法案が通ったからといって、社交界のお茶会まで味方になったわけではありませんわ
貴族院で就労妨害を規制する法律が成立してから、二週間が過ぎた。
公爵邸の温室に面したサロンには、春の柔らかな陽光とともに、色とりどりの布地と繊細な白レースが広げられていた。
「ご覧ください、奥様。ハルシュタイン領の職人さんたちが編んだ小花レースを、エマたち在宅の縫い子さんが襟元にあしらった春物の新作です。まだ数は少ししか仕立てられませんが、お店に出した途端に問い合わせが相次いでいるんですよ」
クロエが誇らしげに掲げた淡い若草色のドレスは、一針ずつ手作業でかがられた縫い目が美しく、清楚な気品に満ちていた。地方の小さな工房と王都の職人たちの手を繋いだ新しい流通の仕組みが、確かな形になり始めている。
「本当に素敵だわ。これなら街の裕福な商家の方々だけでなく、若いご令嬢方にも喜んでいただけるわね」
私が袖口のレースに指先を触れさせたとき、サロンの扉が開き、登城前の礼装に身を包んだアレクシスが入ってきた。
彼はクロエに軽く労いの言葉をかけて下がらせると、私のすぐ隣へ歩み寄り、誰もいない室内で私の腰をそっと抱き寄せた。
「朝からいい顔をしているな、エレオノーラ。……だが、あまり根を詰めすぎるなよ。今夜も一緒に夕餉をとる約束だろう」
「ええ、忘れてなどいませんわ。あなたが毎朝そうやって釘を刺してくださるから、屋敷の使用人たちが目を丸くしていますのよ?」
私が少し照れながら見上げると、アレクシスは青い瞳を甘く細め、私の額に落とすような軽い口づけをくれた。二十年のすれ違いを取り戻すように深まった夫婦の時間は、今も変わらず穏やかな熱を保っている。
けれど、アレクシスはすぐに表情を少しだけ引き締め、懐から金色の封蝋が押された一通の書状を取り出した。
「今朝、王宮の典礼院から届いた。『春の王室園遊会』の招待状だ」
「春の園遊会……。もうそんな季節ですのね」
受け取った厚手の羊皮紙には、王家の紋章とともに、来月王城の庭園で開かれる恒例の園遊会の案内が記されていた。
「議会での戦いは私たちの勝利で終わったが、この園遊会を取り仕切る婦人方の中心は、ローゼン侯爵の妻――ベアトリス夫人だ。侯爵自身は本会議で綺麗に矛を収めてみせたが、保守的な貴族夫人たちの社交界は別腹だろう。平民の働く服を広め、伝統的な家の秩序に口を出した公爵夫人として、君やイザベラに冷たい風を当ててくる可能性がある」
「ええ、覚悟はしているわ。法案が通ったからといって、社交界のお茶会まで一夜で味方になったわけではありませんもの」
貴族の社会では、議会の法律と同じくらい、茶会での噂や「格式」という名の同調圧力が人を縛る。ベアトリス・ローゼン夫人は、まさにその伝統の頂点に座る女性だった。
そしてその日の夕方、私の懸念はもう一つの方向から現実味を帯びることになる。
「――お母様、少しお時間をいただいてもよろしくて?」
学園から帰宅したばかりのイザベラが、私の執務室を訪ねてきた。プラチナブロンドの髪を整えた娘の表情には、以前のような怯えこそないものの、どこか深く考え込むような真剣な色が浮かんでいた。
「どうしたの、イザベラ。学園で何かあった?」
「はい。実は、春の園遊会には学園の上級生や婚約者のいる令嬢たちも招かれることになっておりまして、今日から礼儀作法の合同練習が始まったのです。その控え室で、少し奇妙なことがございましたの」
イザベラは向かいの椅子に腰を下ろし、声を落として続けた。
「練習の合間に、リリアナ様が『園遊会の招待状に添えるはずだった、エドワード殿下からいただいた栞が見当たらない』と探していらしたのです。ところがその直後、マーガレット様が控え室の隅――わたくしの鞄が置かれていた椅子のすぐ下の床に、その栞が落ちているのを見つけてくださいましたの」
私の指先が、ピクリと止まった。
「あなたの鞄の下に……?」
「ええ。幸い、他の方が気づく前にマーガレット様が拾い上げて、わたくしと一緒にリリアナ様へお渡ししたので、騒ぎにはなりませんでした。リリアナ様も『私がうっかり落としてしまったのですね、ありがとうございます』と笑ってくださったのですが……」
イザベラは青い瞳をまっすぐに私へ向けた。
「お母様。リリアナ様の鞄とわたくしの席は、部屋の反対側にあるほど離れておりました。うっかり落としたものが、自然にわたくしの椅子の下まで転がっていくはずがございません。……先月の、リリアナ様の教科書がなくなったときと同じですわ」
背筋に、冷たい氷を滑らせたような感覚が走った。
第21話で起きた、リリアナの教科書紛失事件。前世の『乙女ゲーム』では、嫉妬に狂ったイザベラがリリアナの私物を隠したり捨てたりして、エドワードから決定的に嫌われるきっかけになるはずのイベントだった。
今のイザベラはリリアナと親しい友人になり、エドワードとも心を通わせている。イザベラがそんな嫌がらせをする理由など微塵もない。
それなのに、まるで「イザベラがリリアナを虐めている」という筋書きを無理やり作り出そうとするかのように、同じ構図の出来事が繰り返されているのだ。
「イザベラ、よく気づいて、冷静に対処したわね。マーガレットさんも本当に頼もしいわ」
「はい。エドワード様にも帰りの馬車の前でお話ししましたら、『誰かが私と君、そしてリリアナ嬢の間を裂こうとしているなら、決して見過ごせない』と、学園内の出入りを調べてくださることになりました」
私は机の上の園遊会の招待状を見つめながら、思考を巡らせた。
ゲームの強制力などという曖昧な言葉で片づけてはいけない。そこには必ず、イザベラの評判を落とし、王太子との婚約に傷をつけようとする「生身の誰かの意図」があるはずだ。議会で敗れた保守派の思惑か、それとも先日エドワードに近づいたソフィア嬢のような学園内の人物か。
「イザベラ。来月の春の園遊会は、ベアトリス夫人を筆頭に、私たち母娘が王太子妃と公爵夫人として相応しいかどうか、社交界の厳しい目が集まる場所になるわ」
「ええ、存じております。きっと、わたくしたちの服飾事業を『商人の真似事だ』と蔑む方々もいらっしゃるはずですわ」
「だったら、その園遊会を私たちの新しい舞台にしてしまいましょう。陰で誰かの私物を動かすような卑怯な手が二度と通用しないくらい、堂々とね」
私は引き出しの奥から、ある人物への手紙を取り出した。かつて私たちの事業を王都中に広めるきっかけを作ってくれた、平民出身の女優セシリア・ベルからの近況報告の手紙だ。
「法律の次は、社交界の空気そのものを変える番よ。ハルシュタイン領のレースと、私たちの新しいドレスがどれほど誇り高いものか、ベアトリス夫人たちのお茶会の真ん中で見せて差し上げましょう」
母と娘で視線を交わし、私たちは力強く頷き合った。三年後の断罪の影を完全に消し去るための、華やかで激しい社交界の戦いが幕を開けようとしていた。
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