ローゼン侯爵。私が持ってきたのは理想ではなく、帳簿です
貴族院の大会議場には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
高い天井から吊るされた魔導灯が、半円形に並ぶ議席を白く照らしている。磨き上げられた石の床には、議員たちが交わす低い話し声が反響していた。
今日、議会で扱われるのは、女性の合法的な就労に対する不当な妨害を規制するための法案だ。
アレクシスと数名の賛同議員によって、ようやく正式な提出にこぎ着けた。
もっとも、法律が成立したわけではない。
本日は、その法案を専門の委員会へ付託し、詳しい審議へ進めるかどうかを決めることになっている。
その判断によって、これまでの努力が次の段階へ進むか、それとも議会の入り口で立ち往生するかが決まるのだ。
(……いよいよね)
私はアレクシスの隣で、膝の上に置いた資料をそっと押さえた。
前回の意見聴取では、ローゼン侯爵から厳しい問いを突きつけられた。
新しい制度を作れば、どれほどの費用がかかるのか。
小さな商店や工房に、どのような負担が生じるのか。
そして、女性の働く機会が広がることで、従来の労働者が不利益を受ける可能性について、どう考えるのか。
あれから、二週間。
私はクロエやハインツと協力し、可能な限りの資料を集めてきた。
けれど、正直に言えば、すべての問いに答えが出たわけではない。
「……緊張している?」
隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
アレクシスが、少しだけ口元を緩めている。
「ええ。少しだけ」
「珍しく素直だね」
「まあ。あなたは、私がいつも強がっているとお思いなの?」
「少なくとも、心配していないふりをするのは上手だと思っているよ」
私は思わず苦笑した。
……まったく。
最近の夫は、どうしてこうも私のことをよく見ているのだろう。
二十年も一緒に暮らしてきたというのに、以前は互いの気持ちを確かめようとさえしなかった。
それが今では、こんな短い会話で、私の緊張まで見抜いてしまう。
「……あなた」
「何だい?」
「もし、今日うまくいかなかったら……」
言いかけたところで、アレクシスがそっと首を振った。
「そのときは、また考えればいい」
私は目を瞬かせた。
「……また、ですか?」
「ああ。君はそうやって、何度も道を見つけてきただろう?」
夫は静かに微笑んだ。
「それに、今日は君一人で戦っているわけではない」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
私は小さく頷いた。
「……ええ。そうでしたわね」
ちょうどそのとき、議長の木槌が鳴った。
議場のざわめきが、ゆっくりと収まっていく。
「それでは、クライス公爵ほか賛同議員より提出された、就労妨害規制法案についての審議に入る」
私は背筋を伸ばした。
いよいよ、始まる。
◇
「……改めて申し上げますが、私はこの法案の理念そのものを否定しているわけではありません」
中央の演壇で、ローゼン侯爵が朗々と語っていた。
相変わらず見事な話しぶりである。
「不当な脅迫によって働く者の生活が脅かされる。それが望ましくないことは、誰もが認めるでしょう」
保守派の議席から、何人かが頷いた。
「しかし、問題は制度を作ったあとです。法律は、制定しただけで終わるものではありません」
侯爵は手元の資料を持ち上げた。
「訴えを受け付け、証拠を確かめ、不当な行為があったか判断する。そのためには、人も金も必要になります」
私は静かに耳を傾けた。
(……前回と同じ論点ね)
けれど、今日は少し違う。
侯爵の問いを、私はすでに理解している。
そして、答えを用意するために必要な準備もしてきた。
「王国には、日々の暮らしに精一杯の小さな商店や工房が数多く存在します。そうした者たちにまで、新たな制度への対応を求めることが、本当に国の利益になるのでしょうか」
侯爵は一呼吸置いた。
「クライス公爵夫人は、数字と仕組みを示すと約束なさった。ならば今日は、それを拝見したいものですな」
議場の視線が、こちらへ集まった。
私はゆっくりと立ち上がった。
「……もちろんですわ」
議長の許可を得て、演壇へ向かう。
前回と同じ石造りの議場。
同じように居並ぶ貴族たち。
けれど、不思議と足取りは軽かった。
私には、持ってきたものがある。
演壇に立つと、書記が用意してくれた机の上に、革表紙の帳簿を置いた。
ローゼン侯爵が、少し面白そうに眉を上げる。
「……ずいぶんと立派な書類ですな」
「ありがとうございます。商会の者たちが、丁寧にまとめてくれましたの」
私は帳簿の表紙に手を添えた。
「侯爵。前回、あなたは私にお尋ねになりましたわね。新しい制度によって生じる負担を、誰が引き受けるのかと」
「ええ。覚えておりますとも」
「その問いにお答えするため、私は商売の現場を見直してまいりました」
侯爵の視線が、帳簿へ落ちる。
私は静かに微笑んだ。
「**ローゼン侯爵。私が今日持ってきたのは、理想ではなく、帳簿です。**」
議場の一角から、小さなどよめきが起こった。
私は帳簿を開いた。
「まず、私たちの服飾事業についてご説明いたします」
書記たちが、事前に提出していた資料を議員へ配り始める。
「東部から仕入れる布の輸送について、私たちはこの二週間、小規模な試験を行いました」
私は資料の一箇所を指さした。
「対象は、継続的な取引のある四軒の生産者です。運送業者の親方たちにも協力していただき、荷の集約と配送経路の見直しを試しました」
何人かの議員が、資料に目を落とした。
「その結果、比較可能な荷物の輸送費は、従来の方法に比べて約六パーセント減少いたしました」
議場が、わずかにざわめいた。
「さらに、対象となった十二件の配送について、以前の同程度の期間には三件あった納品の遅れが、今回は一件に減っております」
「……ほう」
中立派の一人が、身を乗り出した。
「それは、なかなか興味深い数字ですな」
「ありがとうございます」
私は頷いた。
「ただし、今回の試験は規模が小さく、期間もわずか二週間です。天候や荷物の量によって結果は変わりますので、これだけで王国全体に同じ効果があるとは申し上げられません」
そう告げると、ローゼン侯爵がわずかに目を細めた。
「……では、成功したとは言えないのでは?」
「いいえ。少なくとも、試験した条件では改善が見られた、ということですわ」
私は落ち着いて答えた。
「実際にかかった費用を記録し、問題が起きたときの原因を確かめる。その繰り返しで、どこまで事業を広げられるか判断しようと考えております」
侯爵は何も言わなかった。
私は続けた。
「そして、この試験には、もう一つ大切な成果がございました」
「……何ですかな?」
「既存の運送業者の方々と、新しい仕事の進め方について合意できたことです」
議場が静かになった。
「当初、王都の運送業者からは反発もございました。私たちが外部から新しい御者を連れてきて、彼らの仕事を奪おうとしていると思われたのです」
何人かの議員が、顔を見合わせた。
「……実際、その懸念はもっともでした。仕事を効率化すれば、これまで必要だった手間が減ることもあります」
私は一度、言葉を切った。
「けれど、運送業者の方々と話し合い、まずは限られた期間だけ試してみることで合意いたしました。運送費や作業時間を確認し、その結果を互いに見せ合うことにしたのです」
私は資料の次の頁を開いた。
「試験期間中、協力してくださった運送業者に対して、予定していた仕事の一方的な取り消しは行っておりません。臨時に依頼した御者との契約も、約束どおり履行しました」
「……しかし」
ローゼン侯爵が口を挟んだ。
「それでは、新しい雇用が増えたわけではありますまい」
私は頷いた。
「ええ。今回の試験だけで、恒常的な新規雇用が生まれたとは申し上げられません」
議場の一角が、ざわついた。
侯爵の口元が緩む。
「……では、私の懸念は正しかったということですかな?」
「懸念を検証する必要がある、という点では、そのとおりですわ」
私は静かに答えた。
「ですが、侯爵。だからといって、働き手が増えれば必ず誰かの仕事が奪われると決まったわけでもありません」
私は議員たちへ視線を向けた。
「仕事の量は、最初から決まっているものではございません。新しい商品が生まれ、新しい買い手が現れれば、これまでになかった仕事が必要になることもあります」
私は、自分たちの事業で増えつつある作業を説明した。
布の品質を調べる仕事。
納品された品を仕分ける仕事。
古い服を補修し、もう一度使えるようにする仕事。
そして、それらを客へ届ける仕事。
「ただし、それらが実際に雇用として成り立つかどうかは、注文と売上によって決まります」
私は帳簿を閉じた。
「ですから、私たちはまず、事業を続けられるか確かめているのです」
中立派の議席から、低い声が上がった。
「……なるほど。無理に雇用を増やしたと主張しているわけではないのか」
「実績と見込みを分けているのは、評価できますな」
私は胸の奥で、小さく息を吐いた。
(……よかった)
誰もが賛成したわけではない。
けれど、少なくとも数字を誇張しているとは思われずに済んだらしい。
そのとき、ローゼン侯爵がゆっくりと口を開いた。
「……公爵夫人。一つ、確認させていただきたい」
「何でしょうか?」
「その帳簿は、あなたの商会のものですな?」
「ええ」
「ならば、利益が出たとしても、それはクライス公爵家の事業がうまくいったというだけの話でしょう」
私は頷いた。
「そのとおりですわ」
侯爵の眉が、わずかに動いた。
「……随分と素直に認められる」
「事実ですもの」
私は微笑んだ。
「私たちの商売がうまくいったからといって、王国全体の問題が解決するとは考えておりません」
そして、もう一冊の薄い資料を手に取った。
「ですから、ここからは法案そのものについてお話しさせてください」
議場が静かになった。
「侯爵は前回、新しい法律を運用するための費用や、小規模な事業者への負担についてご質問なさいました」
「……ええ」
「その点について、商業ギルドと協議を進めてまいりました」
私は資料を開いた。
「まず、今回の法案は、すべての商店や工房に複雑な帳簿を義務づけるものではございません」
何人かの議員が顔を上げた。
「現在検討しているのは、雇用契約に関する簡単な記録様式を、希望する事業者へ提供することです」
私は書記から見本の用紙を受け取った。
「雇い始めた日、約束した仕事内容、賃金、支払日。最低限の情報を記録できるようにしたものです」
その用紙は、複雑な書類ではなかった。
文字を書く欄をできるだけ少なくし、記入する場所が分かりやすいよう整えてある。
「文字を書くことが苦手な方については、ギルドの書記が相談を受ける方法も検討しております」
「……それを、すべての商店へ義務づけるのですかな?」
侯爵が尋ねた。
「いいえ。現段階では任意の仕組みです」
私は答えた。
「記録があれば、雇い主にとっても、約束した内容を説明しやすくなります。働く側だけでなく、双方を守るためのものにしたいと考えております」
「しかし、相談を受けるにも費用がかかるでしょう」
「ええ。その点については、まだ検討が必要です」
私は頷いた。
「ただ、商業ギルドでは、まず既存の窓口を利用して、試験的に相談を受けられないか協議しております。どれほどの件数が寄せられ、どの程度の人手が必要になるのかを確かめるためです」
私は議員たちを見渡した。
「もちろん、制度が本格的に始まれば、ギルドだけで担えるとは限りません。費用をどこが負担するのかについても、今後の審議で決めなければならないでしょう」
議場に、しばらく沈黙が落ちた。
私は静かに続けた。
「ですが、負担があるかもしれないからといって、何も調べずに諦めてしまえば、いつまで経っても問題は解決いたしません」
その声が、石造りの議場に響いた。
「私は、すべての問題を解決したと申し上げに来たのではございません」
一呼吸置く。
「**問題を解決するために、何を調べ、何を決めなければならないのか。その道筋を示しにまいりました。**」
静かなざわめきが、議場に広がった。
私は、ローゼン侯爵へ視線を向けた。
「ですから、どうか正式な審議の場で、具体的な仕組みを議論する機会をいただきたいのです」
◇
演壇を降りると、アレクシスが静かな笑みで迎えてくれた。
「……見事だったよ」
「まだ結果は出ておりませんわ」
私は小声で答えた。
「それに、数字が少し地味すぎたかもしれません」
夫は小さく笑った。
「六パーセントという数字を、百五十パーセントと言い換えなかったところがよかった」
「まあ。そんなことをしたら、後で帳簿を見られたときに困りますもの」
「そうだね」
アレクシスは私を見つめた。
「議会で必要なのは、一度の演説で相手を黙らせることだけではない。次もその人の話を聞こうと思ってもらえることなんだ」
私は思わず目を瞬かせた。
「……そういうものですのね」
「ああ。君は今、その信用を少しずつ手に入れている」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
私はそっと頷いた。
「……ありがとうございます」
けれど、安心するには早かった。
議場の中央で、ローゼン侯爵がゆっくりと立ち上がったからだ。
「……議長。発言をよろしいかな」
木槌が鳴り、侯爵に発言が許された。
私は思わず背筋を伸ばした。
(……まだ、何かあるのね)
ローゼン侯爵は、手元の資料をゆっくりと整えた。
その動作に、焦りは見えない。
むしろ、最初からこの場面を待っていたかのような落ち着きぶりだった。
「クライス公爵夫人のご説明、興味深く拝聴いたしました」
侯爵は、よく通る声で話し始めた。
「小規模な試験とはいえ、実際に記録を取り、費用を確かめた姿勢は評価すべきでしょう」
意外な言葉に、議場がざわめいた。
私は眉をひそめた。
(……あら?)
これまで反対してきた侯爵が、こちらを評価する?
……嫌な予感しかしない。
「そこで私は、この法案を正式な審議に進めることには、反対しないと申し上げておきましょう」
議場のざわめきが、一段と大きくなった。
私は思わずアレクシスを見た。
夫は、険しい表情で侯爵を見つめている。
「……ただし」
その一言で、議場が静まり返った。
侯爵は、薄く笑った。
「先ほど公爵夫人ご自身も認められたように、試験の規模は小さく、制度の運用については未解決の課題が残っております」
「……ええ」
私は小さく呟いた。
侯爵は続けた。
「ならば、最初から王国全土へ一律に適用するのではなく、まずは十分な管理能力を持つ事業者から始めるのが妥当ではありませんかな?」
数名の議員が頷いた。
「そこで、委員会では一つの修正案を提出したいと考えております」
侯爵は資料を持ち上げた。
そして、はっきりと告げた。
「**本法案の保護対象を、常時五十名以上の従業員を雇用する事業者との雇用契約に限定する。**」
私は息を呑んだ。
(……五十名以上?)
侯爵は、さらに続けた。
「まずは大規模な商会や工房で制度を運用し、その成果と費用を確かめる。そのうえで、必要があれば適用範囲を広げていく」
保守派の議席から、賛同の声が上がった。
「それならば、無理なく始められますな」
「小さな店に余計な負担をかけずに済む」
中立派の中にも、考え込む者が現れた。
確かに、一見すれば穏当な提案である。
新しい制度を、まず規模の大きな事業者で試す。
そこだけ聞けば、慎重で現実的な対応に思えるだろう。
けれど。
(……違うわ)
私は膝の上で、そっと指を握りしめた。
これは、そんな単純な話ではない。
今回の法案が守ろうとしているのは、小さな工房や商店で働く女性たちも含めた、合法的な就労の機会だ。
にもかかわらず、雇い主の従業員数によって保護対象を限定すれば、最も立場の弱い人々が取り残されてしまう。
例えば、エマ。
彼女が働いていた工房は、五十人もの従業員を抱える大事業所ではない。
ほかの小さな縫製工房も、同じだ。
そこに働く女性の家族が脅されても、侯爵の案では、法律による保護の対象外になりかねない。
しかも、圧力をかける側が大きな商会であっても、被害者の勤め先が小さければ適用されないという事態さえ起こり得る。
(……なんてこと)
私は思わず唇を噛んだ。
ローゼン侯爵は、こちらの主張を正面から否定していない。
むしろ、一定の理解を示したうえで、法律が守る範囲を狭めようとしている。
そうすることで、改革の中心にあるはずの人々を、制度の外へ置き去りにするつもりなのだ。
「……侯爵」
私は立ち上がろうとした。
けれど、その前にアレクシスがそっと声をかけた。
「エレオノーラ」
私は振り返った。
夫は真剣な表情で、私を見つめていた。
「……今は、聞こう」
「でも、あなた……」
「修正案は、まだ成立していない」
その言葉に、私は動きを止めた。
「今日は、法案を委員会へ付託するかどうかの審議だ。侯爵が提示した内容は、これから争うべき修正案にすぎない」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
……そうだった。
ローゼン侯爵の言葉に、危うく飲み込まれるところだった。
今ここで、すべてを決着させる必要はない。
むしろ、今日の目的は、議会で正式な検討を始めることだ。
その機会を得られなければ、五十人という条件について争うことすらできない。
私は椅子に座り直した。
「……分かりましたわ」
アレクシスが静かに頷く。
その間にも、侯爵は議場へ向けて語り続けていた。
「私は、改革を否定しているのではありません。改革を成功させるために、順序を守るべきだと申し上げているのです」
侯爵はそこで、こちらへ視線を向けた。
「いかがかな、クライス公爵夫人。まずは大きな商会から始めるというのも、現実的な一歩ではありませんか?」
私は立ち上がり、議長の許可を得て答えた。
「……慎重に制度を運用すべきだという点には、賛成いたします」
侯爵の口元が緩んだ。
「それは結構」
「ですが」
私は静かに続けた。
「従業員が四十九人の工房で働く女性と、五十人の工房で働く女性。その二人が同じ脅迫を受けたとしたら、片方だけを法律で守る理由は何でしょうか?」
議場が静かになった。
侯爵は少しだけ眉を上げた。
「……だからこそ、段階的に制度を広げていくと申し上げているのです」
「では、その段階を進める条件は、どのようにお決めになるのでしょう?」
「それは、委員会で議論すべきことでしょうな」
「ええ。私もそう思います」
私は頷いた。
「ですから、その点についても、十分な審議をお願いしたいのです」
侯爵の笑みが、わずかに深まった。
「……もちろんですとも」
その返事を聞きながら、私は改めて理解した。
この男は、まだ何も譲っていない。
全面的に反対することをやめただけだ。
むしろ、法案の中身を変えるために、次の戦いへ進もうとしている。
(……本当に、厄介な相手ね)
けれど、私も引き下がるつもりはなかった。
◇
やがて、議長が木槌を鳴らした。
「それでは、本法案を所管委員会へ付託することについて、採決を行う」
議場の空気が張り詰めた。
私は、思わず背筋を伸ばした。
今日までの努力が、ここで一つの結果を迎える。
賛成票が足りなければ、法案は次の審議へ進めない。
私は祈るような気持ちで、議員たちの動きを見守った。
保守派の中にも、委員会での検討には賛成する者がいる。
中立派の議員たちは、最後まで互いに視線を交わしていた。
あの中には、イザベラのお茶会に参加した令嬢や令息の父親もいる。
娘や息子から何を聞いたのか、私には分からない。
けれど、少なくとも何人かは、以前よりも真剣に法案の資料へ目を通してくれていた。
やがて、票が数えられた。
議長が立ち上がる。
「……賛成多数」
私は思わず息を止めた。
「本法案は、所管委員会へ付託することとする」
その瞬間、議場の一角から拍手が起こった。
私は椅子の上で、そっと目を閉じた。
(……よかった)
ようやく。
ようやく、ここまで来た。
布の供給を止められた日。
縫い子たちが工房を去っていった日。
議会への働きかけを始めたときも、何度も行き詰まりそうになった。
それでも、諦めずに進んできた。
その結果、私たちの法案は、正式に議会で検討されることになったのだ。
(……エマ)
私は、あの手紙を思い出した。
娘の靴を、もう一度自分のお金で買いたい。
そんな、ささやかな願い。
その願いを守るための仕組みが、ようやく議会の中へ入った。
もちろん、まだ法律になったわけではない。
それでも、何も変わらなかった昨日までとは違う。
私は胸の奥に込み上げるものを抑えながら、そっと息を吐いた。
「……おめでとう、エレオノーラ」
隣で、アレクシスが静かに告げた。
私は夫を見上げた。
「……あなた」
「まずは、一つ目の扉が開いたね」
その言葉に、私は小さく笑った。
「ええ。でも……」
私は議場の反対側へ目を向けた。
ローゼン侯爵は、すでに席を立とうとしていた。
その表情に、敗北を悔しがる様子はない。
むしろ、どこか満足げに見えた。
「……あの方、まだ何かお考えのようですわね」
「当然だろうね」
アレクシスは頷いた。
「五十人という数字を出してきた以上、委員会ではそれを中心に議論を進めるつもりだろう」
「……ええ」
「それに、適用範囲を狭めるという提案は、慎重な中立派にとって魅力的に映る可能性がある」
私は静かに息を吐いた。
「分かっておりますわ」
今回、私たちは勝った。
けれど、同時に新しい問題も生まれた。
ローゼン侯爵は、法案を潰すことよりも、実効性を失わせることを選んだのだ。
従業員五十名以上。
その条件が通れば、私たちが守ろうとしている女性たちの多くは、制度の外へ置かれる。
エマも、その一人だ。
私は膝の上で、そっと手を握りしめた。
「……あなた」
「何だい?」
「次の委員会までに、調べたいことがあります」
アレクシスが、興味深そうにこちらを見た。
「ほう?」
「王都で働く女性たちのうち、五十人未満の事業所で働いている方が、どれほどいらっしゃるのか」
私は続けた。
「それから、今回のような第三者からの圧力が、どのような規模の職場で起きているのかも知りたいのです」
夫は静かに頷いた。
「……なるほど。侯爵の案で、誰が保護の対象から外れるのかを調べるわけだね」
「ええ」
私は微笑んだ。
「五十人という数字がどれほどの意味を持つのか、きちんと確かめたいのです」
「いい考えだ」
アレクシスは少し考えてから続けた。
「ただし、王都全体の数字を正確に集めるのは難しいだろう。ギルドに加盟していない事業者もいるし、雇用記録が十分でない店もある」
「承知しておりますわ」
私は頷いた。
「ですから、把握できる範囲と、まだ分からない範囲を分けて資料にまとめます」
夫は、ゆっくりと微笑んだ。
「……本当に、君は頼もしくなったね」
「まあ。またそのお話ですか?」
私が笑うと、アレクシスも小さく笑った。
「何度でも言いたくなるんだよ」
……困った人だ。
こんな場所で、そんなふうに言わないでほしい。
顔が熱くなってしまうではないか。
私は少しだけ視線を逸らした。
すると、夫がそっと手を差し出してきた。
「……帰ろうか、エレオノーラ」
私は、その手を見つめた。
以前なら、議会での成果を一刻も早く確認しようと、資料を抱えて一人で執務室へ戻っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
私は夫の手を取り、静かに微笑んだ。
「……ええ。帰りましょう」
そして、少しだけ意地悪く付け加えた。
「もっとも、帰ったらまたお仕事ですわよ?」
アレクシスが苦笑する。
「やはり、そうなるのかい?」
「当然ですわ」
私は笑った。
「だって、あなた。まだ肝心の法律ができておりませんもの」
「……そうだったね」
夫も笑った。
私はその手を握り返しながら、議場を振り返った。
今日、私たちは確かに一歩前へ進んだ。
けれど、ローゼン侯爵は次の障害を用意している。
五十人という、たった一つの数字。
その数字によって、守られる者と、守られない者が分かれてしまう。
(……ローゼン侯爵)
私は胸の中で、そっと呟いた。
あなたは、現実的な妥協案を出したつもりなのでしょう。
けれど、法律というものは、紙の上で綺麗に整っていればよいわけではありません。
その法律によって、実際に誰が守られるのか。
そして、誰が置き去りにされるのか。
私は、その両方を確かめたいのです。
私の改革は、立派な商会で働く一部の女性だけを守るためのものではありません。
小さな工房で針を動かす女性も。
家族の仕事を失わせると脅され、泣く泣く職場を去った女性も。
もう一度働いて、娘に新しい靴を買ってあげたいと願う母親も。
同じように、守られるべきなのだから。
私は夫の隣に並び、貴族院の扉へと歩き出した。
法案は、ようやく正式な審議の場へ進んだ。
けれど、本当の戦いはまだ終わらない。
**従業員五十人以上。**
その数字の向こう側に取り残される人々の声を、今度こそ議会へ届けてみせる。
それが、私たちの次の仕事だった。
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