奥様。新しい仕事ができたのに、誰も喜んでくれません
「奥様。新しい仕事を作ろうとしたのに、誰も喜んでくれません」
公爵邸の執務室に入ってくるなり、クロエが情けない声を上げた。
いつもは商売の話となれば目を輝かせる彼女が、今日は珍しく肩を落としている。手にした報告書も、何度も開いたのか端が少し折れ曲がっていた。
「あら。まだ試験運用も始まっていないでしょう?」
「だから困っているんです。始める前から、荷を運んでもらえなくなりそうなんですよ」
クロエは椅子に腰を下ろすと、深々とため息をついた。
先日、私たちは東部から仕入れる布について、集荷と検品の方法を見直すことにした。
小さな生産者から届く荷を一定の場所に集め、品質や数量を確かめてから王都へ運ぶ。その仕組みがうまくいけば、余計な運送費を抑えられるし、納品までの時間も短くできるかもしれない。
もちろん、まだ計画段階である。
まずは取引の安定している数軒の生産者に協力を依頼し、限られた荷物で試してみるつもりだった。
ところが。
「王都で荷を運んでいる親方たちが、私たちの仕事を引き受けたがらないんです」
「……どうして?」
「よそから新しい運び手を連れてきて、自分たちの仕事を奪うつもりだと思われています」
私は思わず眉をひそめた。
「新しい運び手?」
「はい。試験に使う荷の一部を運ぶため、東部の商人から紹介された御者を二人、臨時で手配したでしょう?」
「ああ……」
思い当たった。
王都の運送業者に正式な依頼を出す前に、試験用の荷を運べる者がいるか確かめてもらっていたのだ。
まだ継続的な雇用を約束したわけでも、大規模な輸送を始めたわけでもない。
けれど、事情を知らない者から見れば、外部の商人と御者が王都で荷の運搬を始めようとしているように映ったのだろう。
「運送業者の一人からは、直接苦情が届きました。王都の道を知らない連中を使うくらいなら、うちに頼めばよかっただろうって」
「……それは、もっともね」
クロエが驚いたように顔を上げた。
「奥様?」
「考えてみれば、私たちは彼らの立場を十分に考えていなかったわ」
私は机の上に広げた王都の地図を見つめた。
新しい仕事が生まれる。
それは、私たちにとって喜ばしいことだ。
けれど、すでにその仕事で暮らしている人々から見ればどうだろう。
突然、どこかの大商会が新しい運び手を連れてきて、これまで自分たちが請け負っていた荷まで運び始める。
仕事が増えるという説明を聞く前に、自分たちの仕事がなくなるのではないかと警戒するのは当然だ。
(……ローゼン侯爵の言葉が、こんな形で返ってくるとはね)
私は小さく息を吐いた。
仕事の数を増やせば、それだけで誰もが幸せになる。
そんな単純な話ではなかったのだ。
「……奥様。どうしましょう?」
クロエが不安そうに尋ねた。
「公爵家から正式に依頼を出していただければ、断る親方はいないと思いますけど……」
「それは最後まで取っておきましょう」
私は首を振った。
「いえ、できれば使いたくない手ね」
「……ですよね」
「商売を続けるために必要なのは、怖がらせて荷を運ばせることじゃないわ。次も仕事を引き受けたいと思ってもらうことよ」
私は扇を手に取り、ゆっくりと閉じた。
「クロエ。親方たちに会えないかしら」
「直接、ですか?」
「ええ。南区画の店舗で話をしたいと伝えてちょうだい。こちらの計画を説明する前に、まず何を心配しているのか聞かせてもらいたいの」
クロエは少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの快活な笑みを浮かべた。
「……分かりました。すぐに連絡を取ってみます」
私は頷いた。
議会では、女性の仕事を守るための法律について議論している。
その私が、新しい商売を始めるために別の誰かの生活を脅かしてしまったら、何のための改革なのか分からない。
(……しっかりしなくちゃね)
私は地図を折り畳み、立ち上がった。
◇
その日の午後。
南区画の店舗の奥にある荷捌き場には、三人の運送業者が集まっていた。
いずれも王都で長く荷運びを営んできた親方たちである。
日焼けした顔に、使い込まれた上着。大きな手には、長年馬の手綱や荷縄を握ってきた者らしい厚い皮膚が見えた。
もっとも、表情はあまり友好的ではない。
「……公爵夫人」
口を開いたのは、三人の中で最も年嵩の男性だった。
太い眉の下から、こちらをじろりと見ている。
「先に申し上げておきますが、俺たちは揉め事を起こしたいわけじゃありません」
「ええ。承知しております」
「ただ、仕事は守らなきゃならんのです」
親方は低い声で続けた。
「俺のところじゃ、御者が六人働いている。荷を運べなきゃ、その六人に払う金がない。そいつらの家には女房も子供もいるんですよ」
私は静かに頷いた。
「……ええ」
「そこへ、よそから来た御者が新しい仕事を始めると聞いた。しかも、相手は公爵家が後ろについてる大商会だ」
親方は腕を組んだ。
「そりゃ、俺たちの仕事がなくなるんじゃないかと思いますよ」
その言葉には、怒りよりも切実な響きがあった。
私は思わず胸の奥が痛くなった。
(……そうよね)
私たちにとっては、小規模な試験のための臨時手配だった。
けれど、彼らにとっては自分たちの将来を脅かしかねない話だったのだ。
「……まずは、お詫びしなければなりませんわね」
私は三人に向かって、静かに頭を下げた。
親方たちが、ぎょっとしたように顔を見合わせる。
「お、おい。公爵夫人が何を……」
「ご相談する前に外部の御者を手配してしまったことは、私たちの配慮が足りませんでした」
私は顔を上げた。
「ですが、皆様の仕事を奪うことが目的ではないのです。そのことだけは、最初にお伝えさせてください」
年嵩の親方は、しばらく私を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……じゃあ、何がしたいんです?」
「布の集荷と検品を、もう少し効率よくできないか試したいのです」
私はクロエに合図した。
彼女が王都周辺の地図と、現在の配送記録を机に広げる。
「今は小さな仕入れ先から届く荷を、その都度、別々に運んでいます。荷の到着が重なれば、運び手も荷捌き場も混雑してしまう」
私は地図の一点を指さした。
「ですから、何軒かの荷をまとめ、決まった日に運べないかと考えております」
親方の一人が、地図を覗き込んだ。
「……その道は駄目だな」
「え?」
思いがけない指摘に、私は顔を上げた。
「ここの橋は、大雨のあとに車輪が埋まるんだ。荷を積んだ馬車じゃ、予定どおりに通れねえ」
別の親方も口を挟んだ。
「それに、南区画のこの通りは市場の荷車が多い。朝の混む時間に通ったら、半刻は余計にかかるぞ」
私は思わず地図を見直した。
……なるほど。
紙の上では最短の道でも、実際に荷馬車が通りやすいとは限らない。
「でしたら、こちらの道なら?」
私が尋ねると、最初の親方は首を横に振った。
「遠回りだ。こっちの通りに入って、裏手から回った方が早い」
そう言って、太い指で地図をなぞる。
その動きに迷いはなかった。
私は思わず感心した。
「……よくご存じですのね」
「そりゃあ、何十年も荷を運んでますから」
親方は少しだけ胸を張った。
「どの道が混むか、どの門番が時間に厳しいか、雨が降ったらどこを避けるべきか。そういうことなら、俺たちの方が詳しいですよ」
「ええ。本当に、そのようですわ」
私は微笑んだ。
「実は、今日お願いしたかったのは、その知恵なのです」
三人の親方が、こちらを見た。
「……知恵?」
「はい。私たちは服を作り、売ることについては少しずつ経験を積んできました。けれど、荷を運ぶことについては、皆様ほど詳しくありません」
私は地図に手を添えた。
「ですから、皆様のお力をお借りしたいのです」
親方たちは、しばらく黙っていた。
やがて年嵩の男性が、慎重に尋ねた。
「……つまり、俺たちに荷を運ばせたいと?」
「ええ。ただし、一方的に依頼するのではなく、どのようなやり方なら皆様にとっても利益があるのか、一緒に考えたいと思っております」
私は、クロエに用意してもらった試算表を広げた。
「まずは限られた量の荷で、二週間ほど試してみたいのです。皆様にはその間、実際にかかった時間や費用を記録していただきたい」
「……二週間?」
「はい。効率がよくなったとしても、皆様の収入が減ってしまうようでは意味がありませんもの」
私は続けた。
「試験に必要な運送費は、事前に相談して決めます。荷が予定より少なかった場合も、皆様が準備にかけた費用を無視するつもりはございません」
三人の表情が、少しだけ変わった。
けれど、すぐに賛成とはならなかった。
「……公爵夫人」
年嵩の親方が、再び口を開いた。
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「もちろんです」
「その試験がうまくいったら、どうなるんです?」
私は少し考えた。
「……うまくいった場合、ですか」
「ああ。今まで五台の馬車で運んでいた荷が、三台で済むようになったとしたら?」
親方は私を真っ直ぐに見据えた。
「商会は運送費が安くなって喜ぶでしょう。でも、仕事が減った残りの二台は、どうすりゃいいんです?」
私は言葉を失った。
……痛いところを突かれた。
効率化によって余分な手間を減らす。
それは経営者として正しい発想だ。
けれど、その手間を仕事として収入を得ている人にとっては、必ずしも喜ばしいことではない。
(……本当に、そうね)
私は少しだけ目を伏せた。
「……おっしゃる通りですわ」
親方の眉が動いた。
「では、やはり俺たちの仕事を減らすつもりで?」
「いいえ。ただ、今の私には、皆様の仕事が必ず増えるとお約束することはできません」
その言葉に、三人の顔が険しくなった。
けれど、私は続けた。
「ですから、試験をして確かめたいのです。運送費が下がれば、これまで扱えなかった注文を受けられるようになるかもしれません。新しい取引先へ荷を届ける仕事が増える可能性もあります」
私は地図へ視線を落とした。
「けれど、実際に注文が増えなければ、新しい仕事も生まれませんわ」
親方は黙って聞いていた。
「その場合には、事業を広げるかどうか、改めて相談させてください。私たちの都合だけで決めるつもりはございません」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、一番若い親方が口を開いた。
「……話は分かりました。でも、よそから来た御者の二人はどうするんです?」
私はクロエを見た。
「その二人には、今回の試験のために約束した仕事があるのよね?」
「はい。期間を区切ってお願いしています」
「でしたら、その約束は守ります」
私は親方たちへ向き直った。
「ただ、皆様の仕事と競合しないよう、運ぶ荷や担当する区間について、改めて調整させていただきたいのです」
「……なるほど」
「その二人も、仕事を探している働き手です。皆様の生活を守るために、今度は彼らを一方的に切り捨てることはしたくありません」
年嵩の親方が、ゆっくりと息を吐いた。
「……難しいことを言う人だな、あんたは」
「ええ。自分でも、少し欲張りだと思いますわ」
私は微笑んだ。
「でも、できることなら、皆様に納得して働いていただきたいのです」
親方は、しばらく私を見つめていた。
それから、ふっと口元を緩めた。
「……分かりました」
私は思わず身を乗り出した。
「では……?」
「試すだけなら、うちで引き受けましょう」
「本当ですか?」
「ただし、条件があります」
親方は太い指を一本立てた。
「運送費を一方的に下げないこと。荷が増えたら、その分の手間賃をきちんと払うこと。それから、試験が終わったら、結果を俺たちにも見せてもらいたい」
私は、すぐに頷いた。
「もちろんですわ」
「それなら、二週間だけ付き合ってみます」
隣の親方たちも、互いに顔を見合わせた。
「……俺のところも、荷の仕分けなら手伝えるかもしれねえ」
「うちは朝の配送が多いから、午後の便なら空きがあるぞ」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰も、利益が倍になるなどと約束していない。
新しい仕事が必ず生まれると保証したわけでもない。
それでも、彼らは試してみようと言ってくれた。
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「皆様のお力をお借りできること、とても心強く思います」
年嵩の親方が、照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、まだ何も決まっちゃいませんがね」
「ええ。これからですわ」
私は微笑んだ。
「だからこそ、よろしくお願いいたします」
差し出した手を、親方は少し驚いたように見つめた。
それから、ごつごつとした大きな手で、しっかりと握り返してくれた。
その手は温かく、驚くほど力強かった。
◇
「……奥様。正直、もっと揉めると思っていました」
公爵邸へ戻る馬車の中で、クロエがようやく安堵の息を吐いた。
窓の外では、夕暮れの王都を人々が行き交っている。
「私もよ」
私は素直に答えた。
「でも、話してみてよかったわね」
「はい。あの親方たち、すぐに配送記録を調べると言っていました」
「ええ。まずは今ある仕事の中で、何が改善できるかを確かめましょう」
私は膝の上に置いた地図を見つめた。
今日の交渉は、確かに前進だった。
けれど、まだ一つの荷物も運んでいない。
試験を始めてみれば、きっと予想外の問題が出てくるだろう。
運送費が思うように下がらないかもしれないし、荷の到着が遅れるかもしれない。
そもそも、注文が増えなければ、新しい雇用は生まれない。
(……焦ってはいけないわね)
私は小さく息を吐いた。
ローゼン侯爵に早く結果を見せたい。
そんな気持ちがないと言えば、嘘になる。
けれど、数字を作るために現場の人々を振り回しては、本末転倒だ。
今日の親方たちの顔を思い出し、私は改めてそう思った。
「……それにしても、奥様」
クロエが少し笑った。
「親方に『必ず仕事が増えるとは約束できません』とおっしゃったときは、どうなることかと思いましたよ」
「あら。嘘をつくわけにはいかないでしょう?」
「そうですけど、商売人ならもう少し上手いこと言いますよ」
「ふふっ。では、私には商人としての修業が足りないのかしら?」
「いえ……」
クロエは少し考えてから、微笑んだ。
「そういうところが、奥様のいいところなんでしょうね」
私は思わず目を瞬かせた。
「……まあ。急に褒めても、お給金は上がらないわよ?」
「ええっ、そこは上げてくださいよ!」
私たちは顔を見合わせ、声を立てて笑った。
そのとき、クロエがふと何かを思い出したように、鞄へ手を伸ばした。
「……そうだ。奥様にお見せしたいものがありました」
「何かしら?」
彼女が取り出したのは、一通の手紙だった。
薄い封筒には、少し不揃いな文字で私とクロエの名前が書かれている。
「……エマからです」
私は思わず息を呑んだ。
「エマ……?」
「はい。今日、商会に届きました」
エマ。
以前、工房で働いていた縫い子の一人だ。
彼女は、家族の生活を守るために退職した三十人の中にいた。
働いて得たお金で娘に靴を買えたと、嬉しそうに話してくれたことを、私は今でも覚えている。
私は封筒を受け取り、そっと開いた。
中には、丁寧に折り畳まれた便箋が一枚入っていた。
少し不慣れな筆跡で、短い文章が綴られている。
『公爵夫人様、クロエ様。
ご無沙汰しております。
工房を辞めたあとも、皆様のことをよく思い出しています。
娘は、私が買ってやった靴を今も大切に履いております。少し小さくなってきたようで、次はもう一足買ってやりたいと思うのですが、家にいるだけではなかなか難しいものです。
家族を守るために辞めたことを、間違いだったとは思っておりません。
けれど、針を持つたび、工房で働いていた頃のことを思い出します。
もし、またお仕事をいただける機会がございましたら、どうかお知らせください。
皆様のお役に立てるのでしたら、とても嬉しく思います。』
私は、しばらく便箋を見つめていた。
夕暮れの光が、紙の端を淡く照らしている。
……ああ。
エマは、まだ働きたいと思っているのだ。
家族のために仕事を辞めた。
その選択を後悔していないと言いながらも、働くことへの思いは消えていない。
私は便箋をそっと折り畳んだ。
「……クロエ」
「はい」
「エマに、何か仕事をお願いできないかしら」
クロエは少し考え込んだ。
「工房の方は、相変わらず人手が足りません。腕のいいエマが戻ってくれたら、皆も喜ぶと思います」
「……ええ」
「でも……」
クロエの表情が曇った。
「ご主人の仕事のことがあります。今も、ローゼン侯爵と関わりのある取引先に勤めていますから」
「そうね」
私は小さく頷いた。
エマを工房へ戻せば、また同じ圧力がかかるかもしれない。
法律は、まだ成立していない。
そして、たとえ成立したとしても、それだけで現実の脅迫がすぐになくなるとは限らない。
「……何か、別の方法はないかしら」
私が呟くと、クロエはしばらく考えた。
「家でできる仕事なら、少しは負担を減らせるかもしれませんね」
私は顔を上げた。
「……在宅での仕事?」
「はい。修繕や、簡単な仕上げの作業なら、工房に来ていただかなくてもできるものがあります」
なるほど。
以前から、服の補修や仕上げの仕事を分けて発注できないかとは考えていた。
布の裁断や寸法の確認は工房で行い、持ち帰れる作業だけを自宅で進めてもらう。
完成品を受け取って検品し、問題がなければ報酬を支払う。
それなら、エマも家の事情に合わせて働けるかもしれない。
……けれど。
「待って」
私はすぐに口を開いた。
「家で働けば安全、というわけではないわね」
クロエが頷いた。
「……はい」
「仕事をしていることが知られれば、またご主人の勤め先に圧力がかかるかもしれないもの」
「そうですね」
「それに、家でできるからといって、安い報酬で長時間働いてもらうようなこともしたくないわ」
私は便箋を握りしめた。
「工房で働いていたときと同じように、仕事に見合った対価を払わなければ」
クロエは真剣な表情で頷いた。
「でしたら、まずは作業ごとの時間を確かめましょう。材料の受け渡しや検品にかかる費用も含めて、無理のない仕組みにできるか調べてみます」
「お願いするわ」
私は小さく微笑んだ。
「ただし、エマには選んでもらいたいの」
「……選ぶ?」
「ええ。家で働くことが、本当にあの人の望む働き方なのか。それとも、できることなら工房へ戻りたいのか。まずは、その気持ちを聞いてみましょう」
クロエが、少し驚いたように私を見つめた。
「……奥様」
「私たちが勝手に一番いい方法を決めてしまったら、意味がないでしょう?」
私は微笑んだ。
「働き方を選べるようにしたいのですもの」
クロエはしばらく黙っていた。
やがて、嬉しそうに頷いた。
「……そうですね」
馬車が石畳の上を、ゆっくりと進んでいく。
私は窓の外へ視線を向けた。
王都には、今もたくさんの人々が暮らしている。
仕事を持つ人も、探している人も。
働きたくても、働けない人も。
それぞれに家族がいて、守りたい生活がある。
そのすべてを、たった一つの法律や商売で救えるわけではない。
けれど。
(……エマ)
あなたがもう一度働きたいと願っているのなら、私はその気持ちを大切にしたい。
それだけは、確かだった。
◇
公爵邸へ戻ってから、私はクロエともう一度資料を確かめた。
エマの夫が勤める運送業者について、以前の調査記録を開いたのだ。
退職した三十人の家族の勤め先は、すでに一通り調べてある。
そのうち二十七人が、ローゼン侯爵と経済的なつながりを持つ事業者の系列に属していた。
エマの夫も、その一人だった。
「……あら?」
私は記録の一箇所に目を留めた。
そして、思わず顔を上げた。
「クロエ。ちょっと、これを見てちょうだい」
「はい?」
「エマのご主人の勤め先……今日、私たちが話をした運送業者の一つではなくて?」
クロエが資料を覗き込んだ。
「……あっ」
彼女も目を見開いた。
「本当です。東区画の、あの親方のところです!」
私はしばらく黙っていた。
……なんという偶然だろう。
今日、仕事を守りたいと訴えていた親方。
そのもとで働く御者の一人が、エマの夫だったのだ。
「……でも、奥様」
クロエが、少し不安そうに口を開いた。
「親方のところは、ローゼン侯爵と関係のある商人からも仕事を請け負っています」
「……ええ」
「私たちの仕事を引き受けたことで、逆に圧力が強まる可能性もありますね」
私は静かに頷いた。
その通りだ。
新しい取引先ができれば、古い取引先に頼りきりにならずに済む可能性はある。
けれど、その効果が出る前に、既存の仕事を打ち切られてしまったら?
親方も、そこで働く御者たちも、生活に困ることになる。
エマの夫だけが安全になるわけではない。
むしろ、知らずに彼らを危険へ近づけてしまう可能性さえあった。
「……クロエ」
私は記録を閉じた。
「このことは、まだ親方には話さないでおきましょう」
「……よろしいのですか?」
「ええ。エマが仕事をしたいと考えていることを、本人の承諾なくご主人の雇い主に伝えるわけにはいかないわ」
クロエは頷いた。
「……確かに、そうですね」
「まずはエマと話しましょう。今のご家族の状況を聞いて、どこまでなら無理なく仕事を引き受けられるか確かめたいの」
私は少し考えてから続けた。
「それから、親方たちとの取引が安定するかどうかも見極めましょう。今はまだ、試験を始める約束をしただけですもの」
「……はい」
クロエが真剣な顔で頷いた。
私は改めて、エマの手紙を見つめた。
正直に言えば、すぐにでも仕事を用意したかった。
もう一度、工房で針を持ってもらいたかった。
そして、今度こそ安心して働けるのだと、胸を張って言いたかった。
けれど。
(……それを言うためには、まだ足りないものがあるわね)
一人の親方との約束だけではない。
善意に頼るだけでもない。
誰かの気まぐれで生活を脅かされることのない、きちんとした仕組み。
そのためにこそ、私は議会で戦っているのだ。
「……クロエ」
私は便箋を机に置いた。
「エマへの返事を、一緒に考えてくれる?」
「もちろんです」
「仕事を用意できるか、まだ分からない。けれど、できる方法を探していることは、伝えたいの」
私は羽ペンを手に取った。
「それから……」
「はい?」
「娘さんの靴が、少し小さくなったそうよ」
クロエが目を瞬かせた。
私は微笑んだ。
「今度は、新しい靴を買ってあげられるようにしたいわね」
クロエは、しばらく黙っていた。
やがて、力強く頷いた。
「……はい。必ず、方法を探しましょう」
窓の外には、秋の夕暮れが広がっていた。
今日、私は運送業者たちと話し合い、小さな一歩を踏み出した。
けれど、その一歩だけでは、まだ誰かの生活を守りきれない。
仕事を作ること。
安心して働けること。
その両方が揃って、初めて人は自分の未来を選べるのだ。
(……ローゼン侯爵)
あなたが議会で問いかけたことの意味が、少し分かった気がいたします。
新しい仕組みを作ることは、思っていた以上に難しい。
誰かに利益が生まれる一方で、別の誰かが不安を抱くこともある。
けれど、だからといって、変えることを諦めるつもりはありません。
私はエマへの返事を書き始めた。
大きな理想を語る前に、まず目の前の一人の願いに、どう応えられるかを考えよう。
議会へ持っていく数字も、運送の試験も、まだこれからだ。
だからこそ、一つずつ確かめていかなければならない。
そしていつか。
エマがもう一度、自分の稼いだお金で娘に靴を買える日が来たなら。
そのときこそ私は、自分の改革が少しだけ実を結んだのだと、心から喜べるのだろう。
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