五十人以上ですって? では、四十九人の女性は見捨てろとおっしゃるの?
貴族院での審議から一夜が明けた。
公爵邸の執務室には、朝早くから紙をめくる音が響いている。
机の上に積まれているのは、商業ギルドに加盟する王都の事業者名簿と、各商会から提出された雇用人数の記録だった。
「……やっぱり、そういうことなのね」
私は一枚の集計表を見つめ、小さく息を吐いた。
向かい側では、クロエが眉間に皺を寄せている。
「奥様。王都の織物業と衣料品小売業について、ギルドの登録記録を確認しました」
彼女は指先で数字をなぞった。
「従業員五十人以上と届け出ている事業者は、調べられた範囲では全体の二割にも届きません。ほとんどが小さな工房や商店なんです」
「……そう」
私は資料へ視線を落とした。
昨日、ローゼン侯爵が提示した修正案。
従業員五十人以上の事業者との雇用契約に限って、不当な就労妨害から保護するというものだ。
一見すれば、制度を無理なく始めるための段階的な措置に思える。
けれど、この数字を見る限り、多くの事業者が最初から対象外になってしまう。
「しかも、ギルドに加盟していない店は、この名簿に入っていないのよね?」
「はい。下町の小さな作業場や、家族だけで営んでいる店までは把握できていません」
私は羽ペンを取り、集計表の余白に赤い線を引いた。
「五十人以上ですって? では、四十九人の女性は見捨てろとおっしゃるの?」
思わず漏れた言葉に、クロエが顔を上げた。
「……奥様?」
「ごめんなさい。少し腹が立ってしまったわ」
私は小さく息を吐いた。
もちろん、問題は四十九人の女性が働く職場だけではない。
従業員が五人の店でも、十人の工房でも、誰かが不当な圧力で仕事を失う可能性はある。
そこで働く人の権利が、職場の人数だけで変わってよいはずがない。
「ですが、奥様」
隣に座っていたハインツが、慎重に口を開いた。
「一つだけ、確認しておきたいことがあります」
「何かしら?」
「五十人以上の事業者が少ないからといって、そこで働く人まで少ないとは限りませんぞ」
私は手を止めた。
「……あ」
「大きな商会なら、一軒で百人、二百人を雇っているところもあります。事業者の数だけでは、実際に何人が保護されるのか分かりません」
……その通りだ。
私は思わず額に手を当てた。
「そうね。あなたの言う通りだわ」
クロエも慌てて別の帳簿を開いた。
「従業員数まで分かる商会もありますが、古い届出のままのところもありますね……」
「だったら、まずは分かる範囲を整理しましょう」
私は新しい羊皮紙を引き寄せた。
「五十人以上の事業者が何軒あるか。それぞれ何人を雇っているか。そして、五十人未満の事業者で働く人が、どれくらいいるか」
「……なるほど」
「ただし、数字が分からないところは、分からないと書くこと。勝手に推計して、正確な人数のように扱ってはいけないわ」
ハインツが感心したように頷いた。
「議会で反論されないためですな」
「それもあるけれど……」
私は名簿を見つめた。
「この数字の向こうに、人の生活があるからよ」
三十人の縫い子たち。
その中には、娘に新しい靴を買いたいと願っているエマもいる。
彼女たちが働いていた工房の規模は、五十人には届かない。
仮に侯爵の修正案がそのまま成立したとしても、彼女たちが受けたような圧力を防ぐことは難しいだろう。
(……それだけは、忘れたくないわね)
私は静かに息を吐いた。
「奥様」
クロエが少し不安そうに尋ねた。
「でも、これだけ大きな商会が少ないとなると、侯爵の案を受け入れるわけにはいきませんよね?」
「ええ。ただし、感情的に反対するだけでは駄目よ」
私は頷いた。
「侯爵が心配しているのは、小さな事業者にも法律を適用したときの費用と手間でしょう? そこを解決しなければ、中立派の議員たちは納得しないわ」
そう言いながら、私は机に広げられた名簿を見渡した。
王都には、大きな商会もあれば、小さな工房もある。
家族だけで営む店もあれば、何十人もの職人を抱える工場もある。
それらすべてに、同じような複雑な手続きを求めるわけにはいかない。
けれど、だからといって、小さな職場の人々を保護の対象から外してよいわけでもない。
(……さて。どうしたものかしら)
考え込んでいると、扉が控えめに叩かれた。
「お母様。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
顔を上げると、イザベラが立っていた。
その隣には、エドワード殿下の姿もある。
「まあ、二人とも」
私は思わず目を瞬かせた。
「今日は、王城でお勉強ではなかったの?」
「午前中に終わりましたので、こちらへ伺いました」
イザベラが答えた。
「お母様に、お見せしたいものがあるのです」
その手には、数通の手紙が握られていた。
エドワードも、薄い資料を一冊抱えている。
私は思わず微笑んだ。
(……ふふっ)
創立祭の前までなら、二人が揃って私の執務室を訪ねてくることなど、考えられなかっただろう。
それが今では、同じ課題について調べ、こうして一緒に相談に来てくれる。
……もっとも、母親としては、法案のこと以外にも少しばかり聞いてみたい話があるのだけれど。
今は我慢するとしよう。
「どうぞ。二人とも座ってちょうだい」
私は向かいの席を勧めた。
イザベラは丁寧に腰を下ろすと、手紙を机の上に並べた。
「以前、お茶会に来てくださった方々へ、それぞれの領地で女性がどのような仕事をしているのか、お尋ねしてみたのです」
「まあ」
私は手紙を手に取った。
差出人の中には、マーガレット伯爵令嬢の名前もあった。
「マーガレット様からも、お返事をいただけたのね」
「はい」
イザベラは少し嬉しそうに微笑んだ。
「伯爵領では、レース編みをしている女性が多いそうです。大きな工房よりも、少人数で集まって作業するところが多いと書かれていました」
私は手紙に目を落とした。
そこには、マーガレットらしい丁寧な文字で、領地の様子が綴られていた。
ただし、正確な事業者数や雇用人数までは分からないらしい。
彼女自身も、家の使用人や領地の職人から話を聞いた範囲だと断っている。
(……いいわね)
私は思わず頷いた。
知らないことを、知っているふりをしない。
マーガレットもまた、少しずつ変わり始めているのかもしれない。
「ほかの方々からも、似たようなお返事をいただきました」
イザベラが続けた。
「農村では、家族で農作業をしている方が多いそうです。町では、小さな店や工房を営むご家庭もあるとか」
「……なるほど」
「ですから、侯爵の五十人という条件では、こうした方々の多くが保護されないのではないかと思ったのです」
私はゆっくりと頷いた。
「ええ。可能性は高いわね」
そして、娘へ微笑みかけた。
「よく調べたわ、イザベラ」
その言葉に、娘の顔が明るくなった。
けれど、すぐに私は付け加えた。
「ただし、この手紙だけで、王国全体の状況が分かったとは言えないわ」
「……はい」
「でも、議会で確かめるべき問題を見つけるには、十分役立つ資料よ」
イザベラは少し考えてから頷いた。
「では、わたくしたちが知っていることと、まだ知らないことを分けてまとめます」
「ええ。それがいいわ」
私は微笑んだ。
そのとき、隣に座っていたエドワードが口を開いた。
「公爵夫人。僕からも、一つお話ししてよろしいでしょうか」
「もちろんです、殿下」
エドワードは手にしていた資料を広げた。
「王宮で閲覧を許された地方行政の記録を、少し調べてみたんです」
「まあ」
「ただ、各地の事業所の人数が、すべて載っているわけではありませんでした」
私は思わず身を乗り出した。
「……そうなのですか?」
「はい。大きな商会については記録がありますが、小さな工房や家族経営の店については、地域によって記載の仕方が違います」
エドワードは少し困ったように笑った。
「正直に言えば、僕は最初、王宮の資料を調べれば国全体の数字が分かると思っていたんです」
その言葉に、イザベラがくすりと笑った。
「殿下。わたくしも、そう思っておりましたわ」
「だろう?」
エドワードが苦笑する。
「ところが、調べてみると、税を納める商人の名前は分かっても、その店で何人が働いているかまでは分からないことが多くてね」
私は資料に目を落とした。
確かに、領地ごとの課税記録と、従業員数の記録は別物だ。
この国では、商業ギルドの情報ですら十分に揃っていない。
まして、王国全体の雇用人数を正確に把握することなど、簡単ではないだろう。
「……でも、殿下」
私は顔を上げた。
「それは、とても大切な発見ですわ」
エドワードが目を瞬かせた。
「……大切な発見、ですか?」
「ええ。侯爵は、五十人以上の事業者なら制度を運用しやすいと主張なさいました」
私は資料を指さした。
「けれど、そもそも従業員が何人いるのか、国が十分に把握できていないのであれば、その五十人という基準をどう確かめるのでしょう?」
エドワードが、はっとしたように顔を上げた。
「……確かに」
私は続けた。
「制度の負担を減らすために人数で区切っても、その人数を確認するために新たな手続きが必要になるかもしれません」
ハインツが、低く唸った。
「……なるほど。五十人以上かどうか調べるための仕事が、増えるわけですな」
「ええ」
私は頷いた。
「しかも、人数が四十九人になったり、五十一人になったりした場合に、いつから保護対象が変わるのかという問題も出てくるでしょう?」
クロエが思わず顔をしかめた。
「……それは面倒ですね」
「そうでしょう?」
私は小さく笑った。
「もちろん、人数で区切る方法が必ず悪いというわけではないわ。でも、侯爵の案が本当に運用を簡単にするのかは、確かめる必要があるのよ」
そのときだった。
「……お母様」
イザベラが、少し遠慮がちに口を開いた。
「一つ、よろしいでしょうか」
「なあに?」
娘は机の上の資料を見つめながら、ゆっくりと言った。
「そもそも、すべての商店を毎日調べる必要があるのでしょうか?」
私は手を止めた。
「……え?」
「お母様は先ほど、法律を守っているか確かめるために、たくさんの人手が必要になるとおっしゃいました」
「ええ」
「ですが……」
イザベラは少し考え込んだ。
「困っている方が相談に来たときに、調べるのではいけないのでしょうか?」
私は、しばらく娘を見つめた。
「……相談に来たとき?」
「はい。もちろん、それだけで十分なのかは分かりませんけれど」
娘は少し照れたように微笑んだ。
「わたくし、以前の教科書の件で、何か問題が起きたら、まず誰に相談するかが大切なのだと感じたのです」
リリアナの教科書がなくなった日のことだ。
あのとき、イザベラは相手を責めるのではなく、まず自分の教科書を貸し、一緒に勉強する道を選んだ。
失くなった原因が何だったのかは、今も分からない。
けれど、困った人を前にしたとき、どうすればいいのか。
娘は、あの出来事から自分なりに考えていたのだろう。
「……ですから」
イザベラは続けた。
「働く方が不当な圧力を受けたとき、まず相談できる場所があれば、すべてのお店を常に見張っていなくてもよいのではないかと思ったのです」
私は、思わず口元に手を当てた。
……そうか。
なんてことだろう。
私はいつの間にか、「法律を適用する」ということを、「すべての事業者を監督する」ことと結びつけて考えていた。
けれど、今回の法案が規制するのは、第三者による不当な就労妨害だ。
常に全店舗を監視しなければならないわけではない。
相談が寄せられたとき、必要に応じて調べる。
そのための仕組みなら、もっと小さな負担で始められるかもしれない。
「……イザベラ」
私はゆっくりと娘を見つめた。
「あなた、すごいわ」
「……え?」
娘が目を丸くした。
「お母様?」
「私、少し考え違いをしていたみたい」
私は机の上に新しい羊皮紙を広げた。
「もちろん、相談を受けるだけでは解決しない問題もあるわ。脅されている人が怖くて名乗り出られないこともあるでしょうし、証拠が残っていない場合もある」
「……はい」
「でも、すべての店を常に監視するよりは、現実的な方法かもしれない」
私はペンを動かし始めた。
「まず、既存の商業ギルドや地方の行政窓口で相談を受ける。そのうえで、必要な案件を担当官へつなぐ仕組みはどうかしら」
ハインツが、身を乗り出した。
「……それなら、商業ギルドでも協力できるかもしれません」
「ただし、ギルドに加盟していない人も相談できなければ困るわね」
私は続けた。
「それに、雇い主がギルドの有力者だったら、安心して相談できない可能性もある」
「……確かに」
クロエが頷いた。
「でしたら、ギルドだけで判断するのではなく、地方の役所とも連携できるようにする必要がありますね」
「ええ。そのとおりよ」
私は小さく微笑んだ。
「ギルドは相談を受ける。役所は必要に応じて調査する。もちろん、どこが何を担当するかは、今の制度を確認してから決めなければならないけれど」
エドワードが、静かに頷いた。
「……それなら、王宮の法務官にも相談できるかもしれません」
私は顔を上げた。
「殿下?」
「地方の行政官が、どこまで調査を行えるのか、僕も詳しく知りません。ですが、既存の仕組みを利用できるなら、新しい役所を一から作るより負担は少ないはずです」
「……ええ」
私は微笑んだ。
「ぜひ、お願いいたします」
エドワードは真剣な顔で頷いた。
「分かりました。確認してみます」
そのとき、イザベラが嬉しそうに口を開いた。
「殿下。では、わたくしも地方の令嬢たちに、今どのような相談先があるのか尋ねてみますわ」
「それは助かるよ」
エドワードが微笑んだ。
「ただ、あまり無理をしないでくれ。君には学園の勉強もあるだろう?」
「まあ。殿下こそ、歴史のお勉強をお忘れではありませんこと?」
「……またその話かい?」
エドワードが苦笑した。
イザベラは楽しそうに笑った。
「もちろんですわ。殿下が年号を間違えなくなるまでは、何度でも申し上げます」
「……それなら、君に教えてもらわないといけないな」
「ええ。喜んで」
二人は顔を見合わせ、柔らかく微笑み合った。
私は思わず目を細めた。
(……あらあら)
まったく。
いつの間に、こんなに自然に話せるようになったのかしら。
創立祭の夜、あれほどぎこちなかった二人が、今ではこうして冗談を言い合っている。
しかも、ただ恋人同士のように楽しそうなだけではない。
自分たちの未来の国について、一緒に考えようとしている。
……母親としては、嬉しくて仕方がない。
もっとも。
(……まだ、完全に安心したわけではないけれどね)
私はエドワードへちらりと視線を向けた。
娘を泣かせた前科があることは、忘れていない。
今のところ頑張っているようだけれど、信頼を取り戻すには、これからも努力してもらわなければ。
そんな私の視線に気づいたのか、エドワードが少し背筋を伸ばした。
……ふふっ。
よろしい。
その調子ですわ。
「……さて」
私は小さく咳払いをした。
「二人とも、ありがとう。おかげで、大切なことに気づけたわ」
イザベラが首を傾げた。
「……大切なこと、ですか?」
「ええ」
私は机の上に並べた資料を見渡した。
「法律を作るとき、何もかも新しい仕組みを用意しなければならないと思い込んでいたの。でも、すでにある仕組みを活用すれば、費用を抑えられる部分もあるかもしれない」
ハインツが頷いた。
「ギルドの相談窓口も、すでにある人員を使えるかもしれませんな」
「ええ。ただし、追加の仕事が増える以上、負担がどれほどになるかは確かめましょう」
私は微笑んだ。
「無理を押しつけてしまっては、また別の問題を作るだけですもの」
クロエが、少し感心したように頷いた。
「……本当に、少しずつ形になってきましたね」
「ええ」
私は頷いた。
「ただ、まだ足りないものがあるわ」
「……何でしょう?」
「誰が、どの費用を負担するのか。その具体的な仕組みよ」
私は新しい羊皮紙を取り出した。
「相談を受ける人の人件費。記録を保管する費用。調査が必要になったときの費用。それから、地方によって事情が違うことも考えなければならないわ」
ハインツが、腕を組んだ。
「……なるほど。ギルドの会費だけでは、すべてを賄うのは難しいでしょうな」
「ええ。それに、ギルドに加盟していない人も利用できる制度にしたいもの」
私は考え込んだ。
「国の予算を使う部分と、ギルドが協力できる部分を分ける必要がありそうね」
「……ですが、お母様」
イザベラが不安そうに尋ねた。
「王国の財政にも限りがございますでしょう?」
「ええ。もちろんよ」
私は微笑んだ。
「だからこそ、無駄な費用を増やさず、必要なところにお金を使う仕組みを考えるの」
「……難しそうですわね」
「ふふっ。本当にね」
私は思わず笑った。
けれど、不思議と気持ちは軽かった。
一人で考えていたときには、どこから手をつければよいのか分からなかった。
それが今では、問題をいくつかに分けて考えられるようになっている。
相談窓口。
調査の手続き。
記録の管理。
費用の分担。
そして、何より大切なこと。
従業員の人数にかかわらず、不当な圧力を受けた人が助けを求められること。
私は、机の端に置いていたエマの手紙へ視線を向けた。
あの人は、もう一度働きたいと願っている。
けれど、今の制度では、その願いを安心して叶えることができない。
もし、侯爵の五十人という条件を受け入れてしまえば、エマのような人たちは、これからも法律の外に取り残されるかもしれない。
(……それだけは、譲れないわね)
私は静かに息を吐いた。
「……皆、もう一つだけ聞いてちょうだい」
四人がこちらを向いた。
私は羊皮紙に、大きく二つの項目を書き込んだ。
一つは、法律による保護の対象。
もう一つは、法律を運用する方法。
「ローゼン侯爵は、この二つを一緒に考えているのだと思うの」
ハインツが眉を上げた。
「……と申しますと?」
「制度を運用するのが難しいから、最初から保護する人を減らそうとしているのでしょう?」
私は続けた。
「でも、本当にそれしか方法がないのかしら」
クロエが、はっとしたように顔を上げた。
「……保護する人を減らすのではなく、運用の方法を変える?」
「そうよ」
私は頷いた。
「例えば、相談窓口を少しずつ整備することはできるでしょう。地方ごとに、利用できる人員や施設も違うでしょうから」
私は、もう一度羊皮紙へ目を落とした。
「ただし、相談窓口の整備が遅れている地域の人を、法律の保護対象から外してよいわけではない」
エドワードが、静かに頷いた。
「……なるほど。権利そのものと、その権利を守るための手続きを分けて考えるわけですね」
「ええ」
私は微笑んだ。
「もちろん、法律だけあっても、助けを求める方法がなければ意味がないわ。だから両方必要なのだけれど」
イザベラが、真剣な顔で口を開いた。
「では、お母様。もし地方の窓口がまだ整っていない間に、誰かが不当な圧力を受けたら、どうすればよいのでしょう?」
私は少し考え込んだ。
……そうだ。
そこが問題なのだ。
既存の行政機関で受け付けるとしても、その権限が足りなければ新たな手続きが必要になる。
王都と地方では、役所の人員にも違いがあるだろう。
ただ「相談してください」と言うだけでは、何も解決しないかもしれない。
「……いい質問ね、イザベラ」
私は静かに答えた。
「そこは、これから調べなければならないわ」
娘は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……お母様にも、まだ分からないのですか?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「分からないことだらけよ」
その言葉に、クロエが小さく笑った。
ハインツも、困ったように肩をすくめる。
エドワードは、少し安心したような顔をしていた。
……あら。
皆、私が何でも知っているとでも思っていたのかしら。
それはそれで、少々困る。
「だから、一緒に考えてほしいの」
私は皆を見渡した。
「私一人では、この国のすべての事情を知ることはできません。けれど、商人の立場から見えることもあれば、議会や王宮から見えることもあるでしょう?」
そして、娘へ微笑みかけた。
「もちろん、あなたたち若い世代にしか見えないものもね」
イザベラの顔が、ぱっと明るくなった。
「……はい!」
エドワードも、静かに頷いた。
「僕も、できることを探してみます」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ああ。
本当に、ありがたいことだ。
三年後、断罪の舞台へ引きずり出されるはずだった娘が、今では自分の意思で人々の暮らしについて考えている。
そして、その隣には、少しずつではあるけれど、娘と同じ方向を向こうとしている婚約者がいる。
私が始めた改革は、いつの間にか、私一人のものではなくなっていた。
「……では、早速始めましょうか」
私は羽ペンを取り直した。
「ハインツには、ギルドが相談を受ける場合の人員と費用を。クロエには、小さな商店や工房が利用しやすい記録様式について、もう少し意見を集めてほしいの」
「承知しました」
「お任せください」
「殿下には、地方の行政機関がどこまで調査できるのか、確認をお願いできますか?」
「はい。王宮の法務官にも相談してみます」
「イザベラは、令嬢たちから届いた手紙を整理して、地方の暮らしについて分かることと分からないことを分けてまとめてちょうだい」
「はい、お母様!」
私は頷き、机に広げた資料へ目を落とした。
まだ、答えは出ていない。
予算も、人員も、制度の具体的な手続きも、これから考えなければならない。
それでも。
(……少し、見えてきたわね)
ローゼン侯爵が示した五十人という壁。
その壁をただ壊すのではなく、そもそも必要なのかを問い直す。
法律の保護を受けられる人を減らすのではなく、法律を使える仕組みを工夫する。
それなら、まだ道はあるかもしれない。
私は机の上の資料を、一枚ずつ並べ直した。
そのとき、エドワードがふと口を開いた。
「……公爵夫人。一つ、気になったことがあります」
「何でしょう、殿下?」
「地方の行政官が相談を受けられるとして、その人が有力貴族の意向に逆らえない場合は、どうなるのでしょうか?」
私は手を止めた。
「……え?」
エドワードは、少し慎重に言葉を続けた。
「例えば、ある領地で働く女性が、その領地の有力者と関係のある商人から圧力を受けたとします」
議場でローゼン侯爵が見せた笑みが、ふと脳裏をよぎった。
「その女性が地方の役所へ相談しても、役所の人間が有力者に遠慮してしまったら……」
私はゆっくりと息を呑んだ。
……そうか。
法律を使いやすくすることばかり考えていた。
けれど、法律を使おうとした人の訴えが、握り潰されてしまったら?
相談窓口があっても、そこが信頼できなければ意味がない。
むしろ、相談したことが相手に知られ、さらにひどい圧力を受けるかもしれない。
「……殿下」
私は静かに顔を上げた。
「とても大切なご指摘ですわ」
エドワードは、少し驚いたように目を瞬かせた。
私は机の上の羊皮紙を見つめた。
王国の法律を変えるというのは、思っていた以上に難しい。
新しい制度を作るだけでは足りない。
その制度が、権力を持つ者の都合で歪められないようにする必要がある。
それは、ローゼン侯爵のような有力貴族が存在するこの国では、決して避けて通れない問題だった。
(……なるほどね)
私は、ゆっくりと息を吐いた。
ローゼン侯爵。
あなたは、法律を運用するための費用がかかるとおっしゃった。
その指摘は、確かに正しい。
けれど、本当に考えなければならないのは、費用だけではないのですわね。
小さな工房で働く女性が、誰かの顔色を窺うことなく助けを求められること。
そして、その訴えが、公平に扱われること。
どれほど立派な法律でも、それを使う人が守られなければ意味がない。
私は新しい羊皮紙を取り出し、そこへ一つの項目を書き加えた。
『相談を受ける者の独立性』
その文字を見つめながら、私は静かに微笑んだ。
……さあ。
いよいよ、面白くなってきたではありませんか。
私が相手にしているのは、単なる一人の侯爵ではない。
この国に長く根を張ってきた、力を持つ者の都合で弱い者の声が消されてしまう仕組みそのものなのだ。
それを変えるのは、簡単ではないだろう。
けれど、私にはもう、一人で戦う必要がない。
私は机を囲む四人を見渡した。
クロエ。
ハインツ。
イザベラ。
そして、エドワード。
皆が、それぞれ真剣な表情で資料を見つめている。
その姿を見ていると、胸の奥に温かなものが広がっていく。
(……大丈夫)
まだ、できることはある。
誰かに選ばれることだけを願っていた娘が、今では自分の意思で未来を選ぼうとしている。
その未来を守るために、私もできることを尽くしたい。
私は羽ペンを取り、次の項目を書き始めた。
ローゼン侯爵との戦いは、まだ終わらない。
けれど、今回こそはっきりと分かったことがある。
守るべき人を減らすのではなく、守れる仕組みを作る。
それが、私たちの次の答えだった。
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