誰が訴えたかではなく、どこを調べるか。それが制度というものですわ
貴族院の別棟にある、第一専門委員会の会議室。
重厚な樫の扉を開けて私が足を踏み入れると、楕円形の長机を囲んでいた十数名の有力貴族たちが、一斉にこちらへ視線を向けた。
本会議場のような大勢の聴衆はいない。ここにいるのは、法案の条文と運用規定を一行ずつ削り出し、本会議へ送るかどうかを決める実務の権力者たちだけだ。石造りの部屋に満ちる空気の密度は、先日の大会議場よりもはるかに重く、冷ややかだった。
「――時間通りのお運び、痛み入りますな、クライス公爵夫人」
長机の正面奥から、ローゼン侯爵が余裕を湛えた笑みを浮かべて声をかけてきた。
私の隣には、委員の一人でもある夫のアレクシスが静かに歩み寄り、少し後ろには参考人として招致された商業ギルド長のハインツが控えている。
「早速ですが、本日の議題に入りましょう」
委員長を務める中立派の老伯爵が、手元の羊皮紙に目を落とした。
「『女性の合法的な就労に対する不当な妨害の規制に関する法案』について。前回の審議以降、ローゼン侯爵より二つの修正条件が提出されております。第一に、法の保護対象を『常時五十名以上の従業員を雇用する事業者との雇用契約』に限定すること。第二に、不当な就労妨害の申し立ては『原則として実名による書面とし、当該地域の担当機関が直接受け付ける』こと。……クライス公爵夫人、この修正案に対するご回答はお持ちですかな」
私が口を開く前に、ローゼン侯爵が深く椅子に背を預けたまま、穏やかな、しかしよく通る声で口を挟んだ。
「公爵夫人。私も鬼ではありません。あなたの掲げる理念に敬意を表し、法案の趣旨そのものは認めようと申しているのです。ただ、王国の商業秩序を守るためには、現実的な『歯止め』が不可欠だ」
侯爵は周囲の委員たちを見渡しながら、理路整然と言葉を紡いだ。
「考えてもみなさい。もし匿名の投書一つで役人やギルドが店に踏み込むようなことになれば、商売敵を陥れるための虚偽の告発が横行しますぞ。無実の店主が疑われ、信用を失えば、誰が責任を取るのです? だからこそ、訴え出る者には自らの名前を明かす責任を持ってもらう。そして事情をよく知る地元の窓口が対応し、対象も管理可能な五十名以上の事業所に限る。……これ以上ないほど公正で、筋の通った手続きではありませんか」
中立派の委員たちが、数名、小さく頷いた。
「確かに、匿名の中傷で商売を邪魔されてはたまらん」「地元のことは地元で処理するのが一番早い」という低い囁きが漏れる。侯爵の言葉は、事業者や領主たちの「面倒事や冤罪を避けたい」という現実的な心理を巧みに突いていた。
私は席に着かず、長机の端に両手をそっと添えて、ローゼン侯爵をまっすぐに見つめ返した。
「ええ、ローゼン侯爵。無実の事業者が根拠のない噂や中傷で傷ついてはならない。その点については、私もまったく同じ意見ですわ」
「ほう。では、実名での届け出に同意なさると?」
「いいえ。個人の告発をそのまま特定の店への調査や処分の引き金にするから、そのような問題が起きるのです」
私は鞄から取り出した新しい制度設計の図面を、書記官を通じて委員たちの前へ広げさせた。
「ですから、私たちは手続きの入り口を『二つの段階』に分けることにいたしました」
「二つの段階、ですかな?」
「第一段階は、名前や勤務先を伏せたままでも行える『事前相談』です。ここでは、自分の置かれた状況が法の保護対象になるかどうかの確認や、必要な記録の残し方について案内を受けることができます。もちろん、侯爵が懸念なさる通り、この匿名の相談だけで特定の事業者を処分したり、罪人扱いして踏み込んだりすることは一切いたしません」
侯爵がわずかに眉を上げ、冷ややかな笑みを漏らした。
「調査も処分もしないのなら、ただの愚痴聞きではありませんか。不当な圧力をかける者に対して、何の抑止力にもなりますまい」
「いいえ、十分な抑止力になりますわ。なぜなら、匿名の相談が寄せられた地域や業種には、商業ギルドの職員が『別の用向き』で伺うことになるからです」
私は一歩踏み出し、はっきりとした声で続けた。
「先日、当委員会でもご報告した『簡易な雇用・賃金台帳』の配布と記入支援。商業ギルドでは今後、この台帳の案内と、取引状況の定期確認を行う巡回を定例業務に組み込みます。もしある界隈で不当な就労妨害の相談が寄せられた場合、ギルドは『誰々から訴えがあった』とその店だけを狙い撃ちにするのではなく、『定期的な帳簿のサポートと点検』として、その通りにある複数の商店や工房を順番に回って確認するのです」
会議室が、しんと静まり返った。
一昨日の夜、あの街角の小さなレストランで、若い女性給仕が教えてくれた知恵だ。個人の要望として直接ぶつければ角が立つことも、間に入る者が「定例の気づき」として扱えば、誰も傷つけずに解決への道を開ける。
「特定の誰かが役所に訴え出たから調査に来た、のではありません。商業ギルドが定例の業務として、地域全体の帳簿と契約状況を確認しに来た。……この形をとれば、相談した女性やご家族の名前が雇い主や大口荷主に漏れることはございませんし、真っ当に商売をしている店主が『誰かに密告された』と不名誉な噂を立てられることもございません」
中立派の老伯爵が、ハッとしたように眼鏡の位置を直した。
「なるほど……。個別の告発として扱うのではなく、組合の定期点検の網をそこへかけるわけか。それなら、虚偽の申告で特定の店がいきなり不利益を被ることもないな」
「その通りですわ。定期巡回の中で『最近このあたりで不当な圧力の噂があるようですが、法令違反があればギルドの取引停止対象になります』と全体に周知すれば、それだけで強い牽制になります。そして、それでも改善されない悪質な事案であり、ご本人が十分な記録を揃えて正式な『第二段階・救済の申し立て』に進む決意を固めた場合にのみ、利害関係者を除外した厳格な秘密保持のもとで本人確認を行い、正式な調査へと入るのです」
私はローゼン侯爵を見据え、静かに微笑んだ。
「ローゼン侯爵。誰が訴えたかではなく、どこを調べるか。それが制度というものですわ。……これでもまだ、最初から弱い立場の女性に実名を晒させなければ、商業の秩序が守れないとおっしゃいますか?」
侯爵の目元から、余裕の笑みがすっと消えた。
「虚偽申告の防止」という彼の大義名分は、二段階方式と定期巡回の組み合わせによって正面から受け止められ、無力化されたのだ。
しかし、百戦錬磨の侯爵は取り乱すことなく、静かに机の上の別の資料へ指を置いた。
「……よく練られた工夫だと認めましょう、公爵夫人。ですが、それは結局、商業ギルドや行政の人間が小規模な店まで足を運び、中央とやり取りするということではありませんか」
侯爵は落ち着いた、しかし重みのある声で委員たちへ問いかけた。
「皆様、先日の審議でも申し上げた通り、王国の国庫にもギルドの人員にも限りがあります。だからこそ私は、法の適用範囲を『従業員五十名以上』に限定し、窓口も『地元の担当機関』に任せるべきだと提案しているのです。地方の十人や二十人の作業場まで対象に含め、いちいち中央へ相談を取り次ぐなど、どれほどの事務負担と輸送費がかかるか見当もつきますまい」
ここだ。彼が絶対に譲れない本丸。
地方の貴族や大口荷主たちの影響力が及ぶ範囲に、王都の目や法律を入れさせないための「五十人」と「地元窓口」という最後の防壁。
私は深く息を吸い込み、後ろに控えていたハインツへ目配せをした。
「ハインツ殿。委員の皆様へ、資料を」
「はい、奥様」
ハインツが一礼して前に進み出ると、王都の商業ギルドの名簿集計と、王宮の地方行政記録の照合資料を長机の中央に広げた。
「まず、なぜ『五十名以上』という制限が現実的ではないのか、数字をもってご説明いたします。第一に、ハインツ殿が調べた王都のギルド登録名簿におきましても、織物業や衣料品小売業で従業員五十名を超える事業者は全体の二割未満です。また、娘のイザベラが各領地のご令嬢方から集めた報告でも、地方の特産品であるレース編みや織物は、その多くが小規模な工房や在宅の職人によって支えられております」
私はそこで一拍置き、エドワード殿下が王宮の書庫で見つけ出してくれた決定的な事実を突きつけた。
「そして第二に……こちらが最も重要なのですが、王太子殿下が王宮の地方行政資料を精査してくださった結果、地方の役所には『どの商店や工房が、常時何人の従業員を雇っているか』という正確な記録そのものが存在しないことが判明いたしました」
「……なんだと?」
委員の一人が思わず身を乗り出し、手元の資料をめくった。
「もしローゼン侯爵のおっしゃる通り『常時五十名以上』という線引きを法律に書き込めば、どうなるでしょうか。ある工房の女性が被害を訴えたとき、地元の役所はまず『その工房の従業員が五十人なのか、四十九人なのか』を過去に遡って調査し、証明しなければならなくなります。日々の季節雇いや在宅職人の出入りがある中で、その人数確認を行うためだけに、それこそ膨大な書類義務と調査費用が発生するのです」
私は静かに侯爵を見つめた。
「イザベラが私に気づかせてくれましたわ。すべての商店を毎日監督しようとするから費用が膨らむのであって、規模で切り捨てるのではなく、問題が起きたときに相談できる窓口を作ればよいのだと。……侯爵、小規模事業者の事務負担を減らすための『五十名制限』が、かえって人数確認という新しい事務負担を生み出してしまっては本末転倒ではございませんか?」
委員たちの間から、「確かにそうだ」「うちの下町の工房でも、季節によって職人の数は変わるぞ」「五十人で区切る方が確認の手間がかかるではないか」という納得の声が次々と上がった。
ローゼン侯爵がわずかに眉間を寄せ、低く問い返してくる。
「……仮に人数制限を置かないとしても、地方からの相談をどうやって中央が把握するのです。地元の役所に任せず、王都へ直接申し立てる経路などを作れば、新たに飛脚や調査官を走らせる輸送費がかかるはずだ」
「ええ。新しい役人や専用の馬車を仕立てれば、費用はかかりますわ。ですから、私たちは『すでに毎日走っている荷馬車』を使うことにいたしました」
ハインツが力強い声で言葉を継いだ。
「私ども商業ギルドと王都の運送業者の親方衆は、先日、東部の生産者と王都を結ぶ集荷の試験運用を行い、輸送費の削減と納期の安定を確認いたしました。そもそも王都と各地方の商業都市の間には、布や食料、日用品を運ぶ商用荷馬車が定期的に行き来しております。各商店へ配る簡易台帳や、働く女性たちが投函する『封蝋付きの相談書簡』は、この既存の商用便の荷箱に相乗りさせて運ぶのです」
会議室の空気が、大きく揺れた。
「荷馬車はいつもの商品のついでに書簡の木箱を積んで走るだけですので、新たな輸送費はほとんどかかりません。そして、封蝋で閉じられた相談書簡は、地元の役所や有力者の手を一切経ることなく、運送業者から王都の商業ギルド本部、および王国の法務・監査の中央窓口へと直接届けられます。もちろん、今から王国中のすべての村へ網を広げるわけではなく、まずは王都と東部を結ぶ既存ルートから段階的に運用を開始し、費用もギルドの共済積立金と既存の監査予算の範囲内で賄う計画です」
私は帳簿の最終ページを開き、委員たちへ示した。
以前、ローゼン侯爵側が私たちの布の仕入れを止めようとして敷いた供給封鎖。あの苦境を乗り越えるためにクロエが走り回って繋いだ「小規模生産者との仕入れ網」と、私が頭を下げて信頼を結んだ「運送業者の親方たちとの絆」が、今ここで、地方の女性たちの声を王都へ届ける確かな道になったのだ。
「商人の荷馬車に、行政に関わる相談書簡を運ばせるなど……前例がなかろう」
ローゼン侯爵が、絞り出すような低い声で言った。その顔にはまだ老練な政治家の平静さが保たれていたが、机の上に置かれた指先はわずかに白くなっていた。
そのとき、私の隣でずっと静かに審議を見守っていたアレクシスが、ゆっくりと立ち上がった。
「前例がないからこそ、今ここで規定を作っているのですよ、ローゼン侯爵」
アレクシスの深い青い瞳が、真っ直ぐに侯爵を射抜いた。
「あなたがこれまで議会と委員会で提示された懸念――『冤罪の危険』『事業者の事務負担』『行政費用』『地方窓口との連携』。そのすべてに対し、エレオノーラと商業ギルドは、具体的な数字と既存の流通網を活用した段階的な仕組みをもって回答を示した。国庫に無理な負担を強いることもなく、商取引の邪魔もせず、小さな工房で働く者まで法の下に守ることができる」
アレクシスはそこで一拍置き、静かに、しかし逃げ場のない問いを突きつけた。
「これでもまだ『五十人未満の工房は見捨てろ』『地元の権力者の目の前で実名を書け』と固執なさるなら……それはもはや行政上の懸念ではなく、地方で不当な圧力をかけ続けたい誰かの『私的な都合』を守ろうとしているようにしか見えませんが。いかがですかな、侯爵」
会議室が、凍りついたような沈黙に包まれた。
すべての委員の視線が、ローゼン侯爵ただ一人に注がれる。ここでこれ以上反対を続ければ、「自分たちの陣営が裏で不当な圧力をかけている張本人です」と、中立派の貴族たちの前で認めるに等しい。
ローゼン侯爵は数秒の間、アレクシスと私を交互に見つめた。
やがて彼は、政治家としての冷徹な計算を終えたように、ゆっくりと背もたれに身を預けて目を閉じた。
「……なるほど。クライス公爵夫妻がそこまで実務の詰めを終えておられるのであれば、私からこれ以上、手続き上の異を唱える理由はございませんな」
感情を表に出さず、あえて綺麗に矛を収めてみせるその老獪さに、私は背中が引き締まるのを感じた。彼は決して諦めたわけではない。これ以上この場で争えば自らの派閥に傷がつくと判断し、本会議に向けて一歩引いたのだ。
「……では、採決に入ります。ローゼン侯爵より提出された規模制限および手続き制限の修正案を退け、クライス公爵家より提出された二段階相談制度および段階的運用を含む案の通り、本法案を貴族院本会議へ上程することに賛成の方は挙手を」
一人、また一人と手が挙がる。
アレクシスはもちろん、中立派の老伯爵も、そして目の前の数字と仕組みに納得した委員たちも、次々と手を挙げた。
「過半数を確認! よって本法案は、当委員会を正式に通過し、来週の貴族院本会議にて最終採決に付されるものと決定いたします!」
木槌の音が、会議室に高らかに響き渡った。
(……通ったわ)
私は机の下で、小さく、しかし力強く拳を握りしめた。
五十人の壁も、実名の壁も、すべて乗り越えた。まだ本会議での最終採決が残っているとはいえ、誰一人として最初から切り捨てない法律の形を、ついに守り抜いたのだ。
委員会室を出ると、高い窓から差し込む午後の陽光が、石造りの廊下を明るく照らしていた。
「奥様、やりましたな! あのローゼン侯爵が最後に矛を収めた瞬間、思わず鳥肌が立ちましたよ!」
ハインツが興奮冷めやらぬ様子で、分厚い胸を張って笑った。
私の脳裏には、昨日、南区画の長屋へ最初の仕事となる補修用の布地とボタンを届けたときの、エマの涙と輝くような笑顔が浮かんでいた。運送屋の親方が頼もしく胸を叩いてくれたおかげで、今頃エマは自宅の窓辺で、あの清潔な指先で一針ずつ丁寧に針を動かしているはずだ。
「すべてハインツ殿やクロエ、親方たち、そして声を届けてくれたエマのおかげよ。本当にありがとう」
「礼には及びません。来週の本会議での最終可決まで、商業ギルドも全力で後押ししてまいります!」
ハインツが力強く一礼して去っていくと、廊下には私とアレクシスの二人だけが残された。
張り詰めていた緊張の糸がふっと緩み、私が小さく息を吐いた瞬間、隣に並んだアレクシスが私の手元の資料をさりげなく半分引き取ってくれた。
「見事な答弁だったな、エレオノーラ。あのレストランでの気づきを、わずか一日でここまで実務的な制度に組み上げるとは」
「ええ。一昨日の夜、あなたが私のどんな声も聞くと言ってくださったから、ここまで考え抜くことができたのよ。それに、最後のあなたの一言がなければ、侯爵はまだ食い下がっていたわ」
私が微笑んで見上げると、アレクシスは周囲に人がいないのを確かめるように少しだけ身を屈め、私の耳元で低く穏やかな声を落とした。
「本会議を無事に通過したら、またあの店を予約しよう。今度こそ、君の頭の中から議会の文字が消えるまで、ゆっくりとワインを飲むといい」
「ふふ、約束ですわよ。……でも、その前に」
私は窓の外、王立学園の白い尖塔が見える方角へと視線を向けた。
今回、ローゼン侯爵の「五十人制限」を突き崩す決定打となったのは、イザベラとエドワードが力を合わせて調べてくれた地方の実態と行政資料の不備、そしてイザベラの柔らかな発想だった。
「この嬉しい知らせを、一番の功労者である若い二人にも伝えなくてはね」
「ああ。あいつらも、学園で首を長くして結果を待っている頃だろう」
アレクシスも青い瞳を細め、優しく頷いた。
私たちが議会で制度の戦いを繰り広げていた裏で、学園の二人もまた、今回の共同作業を通じてこれまで以上に距離を縮めているはずだ。
「参りましょう、あなた。私たちの頼もしい娘たちのところへ」
心地よい風が吹き抜ける廊下を、私たちは並んで歩き出した。
陽射しに輝く王立学園では、きっと今頃、私たちの想像を超えるような甘く新しい変化が、若い二人の間に芽生えているに違いなかった。




