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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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殿下。わたくし、今でも少しだけ焼き餅を焼いておりますのよ?

第一専門委員会での採決を終えた日の午後、私の馬車は白い尖塔がそびえる王立学園の正門をくぐっていた。

 アレクシスは来週の本会議に向け、委員会の決定を中立派の重鎮たちへ直接伝えて回るため貴族院に残っている。私は夫婦で手分けをする形で、エドワード殿下からお借りしていた王宮の地方行政資料の控えを返却し、あわせて委員会通過の報告をするため、学園側の許可を得て訪問していた。

 放課後の静かな校舎を抜け、中庭へと続く白い石造りの回廊を歩いていたとき、前方から分厚い参考書を二冊抱えた少女が歩いてくるのが見えた。

「まあ……クライス公爵夫人!」

 足を止めて丁寧に膝を折ったのは、男爵令嬢のリリアナだった。柔らかく波打つ栗色の髪と、飾り気のない誠実な瞳。かつて私たちが知る『乙女ゲーム』の筋書きでは、娘のイザベラと王太子を巡って激しく対立するはずだった少女である。

「ごきげんよう、リリアナさん。そんなに重そうな本を抱えて、図書室帰りかしら?」

「はい。イザベラ様とエドワード殿下に頼まれまして、地方の古い商業慣習に関する本を探しに行っていたところです」

 リリアナは本を抱え直し、親しい友人の母親に接するような温かい笑顔を見せた。第21話の教科書紛失事件でイザベラが彼女を助けて以来、二人は身分や立場を越えて一緒に机を並べる仲になっている。

「二人は今、中庭の東屋にいると聞いたのだけれど、このまま向かっても邪魔にはならないかしら」

「ええ、もちろんです! お二人も、今日の委員会の結果を今か今かと待っていらっしゃいましたから。……ただ、その……」

 そこまで言って、リリアナはふと言葉を濁し、回廊の柱の影で周囲を窺うように声を落とした。

「どうかして? イザベラに何かあったの?」

「実は、私が図書室へ行く少し前に、東屋へソフィア伯爵令嬢がいらしたのです。ソフィア様のお父上は、その……ローゼン侯爵様に近いお立場の方だと伺っております」

 私の胸の奥が、わずかにざわめいた。

「ソフィア様が、エドワード殿下に何か?」

「はい。イザベラ様がすぐ目の前にいらっしゃるのに、殿下のすぐお隣に立たれて、『クライス公爵家の急進的な法案などに関わられては、殿下のお立場に傷がつくのではないかと皆が案じておりますわ。わたくしなら、難しい理屈など申さず、いつでも殿下のお心を安らげて差し上げられますのに』と、ずいぶん親しげにお話しになって……」

 リリアナは本当に心を痛めている様子で、眉を下げた。

「殿下は波風を立てないよう、穏やかに受け流して帰されたのですが……ソフィア様が去られたあと、イザベラ様が何も言わずにずっとうつむいてしまわれて。お二人で話し合われた方がよいかと思い、私は本を探しに席を外してきたのです。奥様が行かれるのでしたら、そのことをお伝えしておいた方がよいかと思いまして」

「……教えてくれてありがとう、リリアナさん。とても助かったわ」

 礼を言ってリリアナと別れた私は、資料を入れた鞄を胸に抱きしめたまま、中庭へと続く小道を少しだけ早足で歩いた。

 来週の本会議を前に、ローゼン侯爵に近い保守派の家門が、エドワード殿下とクライス家の間に揺さぶりをかけてきたのだろう。それ自体は政治の世界ではよくある牽制にすぎない。

 けれど、私の胸を締めつけたのは別の不安だった。

 かつてイザベラが悪役令嬢への道を歩みかけた一番の原因は、エドワードの隣で微笑む他の女性の存在と、それを見て傷つきながらも「完璧な王太子妃候補」の仮面を被って自分の本音を押し殺し続けたことだった。創設祭の夜に二人が和解への一歩を踏み出したとはいえ、何年も抱えてきた孤独や痛みが、そう簡単に消えてなくなるはずがない。

 温室の脇を抜けると、手入れの行き届いた白薔薇の生垣の向こうに、白い柱の東屋が見えてきた。

 私はいきなり声をかけるのをためらい、娘の様子を確かめるために生垣の影でそっと足を止めた。

 午後の柔らかな陽射しが降り注ぐ東屋の中で、イザベラとエドワードは丸テーブルを挟んで向き合っていた。テーブルの上には、昨日まで二人が頭を突き合わせて調べていた地方産業の控えが広げられている。

「――先ほどのソフィア嬢の話だが、気にするな、イザベラ」

 静かな風に乗り、エドワードの少し硬い声が届いた。

「彼女の父君は貴族院でも保守派の重鎮だ。今日の専門委員会の結果が出る前に、私がどこまでクライス家の法案に肩入れしているのか、腹を探りに来ただけにすぎない。私がその場で強く突き返せば、かえって君の母上の法案に余計な反発を招くと思って当たり障りなく応対したが、他意はないんだ」

 王太子としては、これ以上ないほど冷静で正しい判断だった。

 だが、向かいに座るイザベラは、プラチナブロンドの髪を揺らしてゆっくりと顔を上げると、まるで絵画のように整った、非の打ちどころのない微笑みを浮かべた。

「ええ、分かっておりますわ、殿下。どうぞお気になさらないでくださいませ。王太子殿下がどの家門のご令嬢にも穏やかに接せられるのは、公務として当然のことですもの。わたくしが口を挟むようなことではございませんわ」

 その声を聞いた瞬間、私の背筋がひやりと冷たくなった。

 半年前のイザベラと、まったく同じ声だったからだ。

 生垣の隙間から目を凝らすと、テーブルの下に置かれたイザベラの両手が、自分の青いスカートの布地を白くなるほどぎゅっと握りしめ、かすかに震えているのが見えた。彼女は幼い頃から、寂しさや嫉妬を我慢するとき、いつもああやってドレスの裾を握りしめて笑顔を作る癖があった。

(イザベラ……)

 今すぐ生垣の向こうへ飛び出して、あの小さな肩を抱きしめてやりたい衝動が喉元までせり上がった。

 けれど、私は自分の靴底を石畳に縫い止めるようにして堪えた。ここで母親の私が割り込んで空気を変えてしまえば、二人はまた本音を飲み込み、綺麗な建前の後ろへ隠れてしまう。娘が自分の人生を選び取るためには、この痛みも、この沈黙も、彼女自身の言葉で乗り越えなければならなかった。

 東屋の中では、イザベラのよそよそしい微笑みを受けたエドワードが、目に見えて表情を曇らせていた。

「……そうか。公務として当然のこと、か」

 エドワードは視線を落とし、自嘲するように小さく息を吐いた。

「君はいつもそうだな。私が誰に何を言われても、他の令嬢が隣に立っても、君は何とも思わないというわけか」

 エドワードが椅子から立ち上がり、テーブルの上の資料を片付けようと手を伸ばした。

 かつて二人が何年も繰り返してきた、不器用なすれ違い。互いに傷つくのを恐れて仮面を被り、相手は自分を必要としていないのだと決めつけて距離を置いてしまう、あの冷たい空気が東屋を包みかけた――その瞬間だった。

「……お待ちになって!」

 イザベラが椅子を鳴らして立ち上がり、資料を引こうとしたエドワードの上着の袖口を、自分の両手で必死に掴んだ。

「イザベラ……?」

 驚いて振り返ったエドワードの前で、イザベラはうつむいたまま、震える声で叫ぶように言った。

「う、嘘を申しましたわ、殿下! 創立祭の夜に、もう殿下の前で完璧な婚約者を演じるのはやめるとお約束したのに……また、格好をつけて嘘をついてしまいました……!」

 イザベラが顔を上げた。

 その白い頬は、耳の先端まで真っ赤に染まり、大きな青い瞳には今にも零れ落ちそうな涙の粒が光っていた。

「政治的な探りだと、頭ではちゃんと分かっております! わたくしがお母様の法案をお手伝いしたせいで、殿下にまで保守派の方々から冷たい風が吹いていることも、殿下がわたくしたちを守るために穏やかに受け流してくださったことも、全部、分かっておりますの!」

 彼女はエドワードの袖口を握りしめたまま、一度大きく息を吸い込み、これまで誰にも見せなかった十五歳の少女の心をそのままぶつけた。

「……けれど、他のご令嬢が殿下のすぐお隣で、『自分なら殿下のお心を安らげて差し上げられる』などと親しげに微笑んでいらっしゃるのを見たら……今でも、胸の奥がチクリと痛んで、すごく、すごく嫌でしたの! 殿下のお隣はわたくしの場所なのに、どうしてあんなふうに言われなければならないのかと、悔しくてたまらなかったのです! わたくし、ちっとも物分かりの良い、寛大な婚約者になんてなれておりませんわ……っ!」

 言い終えたイザベラは、自分の口から出た言葉のはしたなさに怯えたように肩をすくめ、ぎゅっと目を閉じた。

 かつて『王太子妃として完璧でなければならない』と家庭教師に叱られ、感情を殺すことを覚えた少女にとって、自分の醜いかもしれない嫉妬や独占欲を言葉にして相手にさらけ出すことは、崖から飛び降りるほどの勇気がいることだったはずだ。

 私は生垣の影で、息をするのも忘れてエドワードの反応を見守った。

 一拍、二拍の沈黙が落ちた。

 エドワードは目を丸くしてイザベラを見つめていたが――次の瞬間、彼の整った顔が、首筋から耳の先まで見る間に真っ赤に染まった。そして、どうしようもないほど嬉しそうに、少年のような笑顔が口元に広がったのである。

「……殿下?」

 恐る恐る目を開けたイザベラの手を、エドワードは自分の両手でそっと、けれど逃がさない強さで包み込んだ。

「ようやく言ってくれたな、イザベラ。……君がそうやって私に焼き餅を焼いてくれるのを、私がどれほど待っていたか分かるか?」

「え……? お、お怒りにならないのですか? わたくし、公爵令嬢にあるまじき、心の狭いことを申しましたのに……」

「怒るものか。君に『何とも思っていない』と完璧な笑顔で突き放される方が、よほど胸が抉られるようだった」

 エドワードは深く息を吐き、少し照れたように視線を揺らしながらも、イザベラの瞳をまっすぐに見つめ返した。

「君が正直に話してくれたのに、私だけ黙っているのは不公平だから、私からも白状しよう。……先日の茶会でのことだ」

「茶会、でございますか?」

「ああ。君が招いたご令嬢や令息たちの前で、君が自分の言葉で堂々と意見を語り、誇らしげに微笑んでいたとき……私は君の婚約者として鼻が高かったと同時に、内心では気が気ではなかったんだ」

 エドワードの声が、少しだけ熱を帯びて低くなる。

「『まずいことになったぞ。私の婚約者がこんなにも聡明で、こんなにも愛らしい女性だと、他の男たちに気づかれてしまう』と、茶会の間じゅう、一人で勝手に焦って焼き餅を焼いていた」

「まあ……っ、殿下が、わたくしに……?」

「当たり前だ。君が他の令息と親しそうに言葉を交わしているのを見るだけで、私だって胸がざわつく。だから、今日ソフィア嬢が近づいてきたときも、君がどんな顔をしているか本当は気になって仕方がなかったんだ。不安にさせて悪かった、イザベラ」

 エドワードはイザベラの指先を優しく引き寄せ、その白い手の甲に、誓いを立てる騎士のようにそっと唇を落とした。

「誰が何と言おうと、私が心を安らげたいと思う相手も、隣で笑っていてほしい相手も、あの日、王城の庭で白い花冠を編んでくれた君ただ一人だ。これからは、胸がチクリとしたら、いつでもその場で私の袖を引っ張ってくれ。……君の隣は、君だけの場所なのだから」

「……っ、はい……! エドワード様……!」

 イザベラの瞳から、涙が一粒こぼれ落ち、それと同時に、春の花が一斉にほころぶような眩しい笑顔が咲いた。

 政略結婚の義務でも、完璧な王太子と公爵令嬢の演技でもない。互いの弱さも、小さな焼き餅もそのまま見せ合い、自分の意思で相手の手を選び取った、本物の恋人の姿がそこにあった。

(……ああ、もう大丈夫だわ)

 私は生垣の影で、熱くなった目元を指先でそっと押さえた。

 三年後に嫉妬で身を滅ぼし、卒業パーティーで断罪される悪役令嬢など、もうどこにもいない。私の娘は、自分の言葉で愛を伝え、自分の力で幸せを掴み取れる女性へと、確かに育っていたのだ。

 二人の間の甘い空気が少しだけ落ち着いた頃を見計らい、私は鞄を持ち直して、わざと石畳の上でコツ、コツ、と少し大きめに靴音を響かせながら生垣の角から姿を現した。

「――まあ、中庭への道はこちらで合っていたかしら。二人とも、ここにいたのね」

「「っ!? お、お母様(公爵夫人)!?」」

 東屋の中で重ねられていた手が、まるで熱い鉄に触れたかのように弾かれた。イザベラとエドワードが同時に飛び上がらんばかりに一歩距離を取り、揃って茹で上がったような赤い顔でこちらを向く。

「ご、ごきげんよう、エドワード殿下。それにイザベラも。なんだかお二人ともお顔が赤いようだけれど、西日が強かったのかしら?」

「い、いいえお母様! 今はちょうど、地方の行政資料について熱心に議論していたところでございますわ!」

「そ、その通りだ、クライス公爵夫人! 実に有意義な意見交換をしていたところで……っ」

 裏返りそうな声で必死に取り繕う若い二人があまりにも微笑ましくて、私は込み上げる笑みを扇の陰に隠し、何も気づかなかったふりをして東屋へと歩み寄った。

「そうでしたのね。お邪魔してごめんなさい。実は、殿下からお借りしていた資料のご返却と、どうしてもお二人に一番にお伝えしたいご報告があって参りましたの」

 私が鞄から資料の束を取り出し、穏やかに微笑むと、イザベラとエドワードはハッとしたように顔を見合わせた。

「お母様、もしかして……専門委員会の結果が……?」

「ええ。先ほど採決が終わり、ローゼン侯爵が出された『五十人以上』の規模制限も、『実名・地元窓口』の条件もすべて退けて、私たちの原案通り、専門委員会を無事に通過したわ。来週の貴族院本会議へ、正式に上程されることが決まりました」

「「本当ですか(本当でございますか)!?」」

 二人の声が鮮やかに重なった。

「ええ。特に『五十人制限』を突き崩す決定打になったのは、イザベラがご令嬢方から集めてくれた地方の実態報告と、エドワード殿下が王宮の書庫から見つけ出してくださった『そもそも地方行政には小規模事業所の正確な人数記録が存在しない』という調査結果だったわ。お二人が力を合わせて調べてくださったおかげよ。本当にありがとう」

 私が深く頭を下げると、イザベラは感極まったように胸の前で両手を組み、エドワードと視線を交わして喜び合った。

「やりましたわ、殿下! わたくしたちの調べたことが、お役に立ちましたのね!」

「ああ、君が最後まで諦めずに資料を読み込んだおかげだ、イザベラ」

 つい先ほどまでのぎこちなさは消え、二人は互いの健闘を称えるように自然と微笑み合っている。

 そしてエドワードは、背筋を伸ばして私に向き直ると、王太子としての力強い光を瞳に宿して告げた。

「クライス公爵夫人。委員会の通過、心よりお祝い申し上げます。……ですが、ローゼン侯爵がこのまま本会議で黙って引き下がるとは思えません。来週の本会議に向け、私からも父上――国王陛下に対し、今回の委員会でどのような実務的議論がなされ、どれほど国益にかなう法案であるかを、正式に報告しておくつもりです」

「エドワード殿下……よろしいのですか? 先ほどリリアナさんから少し伺いましたが、保守派の方々から殿下へも風当たりが強くなっているのでは……」

 私が心配して尋ねると、エドワードは隣に立つイザベラをちらりと見やり、誇らしげに微笑んだ。

「次代の王となる者が、未来の妻と一緒に調べ上げた正しい事実から目を背けるわけにはいきませんから。保守派の雑音など、私の手で払いのけてみせます」

「殿下……」

 イザベラが頬を染め、信頼に満ちた眼差しで彼を見上げる。

 夕暮れの黄金色の光が中庭の白薔薇を照らし、寄り添う二人の影を長く石畳の上に伸ばしていた。

 私が一人で娘を背負って走っていた季節は、もう終わりつつある。頼もしい夫と、志を同じくする商人たち、そして自分の足で立ち上がった娘と王太子。

 来週の貴族院本会議――この法案を巡る最後の決戦を前に、私たちの手はこれまでになく強く、温かく結ばれていた。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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