個人の告発だと角が立つなら、組合の『定期点検』にすればよろしいのですわ
翌朝、公爵邸の執務室には、淹れたての珈琲の香りとともに、いつも以上に張り詰めた、けれどどこか明るい熱気が満ちていた。
窓際に立つアレクシスと目が合うと、彼は昨夜のレストランでの出来事を思い出したのか、誰にも気づかれないほどわずかに目元を緩めて微笑んだ。私も少しだけ頬が温かくなるのを感じながら、気を引き締めて机の上の大きな羊皮紙を広げた。
集まっているのは、アレクシス、商業ギルド長のハインツ、そしてクロエの三人である。さらに机の端には、昨日までにイザベラとエドワードが王宮や令嬢たちの手紙から調べてまとめてくれた地方行政と小規模工房の資料も並んでいた。
「――では、昨夜ローゼン侯爵側から専門委員会へ提出された『追加条件』への対策をお話しするわね」
私は二つの条件を書き出した紙を指し示した。
一つは、虚偽の中傷を防ぐため、申し立ては『原則として実名』で行うこと。
もう一つは、迅速な事実確認のため、申し立ては『問題が起きた地域の担当機関』が直接受け付けること。
「ハインツ殿。もしこの二つの条件がそのまま通ってしまったら、現場はどうなるかしら?」
「……どうもこうもありませんな」
ハインツは太い眉を寄せ、腕組みをして呻いた。
「昨日、奥様がエマさんから聞いてこられたとおりです。地元の役所や支部というのは、その土地の大口荷主や有力貴族と日頃から付き合いがあります。そこへ実名で『あの荷主から圧力をかけられました』などと書面を出せば、調査が始まる前に雇い主へ筒抜けになりかねない。結局、誰も怖くて名乗り出られなくなります」
「ええ。けれど、ローゼン侯爵の言い分にも、表向きは筋が通っているのよ。『誰が訴えたかも分からない匿名の投書一つで、特定の商店や工房に調査官が踏み込めば、その店は周囲から不正を疑われて信用を失う』――これは商人たちにとっても切実な恐怖だわ」
「確かに……。何の落ち度もないのに、商売敵の嫌がらせの投書で役人に踏み込まれたら、たまったものではありませんからね」
クロエも納得したように頷く。
そこへ、私は昨夜のレストランで見た光景を重ね合わせながら、新しい一枚の図面を机の中央へ置いた。
「だから、発想を逆転させるのよ。個人の訴えを直接の引き金にして、特定の店を『狙い撃ち』にするから角が立つし、誰が密告したのかと犯人探しが始まるの。――だったら、商業ギルドの『定期点検』の形にしてしまえばよろしいのですわ」
「定期点検、ですか?」
ハインツが身を乗り出した。私は羽根ペンの柄で、図面に描いた二つの段階をなぞった。
「昨日、アレクシスとも整理した『二段階の仕組み』に、一工夫を加えるわ。まず第一段階の窓口では、名前を伏せたままでも困りごとを相談できるようにする。そして、ある地域や特定の業種から『家族の仕事を盾に退職を迫られている』といった相談が寄せられたとするわね。そのとき、ギルドや調査官は『誰々から訴えがあった』とは言わずに動くの」
「なんと名目をつけるのですかな?」
「先日、私たちが小規模事業者向けに作った『簡易な賃金・雇用台帳』があるでしょう? あれの『記入方法の巡回サポートと定期点検』という名目で、その通りの商店や取引先を、五軒でも十軒でも一斉に見て回るのよ」
ハインツとクロエの目が、同時に大きく見開かれた。
私は昨夜、老婦人の要望を「給仕である自分の気づき」へと鮮やかに置き換えて料理長へ伝えた、あの若い女性給仕の笑顔を思い浮かべながら続けた。
「一軒だけに立ち入れば『あそこは誰かに訴えられたのだ』と噂になるし、雇い主も『あいつが喋ったな』と疑心暗鬼になるわ。けれど、商業ギルドの定例業務として、その一帯の事業者をまとめて巡回し、『新しい法律に向けて、不当な契約解除や第三者からの圧力がないか、皆様に一律で確認しております』と帳簿や契約状況を見て回ればどうかしら?」
「……なるほど!」
ハインツが膝を打った。
「それなら、外から見ればただの組合の定例巡回です! 巡回のついでに、圧力をかけているとみられる大口取引先や事業主へ『最近、この界隈で不当な就労妨害の噂がありましてな。もし法令違反があればギルドとしても取引停止の対象になりますので、ご注意を』と釘を刺すこともできますな!」
「そのとおりよ。誰が相談したのかを完全に秘匿したまま、現場に牽制と指導を入れられるわ。もちろん、それでも改善されない悪質な事案で、ご本人が正式な救済を望まれる場合には、第二段階として本人確認のうえで厳格な調査に入る。これなら、匿名の中傷で無実の店が傷つくこともなければ、最初に声を上げた人が報復される危険も最小限に抑えられるはずよ」
隣で聞いていたアレクシスが、感心したように深く頷いた。
「見事だな、エレオノーラ。昨日の夕餉の席で思いついたというのは、これか」
「ええ。間に入る者が少しだけ知恵を使えば、誰も傷つけずに実態を掬い上げることができると、素晴らしいお手本を見せていただいたの」
私が微笑むと、今度はクロエが手を挙げた。
「ですが奥様、もう一つの問題はどうなさいますか? ローゼン侯爵は『地域の担当機関が直接受け付ける』と条件をつけてきました。そもそも最初の匿名相談すら、地元の窓口では握り潰されるか、顔見知りに見られてしまう危険があります」
「そこよ、クロエ。その壁を突破する鍵は、すでにあなたとハインツ殿が握っているわ」
「えっ、私たちが?」
「ええ。先日、二週間の試験運用を行ってくれた王都の運送業者の親方たちと、東部へつながる商会の流通網よ」
私は机の端に置かれた、イザベラとエドワードの調査資料を引き寄せた。
「エドワード殿下が王宮の資料を調べてくださったおかげで、地方の役所だけでは小規模な工房の実態を把握しきれないこと、そして地方行政官が有力貴族に逆らえない危険があることがはっきりしたわ。だから、相談の手紙を運ぶのに、役所の窓口だけを使う必要はないの」
私はクロエの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。
「荷馬車が運ぶのは、布や仕立て上がった服だけではないでしょう? 各地域の商店や工房とやり取りする『簡易台帳の写し』や、働く人たちが投函できる『密封された相談書簡』を、商会の定期荷馬車や運送業者の荷と一緒に回収して、そのまま王都の商業ギルド本部――そして王太子殿下が関わっていらっしゃる王宮の内務監査の窓口へ、直接運ぶルートを作るのよ」
執務室が、一瞬だけ静まり返った。
やがてクロエの顔に、商人としての鮮やかな笑みが広がった。
「……商会の定期便と運送屋の荷馬車! 確かに、商品の発注書や送り状と一緒に密封された書簡を木箱に入れて運んでしまえば、地元の役人も領主様も、中身を検閲することなどできません! しかも、いつも走っている荷馬車に載せるだけですから、新しい役人を地方へ派遣するような莫大な費用もかかりませんね!」
「もちろん、今から王国中のすべての村へ網を広げることはできないわ。まずは王都と、私たちが取引している東部の商業都市を結ぶ既存のルートから試験的に始めるの。それでも、委員会で『地元の窓口に限定しなければ費用と手間がかかる』というローゼン侯爵の主張を覆すには、十分すぎるほど具体的な実例になるわ」
第28話から私たちが一つずつ積み上げてきた「簡易台帳」「運送業者の親方たちとの信頼」「イザベラとエドワードの調査」、そして「エマの不安から生まれた二段階の相談」。
バラバラだったすべての点が、今、一本の確かな線となって繋がった瞬間だった。
その日の午後、私はクロエとともに、再び王都の商業地区にある運送業者の溜まり場へと足を運んでいた。
今回の訪問には、もう一つ大切な目的があった。エマの在宅での再就労である。
昨日の面会のあと、エマは夜に夫とじっくり話し合い、「自宅でできる仕上げや補修の仕事ならぜひやりたい。親方には、奥様たちから事情を話して確かめてもらっても構わない」と、夫婦揃って正式に承諾の返事をくれたのだ。本人の同意なしに雇い主へ話すことは絶対にしないと決めていた私にとって、それはエマ自身が踏み出してくれた勇気ある一歩だった。
「――なんだ、奥様。そんなことでわざわざ足を運んでくださったのかい」
荷馬車の車輪が並ぶ広い中庭で、運送業者の親方は太い腕を組んで豪快に笑った。先日の二週間の物流試験で、自分たちの段取りの良さが数字として証明されたこともあり、親方の私たちを見る目は以前とは比べものにならないほど好意的だった。
「うちの若い衆の女房が、自宅でボタン付けや繕い物をするって話だろう? そいつをうちの荷馬車で、他の布地や仕立て服と一緒にクロエ商会へ運べばいいんだな」
「ええ。ただ、親方のところには、私たちの事業を快く思わない大口荷主様からの仕事もあるでしょう? もし何か言われたときに、親方やエマの旦那様に迷惑がかからないかと……」
私が心配して尋ねると、親方は鼻を鳴らして胸を叩いた。
「奥様、俺たち運送屋にも意地と筋ってもんがある。前みたいに『よその工房へ通うな』と荷主から嫌がらせをされたときは、俺たちも不意を突かれて若い衆を守り切れなかった。だがな、自分の家の屋根の下で女房が針仕事をして、その荷を正式な運賃をもらって俺たちが運ぶのは、誰に後ろ指をさされることもない正規の商売だ!」
親方は周りの御者たちを見渡し、力強く言い切った。
「どの木箱に誰の縫った布が入ってるかなんて、荷札をまとめちまえば外からは分かりゃしねえ。万が一、それでも難癖をつけてくる荷主がいたら、『正規の積み荷にケチをつけるなら、王都の運送組合全体への営業妨害としてギルドへ届け出る』と突き返してやるさ。うちの若い衆の家族に、二度も窮屈な思いはさせねえよ」
「親方……ありがとうございます!」
頼もしすぎるその言葉に、私は胸が熱くなって深く頭を下げた。法制度という大きな盾が完成するまでの間も、こうして現場の人々の誇りと連帯が、弱い立場にある人を守る小さな盾になってくれるのだ。
その足で、私たちはエマの暮らす南区画の小さな長屋へと向かった。
運送屋の荷馬車から降ろされた、最初の仕事となる補修用の布地と、木箱に入った色とりどりのボタンの包み。それをクロエから手渡されたエマは、信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「本当に……よろしいのですか、奥様。夫の親方も、引き受けてくださったなんて……」
「ええ。親方が『うちの若い衆の女房が作ったものを運ぶのは正規の仕事だ』と、胸を張って請け負ってくださったわ。外からは誰の荷物か分からないように、クロエ商会の定期便として回収してもらうし、作業量もまずは娘さんとの時間を削らない範囲から始めましょう。賃金も、これまでの工房での基準をそのまま適用するわ」
エマは両手で布の包みを抱きしめた。
麻布の包みの上から、中にある柔らかい布の感触を確かめるように指先を滑らせたあと、彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「……ありがとうございます、奥様。私、もう二度と、お給金をいただいて針を持つことはできないのかもしれないと思っていました……」
「あなたが昨日、相談票を見るのが怖いと正直に話してくれたおかげよ、エマ。あなたの声が、親方を動かし、私たちが議会へ持って行く新しい制度の形を作ってくれたの」
長屋の奥から、小さな足音がぱたぱたと駆けてきて、エマのスカートに幼い女の子がしがみついた。その足元には、少し爪先の擦り切れた、けれどピカピカに磨かれた小さな革靴があった。
「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」
「ううん、泣いてないよ。嬉しいのよ……また、お仕事ができるようになったからね」
エマは涙を拭って娘の頭を撫で、輝くような笑顔で私を見上げた。
「奥様。私、一針ずつ丁寧に縫わせていただきます。そして、今度のお給金をいただいたら……この子と一緒に、新しい靴を買いに行きます!」
「ええ。私も、その靴を見るのを楽しみにしているわね」
母と娘が寄り添って笑うその小さな玄関先の光景こそが、私がこの王国で本当に守りたかったもののすべてだった。
翌日の午後。
私はアレクシスと並び、貴族院の専門委員会が開かれる重厚な石造りの会議室の前へと立っていた。
出かける前、屋敷の玄関ではイザベラが「お母様、エドワード殿下と一緒にまとめた地方の資料も、きっとお役に立つはずですわ。どうかお気をつけて」と、力強い瞳で私の手を握って送り出してくれた。
私の手元には、ハインツやクロエと夜遅くまでかかって仕上げた『匿名相談と商業ギルドの定期巡回を組み合わせた二段階制度案』、そして『既存の流通網を活用した中央への直接送付モデル』の資料が揃っている。
「準備はいいか、エレオノーラ」
隣に立つアレクシスが、静かな声で尋ねた。
「ええ。これ以上ないほど万全よ、あなた」
「よし。では行こう。ローゼン侯爵がどれほど老獪な網を張っていようと、今の君なら必ず突破できる」
重たい樫の扉が、衛兵の手によってゆっくりと開かれた。
階段状に並ぶ委員たちの席の向こう、最前列の席に座るローゼン侯爵が、悠然とした笑みを浮かべてこちらを振り返るのが見えた。『五十名以上』という人数の壁と、『原則実名・地元窓口』という手続きの壁。二重の防壁で私たちの法案を完全に封じ込めたと確信している、老練な政治家の顔だった。
私は背筋を伸ばし、カツ、と石の床に靴音を響かせて議場の中央へと歩み出た。
エマが針を手にする笑顔も、イザベラたちが自分の未来を選べる王国も、ここから始まる。
「――では、ローゼン侯爵。あなたがご心配なさっていた『制度の悪用』と『地方窓口の負担』を、同時に解決する方法をご説明いたしますわ」
私は帳簿と新しい制度案を机の上に広げ、静かに、しかし議場の隅々まで届く凛とした声で火蓋を切った。
お読みいただきありがとうございました。
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