奥様。その相談票に、私の名前を書いても大丈夫ですか?
朝の光が差し込む執務室の机の上に、一枚の真新しい羊皮紙が置かれていた。
昨日の夕刻、商業ギルド長のハインツが「まずは叩き台として作ってみました」と届けてくれた、就労妨害に関する相談受付票の試作品である。
私は紅茶のカップに手を伸ばすのも忘れ、規則正しく並んだ項目を上から順に見つめていた。
『相談年月日』『相談者の氏名』『住所』『現在の勤務先(または退職した勤務先)』『受けた妨害・圧力の内容』『圧力をかけたとみられる相手』
書式そのものは、驚くほど簡潔によくできている。
ローゼン侯爵が貴族院で指摘した「事務負担の増大」や「行政費用の肥大化」を避けるため、記入欄は必要最小限に絞られていた。文字の読み書きに不慣れな人でも、窓口の職員が聞き取りながら数分で埋められるよう工夫されている。これなら商業ギルドの既存の窓口でも、大きな混乱なく受け付けられるだろう。
けれど、私の指先は『相談者の氏名』という四角い枠の上で止まったまま、どうしても先へ進めなかった。
「……本当に、困っている人はこれを書けるのかしら?」
静かな部屋に、自分の呟きが小さく落ちる。
前世で日本の会社員として働いていた頃にも、似たような光景を見たことがあった。
社内に設置された相談窓口や目安箱が、どれほど「秘密は厳守します」と謳っていても、実際にそこへ自分の名前を書いて投函できる社員はほんの一握りだった。誰が読んでいるのか分からない、巡り巡って上司の耳に入るのではないか――そう恐れる人ほど、最後まで沈黙を選んでいたのだ。
ましてや、ここは身分と取引関係が生活のすべてを左右する王国である。
そこへ控えめなノックの音が響き、書類の束を抱えたクロエが入ってきた。琥珀色の瞳が、机の上の試作品と私の険しい顔を交互に映す。
「奥様、朝から眉間に皺が寄っていますよ。ハインツ殿の書式に、何か不備でもありましたか?」
「不備というより、私たちが大切な前提を見落としているような気がして……。それよりクロエ、例の件はどうなっていて?」
「ええ、そのご報告に上がりました」
クロエは扉が閉まっているのを確かめてから、歩み寄って声を落とした。
「以前お手紙をくれた、元縫い子のエマのことです。在宅での新しいお仕事のお話を進める前に、どうしても一度、奥様に直接確かめたいことがあると申しておりまして」
エマ。
家族の仕事を盾にした圧力によって工房を去った三十人のうちの一人であり、自分の稼いだ給金で娘に新しい靴を買えたと、誰よりも誇らしそうに笑っていた女性だ。
先日、再び働きたいという切実な手紙をくれたものの、彼女の夫が働く運送業者は、ローゼン侯爵家とつながりのある大口荷主とも取引があることが分かっている。
「あちらの都合のよい日時と場所は聞いてあるかしら。公爵邸へ呼びつければ、かえって周囲の目を引いてしまうわ」
「はい。今日の午後、うちの商会の店舗の裏手にある小応接室を希望しています。市場へ買い出しに行くついでを装えば、近所の目も気にならないから、と」
「分かったわ。私も紋章のない馬車で、裏口から伺うようにするわね」
机の上の相談受付票をそっと鞄にしまいながら、私は小さく息を吐いた。
机の上でどれだけ文字を並べていても、答えは出ない。まずは、今まさに声を上げようとしている彼女自身の言葉を聞かなければならなかった。
◇
午後の商業地区は、荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音と、威勢のいい呼び込みの声で満ちていた。
私は目立たない落ち着いた灰色のドレスを着て、クロエ商会の裏口から店舗の奥へと入った。案内された小応接室は帳場のさらに奥にあり、窓には厚手のレースのカーテンが引かれていて、表通りの喧騒が遠くくぐもった音になって届いている。
もっとも、人目につきにくい部屋を選んだからといって、それだけでエマの安全が完全に保証されるわけではない。どこで誰が見ているか分からないという緊張感が、部屋の空気をわずかに張り詰めさせていた。
「……奥様。お忙しいところ、私のわがままでお時間をいただいてしまい、申し訳ございません」
椅子から立ち上がったエマは、以前よりも少し頬がほっそりとして見えた。けれど、前掛けの上で揃えられた指先は相変わらず清潔で、針を持つ職人の手つきそのものだった。
「謝らないで、エマ。またこうして顔を見られて嬉しいわ。どうぞ座ってちょうだい。娘さんは元気にしていて?」
私が向かいの席に腰を下ろして微笑むと、エマの張り詰めていた肩から少しだけ力が抜け、目元に母親の柔らかい笑みが浮かんだ。
「はい、おかげさまで。あの子ったら、奥様の工房でいただいたお給金で買ったあの靴を、今でも宝物みたいに毎日磨いて履いているんです。ただ……子どもの足は大きくなるのが早くて、この頃、少し爪先がきつくなってきたみたいで」
エマは自分の膝の上で、指先をきゅっと握りしめた。
「またあの子に、足に合った靴を買ってやりたいんです。それに、私自身、針を持って布に向かっている時間が好きでしたから。お手紙でも申し上げたとおり、できることならまた、奥様のお仕事を手伝わせていただきたいと思っています」
「ありがとう。あなたの丁寧な縫い目は、クロエも私もよく覚えているわ」
私はエマの目をまっすぐに見つめ、言葉を慎重に選びながら続けた。
「ただね、以前のように工房へ毎日通う形にすれば、またどこからか旦那様のお仕事に障りが出るかもしれない。だから今は、ご自宅でできる補修や、ボタン付け、糸始末といった仕上げのお仕事をお願いできないかと考えているの。けれど、まだどのくらいの作業量を安定して回せるか、それに見合う報酬をお支払いできるか、そして何より……エマとご家族に危険が及ばないかを慎重に確かめている段階なのよ」
エマの夫が働く運送業者は、先日の二週間の物流試験に協力してくれた親方の一人だ。
だが、試験がうまくいったからといって、親方が長年の大口荷主であるローゼン侯爵系の商会を完全に敵に回してまで、エマの夫を守り切れるとは限らない。もちろん、エマの承諾もなく、夫の雇い主に彼女の就労希望を伝えるような真似は絶対にできなかった。
「ですから、今日ここでお返事をしなくていいの。あなたが納得して、安心できる条件が整うまで、私たちが無理に背中を押すようなことはしないわ」
「奥様……」
エマは安堵したように息を吐いたが、その瞳の奥にある翳りは消えなかった。
私が説明のために鞄から帳面の束を取り出したとき、その間に挟まっていた一枚の羊皮紙が滑り落ち、テーブルの端で止まった。
ハインツが作った、例の相談受付票の試作品だった。
エマの視線が、その紙に吸い寄せられた。
「これは……? 先日、市場で噂になっているのを聞きました。私たちが不当な嫌がらせを受けずに働けるよう、奥様が議会で新しい法律を作ってくださろうとしている、と」
「ええ。まだ審議の段階だけれど、もし第三者から不当な圧力をかけられたときに、商業ギルドや役所の窓口へ相談できる仕組みを作ろうとしているの」
エマはテーブルの上の紙に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼女の白く細い指先が、羊皮紙の一番上にある『相談者の氏名』という欄のすぐそばに触れた。
「……奥様。その相談票に、私の名前を書いても大丈夫ですか?」
静かな問いだった。
「これに名前を書いたら、一体、誰が読むのでしょうか?」
「それは……商業ギルドの担当職員や、調査を行う役所の担当官が……」
答えようとして、私の喉が凍りついたように詰まった。
エマはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、怒りでも不満でもなく、ただ家族を守ろうとする人間の切実な恐怖が揺れていた。
「私の夫が勤めている運送屋の親方は、商業ギルドにも顔が利くお人です。そして、親方に仕事を回している大きな荷主様たちは、お役所の偉い方ともお付き合いがあると聞きます。もし私が、この紙に自分の名前と、夫の勤め先と、脅された内容を書いて窓口へ出したら……その話が、調査の途中で荷主様や親方の耳に入ることはないのでしょうか」
「…………」
「前回は、私が工房を辞めることで、夫の仕事は守られました。けれど、もし『あそこの女房が役所に訴え出た』と知られたら、今度こそあの人は仕事を失うかもしれません」
レースのカーテンが隙間風に揺れ、テーブルの上に落ちた光の影がわずかに震えた。
エマは唇を噛み、絞り出すような声で続けた。
「私は働きたいです。娘に新しい靴も買ってやりたい。けれど、私が困っていると訴えたせいで、夫が仕事を失い、娘が路頭に迷うくらいなら……私は、何も言わない方を選びます」
胸の奥を、鈍い槌で殴られたような衝撃が走った。
私は昨日まで、従業員五十人で区切るローゼン侯爵の修正案をどうやって退けるか、どうやって少ない予算で全国の事業所を網羅するかという「制度の枠組み」ばかりを考えていた。すべてを常時監視するのではなく、窓口で相談を受けてから調査すれば費用は抑えられる、と気づいて満足しかけていたのだ。
だが、その一番最初の一歩である「相談する」という行為そのものが、弱い立場にある人にとっては生活のすべてを賭けた危険な橋になるということに、私はエマの口から言われるまで本当の意味では気づいていなかった。
「……ごめんなさい、エマ」
私はテーブル越しに手を伸ばし、小さく震えているエマの両手をそっと包み込んだ。
「奥様が謝られることでは……」
「いいえ、謝らせてちょうだい。私はあなたたちを守るための法律を作ろうとしていながら、窓口へ行くまでの足元がどれほど怖いか、ちゃんと見ようとしていなかったわ」
今ここで、「大丈夫よ、私が必ず守るから名前を書いて」と言うことは簡単だ。
けれど、まだ法律も成立しておらず、相談を受ける担当者の独立性も定まっていない段階でそんなことを言えば、それは公爵夫人の無責任な気休めにしかならない。
「今のままの仕組みでは、あなたに『大丈夫だから書いて』とは言えないわ。……でも、今日あなたがその怖さを隠さずに私へ教えてくれたおかげで、何を変えなければならないのかがはっきり見えたの。本当にありがとう、エマ」
エマは驚いたように目を見張り、それから、手の甲に落ちそうな涙を堪えるように深く頷いた。
「……お待ちしています、奥様。奥様が『もう大丈夫だ』と胸を張っておっしゃってくださる日まで、私は針を手入れしながら待っていますから」
彼女の手の温もりと、そのかすかな震えを手のひらに残したまま、私は再び考え始めていた。
助けを求める人が、助けを求めたことで傷つくような制度を、決してそのまま議会へ通すわけにはいかない。
◇
夕暮れの公爵邸へ戻ると、私はその足でアレクシスのいる執務室へと向かった。
エマ個人の事情や夫の勤務先が特定されるような詳細は伏せつつ、私は今日直面した根本的な矛盾を机の上に広げた。
「名前を届け出させなければ、誰がどこでどんな被害を受けたのか、証拠を確認することも難しいわ。でも、最初から名前を届け出させれば、報復を恐れて相談そのものを諦める人が出てしまう……」
外套を脱いでソファの肘掛けに置いたアレクシスは、私が並べた相談受付票の試作品と、手元の『相談を受ける者の独立性』というメモを見比べた。
「難しい問題だな。法務や行政の手続きから言えば、訴えられた事業主や第三者にも、必ず反論と弁明の機会を与えなければならない。誰からの訴えかも分からず、いつの出来事かも曖昧なまま行政が調査に入ったり処分を下したりすれば、それはそれで冤罪や悪意ある中傷の温床になる」
「ええ。ローゼン侯爵がそこを突いてくるのは目に見えているわ。実際、事業者側にとっても無実の疑いで取引を止められたら死活問題になるもの」
私は部屋の絨毯の上をゆっくりと歩きながら、頭の中で絡まり合った糸を一つずつ解きほぐしていった。
なぜ、相談受付票が一つしかないと思い込んでいたのだろう。
入り口から出口までを、一つの手続きで済ませようとするから無理が生じるのだ。
「……ねえ、あなた。入り口を二つに分けることはできないかしら」
私は足を止め、アレクシスを振り返った。
「二つに?」
「ええ。第一段階は『相談』。ここでは名前や夫の勤務先を明かさなくても、まずは事情を話せるようにするの。匿名での相談だけでは、すぐに行政が相手を調査したり処罰したりすることはできないわ。けれど、『そのケースが法律の保護対象になるかどうか』『今後どんな証拠や記録を残しておけばいいか』『万が一のとき、どこへ申し立てればいいか』という案内を受けることならできるはずよ」
暗闇の中でいきなり「名前を書いて飛び込め」と言われるから怖いのだ。
まずは名前を伏せたまま灯りのある場所へ立ち寄り、道順と安全を確かめられる場所があれば、最初の一歩の重さはまるで違ってくる。
「そして第二段階が、正式な『調査と救済の申し立て』。実際に調査を求める段階では、手続きの公正さを保つために本人確認を行うわ。ただし、その相談票に書かれた氏名や詳細に触れられる担当者を厳格に限定するの。申し立ての対象となった事業者や有力者と利害関係のある担当官は調査から外し、相談したことを理由に本人や家族を不利益に扱う『報復行為』そのものを、法律で明確に禁じるのよ」
アレクシスの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
彼は顎に手を当て、政治家としての実務的な思考を巡らせるように頷いた。
「なるほど……。相談と正式な申し立てを切り分けるわけか。それなら、根拠のない匿名の中傷で事業者がいきなり処分されることは防げるし、助けを求める側も、見通しを立ててから実名を出すかどうかを判断できる」
「さらに言えば、地方の役所や地元のギルド支部が有力貴族の影響下にあって信用できない場合のために、王都の中央窓口や別経路へ直接取り次いでもらえる道も残しておきたいわ」
「理屈としては非常に筋が通っている。だが、エレオノーラ。それを実現するには、誰が利害関係の有無を判断するのか、中央へ取り次ぐ費用や調査権限の法的根拠を既存の領主権とどう折り合いをつけるのか、詰めるべき課題がまだ山積しているぞ」
「ええ、分かっているわ。今日明日で完成する魔法の杖ではないもの。まずは制度の骨子として整理して、ハインツや法務に詳しい方たちと一つずつ検証していくわ」
私は机に向かい、新しい羊皮紙に二段階の仕組みを書き留めた。
羽根ペンを走らせるうちに、昼間のエマの瞳が脳裏に浮かび、私はふとペン先を止めて呟いた。
「……守るべきなのは、働く権利だけではなかったのね。助けてほしいと言える場所も、守らなければならないんだわ」
どれほど立派な条文を羊皮紙に刻んでも、そこにたどり着くまでの道が恐怖で塞がれていたら、法律は誰の手にも届かない。
窓の外はいつの間にかすっかり日が落ち、執務室にはランプの温かい琥珀色の光だけが満ちていた。
書き上げたばかりのメモを見つめていると、背後から静かな足音が近づき、アレクシスが私のすぐ隣に立った。湯気の立つ新しい紅茶のカップが、机の端にそっと置かれる。
「少し休め。夕方からずっと、息を詰めてペンを動かしているぞ」
「ありがとう、あなた」
私は羽根ペンを置き、カップに手を添えたまま、ふと湧き上がった問いを口にしていた。
「……ねえ、あなた。もし二十年前の私が、何かに困っているとあなたに相談したら……聞いてくださった?」
口に出してから、少しだけ胸がチクリと痛んだ。
二十年前、十八歳でこのクライス公爵家に嫁いできた頃の私たちは、政略結婚そのものの冷え切った夫婦だった。広い屋敷の中で交わすのは、朝の儀礼的な挨拶と、社交界の日程を確認する事務的な言葉だけ。当時の私は、この夫に自分の弱音や不安を打ち明けることなど、思いもしなかった。
アレクシスはすぐには答えなかった。
彼はランプの炎を見つめるように少しだけ視線を落とし、やがて、誤魔化すことのない静かな声で口を開いた。
「必要なことなら、聞いたと思う。公爵家の当主として、妻が屋敷の運営や社交で困っているという報告を受ければ、すぐに対処はしたはずだ」
そこで言葉を切り、アレクシスはゆっくりと私の方を向いた。
夜の光を映す灰色の瞳に、深い悔恨と、それを超える穏やかな熱が宿っていた。
「だが、君が本当に何を望んでいるのかまで、尋ねただろうか。君が相談票に名前を書くのをためらうような小さな不安や、誰にも言えない心細さを、当時の私は聞き取ろうとしなかった。君が『大丈夫です』と微笑めば、それに甘えて、その奥にある声を聞こうとしなかったのは私の方だ」
不器用なほど誠実なその答えに、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
彼は過去のすれ違いを「若かったから」と綺麗に塗り替えるのではなく、自分の至らなさとしてまっすぐに受け止めてくれていた。
アレクシスの大きな手が伸びてきて、カップに添えられていた私の指先にそっと重なった。
「今なら、君が何も言わなくても、一度は尋ねたいと思う。困っていることはないか、一人で抱え込んでいることはないか、と」
「……あなた」
「君が王国の女性たちのために、安心して声を上げられる場所を作ろうとしているのなら、私くらいは、君がいつでも迷わずに弱音を吐ける場所でありたい」
政治の制度として考えていた「声を聞くこと」が、二十年の歳月を越えて、目の前にいる夫からの愛の言葉となって胸に落ちてくる。
私は指先に伝わる確かな温もりを逃さないよう、自分から彼の手を握り返し、少しだけ悪戯っぽく微笑んで見せた。
「……では、さっそく一つだけ、匿名の相談ではなく実名でお願いしてもよろしくて?」
「ああ。どんな申し立てでも聞くとも」
「先日、徹夜を止められた夜にあなたが約束してくださったこと。私がずっと行きたがっていた街のレストランへ、二人きりで食事に行くというお話……まだ、時効にはなっていなくて?」
アレクシスの目元が、驚くほど柔らかく緩んだ。彼は私の手を軽く引き寄せ、その指先にそっと唇を落とす。
「もちろんだ。今度の休日は、公務も議会の資料もすべてこの部屋に置いていこう。予約は私が手配しておく」
「まあ、楽しみだわ。その日だけは、法律の話も帳簿の話も禁止ですわよ」
二人で声を重ねて微笑み合った、ちょうどそのときだった。
執務室の扉が控えめにノックされ、執事が一通の封書を盆に載せて入ってきた。
「旦那様、夜分に恐れ入ります。貴族院の専門委員会の事務方より、次回の審議に向けた急ぎの通達が届いております」
「ご苦労」
アレクシスが封蝋を割り、中の書面に目を走らせる。
先ほどまで穏やかだった彼の眉間が、一行読み進めるごとに深く寄っていくのが分かった。
「……あなた? 何かあったの?」
「ローゼン侯爵側から、委員会へ追加の検討項目が提出されたようだ。昨日の『従業員五十名以上』という適用範囲の制限案に続く、手続き上の条件だな」
アレクシスから手渡された書面を受け取り、私はランプの光の下でその文字列を追った。
『不当な就労妨害に関する申し立ての手続きについて――虚偽の申告による商業秩序の混乱および事業者への不当な中傷を防ぐため、申し立ては原則として実名による書面の届け出を必要とする。また、事実確認の迅速化を図るため、届け出は当該事案が生じた地域の担当機関が直接受け付けるものとする』
紙を持つ私の指に、自然と力がこもった。
まだ委員会での審議対象として提出された一案にすぎず、これが決まったわけではない。けれど、そこに書かれている理屈は、先ほどアレクシスが指摘した「虚偽申告の防止」や「手続きの迅速化」という正論で見事に武装されていた。
もし委員会で「五十名以上」という人数の壁を崩せたとしても、今度はこの「原則実名・地元窓口への直接届け出」という条件が通ってしまえばどうなるか。
有力貴族や大口荷主の息がかかった地域の窓口へ、自分の名前と夫の勤務先を書いた紙を直接持って行ける人など、ほとんどいなくなってしまう。
脳裏に、昼間の小応接室で聞いたエマの細い声が、鮮明に蘇った。
『……奥様。その相談票に、私の名前を書いても大丈夫ですか?』
法律を作ろうとしている私たちと、法律を骨抜きにしようとしているローゼン侯爵。どちらも表面上は「正しい手続き」を語っている。けれど、侯爵はこの条件が現場の女性たちにどれほどの恐怖を与えるか、正確に理解したうえで突きつけてきているのだ。
私は書面をゆっくりと机の上に重ね、静かに顔を上げた。
「……ローゼン侯爵。今度は、声を上げることさえ諦めさせるおつもりですのね」
ランプの炎が揺れ、机の上の二つの相談案に濃い影を落とす。
エマが針を手入れしながら待っていてくれる日を迎えるために、私は決して、あの震える声を置き去りにするわけにはいかなかった。
お読みいただきありがとうございました。
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