうに目を細めた。
「悪役令嬢の筋書きをなぞりたい黒幕のために、こちらで舞台の照明と小道具を用意してあげるというわけですね。気に入りましたわ」
セシリアは立ち上がり、イザベラとリリアナの間に歩み寄った。
「いいですか、お二人とも。悪意を持って他人を観察している人間というのは、大げさな口喧嘩よりも、『仲良く振る舞おうとしているのに、思わず漏れてしまった小さな不機嫌』を本物だと信じ込みます。たとえば、リリアナ様が『クライス公爵夫人から、園遊会用の特別な扇をいただいたの』と嬉しそうに話した瞬間――イザベラ様は笑顔のまま、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、自分のスカートをぎゅっと握りしめてみてください」
私はハッとした。それは第36話まで、イザベラが本当に寂しさや嫉妬を我慢していたときの癖そのものだった。
「わたくしの昔の癖を、あえて見せるのですわね」
「ええ。普段は仲直りしたように見えても、お母様の愛情や園遊会の主役の座を奪われることにはまだ嫉妬しているのだ――そう相手に思わせれば、犯人は必ずその『特別な扇』を使って、イザベラ様を陥れようと動きます」
さらにクロエが、鞄から小さなガラス瓶と、美しい組紐を取り出した。
「では、そのおとりの扇を入れる小箱には、商会の仕掛けを施しておきましょう。箱の飾り紐は、エマが得意とする『二重花結び』で縛っておきます。これは熟練の職人にしか結べない特殊な形ですから、誰かが一度ほどいて結び直せば一目で分かります。そして箱の内側と扇の骨には、東部の交易都市から届いたばかりの希少な『白檀香油』を染み込ませておきますわ。無色透明ですが、一度指先につくと、石鹸で洗っても二日は独特の甘い香りが消えません」
「素晴らしいわ。犯人がリリアナさんの小箱を開けて扇に細工をし、それをイザベラの荷物の近くに隠そうとすれば、結び目と指先の香りの両方が動かぬ証拠になるわね」
エドワード殿下も深く頷き、「当日の控え室周辺の動線と、言い逃れのできない立ち会いは私とマーガレット嬢で手配しよう」と引き受けてくれた。
かつてのゲームのように、娘が濡れ衣を着せられて孤立するのをただ怯えて待つのではない。私たちは万全の網を張り、週明けの学園へとその小箱を送り出した。
そして三日後の火曜日。
公爵邸の執務室で、エマから届いたばかりの園遊会用ドレスの仮縫いを確かめていた私のもとへ、学園からイザベラとエドワード殿下、そしてマーガレットとリリアナの四人が揃って戻ってきた。
「ただいま戻りました、お母様!」
扉を開けたイザベラの声は晴れやかで、エドワード殿下の手には、白いハンカチに包まれた例の『おとりの小箱』が握られていた。
「お帰りなさい、みんな。……その様子だと、舞台の幕は無事に下りたようね?」
「はい! セシリア様に教えていただいた通り、昨日の昼休みに控え室で、わたくしがリリアナ様の小箱を見て少しだけ冷たい態度をとるお芝居をいたしましたの。そうしましたら今日の放課後、合同練習のために私どもが講堂へ出ている間に、見事に罠がかかりましたわ」
イザベラとマーガレットが、交互にその鮮やかな顛末を報告してくれた。
練習が終わって生徒たちが控え室へ戻ると、リリアナがロッカーにしまっていたはずの小箱が消えていた。すると、保守派のソフィア伯爵令嬢の取り巻きであるクラリス子爵令嬢が、「まあ、イザベラ様の控え机の後ろに、何か落ちていますわ!」と真っ先に声を上げたという。
引き出された小箱の中では、レースの扇が無惨に引き裂かれていた。
クラリス嬢とソフィア嬢が「やはりイザベラ様が、お母様の作られた扇をリリアナ様が持っていることに嫉妬して壊されたのではありませんこと!?」と周囲の令嬢たちの前で騒ぎ立てようとした――まさにその瞬間、廊下で待機していたエドワード殿下と作法担当の女教師が室内へ入った。
「まず、イザベラは練習が始まる前から終了まで、一歩も私の隣を離れていない。控え室に戻って細工をする時間など物理的に存在しないことを、私と教師が証明した」
エドワード殿下が、落ち着いた声で続きを語った。
「そのうえで、マーガレット嬢が小箱の飾り紐が『職人の二重花結び』から不器用な蝶結びに変わっていることを指摘し、さらに私が『この箱の中の扇には、触れた者の手から二日間消えない東部の希少な香油が塗られている。今ここで、誰の手から同じ香りがするか確かめさせてもらおう』と告げたのです」
「まあ……それで、どうなったの?」
「クラリス様が、お顔を真っ青にして自分の右手を背中に隠されましたの」
マーガレットが静かに引き取った。
「わたくしがすぐお隣に立っておりましたので、クラリス様の袖口と、ポケットから覗いていたハンカチから、箱とまったく同じ白檀の甘い香りが漂っているのがはっきりと分かりました。女教師の先生がそのハンカチを改められると、観念したようにその場で泣き崩れられましたわ」
私は胸を撫で下ろし、深く息を吐いた。
「……第21話でリリアナさんの教科書を隠したのも、先日の栞を動かしたのも、そのクラリス嬢だったのね?」
「はい。別室で教師と私だけで事情を聴いたところ、すべて自分がやったと認めました」
エドワード殿下の表情が、わずかに厳しく引き締まった。
「クラリス嬢の実家である子爵家は、ローゼン侯爵系の商会から多額の融資を受けており、返済に窮していたようです。そんな折、ソフィア嬢や保守派の夫人たちが茶会で『イザベラ嬢が昔のように嫉妬で問題を起こして婚約が白紙になれば、保守派の家門が王太子妃を出せるのに』と話しているのを聞き、自分が二人の仲を裂いて手柄を立てれば、実家の借金を猶予してもらえるのではないかと考えて暴走した、と」
「なんてこと……。誰かに直接命じられたわけではなくても、大人たちの無責任な噂話と政治的な思惑が、一人の少女にそんな愚かな真似をさせていたのね」
ゲームの強制力などではなかった。イザベラがかつて孤独で張り詰めていた頃のイメージを利用し、自分の家の利益のために「悪役令嬢の筋書き」を再現しようとした人間の弱さが、すべての正体だったのだ。
「クラリス嬢の処遇はどうなさったの?」
「彼女が書いた自白書と証拠のハンカチは、王太子直轄の記録として私が封印しました。今回だけは学園からの退学は免除する代わりに、今後もし誰かの指図や思惑でイザベラやリリアナ嬢に指一本でも触れる者が現れれば、クラリス嬢の件も含めて『王太子の婚約者に対する組織的な害意』とみなし、背後にいる家門ごと厳罰に処すと、ソフィア嬢たちの前ではっきり申し渡しました」
エドワード殿下の凛とした言葉に、私は心から感嘆した。
ただ末端の少女一人を切り捨てて終わるのではなく、自白書を握ることで、背後にいるソフィア嬢や保守派の令嬢たちが二度と学園内で小細工をできないよう、完璧な楔を打ち込んだのだ。
「ありがとう、エドワード殿下、マーガレットさん、リリアナさん。そしてイザベラも、よく冷静にやり遂げたわね」
「皆さまが一緒に舞台を作ってくださったおかげですわ、お母様。もう学園で、わたくしたちの背中を脅かす影はどこにもございません」
イザベラはリリアナやマーガレットと顔を見合わせ、エドワード殿下の隣で誇らしげに微笑んだ。
私は立ち上がり、執務室の奥のトルソーに掛けられていた白い布を、ふわりと引き上げた。
そこに現れたのは、ハルシュタイン領の百年前の『古典薔薇紋様』のレースをふんだんにあしらい、エマたち職人が一針ずつ魂を込めて縫い上げた、目を見張るほど優美で気品あふれる三着のドレスと、セシリアの舞台衣装だった。
「まあ……っ、なんて美しいのでしょう……!」
令嬢たちの瞳が、宝石を見るように一斉に輝いた。
「学園の舞台裏のお掃除は、あなたたちの手で完璧に終わったわね。――さあ、次は王立劇場の特別公演、そしてベアトリス・ローゼン夫人がお待ちかねの『春の王室園遊会』よ。私たちの誇りと絆がどれほど美しく輝くか、社交界の真ん中で見せて差し上げましょう!」
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