↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/33

女性が働けば男の仕事がなくなる? それなら仕事そのものを増やしてみせますわ

「……ローゼン侯爵の主張には、確かに一理あるのよね」


公爵邸の執務室。


私は机に広げられた帳簿を見つめながら、小さく息を吐いた。


向かいには、赤い髪を後ろでまとめたクロエと、商業ギルド長のハインツが座っている。


二人には、先日の貴族院での意見聴取について、すでに事情を説明してあった。


「女性が安心して働けるようになれば、これまで仕事を諦めていた人たちも、働きに出やすくなるでしょう。そのこと自体は歓迎すべきよ。けれど、働きたい人が増えても、雇い口が同じだけ増えるとは限らない」


私は羽ペンを取り、羊皮紙に二つの円を描いた。


一つは、働き手。


もう一つは、仕事。


「働き手ばかりが増えて、仕事が増えなければ、職を巡る競争が激しくなる可能性はあるわ。賃金を抑えようとする雇い主だって出てくるかもしれない」


「……確かに、その可能性はありますね」


クロエが神妙に頷いた。


普段なら商売の話に目を輝かせる彼女も、今日は少し慎重な顔をしている。


「ただ、奥様。今回の法案は、女性を新しく雇いなさいと命じるものではありませんよね?」


「ええ。そこが大切なの」


私は頷いた。


「すでに働いている女性が、第三者から不当な圧力を受けて仕事を奪われないようにする。それが法案の目的よ。女性が一斉に職場へ押し寄せるという侯爵の想定は、少し話を大きくしすぎているわ」


「だったら、そう反論すればよいのでは?」


ハインツが首を傾げた。


「もちろん、それも説明するつもり。でもね、ハインツ。あの方が心配しているのは、法案そのものだけではないのよ」


私はもう一枚の羊皮紙を広げた。


「女性が働くことを認めれば、やがて社会が変わる。これまでと違う働き方が広がれば、商売の仕組みも変わっていく。その変化に、雇い主や今働いている人たちが対応できるのかと、侯爵は問うているの」


「……なるほど」


「悔しいけれど、それを無視するわけにはいかないわ」


法律を変えることは、私たちの目的の一つにすぎない。


その先に、働く人々の暮らしがある。


工房を辞めていった三十人の縫い子たちも、今なお家族の仕事や収入を案じているはずだ。


せっかく法律を作っても、職場そのものがなくなってしまえば、彼女たちは救われない。


(……本当に、厄介な問題を突きつけてくれたものね)


ローゼン侯爵の顔を思い浮かべると、少々腹が立ってくる。


けれど、怒っているだけでは前へ進めない。


私は机の上に置かれた、クロエ商会の帳簿を手元へ引き寄せた。


「だからこそ、今日は二人に来てもらったの」


「と、申しますと?」


「仕事が足りないというのなら、増やせる余地がどこにあるのか、確かめたいのよ」


クロエが、わずかに目を見開いた。


「……新しい事業をお考えなのですか?」


「まったく新しいものを、一から始めるつもりはないわ」


私は帳簿の一頁を指さした。


「まずは、今の私たちの商売を見直しましょう」


そこに記されていたのは、東部三都市から仕入れている布の数量と、王都で受けた注文の一覧だった。


ローゼン侯爵の影響下にある大手卸商が布の供給を止めたとき、私たちは小さな生産者や商人を束ね、新しい仕入れ網を作った。


品質の基準を揃え、検査を行い、買い取りの条件を明確にする。


一軒では十分な量を用意できない商人たちにも、複数で協力してもらうことで、なんとか事業を続けてきたのだ。


とはいえ、新しい仕入れ網は、まだ盤石とは言い難い。


大口の注文に応えられるほど布が集まるわけではないし、納期にもばらつきがある。


「クロエ。今、一番困っていることは何かしら?」


私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。


「……布の品質ですね」


「品質?」


「ええ。生産者ごとに織り方や仕上がりが違いますから、同じ種類として仕入れても、厚みや色合いが微妙に異なることがあるんです」


彼女は帳簿の別の頁を開いた。


「今は王都に届いてから検品していますが、不合格になった布を送り返すにも費用がかかります。それに、品物が揃わず、せっかく受けた注文をお待たせすることもあって」


「……なるほど」


私は頷いた。


「では、仕入れ先に近い場所で検品できたら?」


クロエが顔を上げた。


「それなら、王都まで運ぶ前に品質を確かめられます。問題のある布は、その場で生産者と相談できますし……」


そこで、彼女の目が輝いた。


「奥様。もしかして、東部の集荷場所に検品を任せられる人を置くおつもりですか?」


「まずは、必要な仕事量があるか確かめたいわ」


私は微笑んだ。


「一人を雇うだけの布が集まらないなら、巡回する担当者にする方法もあるでしょう。逆に、注文が安定して増えるのなら、検品のほかにも必要な仕事が出てくるはずよ」


「荷の仕分けや、数量の確認ですね」


ハインツが口を挟んだ。


「運送屋との受け渡しもありますな。小口の荷が増えれば、今のやり方では手間がかかるでしょう」


「ええ。そこなのよ」


私は羊皮紙に、布が作られてから服として売られるまでの流れを書き出した。


生産者からの集荷。


検品と仕分け。


王都への輸送。


裁断と縫製。


仕上がった服の検査。


店舗への納品。


そして、販売。


「今まで私たちは、布を買い、服を縫い、売ることばかり考えていたわ。でも実際には、その間にたくさんの仕事があるでしょう?」


二人が図を覗き込む。


「しかも、古いドレスの再利用を続けるなら、回収した服の状態を調べたり、使える生地を仕分けたりする仕事も必要になるわね」


「……なるほど」


ハインツが腕を組み直した。


「運搬や検品、修繕の仕事を、今より細かく分けて考えるわけですな」


「そうよ。ただし、何でも人を増やせばいいという話ではないわ」


私は釘を刺した。


「必要な仕事が増えていないのに、人だけ雇っても、続けられないもの」


「それは商人として、耳の痛いお話ですね」


クロエが苦笑した。


「だからこそ、数字が必要なのよ」


私は改めて帳簿に目を落とした。


「今受けている注文のうち、実際に代金を受け取ったものはどれくらい? 予約だけのものは? 納品までに必要な費用は?」


「少々お待ちください」


クロエが手早く帳簿をめくる。


彼女の表情が、商人のものに変わった。


「……そうですね。注文自体は増えていますが、生地の確保がまだできていないものもあります。予約金をいただいている分と、問い合わせだけの分も分けて考える必要があります」


「ええ。その両方を売上として数えてしまったら、計画が狂うわ」


私は微笑んだ。


「まず、確実に納品できる分だけで採算を計算しましょう」


「それでは、見込める利益が小さくなってしまいますが……」


「小さくて構わないの。大きく見せた数字より、信用できる数字の方が大切よ」


クロエは一瞬だけ驚いたような顔をした。


やがて、嬉しそうに笑った。


「……分かりました。では、商会の帳簿をもう少し細かく分けてみます」


私は頷き、次にハインツへ視線を向けた。


「商業ギルドにも、お願いしたいことがあるの」


「何でしょう?」


「最近、仕事を探している人が、どのような職種に多いのか調べられるかしら?」


ハインツが眉を上げた。


「職を探している者、ですか」


「ええ。今の事業を広げるとしても、すでに別の店で働いている人を引き抜くだけでは、王都全体の仕事が増えたとは言えないでしょう?」


「……なるほど」


「できれば、仕事を探している人や、収入が不安定な人たちに、新しい機会を作りたいのよ」


ハインツはしばらく考え込んだ。


「ギルドで把握できるのは、加盟店から寄せられた募集や、仕事を探して相談に来た者の記録くらいですが……」


「それで十分よ。まずは分かる範囲から始めましょう」


私は羊皮紙に、小さな印をつけた。


「それから、雇うときには性別で仕事を決めつけないようにしたいわ」


ハインツが少し意外そうな顔をした。


「……と申しますと?」


「布を縫うのが得意な男性がいてもいいし、荷の管理に長けた女性がいてもいいでしょう? 仕事に必要な技術や体力を確かめて、本人の希望と合わせて考えるべきだと思うの」


「……確かに」


クロエが頷いた。


「うちの商会にも、帳簿の計算が得意な女性がいます。それに、裁断の仕事を覚えたがっている若い男性もいますし」


「でしょう?」


私は嬉しくなって微笑んだ。


「新しい仕事を作るのなら、最初から選択肢を狭める必要はないわ」


仕事をしたい人が、能力や希望に応じて働ける。


それは、私がイザベラに望んでいることとも、どこか似ていた。


あの子には、王太子妃になる以外の人生を選ぶ自由があってほしい。


そして、王太子妃になることを選んだとしても、それが自分の望んだ道であってほしい。


働く女性たちに対しても、同じだ。


外で働くことが立派で、家庭を守ることが劣っているわけではない。


誰かに押しつけられるのではなく、自分で選べること。


私は、そのための道を少しでも広げたいのだ。


「……奥様」


クロエが、図を見つめながら口を開いた。


「一つ、気になることがあります」


「何かしら?」


「もし検品や運送の仕組みを増やしても、服が売れなければ、結局その仕事は続けられませんよね」


「ええ。そのとおりよ」


「でしたら、まず一部の仕入れ先だけで試してみませんか?」


私は彼女を見た。


「具体的には?」


「すでに定期的に取引している生産者に協力してもらい、集荷と検品をまとめるんです。今より運送費が減るか、納期が安定するかを確かめる。うまくいけば、ほかの仕入れ先にも広げられます」


その顔は、すっかりいつものクロエだった。


新しい商売の可能性を見つけたときの、生き生きとした表情。


私は思わず笑った。


「いいわね。それなら、失敗しても被害を小さく抑えられる」


「はい。大きな倉庫を借りたり、人を何十人も雇ったりするのは、成果を確かめてからでも遅くありません」


「では、試験的に始めましょう」


私は羊皮紙の端に、新しい項目を書き込んだ。


試験的な集荷・検品。


追加で必要になる費用。


運送費の変化。


不良品の割合。


納品までの日数。


そして、実際に増やせた仕事の量。


「これが揃えば、議会にも説明しやすくなるわね」


「……ですが、奥様」


ハインツが顎を撫でた。


「一つだけ、よろしいですかな」


「もちろんよ」


「今のお話は、奥様の商売を広げるための計画でしょう? それがうまくいったとしても、王国全体で同じことができるとは限りませんぞ」


私は頷いた。


「ええ。よく分かっているわ」


むしろ、その指摘を待っていた。


「私たちの工房で仕事が増えたからといって、国中の労働問題が解決するわけではないもの」


私は、議会でローゼン侯爵が突きつけた問いを思い返した。


女性の労働を守ることで、どのような負担が生じるのか。


新しい制度を運用する費用を、誰が負担するのか。


そして、仕事を失う人が出た場合、どう対応するのか。


そのすべてに、一つの服飾事業で答えられるわけではない。


「だから、今回は分けて考えるつもりよ」


私は羊皮紙を二枚並べた。


「一つは、私たちの事業で、新しい仕事を生み出せるかどうか。もう一つは、今回の法律を実際に運用するとき、どのような負担が生じるか」


ハインツが、納得したように頷いた。


「……なるほど。別々に調べるわけですな」


「ええ。混ぜてしまうと、都合のいい話になってしまうから」


私は二枚目の羊皮紙を引き寄せた。


「特に、法律の運用については、商業ギルドの意見を聞きたいの」


「ほう」


「小さな商店や工房では、仕事の記録をきちんと残していないところもあるでしょう?」


「それは、まあ……否定できませんな」


ハインツが苦笑した。


「職人が数人の店なら、親方の頭の中に全部入っている、なんてこともありますから」


「そうよね」


私は頷いた。


「今回の法案が成立しても、すべての小さな店に複雑な書類を義務づけるつもりはないわ。でも、何か問題が起きたときに、働いている本人も雇い主も、何を約束していたのか確かめられた方がいいでしょう?」


「……確かに」


「例えば、雇い始めた日、仕事内容、約束した賃金、実際に支払った額。そのくらいなら、簡単な台帳にまとめられないかしら」


ハインツは少し考え込んだ。


「文字が苦手な者もおりますからな」


「ええ。だからこそ、書き方をできるだけ簡単にしたいのよ。ギルドの書記に相談できるようにしてもいいわ」


私は続けた。


「それに、今回の法律では、第三者から圧力を受けたとき、誰に相談すればいいのかを明確にする必要があるわね」


「……相談先、ですか」


「そう。雇い主本人が悪いとは限らないもの。家族の勤め先を通じて圧力がかけられた場合、どこへ話を持っていけばいいのか分からなければ、結局泣き寝入りになってしまうでしょう?」


ハインツは腕を組み、しばらく黙っていた。


やがて、ゆっくりと頷いた。


「……ギルドの中で相談を受けられるか、役員たちに話してみましょう」


「お願いできる?」


「ただし、ギルドの人員にも限りがあります。記録を確認する仕事まで引き受けるとなれば、それなりに費用もかかりますぞ」


「もちろんよ。無償で何もかもお願いするつもりはないわ」


私は微笑んだ。


「まずは、実際にどれほど相談が寄せられるのか、試験的に確かめましょう。そのうえで、人員や費用を考えたいの」


「……なるほど」


ハインツは、ようやく笑みを浮かべた。


「奥様は、ずいぶんと慎重になられましたな」


「まあ。以前は無謀だったとおっしゃるの?」


「い、いや、そういう意味では!」


慌てて手を振るハインツに、クロエが吹き出した。


私も、つられて笑ってしまった。


「冗談よ」


私は羽ペンを置いた。


「でも、慎重になったというのは本当かもしれないわね」


事業を始めた頃の私は、とにかく前へ進むことばかり考えていた。


三年後の破滅を防がなければならない。


その焦りに突き動かされ、立ち止まることさえ怖かったのだ。


けれど、今は少し違う。


事業に関わる人が増えた。


工房で働く女性たちも、布を届けてくれる生産者たちも、商品を買ってくれる客たちもいる。


私が無理な計画を立てれば、その人たちの生活に影響が出る。


(……ローゼン侯爵の言葉にも、学ぶべきところはあるわね)


それを認めるのは、少々癪だけれど。


私は二人へ向き直った。


「では、お願い。クロエには、現在の注文と仕入れの実績、それから試験的な集荷計画を。ハインツには、ギルドで把握できる雇用の状況と、小規模事業者が制度を利用する際の負担について調べてほしいの」


「承知しました」


「お任せください」


二人は力強く頷いた。


その姿を見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


最初は、娘を救うために一人で始めた事業だった。


それが今では、こんなにも多くの人の知恵を借りられるようになっている。


誰かに助けを求めることは、弱さではない。


むしろ、一人では見えない問題に気づくために、必要なことなのだろう。


「……ありがとう、二人とも」


私は心からの感謝を込めて頭を下げた。


クロエは少し照れたように笑い、ハインツは慌てて手を振った。


「お、おやめください、奥様! 公爵夫人にそんなことをされたら、こちらが困ります!」


「まあ。では、次はもう少し威張ってお願いした方がよろしいかしら?」


「それはそれで困りますぞ!」


今度こそ、三人で声を立てて笑った。


窓の外には、秋の夕暮れが広がり始めていた。


◇


二人が帰ったあと、私は再び机に向かっていた。


ランプの明かりに照らされた羊皮紙には、先ほどの打ち合わせで書き込んだ項目が並んでいる。


新しい仕入れ先との取引条件。


検品に必要な手間。


運送費。


雇用の見込み。


そして、法案の運用に伴う費用。


どれも簡単には答えの出ない問題ばかりだった。


私は羽ペンを動かしながら、思わず小さく唸った。


「……ここは、まだ数字が足りないわね」


仮の見積もりを入れて計算してみても、条件を一つ変えれば、利益は大きく変わってしまう。


注文が予定どおり入れば採算は取れる。


けれど、布の到着が遅れれば?


不良品が増えれば?


運送費が上がれば?


(……駄目ね。まだ楽観的すぎるわ)


私は数字を書き直した。


前世では、企画書に見栄えのよい予測を並べる人もいた。


けれど、本当に必要なのは、上手くいかなかった場合にどこまで耐えられるかを知ることだ。


……なんて。


偉そうに考えている私自身、ずいぶん長いこと机に向かっている。


窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。


「……また眉間に皺を寄せているね」


不意に、背後から声がした。


顔を上げると、執務室の扉のそばにアレクシスが立っていた。


いつもの公爵としての隙のない装いではなく、上着を脱ぎ、襟元を少し緩めている。


「……あなた」


私は思わず時計を見た。


「まあ、もうこんな時間でしたのね」


「ようやく気づいたかい?」


アレクシスは苦笑しながら近づいてきた。


「夕食の時間を、とっくに過ぎているよ」


「あら……」


私はもう一度時計を見た。


確かに、その通りだった。


「申し訳ありません。夢中になってしまって」


「だろうと思った」


夫は机の上の羊皮紙へ視線を落とした。


「クロエたちと、随分話し込んでいたようだね」


「ええ。少し、面白い計画が見えてきたのです」


私は嬉しくなって、図を夫の方へ向けた。


「今の仕入れ網を整えれば、検品や運送の仕事を増やせるかもしれません。それに、法律を運用するときの負担についても、ギルドに調べてもらうことになりましたの」


アレクシスは黙って図を見つめていた。


やがて、ゆっくりと頷いた。


「……なるほど」


「どう思われます?」


「いい着眼点だと思う。ただ……」


夫は羊皮紙の端を指さした。


「ここに書かれている数字は、まだ仮のものだね?」


「ええ。実際の取引記録を確認してから、修正するつもりですわ」


「それなら安心した」


アレクシスは微笑んだ。


「議会では、都合のよい数字を示す者ほど、厳しく追及されるものだからね」


私は苦笑した。


「身に染みておりますわ」


「ローゼン侯爵も、そこを狙ってくるだろう」


「ええ。ですから、甘い見通しは避けたいと思っております」


そう答えると、夫は満足そうに頷いた。


「……君は、本当に変わったね」


「また、そのお話ですか?」


私は思わず笑ってしまった。


最近のアレクシスは、何かにつけて私が変わったと言う。


もちろん、前世の記憶を取り戻してから、私自身の考え方が大きく変わったのは確かだ。


けれど、それを夫に説明するわけにはいかない。


「以前の君なら、明日にでも全部実行しようとしていただろう」


「……否定できませんわね」


「今は、足元を確かめようとしている」


アレクシスは、机の上の資料を一枚手に取った。


「とてもいいことだと思うよ」


その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。


……困る。


この人は最近、こういうことを何のためらいもなく口にする。


公衆の面前で「妻に夢中だ」などと言い放ったときも、そうだった。


最初は政治的な思惑があるのだろうと思っていたのに。


どうやら、そう単純な話ではないらしい。


「……ありがとうございます」


私は小さく答えた。


アレクシスは微笑み、手にしていた資料を机へ戻した。


「さて」


「はい?」


「仕事の話は、ここまでにしよう」


私は思わず目を瞬かせた。


「……まだ、少し整理したいところがあるのですけれど」


「それは明日でもできる」


「でも、次の審議までに――」


「エレオノーラ」


名前を呼ばれ、私は口を閉じた。


アレクシスは怒っていなかった。


むしろ、少し困ったように笑っている。


「君が頑張っていることは、よく分かっているよ」


その声は、とても穏やかだった。


「だからこそ、休んでほしいんだ」


私は何も言えなかった。


「君が倒れたら、私もイザベラも困る。それに……」


そこで、夫は少しだけ言葉を切った。


「私自身が、君と夕食を取りたいと思っている」


……まあ。


そんなふうに言われたら、断りにくいではないか。


私は夫を見上げた。


灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。


以前のアレクシスなら、「身体を壊すから休め」とだけ告げていただろう。


そして、以前の私なら、その言葉を命令のように受け取って、反発していたかもしれない。


けれど今は、違う。


この人は、私に仕事をやめさせたいのではない。


一緒に過ごしたいと、そう言ってくれているのだ。


「……そうですわね」


私は羽ペンをインク壺の横へ置いた。


「今日は、ここまでにいたしましょう」


アレクシスが、わずかに目を見開いた。


「……いいのかい?」


「まあ。誘ってくださったのは、あなたでしょう?」


私は少し意地悪く微笑んだ。


「それとも、私が断るとお思いでしたの?」


夫は一瞬だけ黙り、それから苦笑した。


「……正直に言えば、少し」


「あら」


私は笑った。


「では、驚かせることができましたわね」


「まったくだ」


アレクシスも笑った。


その笑顔を見て、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


二十年間、同じ屋敷に暮らしていながら、私たちは互いに何を考えているのか、ほとんど知らなかった。


必要なことは話した。


公爵家の運営についても、娘の教育についても、協力してきたつもりだった。


けれど、こうして何でもないことで笑い合う時間を、どれほど持っていただろう。


私はゆっくりと立ち上がった。


すると、アレクシスが自然な仕草で手を差し出してくれた。


私は、その手を見つめた。


以前なら、形式的なエスコートとして受け取っていただろう。


けれど、今日は少し違う。


私は自分から、夫の手を取った。


「……行きましょうか、あなた」


アレクシスの指が、そっと私の手を包み込んだ。


「……ああ」


その短い返事が、不思議なくらい優しく聞こえた。


執務室を出ると、廊下には柔らかな灯りがともっていた。


窓の向こうには月が浮かび、夜の庭園を淡く照らしている。


私たちは、ゆっくりと歩き始めた。


しばらくして、アレクシスが口を開いた。


「そういえば、以前約束した食事も、まだだったね」


私は顔を上げた。


王城の図書室で、イザベラとエドワードの様子を見守ったあの日。


夫は、私が以前から行ってみたいと話していた店へ、一緒に行こうと誘ってくれたのだ。


けれど、創立祭や議会の準備に追われ、結局まだ実現していない。


「……覚えていらしたの?」


「もちろん」


アレクシスは少し不思議そうな顔をした。


「君と交わした約束だからね」


……本当に。


この人は、どうしてこうも平然と甘いことを言うのだろう。


私は頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。


「では、次のお休みには、ぜひ」


「楽しみにしているよ」


夫が微笑んだ。


私は手を握り返しながら、そっと息を吐いた。


……ああ。


幸せというものは、案外こういうところにあるのかもしれない。


大きな商売を成功させることでも、議会で相手を言い負かすことでもない。


忙しい一日の終わりに、誰かと食事をする約束を楽しみにできること。


その相手が、自分の気持ちを大切にしてくれること。


たぶん、イザベラも少しずつ、そんな幸せを見つけ始めているのだろう。


あの子が創立祭の夜に見せた笑顔を思い出し、私は小さく微笑んだ。


「……あなた」


「何だい?」


「私、やっぱり、この国を変えたいわ」


アレクシスは黙って私を見つめた。


「働きたい人が安心して働けることも、家を守りたい人が誇りを持って暮らせることも、どちらも大切にできる国にしたいの」


私は窓の向こうへ視線を向けた。


「もちろん、すぐにできるとは思っていません。今の私たちにできることなんて、まだ小さなことばかりですもの」


「……ああ」


「でも、小さなことを積み重ねれば、いつか大きな変化になるかもしれないでしょう?」


アレクシスは、しばらく黙っていた。


やがて、私の手を少しだけ強く握った。


「……君なら、きっとやり遂げるだろうね」


私は首を振った。


「いいえ」


夫が目を瞬かせる。


私は微笑んだ。


「**私たちなら、ですわ**」


アレクシスは一瞬だけ言葉を失った。


それから、ゆっくりと笑った。


「……そうだね」


その声が、夜の静かな廊下に優しく響いた。


私は夫の隣に並び、再び歩き出した。


ローゼン侯爵が突きつけた問題は、まだ何一つ解決していない。


新しい仕入れ網も、試験的な事業計画も、これから結果を確かめなければならない。


法案の運用に必要な費用も、雇用への影響も、調べることは山ほど残っている。


次の議会で、侯爵がどのような反論をしてくるのかも分からない。


けれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。


自分にできることを、一つずつ。


必要なら、仲間の力を借りながら。


そうやって前へ進めばいいのだ。


(……待っていなさい、ローゼン侯爵)


私は胸の中で、そっと呟いた。


あなたが求めた数字も、仕組みも、きちんと示してみせますわ。


ただし、私の改革は、あなたが思っているような単純なものではありません。


女性の仕事を守るために、男性の仕事を奪うつもりなどない。


誰かの取り分を一方的に増やして、別の誰かを苦しめるだけの改革にもしたくない。


私が目指しているのは、もっと多くの人が、自分の力を生かせる社会なのだから。


もちろん、理想を現実にするのは簡単ではない。


だからこそ、まずは一つの工房から。


一つの商会から。


そして、一人の働き手から。


できることを、確かめていこう。


私は夫の手を取り、温かな食事の待つ部屋へと向かった。


明日もきっと、忙しい一日になる。


けれど今夜だけは、仕事のことを少し忘れて。


二十年かけてようやく近づき始めた、この人との時間を大切にしようと思った。

お読みいただきありがとうございました。

もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。