政治的な嘘なら、もっとマシな言い訳をする。私が妻に夢中なのは、ただの事実だ
休日を迎えた公爵邸の午後、私は姿見の前で何度も自分の装いを確かめていた。
今日、私が袖を通しているのは、社交界の夜会で着るような宝石や金糸で飾られた重たいドレスではない。自分たちの工房で仕立てた、落ち着いたラベンダー色の外出用ワンピースだった。襟元と袖口にだけ繊細な白レースをあしらった、街歩きのしやすい軽やかな一着である。
「まあ、お母様。なんだかいつものお出かけより、ずっとお若くて可愛らしいですわ」
部屋の扉から顔を覗かせたイザベラが、プラチナブロンドの髪を揺らして微笑んだ。
「か、可愛らしいだなんて、もうそんな年齢ではないわよ。今日は街のお店へ行くから、あまり目立たないようにしているだけよ」
「ふふ、存じておりますわ。お父様が朝から二度も懐中時計を確認していらっしゃいましたもの。どうぞ、お二人でゆっくり楽しんできてくださいませ」
娘にすっかり見透かされたような優しい目で見送られ、私は少しだけ頬を熱くしながら階下へと降りた。
玄関ホールで待っていたアレクシスもまた、公爵としての威厳を示す礼装ではなく、深い紺色の仕立ての良いジャケットに、飾り気のない外套を羽織っていた。前髪をいつもより少しだけ柔らかく下ろしたその姿は、二十年前に初めて出会った頃の青年時代を思わせるほど新鮮で、階段を降りる私の足が一瞬だけ止まりそうになった。
「……待たせたかしら、あなた」
アレクシスは振り返り、私の姿を上から下までゆっくりと見つめたあと、灰色の瞳を細めた。
「いや。……その色、とてもよく似合っている。君の工房で作った服か?」
「ええ。街のレストランに公爵夫人のドレスで行くわけにはいかないでしょう?」
「そうだな。今日は一日、公爵も公爵夫人も屋敷に置いていこう」
差し出された彼の手を取り、私たちは家紋の入っていない控えめな馬車へと乗り込んだ。
◇
馬車を大通りの角で降りると、そこからは夕暮れ時の賑わいを見せる石畳の道を二人で歩いた。
私が行きたがっていたのは、王都の商業地区から一本路地へ入ったところにある、小さな料理店だった。クロエから「気取らないお店ですが、旬の野菜と魚料理が絶品なんですよ」と聞いて以来、ずっと気になっていた場所である。
普段なら、外出するときはいつも護衛や侍女が前後に控え、私たちは馬車から建物の入り口まで絨毯の上を歩くだけだ。こうして夕方の風を感じながら、並んで石畳の上を歩くこと自体、結婚してからの二十年間で初めてのことだった。
「危ないぞ、エレオノーラ」
曲がり角から急に現れた荷馬車を避けようとして、アレクシスの長い腕がすっと伸び、私の肩を自分の胸元へと引き寄せた。
車輪が石畳を鳴らして通り過ぎていく間、彼のジャケット越しに伝わる確かな体温と、わずかに香る清潔な石鹸の匂いが鼻先をかすめる。見上げると、すぐ頭上にアレクシスの整った顎のラインがあった。
「あ、ありがとう、あなた……」
「道幅が狭いからな。店に着くまで、こうして歩いていいか」
彼は私の肩から手を離す代わりに、そのまま私の指先を自分の大きな手で包み込んだ。
街を行き交う人々は皆、夕餉の買い物や家路を急いでおり、私たちがクライス公爵夫妻だと気づく者は誰もいない。その匿名性が、まるで駆け落ちでもしているかのような不思議な高揚感を胸に灯していた。
やがて見えてきたお目当ての店は、赤茶色の煉瓦造りに暖かいランプが灯る、こぢんまりとした佇まいだった。
扉を開けると、香ばしく焼けたパンとハーブの香りがふわりと頬を撫でる。
「いらっしゃいませ! ご予約のアレク様ですね、窓際のお席へどうぞ!」
白いエプロンを着けた若い女性の給仕が、弾けるような笑顔で私たちを迎えてくれた。アレクシスが自分の名前の一部を使って予約してくれていたことに気づき、私は思わず口元を綻ばせた。
しかし、案内された窓際の二人掛けの席に腰を下ろした瞬間、私は別の意味で息を呑むことになった。
――近い。
公爵邸の食堂にあるテーブルは、二十人が一度に食事できるほど長く、向かい合って座っても相手の表情が遠くに霞むほどの距離がある。王城の晩餐会でも、貴族向けの高級サロンでも、テーブルというものは常に広く作られていた。
けれど、この街のレストランの丸テーブルは驚くほど小さく、白いテーブルクロスの上で手を伸ばせば、そのままアレクシスの胸元に触れてしまいそうな距離しかなかった。テーブルの下では、私のスカートの裾と彼の長い脚が今にも触れ合いそうで、どこに足を置いていいのか分からなくなる。
「……どうかしたか、エレオノーラ。席が狭かったか?」
「い、いいえ! とても素敵なお席だわ、閣……っ、あ、あなた」
危うく普段の社交界の癖で「閣下」と呼びそうになり、私は慌てて言葉を飲み込んだ。
ちょうど水差しを持ってやってきた女性給仕が、私たちの様子を見てくすりと微笑んだ。
「なんだか、お二人とも初々しくて素敵ですね。結婚されたばかりなんですか?」
「えっ……?」
思わぬ言葉に私が目を丸くしていると、アレクシスがグラスを受け取りながら、少しだけ口角を上げて答えた。
「いや。ずいぶん長く一緒にいるが、こうして二人きりで外へ食事に出るのは、今日が初めてなんだ」
「まあ! それなら、とびきり美味しいお料理をご用意しないといけませんね! 今日のおすすめは、東部の港から届いた白身魚の香草焼きですよ」
「では、それを二つ頼む。ワインは料理に合う軽めのものを」
給仕が明るい足取りで厨房へと戻っていくと、テーブルの上には小さなキャンドルの炎と、二人だけの静かな空気が残された。
「……驚いたわ。あなたが、あんなふうに冗談めかして受け答えなさるなんて」
「冗談ではないさ。二十年も待たせてしまったが、私にとっては今日が初めての、妻との外出だ」
そう言って真っ直ぐに見つめられ、私はメニューの紙で半分顔を隠すようにしながら、熱くなった頬を冷ました。
法律の話も帳簿の話も禁止、という今日のルールは、どうやら私の心臓にとってずいぶん過酷な試練になりそうだった。
◇
運ばれてきた料理は、クロエの言葉どおり素晴らしい味わいだった。
皮目をパリッと焼き上げた白身魚に、香り高いオリーブ油と刻んだ香草のソースが絡み、口に入れるとほろりと柔らかくほどける。
「美味しいわ……。公爵邸の料理長が作る宮廷料理も立派だけれど、こうして焼きたてをすぐ目の前でいただくお料理は、なんだかお腹の底から温まる気がするわね」
「ああ。君が以前からここへ来たがっていた理由が分かった気がする」
私たちはワインのグラスを傾けながら、これまで二十年間、ほとんど話す機会のなかった他愛のない話題をいくつも交わした。
アレクシスが実は甘すぎる菓子よりも少し苦味のある焼き菓子を好むこと。私が幼い頃、庭の木に登ろうとして家庭教師にこっぴどく叱られたこと。イザベラが初めて言葉を話した日のこと。
政治の駆け引きも、家門の体面も必要ない会話は、驚くほど心地よくほどけていった。
メインの皿が下げられ、グラスの中のワインが残り少なくなった頃、私はふとキャンドルの炎を見つめながら、ずっと聞いてみたかったことを口にした。
「……ねえ、アレクシス。今夜は何でも聞いていいのなら、一つだけ確かめてもよろしくて?」
「ああ。何だ?」
私はグラスの脚を指先でなぞりながら、少しだけ照れ隠しに茶化すような調子で尋ねた。
「少し前、ローゼン侯爵の晩餐会にお招きいただいた夜のことよ。あなたが皆さんの前で、『私は今、妻に夢中なのです』とおっしゃったでしょう? あのときは、私をかばってくださって本当に嬉しかったし、頼もしかったわ。……でも、やっぱりあの言葉には、侯爵を牽制するための政治的な計算もあったのではなくて?」
公爵家の当主である彼が、保守派の重鎮を前にして妻との不仲説を打ち消すのは、政治的にも理に適った一手だったはずだ。私は彼が「まあ、半分はな」と笑って頷くのだろうと思っていた。
ところが、アレクシスは手にしていたグラスを静かにテーブルへ置き、驚くほど真剣な眼差しで私を見つめ返した。
「政治的な嘘をつくなら、もっとマシな言い訳をする」
低く落ち着いた声が、小さなテーブルの上を真っ直ぐに渡ってきた。
「領地の税収の都合だとでも、王家からの要請だとでも、侯爵を黙らせるためのもっともらしい理屈なら他にいくらでもあった。……私が妻に夢中だと言ったのは、ただの事実だ」
「……っ、あなた……」
茶化すつもりだった言葉が、喉の奥で消えた。
アレクシスはテーブルの上に置かれた私の右手へ、自分の手をゆっくりと重ねた。
「昨日の夜も話したが、これまでの二十年間、私は君に『公爵夫人』という窮屈な仮面を被せ続けてきた。君がいつも穏やかに微笑んで、何一つ不満を言わずに屋敷を切り盛りしてくれることに甘え、君の心がどこにあるのかを見ようともしなかった。……いつしか、私たちはこのまま穏やかで遠い夫婦として歳を取っていくのだろうと、私自身が諦めていたんだ」
彼の指先が、私の手の甲を優しく撫でる。
「だが、数ヶ月前、君は突然変わった。イザベラを守るためだと言って、自分のドレスを売り、商人と机を並べて帳簿を広げ、工房の職人たちのために頭を下げた。布の仕入れを止められて窮地に陥ったときも、君は泣き言一つ言わず、どうすれば道を開けるかと前だけを見ていた」
キャンドルの光を映すアレクシスの灰色の瞳が、熱を帯びて揺れていた。
「執務室で、インクで指先を汚しながら新しい計画を語る君を見たとき……私は、息が止まるかと思った。私の妻は、こんなにも鮮やかに笑い、こんなにも強く、美しい女性だったのか、と」
「アレクシス……」
「ローゼン侯爵の前で言った言葉に、嘘は一つもない。二十年かかってようやく見つけた君の本当の姿を、私はもう二度と手放したくないし、誰にも傷つけさせたくないと思っている」
胸の奥が、熱い湯を満たしたようにいっぱいに膨らんで、視界がわずかに滲んだ。
前世の記憶を取り戻してからというもの、私はずっと「イザベラを破滅から救わなければ」「母親としてしっかりしなければ」と、必死に走り続けてきた。けれど、そんな私の泥臭い姿を、一人の女性としてこんなにも深く、愛おしそうに見つめてくれていた人が、すぐ隣にいたのだ。
私は滲む目元を悟られないように微笑むと、テーブルの上で重ねられた彼の手を、自分の意思でぎゅっと握り返した。
「……ずるいわ、あなた。今日は法律の話も帳簿の話も禁止なのに、そんなふうに言われたら、どんな議会の答弁より反論できませんわ」
「反論などしなくていい」
「ええ、しませんわ。だって……私も、私の言葉を真っ直ぐに聞いて、隣で一緒に歩いてくださる今のあなたに、恋をしていますもの」
私がそう告げると、アレクシスは一瞬だけ息を呑み、それから少年のように目元を赤くして、私の指先に深く口づけを落とした。
二十年という長い回り道の果てに、私たちがようやく「本当の夫婦」として出会えた瞬間だった。
◇
しばらくして、食後の紅茶と焼き菓子が運ばれてきた頃には、私たちの間には言葉にしなくても伝わる温かな空気が流れていた。
紅茶の香りを楽しみながら何気なく店内を見渡した私は、少し離れたテーブルでのやり取りにふと目を留めた。
そこには、少し気難しそうな老紳士とその妻らしき老婦人が座っていた。老婦人はメニューの皿を見つめながら、私たちのテーブルを担当してくれたあの若い女性給仕に、小声で何かを相談しているようだった。
『実はね、主人の体調が少し優れなくて、次のスープの塩加減を少しだけ控えていただきたいの。でも、ここの料理長さんは味に誇りを持っていらっしゃるでしょう? 私の口から直接お願いしたら、気分を害されてしまうかしら……』
店内のざわめきの合間から、そんな控えめな声が聞こえてきた。
すると女性給仕は、老婦人の不安を包み込むようににっこりと笑った。
『どうぞご安心ください、奥様! それなら、お客様のお名前やご希望としてではなく、給仕の私からの気づきとして、「あちらのお席はワインを召し上がっているので、スープは少し優しいお味の方が合いそうです」と料理長へお伝えしておきますね。それなら角も立ちませんし、料理長も喜んで調整してくれますから!』
『まあ……そんなふうに取り次いでくださるの? ありがとう、助かるわ』
老婦人はほっとしたように胸を撫で下ろし、給仕は軽やかな足取りで厨房の小窓へと向かった。そして彼女が何かを耳打ちすると、腕組みをしていた大柄な料理長が、嫌な顔一つせずに大きく頷き、鍋の火加減を調整し始めたのだった。
私はティーカップを持ったまま、その光景から目が離せなくなった。
――直接名前を出して訴えれば角が立つことも、間に入る人が『別の形』で受け止めて取り次げば、誰も傷つかずに解決できる。
昨夜、ローゼン侯爵が委員会へ突きつけてきた条件が、一瞬だけ頭をよぎった。
『申し立ては原則として実名による書面の届け出を必要とし、地域の担当機関が直接受け付ける』。
もし、エマのように立場が弱い人が、直接自分の名前で地元の役所へ訴え出るのではなく、商業ギルドや別の仕組みが「個別の告発」という形を取らずに実態を掬い上げる方法があったなら――。
「……エレオノーラ」
向かいの席から、苦笑混じりの低い声が飛んできた。
ハッとして顔を上げると、アレクシスが頬杖をつきながら、呆れたように、けれどどこまでも愛おしそうに私を見つめていた。
「今、また議会か制度のことを考えただろう。今日は法律の話は禁止ではなかったのか?」
「っ、ご、ごめんなさい! 口には出していないからセーフではなくて?」
「顔に全部書いてある。まったく……君という人は、本当に一瞬たりとも目が離せないな」
アレクシスは小さく肩を揺らして笑い、自分のカップの紅茶を一口飲んだ。
「だが、いいさ。それだけ君が、あの縫い子や王国の人々のことを本気で考えている証拠だ。思いついたことがあるなら、忘れないうちに頭の中でしまっておくといい。屋敷へ帰ったら、明日の朝からいくらでも付き合う」
「ありがとう、あなた。……ええ、明日の朝まで、大切にしまっておくわ。今はただ、このお店の紅茶と、あなたとの時間を味わいたいもの」
私は微笑んでカップを傾けた。
店を出る頃には、王都の空には満天の星が広がっていた。
夜風の中でアレクシスが私の肩にそっと外套を掛け直し、私たちは来たときよりもずっと自然に、指先を絡めて石畳の道を歩き出した。
ガラス窓の向こうに見えるレストランの温かい灯りと、そこで働く給仕や料理人たちの誇らしげな笑顔。そして、針を手入れしながら待っているエマの姿。
私の隣には、私の声を聞き、共に歩んでくれる夫がいる。この温かな日常を守るためなら、ローゼン侯爵がどれほど高い壁を築こうとも、必ず乗り越えてみせよう――私は繋いだ手の温もりを確かめながら、星空の下で静かに闘志を燃やしていた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




