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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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マーガレット様。お父上を裏切れとは申しません。ただ、明日のお席へいらして

 専門委員会での勝利から六日が過ぎ、いよいよ明日に貴族院本会議での最終採決を控えた午後のことだった。

 公爵邸の執務室で最終弁論の原稿を見直していた私の前へ、クロエがひとつの柳の籠を大事そうに抱えて入ってきた。

「奥様。南区画のエマから、最初の仕上がりの品が荷馬車で届きましたよ」

「まあ、もう縫い上がったの?」

 私が羽根ペンを置いて立ち上がると、クロエは籠の中から丁寧に畳まれた数着のブラウスと、修繕を終えた子供服を取り出して机の上に広げた。

 先日、運送業者の親方が「うちの若い衆の女房が作ったものを運ぶのは正規の商売だ」と胸を張って引き受けてくれた、あの最初の在宅仕事である。

 手に取って袖口や襟元を確かめた私は、思わず感嘆の息を漏らした。手作業で一針ずつ縫われた縫い目は驚くほど均一で美しく、ほつれていた箇所には、補強を兼ねて清楚な白い小花のレースが絶妙なバランスで縫い付けられていた。ただ直すだけでなく、着る人が前よりもっとその服を好きになるような、職人の誇りと優しさがこもった仕事だった。

 籠の底には、小さく折られたメモが添えられていた。

『奥様、クロエ様。親方の荷馬車のおかげで、夫の勤め先にも誰にも知られることなく、安心してお仕事を仕上げることができました。娘が横で「お母さんの縫う服はきれいだね」と笑ってくれたのが嬉しくて、夢中で針を動かしました。本当にありがとうございます――エマ』

「……良かった。本当に良かったわね、クロエ」

「ええ。これなら一番厳しいお客様にお出ししても、喜んでお買い上げいただけます。親方からも『どこの荷主からも文句は出ていねえ、次の布地もいつでも積んでやるぞ』と伝言を預かっておりますよ」

 エマの小さな長屋に灯った希望の光が、私の胸を温かく満たしていく。

 けれど、その穏やかな空気を破るように執務室の扉がノックされ、外出先から戻ったばかりのアレクシスが険しい面持ちで入ってきた。

「あなた、お帰りなさい。貴族院の様子はどうだったかしら?」

 外套を脱ぐのももどかしそうに机のそばへ歩み寄ったアレクシスは、低い声で告げた。

「ローゼン侯爵が、最後の最後に老獪な手を打ってきたぞ、エレオノーラ」

「最後の手段……?」

「ああ。侯爵は明日の本会議で、法案の中身に反対するつもりはないらしい。五十人制限も実名条件も委員会で論破された以上、正面から条文を攻撃しても勝てないと見切ったのだろう。その代わり、明日の冒頭で『採決先送りの動議』を出すよう、保守派と一部の中立派に根回しを進めている」

 私とクロエは同時に息を呑んだ。

「採決の先送り……つまり、継続審議という名目で法案を棚上げにするつもりなのね。でも、どんな理由で?」

「『地方領主の伝統的な自治権との兼ね合い』だ」

 アレクシスは苦々しげに眉間を寄せた。

「侯爵は、地方に領地を持つ伯爵や子爵たちにこう吹き込んでいる。『商業ギルドの荷馬車を使って王都の中央窓口が直接地方の相談を集めるようになれば、やがて王都の商人と役人が領内の工房を勝手に監査し、領主の裁判権や徴税権まで侵食するようになるぞ。地方への影響を調べるため、採決は次の議会期まで半年見送るべきだ』とな」

 背筋に冷たいものが走った。

 ローゼン侯爵らしい、実に巧妙でいやらしい罠だった。「女性を保護するな」と言えば世論の反発を買うが、「地方領主の権限を守るために慎重に議論しよう」と言えば、自分の領地に口を出されたくない中立派の領主たちは簡単に靡いてしまう。もし明日、先送りの動議が可決されて半年も棚上げにされれば、せっかく盛り上がった商業ギルドの熱気も世論の関心も冷め、エマのような女性たちはまた暗い不安の中へ置き去りにされてしまう。

「現在の票読みはどうなっているの?」

「賛成派と先送り派で、ほぼ真っ二つに割れている。エドワード殿下が国王陛下に委員会の報告を上げてくださったおかげで、王家に近い議員たちは原案賛成で固まっているが……勝敗の鍵を握っているのは、地方に伝統的な特産品工房を持つ七名の穏健保守派の領主たちだ。その中心にいるのが、ハルシュタイン伯爵――イザベラの友人である、マーガレット嬢の父君だ」

 アレクシスがその名を口にした、まさにそのときだった。

 控えめなノックの音とともに執事が姿を現し、少し緊迫した声で告げた。

「奥様、お嬢様のお客人でございます。ハルシュタイン伯爵家のマーガレット様が、人目を忍ぶようにして裏門からお見えになり、どうしてもお二人にお話ししたいことがある、と」

 中庭に面した小応接室へ案内されたマーガレット伯爵令嬢は、学園からそのまま駆けつけてきたのか、いつも美しく整えている巻き髪がわずかに乱れ、顔色は白い陶器のように蒼白だった。

「突然お邪魔して申し訳ございません、クライス公爵夫人、イザベラ様……」

「どうぞおかけになって、マーガレット様。手がこんなに冷たいですわ」

 学園から戻っていたイザベラが、マーガレットの両手を自分の手で包み込むようにしてソファへ座らせ、温かい紅茶のカップを差し出した。

 マーガレットはカップを両手で握りしめたまま、しばらく震える唇を噛んでいたが、やがて決心したように顔を上げた。

「……実は、先ほど屋敷へ一度戻りました折、父の書斎からローゼン侯爵様のお使いの方が出てこられるのを見かけたのです。その後、父は親しい地方領主の方々へ手紙を書き始めました。『明日の本会議では、クライス家の法案そのものには反対せず、採決を半年先送りする動議に賛成しよう』と……」

 やはり、アレクシスの掴んだ情報通りだった。

 マーガレットの大きな瞳から、悔しさと苦しみが入り混じった涙がぽろりと零れ落ちた。

「父は、決して冷酷な人間ではございません! 領地の民を愛し、ハルシュタイン領の誇りを守るために毎日遅くまで働いている、わたくしの自慢の父なのです。けれど、ローゼン侯爵様から『このまま法案が通れば、王都のギルドが領内の職人を直接支配するようになり、領主の威信が失われる』と説かれ、領地を守るために先送りしかないと思い詰めてしまっていて……」

 彼女はイザベラを見つめ、すがるような声で続けた。

「わたくし、どうすればよいのか分からなくなってしまいました。先日、イザベラ様のお茶会で『家庭を守る生き方も、外で働く生き方も、自分の意思で選べることが大切だ』と教えていただき、領地でレース編みをする女性たちのことをお手紙に書きました。あのお手紙が委員会の資料になったせいで、父がローゼン侯爵様から責められているのではないかと……わたくし、父を苦しめるようなことをしてしまったのでしょうか」

 保守派の家庭に生まれ、伝統的な家族の絆を何よりも大切にしてきた少女が、父への愛と、自分が正しいと信じた良心の間で引き裂かれそうになっていた。

 私が言葉をかけるより先に、隣に座っていたイザベラが、マーガレットの肩をそっと抱きしめた。

「いいえ、マーガレット様。あなたが書いてくださったお手紙は、誰かを傷つけるためではなく、あなたの領地で美しいレースを編む女性たちの誇りを教えてくれた、とても大切なお手紙ですわ」

 イザベラの声は、驚くほど落ち着いていて、凛とした温かさに満ちていた。

「わたくしも、お父様とお母様を心から愛し、誇りに思っております。ですから、マーガレット様がお父上を悪く言われたくないお気持ちも、お家を裏切りたくないお気持ちも、痛いほど分かりますわ」

「イザベラ様……」

「マーガレット様。お父上を裏切れとは申しません。お父上と戦う必要など、どこにもないのです」

 イザベラは私の顔を振り返り、信頼に満ちた青い瞳で頷いて見せた。

 娘がマーガレットの心をしっかりと受け止めてくれたことを確かめ、私はテーブルの向かいから穏やかに口を開いた。

「イザベラのおっしゃる通りよ、マーガレットさん。ハルシュタイン伯爵がローゼン侯爵の言葉に耳を傾けていらっしゃるのは、伯爵がご自分の領地と、そこで暮らす人々を本気で守ろうとしていらっしゃる証拠ですもの」

「え……? 公爵夫人、父を責められないのですか?」

「ええ、ちっとも。だって、地方の事情も知らない王都の役人や商人が勝手に領内へ踏み込んできて秩序を乱すかもしれない、と言われたら、責任感の強い領主様ほど警戒なさるのは当然のことだわ」

 私は執務室から持ってきた一枚のブラウス――先ほどエマが仕上げて届けてくれたばかりの、袖口に白い小花のレースがあしらわれた一着をテーブルの上に広げた。

「これを見てくださる? この袖口に使われているレースに見覚えはなくて?」

 マーガレットは涙に濡れた目を瞬かせ、その繊細な編み目に指先を近づけた。

「これ……わたくしのハルシュタイン領の村で、冬の間におかみさんたちが編んでいる小花模様のレースですわ! どうしてここに……?」

「先日、クロエが地方の小規模な生産者から直接買い付けた端切れよ。そして、それをこんなに美しくブラウスの袖に縫い付けたのは、以前、不当な圧力で私たちの工房を辞めざるを得なかったものの、今週から自宅で安全に針仕事を再開できた一人の母親なの」

 マーガレットが息を呑み、その美しい縫い目を食い入るように見つめた。

「ローゼン侯爵は、私たちの法律が『領主の権限を奪う』とおっしゃったそうね。けれど、事実はまったく逆なのよ。マーガレットさん、あなたの領地で女性たちがせっかく美しいレースを編んでも、今は一部の大きな仲買商に安く買い叩かれたり、『他の商会へ売るなら夫の荷運びの仕事を減らす』と脅されたりして、お父上の耳に入る前に泣き寝入りしているケースがあるのではないかしら」

「っ……それは、領地の古い庄屋から、似たような噂を聞いたことがございます。父もそれを嘆いておりましたが、証拠が出ないため手が出せないと……」

「そうでしょう? つまり、今現在、お父上の目の届かないところで領民を苦しめ、領主の秩序を乱しているのは、私たちの法案ではなく『不当な圧力をかける一部の仲買商や有力者』なのよ」

 私はあわせて、一枚の分かりやすい図面と試算書をマーガレットの前へ差し出した。

「私たちの法案では、地元の領主様が公正に治めていらっしゃる地域において、領主様の権限を奪うようなことは一切しないわ。むしろ、商用荷馬車で集まった相談や簡易台帳の記録は、不当な圧力をかけている者と利害関係がない限り、領主様の監査役とも共有して、悪質な仲買商を排除するために使っていただくことができるの」

 私は試算書の数字を指先で示した。

「先日の二週間の物流試験でも、間の不透明な滯りをなくすことで輸送費は約六パーセント下がり、納品の遅れも三分の一に減ったわ。もしハルシュタイン領のレース職人さんたちが、不当な脅しに怯えることなく、適正な価格で王都の私たちの工房とも取引できるようになれば……職人さんたちの暮らしが潤うだけでなく、ハルシュタイン領の特産品としての名声が高まり、お父上が受け取られる正規の市場税収も確実に増えることになるわ」

 マーガレットの瞳に、見る間に強い光が戻ってきた。

「法律を作ることは、お父上の誇りを奪うことではありません。お父上が大切にしていらっしゃる領地の職人たちを、お父上のお力をもっと強くして守っていただくための『盾』なのですわ!」

「ええ、その通りよ。だから今夜、お父上を論破しようとしなくていいの。ただ、娘としてこのレースのブラウスと試算書をお見せして、『お父様が守ってこられた領地のレースが、この法律によってどれほど誇らしく輝くか、明日の議場で確かめてほしい』とお伝えしてみてくださらないかしら」

 イザベラがマーガレットの手をもう一度ぎゅっと握り、微笑んだ。

「マーガレット様。お父上を裏切れとは申しません。ただ、明日のお席へいらして。お父上には貴族院の議席へ、そしてマーガレット様には、わたくしと一緒に傍聴席へいらしてほしいのです。わたくしたちの世代がどんな未来を信じているのか、お父上のお背中を一緒に見守りましょう」

 マーガレットは、イザベラの手と、テーブルの上のレースのブラウスを交互に見つめた。

 やがて彼女は、自分の手で頬の涙をしっかりと拭い去り、貴族令嬢としての凛とした背筋を伸ばして立ち上がった。

「……ありがとうございます、クライス公爵夫人、イザベラ様。わたくし、目が覚めましたわ。父を愛しているからこそ、父にローゼン侯爵様の言葉だけで判断を誤ってほしくありません」

 彼女はブラウスと試算書を胸に抱きしめ、力強く頷いた。

「今夜、必ず父と向き合って話してみます。外で働く女性を守ることは、わたくしの大好きな母や、父が守ってきたハルシュタインの家門の誇りを傷つけることではないと、わたくし自身の言葉で伝えてまいりますわ!」

 マーガレットを乗せた馬車が夕暮れの街へと走り去っていくのを、私とイザベラは屋敷の玄関先からいつまでも見送った。

「……立派になったわね、イザベラ」

 冷たい夕風の中で私がぽつりと呟くと、隣に立つ娘は少し照れたようにプラチナブロンドの髪を耳にかけた。

「お母様のおっしゃることを真似しただけでございますわ。……でも、マーガレット様のお気持ちが、わたくしには本当によく分かりましたの。大切な人を想う気持ちは、きっと一番強い力になりますもの」

「ええ。本当にそうね」

 かつて孤独の中で誰かを羨み、悪役令嬢として断罪されるはずだった少女が、今は保守派の家に生まれた友人の涙を拭い、その家族の絆まで守ろうとしている。その横顔がどれほど頼もしく、美しいか、きっと本人はまだ半分も気づいていないのだろう。

 夜になり、最後の手回しを終えて屋敷へ戻ってきたアレクシスに一部始終を話すと、彼は驚きつつも満足そうに目を細めた。

「ハルシュタイン伯爵は、筋を通す男だ。政治家の駆け引きの言葉には警戒しても、愛娘が領地の職人のために持ってきた実物と数字なら、必ず目を通すだろう」

「では、明日の票は……」

「それでも、蓋を開けてみるまでは分からん。ローゼン侯爵も今夜、必死で切り崩しに動いているはずだからな」

 アレクシスは窓の外に広がる王都の夜景を見つめ、私の肩をそっと引き寄せた。

「だが、私たちはやれることをすべてやった。あとは明日、議場の全員の前で、私たちの信じる未来を示すだけだ」

「ええ。……楽しみだわ、あなた」

 私は夫の胸に少しだけ身を預け、遠く王城と貴族院の塔が浮かぶ夜空を見上げた。

 三十人の縫い子たちが流した涙、エマが縫った白いレース、商人と親方たちが走らせる荷馬車、そして娘たちが繋いだ新しい世代の手。

 すべての想いを乗せた貴族院本会議の朝が、もうすぐそこまで迫っていた。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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