女性が働けば男の仕事がなくなる? それなら仕事そのものを増やしてみせますわ
「……ローゼン侯爵の主張には、確かに一理あるのよね」
公爵邸の執務室。
私は机に広げられた帳簿を見つめながら、小さく息を吐いた。
向かいには、赤い髪を後ろでまとめたクロエと、商業ギルド長のハインツが座っている。
二人には、先日の貴族院での意見聴取について、すでに事情を説明してあった。
「女性が安心して働けるようになれば、これまで仕事を諦めていた人たちも、働きに出やすくなるでしょう。そのこと自体は歓迎すべきよ。けれど、働きたい人が増えても、雇い口が同じだけ増えるとは限らない」
私は羽ペンを取り、羊皮紙に二つの円を描いた。
一つは、働き手。
もう一つは、仕事。
「働き手ばかりが増えて、仕事が増えなければ、職を巡る競争が激しくなる可能性はあるわ。賃金を抑えようとする雇い主だって出てくるかもしれない」
「……確かに、その可能性はありますね」
クロエが神妙に頷いた。
普段なら商売の話に目を輝かせる彼女も、今日は少し慎重な顔をしている。
「ただ、奥様。今回の法案は、女性を新しく雇いなさいと命じるものではありませんよね?」
「ええ。そこが大切なの」
私は頷いた。
「すでに働いている女性が、第三者から不当な圧力を受けて仕事を奪われないようにする。それが法案の目的よ。女性が一斉に職場へ押し寄せるという侯爵の想定は、少し話を大きくしすぎているわ」
「だったら、そう反論すればよいのでは?」
ハインツが首を傾げた。
「もちろん、それも説明するつもり。でもね、ハインツ。あの方が心配しているのは、法案そのものだけではないのよ」
私はもう一枚の羊皮紙を広げた。
「女性が働くことを認めれば、やがて社会が変わる。これまでと違う働き方が広がれば、商売の仕組みも変わっていく。その変化に、雇い主や今働いている人たちが対応できるのかと、侯爵は問うているの」
「……なるほど」
「悔しいけれど、それを無視するわけにはいかないわ」
法律を変えることは、私たちの目的の一つにすぎない。
その先に、働く人々の暮らしがある。
工房を辞めていった三十人の縫い子たちも、今なお家族の仕事や収入を案じているはずだ。
せっかく法律を作っても、職場そのものがなくなってしまえば、彼女たちは救われない。
(……本当に、厄介な問題を突きつけてくれたものね)
ローゼン侯爵の顔を思い浮かべると、少々腹が立ってくる。
けれど、怒っているだけでは前へ進めない。
私は机の上に置かれた、クロエ商会の帳簿を手元へ引き寄せた。
「だからこそ、今日は二人に来てもらったの」
「と、申しますと?」
「仕事が足りないというのなら、増やせる余地がどこにあるのか、確かめたいのよ」
クロエが、わずかに目を見開いた。
「……新しい事業をお考えなのですか?」
「まったく新しいものを、一から始めるつもりはないわ」
私は帳簿の一頁を指さした。
「まずは、今の私たちの商売を見直しましょう」
そこに記されていたのは、東部三都市から仕入れている布の数量と、王都で受けた注文の一覧だった。
ローゼン侯爵の影響下にある大手卸商が布の供給を止めたとき、私たちは小さな生産者や商人を束ね、新しい仕入れ網を作った。
品質の基準を揃え、検査を行い、買い取りの条件を明確にする。
一軒では十分な量を用意できない商人たちにも、複数で協力してもらうことで、なんとか事業を続けてきたのだ。
とはいえ、新しい仕入れ網は、まだ盤石とは言い難い。
大口の注文に応えられるほど布が集まるわけではないし、納期にもばらつきがある。
「クロエ。今、一番困っていることは何かしら?」
私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「……布の品質ですね」
「品質?」
「ええ。生産者ごとに織り方や仕上がりが違いますから、同じ種類として仕入れても、厚みや色合いが微妙に異なることがあるんです」
彼女は帳簿の別の頁を開いた。
「今は王都に届いてから検品していますが、不合格になった布を送り返すにも費用がかかります。それに、品物が揃わず、せっかく受けた注文をお待たせすることもあって」
「……なるほど」
私は頷いた。
「では、仕入れ先に近い場所で検品できたら?」
クロエが顔を上げた。
「それなら、王都まで運ぶ前に品質を確かめられます。問題のある布は、その場で生産者と相談できますし……」
そこで、彼女の目が輝いた。
「奥様。もしかして、東部の集荷場所に検品を任せられる人を置くおつもりですか?」
「まずは、必要な仕事量があるか確かめたいわ」
私は微笑んだ。
「一人を雇うだけの布が集まらないなら、巡回する担当者にする方法もあるでしょう。逆に、注文が安定して増えるのなら、検品のほかにも必要な仕事が出てくるはずよ」
「荷の仕分けや、数量の確認ですね」
ハインツが口を挟んだ。
「運送屋との受け渡しもありますな。小口の荷が増えれば、今のやり方では手間がかかるでしょう」
「ええ。そこなのよ」
私は羊皮紙に、布が作られてから服として売られるまでの流れを書き出した。
生産者からの集荷。
検品と仕分け。
王都への輸送。
裁断と縫製。
仕上がった服の検査。
店舗への納品。
そして、販売。
「今まで私たちは、布を買い、服を縫い、売ることばかり考えていたわ。でも実際には、その間にたくさんの仕事があるでしょう?」
二人が図を覗き込む。
「しかも、古いドレスの再利用を続けるなら、回収した服の状態を調べたり、使える生地を仕分けたりする仕事も必要になるわね」
「……なるほど」
ハインツが腕を組み直した。
「運搬や検品、修繕の仕事を、今より細かく分けて考えるわけですな」
「そうよ。ただし、何でも人を増やせばいいという話ではないわ」
私は釘を刺した。
「必要な仕事が増えていないのに、人だけ雇っても、続けられないもの」
「それは商人として、耳の痛いお話ですね」
クロエが苦笑した。
「だからこそ、数字が必要なのよ」
私は改めて帳簿に目を落とした。
「今受けている注文のうち、実際に代金を受け取ったものはどれくらい? 予約だけのものは? 納品までに必要な費用は?」
「少々お待ちください」
クロエが手早く帳簿をめくる。
彼女の表情が、商人のものに変わった。
「……そうですね。注文自体は増えていますが、生地の確保がまだできていないものもあります。予約金をいただいている分と、問い合わせだけの分も分けて考える必要があります」
「ええ。その両方を売上として数えてしまったら、計画が狂うわ」
私は微笑んだ。
「まず、確実に納品できる分だけで採算を計算しましょう」
「それでは、見込める利益が小さくなってしまいますが……」
「小さくて構わないの。大きく見せた数字より、信用できる数字の方が大切よ」
クロエは一瞬だけ驚いたような顔をした。
やがて、嬉しそうに笑った。
「……分かりました。では、商会の帳簿をもう少し細かく分けてみます」
私は頷き、次にハインツへ視線を向けた。
「商業ギルドにも、お願いしたいことがあるの」
「何でしょう?」
「最近、仕事を探している人が、どのような職種に多いのか調べられるかしら?」
ハインツが眉を上げた。
「職を探している者、ですか」
「ええ。今の事業を広げるとしても、すでに別の店で働いている人を引き抜くだけでは、王都全体の仕事が増えたとは言えないでしょう?」
「……なるほど」
「できれば、仕事を探している人や、収入が不安定な人たちに、新しい機会を作りたいのよ」
ハインツはしばらく考え込んだ。
「ギルドで把握できるのは、加盟店から寄せられた募集や、仕事を探して相談に来た者の記録くらいですが……」
「それで十分よ。まずは分かる範囲から始めましょう」
私は羊皮紙に、小さな印をつけた。
「それから、雇うときには性別で仕事を決めつけないようにしたいわ」
ハインツが少し意外そうな顔をした。
「……と申しますと?」
「布を縫うのが得意な男性がいてもいいし、荷の管理に長けた女性がいてもいいでしょう? 仕事に必要な技術や体力を確かめて、本人の希望と合わせて考えるべきだと思うの」
「……確かに」
クロエが頷いた。
「うちの商会にも、帳簿の計算が得意な女性がいます。それに、裁断の仕事を覚えたがっている若い男性もいますし」
「でしょう?」
私は嬉しくなって微笑んだ。
「新しい仕事を作るのなら、最初から選択肢を狭める必要はないわ」
仕事をしたい人が、能力や希望に応じて働ける。
それは、私がイザベラに望んでいることとも、どこか似ていた。
あの子には、王太子妃になる以外の人生を選ぶ自由があってほしい。
そして、王太子妃になることを選んだとしても、それが自分の望んだ道であってほしい。
働く女性たちに対しても、同じだ。
外で働くことが立派で、家庭を守ることが劣っているわけではない。
誰かに押しつけられるのではなく、自分で選べること。
私は、そのための道を少しでも広げたいのだ。
「……奥様」
クロエが、図を見つめながら口を開いた。
「一つ、気になることがあります」
「何かしら?」
「もし検品や運送の仕組みを増やしても、服が売れなければ、結局その仕事は続けられませんよね」
「ええ。そのとおりよ」
「でしたら、まず一部の仕入れ先だけで試してみませんか?」
私は彼女を見た。
「具体的には?」
「すでに定期的に取引している生産者に協力してもらい、集荷と検品をまとめるんです。今より運送費が減るか、納期が安定するかを確かめる。うまくいけば、ほかの仕入れ先にも広げられます」
その顔は、すっかりいつものクロエだった。
新しい商売の可能性を見つけたときの、生き生きとした表情。
私は思わず笑った。
「いいわね。それなら、失敗しても被害を小さく抑えられる」
「はい。大きな倉庫を借りたり、人を何十人も雇ったりするのは、成果を確かめてからでも遅くありません」
「では、試験的に始めましょう」
私は羊皮紙の端に、新しい項目を書き込んだ。
試験的な集荷・検品。
追加で必要になる費用。
運送費の変化。
不良品の割合。
納品までの日数。
そして、実際に増やせた仕事の量。
「これが揃えば、議会にも説明しやすくなるわね」
「……ですが、奥様」
ハインツが顎を撫でた。
「一つだけ、よろしいですかな」
「もちろんよ」
「今のお話は、奥様の商売を広げるための計画でしょう? それがうまくいったとしても、王国全体で同じことができるとは限りませんぞ」
私は頷いた。
「ええ。よく分かっているわ」
むしろ、その指摘を待っていた。
「私たちの工房で仕事が増えたからといって、国中の労働問題が解決するわけではないもの」
私は、議会でローゼン侯爵が突きつけた問いを思い返した。
女性の労働を守ることで、どのような負担が生じるのか。
新しい制度を運用する費用を、誰が負担するのか。
そして、仕事を失う人が出た場合、どう対応するのか。
そのすべてに、一つの服飾事業で答えられるわけではない。
「だから、今回は分けて考えるつもりよ」
私は羊皮紙を二枚並べた。
「一つは、私たちの事業で、新しい仕事を生み出せるかどうか。もう一つは、今回の法律を実際に運用するとき、どのような負担が生じるか」
ハインツが、納得したように頷いた。
「……なるほど。別々に調べるわけですな」
「ええ。混ぜてしまうと、都合のいい話になってしまうから」
私は二枚目の羊皮紙を引き寄せた。
「特に、法律の運用については、商業ギルドの意見を聞きたいの」
「ほう」
「小さな商店や工房では、仕事の記録をきちんと残していないところもあるでしょう?」
「それは、まあ……否定できませんな」
ハインツが苦笑した。
「職人が数人の店なら、親方の頭の中に全部入っている、なんてこともありますから」
「そうよね」
私は頷いた。
「今回の法案が成立しても、すべての小さな店に複雑な書類を義務づけるつもりはないわ。でも、何か問題が起きたときに、働いている本人も雇い主も、何を約束していたのか確かめられた方がいいでしょう?」
「……確かに」
「例えば、雇い始めた日、仕事内容、約束した賃金、実際に支払った額。そのくらいなら、簡単な台帳にまとめられないかしら」
ハインツは少し考え込んだ。
「文字が苦手な者もおりますからな」
「ええ。だからこそ、書き方をできるだけ簡単にしたいのよ。ギルドの書記に相談できるようにしてもいいわ」
私は続けた。
「それに、今回の法律では、第三者から圧力を受けたとき、誰に相談すればいいのかを明確にする必要があるわね」
「……相談先、ですか」
「そう。雇い主本人が悪いとは限らないもの。家族の勤め先を通じて圧力がかけられた場合、どこへ話を持っていけばいいのか分からなければ、結局泣き寝入りになってしまうでしょう?」
ハインツは腕を組み、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ギルドの中で相談を受けられるか、役員たちに話してみましょう」
「お願いできる?」
「ただし、ギルドの人員にも限りがあります。記録を確認する仕事まで引き受けるとなれば、それなりに費用もかかりますぞ」
「もちろんよ。無償で何もかもお願いするつもりはないわ」
私は微笑んだ。
「まずは、実際にどれほど相談が寄せられるのか、試験的に確かめましょう。そのうえで、人員や費用を考えたいの」
「……なるほど」
ハインツは、ようやく笑みを浮かべた。
「奥様は、ずいぶんと慎重になられましたな」
「まあ。以前は無謀だったとおっしゃるの?」
「い、いや、そういう意味では!」
慌てて手を振るハインツに、クロエが吹き出した。
私も、つられて笑ってしまった。
「冗談よ」
私は羽ペンを置いた。
「でも、慎重になったというのは本当かもしれないわね」
事業を始めた頃の私は、とにかく前へ進むことばかり考えていた。
三年後の破滅を防がなければならない。
その焦りに突き動かされ、立ち止まることさえ怖かったのだ。
けれど、今は少し違う。
事業に関わる人が増えた。
工房で働く女性たちも、布を届けてくれる生産者たちも、商品を買ってくれる客たちもいる。
私が無理な計画を立てれば、その人たちの生活に影響が出る。
(……ローゼン侯爵の言葉にも、学ぶべきところはあるわね)
それを認めるのは、少々癪だけれど。
私は二人へ向き直った。
「では、お願い。クロエには、現在の注文と仕入れの実績、それから試験的な集荷計画を。ハインツには、ギルドで把握できる雇用の状況と、小規模事業者が制度を利用する際の負担について調べてほしいの」
「承知しました」
「お任せください」
二人は力強く頷いた。
その姿を見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
最初は、娘を救うために一人で始めた事業だった。
それが今では、こんなにも多くの人の知恵を借りられるようになっている。
誰かに助けを求めることは、弱さではない。
むしろ、一人では見えない問題に気づくために、必要なことなのだろう。
「……ありがとう、二人とも」
私は心からの感謝を込めて頭を下げた。
クロエは少し照れたように笑い、ハインツは慌てて手を振った。
「お、おやめください、奥様! 公爵夫人にそんなことをされたら、こちらが困ります!」
「まあ。では、次はもう少し威張ってお願いした方がよろしいかしら?」
「それはそれで困りますぞ!」
今度こそ、三人で声を立てて笑った。
窓の外には、秋の夕暮れが広がり始めていた。
◇
二人が帰ったあと、私は再び机に向かっていた。
ランプの明かりに照らされた羊皮紙には、先ほどの打ち合わせで書き込んだ項目が並んでいる。
新しい仕入れ先との取引条件。
検品に必要な手間。
運送費。
雇用の見込み。
そして、法案の運用に伴う費用。
どれも簡単には答えの出ない問題ばかりだった。
私は羽ペンを動かしながら、思わず小さく唸った。
「……ここは、まだ数字が足りないわね」
仮の見積もりを入れて計算してみても、条件を一つ変えれば、利益は大きく変わってしまう。
注文が予定どおり入れば採算は取れる。
けれど、布の到着が遅れれば?
不良品が増えれば?
運送費が上がれば?
(……駄目ね。まだ楽観的すぎるわ)
私は数字を書き直した。
前世では、企画書に見栄えのよい予測を並べる人もいた。
けれど、本当に必要なのは、上手くいかなかった場合にどこまで耐えられるかを知ることだ。
……なんて。
偉そうに考えている私自身、ずいぶん長いこと机に向かっている。
窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。
「……また眉間に皺を寄せているね」
不意に、背後から声がした。
顔を上げると、執務室の扉のそばにアレクシスが立っていた。
いつもの公爵としての隙のない装いではなく、上着を脱ぎ、襟元を少し緩めている。
「……あなた」
私は思わず時計を見た。
「まあ、もうこんな時間でしたのね」
「ようやく気づいたかい?」
アレクシスは苦笑しながら近づいてきた。
「夕食の時間を、とっくに過ぎているよ」
「あら……」
私はもう一度時計を見た。
確かに、その通りだった。
「申し訳ありません。夢中になってしまって」
「だろうと思った」
夫は机の上の羊皮紙へ視線を落とした。
「クロエたちと、随分話し込んでいたようだね」
「ええ。少し、面白い計画が見えてきたのです」
私は嬉しくなって、図を夫の方へ向けた。
「今の仕入れ網を整えれば、検品や運送の仕事を増やせるかもしれません。それに、法律を運用するときの負担についても、ギルドに調べてもらうことになりましたの」
アレクシスは黙って図を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
「どう思われます?」
「いい着眼点だと思う。ただ……」
夫は羊皮紙の端を指さした。
「ここに書かれている数字は、まだ仮のものだね?」
「ええ。実際の取引記録を確認してから、修正するつもりですわ」
「それなら安心した」
アレクシスは微笑んだ。
「議会では、都合のよい数字を示す者ほど、厳しく追及されるものだからね」
私は苦笑した。
「身に染みておりますわ」
「ローゼン侯爵も、そこを狙ってくるだろう」
「ええ。ですから、甘い見通しは避けたいと思っております」
そう答えると、夫は満足そうに頷いた。
「……君は、本当に変わったね」
「また、そのお話ですか?」
私は思わず笑ってしまった。
最近のアレクシスは、何かにつけて私が変わったと言う。
もちろん、前世の記憶を取り戻してから、私自身の考え方が大きく変わったのは確かだ。
けれど、それを夫に説明するわけにはいかない。
「以前の君なら、明日にでも全部実行しようとしていただろう」
「……否定できませんわね」
「今は、足元を確かめようとしている」
アレクシスは、机の上の資料を一枚手に取った。
「とてもいいことだと思うよ」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
……困る。
この人は最近、こういうことを何のためらいもなく口にする。
公衆の面前で「妻に夢中だ」などと言い放ったときも、そうだった。
最初は政治的な思惑があるのだろうと思っていたのに。
どうやら、そう単純な話ではないらしい。
「……ありがとうございます」
私は小さく答えた。
アレクシスは微笑み、手にしていた資料を机へ戻した。
「さて」
「はい?」
「仕事の話は、ここまでにしよう」
私は思わず目を瞬かせた。
「……まだ、少し整理したいところがあるのですけれど」
「それは明日でもできる」
「でも、次の審議までに――」
「エレオノーラ」
名前を呼ばれ、私は口を閉じた。
アレクシスは怒っていなかった。
むしろ、少し困ったように笑っている。
「君が頑張っていることは、よく分かっているよ」
その声は、とても穏やかだった。
「だからこそ、休んでほしいんだ」
私は何も言えなかった。
「君が倒れたら、私もイザベラも困る。それに……」
そこで、夫は少しだけ言葉を切った。
「私自身が、君と夕食を取りたいと思っている」
……まあ。
そんなふうに言われたら、断りにくいではないか。
私は夫を見上げた。
灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
以前のアレクシスなら、「身体を壊すから休め」とだけ告げていただろう。
そして、以前の私なら、その言葉を命令のように受け取って、反発していたかもしれない。
けれど今は、違う。
この人は、私に仕事をやめさせたいのではない。
一緒に過ごしたいと、そう言ってくれているのだ。
「……そうですわね」
私は羽ペンをインク壺の横へ置いた。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
アレクシスが、わずかに目を見開いた。
「……いいのかい?」
「まあ。誘ってくださったのは、あなたでしょう?」
私は少し意地悪く微笑んだ。
「それとも、私が断るとお思いでしたの?」
夫は一瞬だけ黙り、それから苦笑した。
「……正直に言えば、少し」
「あら」
私は笑った。
「では、驚かせることができましたわね」
「まったくだ」
アレクシスも笑った。
その笑顔を見て、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
二十年間、同じ屋敷に暮らしていながら、私たちは互いに何を考えているのか、ほとんど知らなかった。
必要なことは話した。
公爵家の運営についても、娘の教育についても、協力してきたつもりだった。
けれど、こうして何でもないことで笑い合う時間を、どれほど持っていただろう。
私はゆっくりと立ち上がった。
すると、アレクシスが自然な仕草で手を差し出してくれた。
私は、その手を見つめた。
以前なら、形式的なエスコートとして受け取っていただろう。
けれど、今日は少し違う。
私は自分から、夫の手を取った。
「……行きましょうか、あなた」
アレクシスの指が、そっと私の手を包み込んだ。
「……ああ」
その短い返事が、不思議なくらい優しく聞こえた。
執務室を出ると、廊下には柔らかな灯りがともっていた。
窓の向こうには月が浮かび、夜の庭園を淡く照らしている。
私たちは、ゆっくりと歩き始めた。
しばらくして、アレクシスが口を開いた。
「そういえば、以前約束した食事も、まだだったね」
私は顔を上げた。
王城の図書室で、イザベラとエドワードの様子を見守ったあの日。
夫は、私が以前から行ってみたいと話していた店へ、一緒に行こうと誘ってくれたのだ。
けれど、創立祭や議会の準備に追われ、結局まだ実現していない。
「……覚えていらしたの?」
「もちろん」
アレクシスは少し不思議そうな顔をした。
「君と交わした約束だからね」
……本当に。
この人は、どうしてこうも平然と甘いことを言うのだろう。
私は頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。
「では、次のお休みには、ぜひ」
「楽しみにしているよ」
夫が微笑んだ。
私は手を握り返しながら、そっと息を吐いた。
……ああ。
幸せというものは、案外こういうところにあるのかもしれない。
大きな商売を成功させることでも、議会で相手を言い負かすことでもない。
忙しい一日の終わりに、誰かと食事をする約束を楽しみにできること。
その相手が、自分の気持ちを大切にしてくれること。
たぶん、イザベラも少しずつ、そんな幸せを見つけ始めているのだろう。
あの子が創立祭の夜に見せた笑顔を思い出し、私は小さく微笑んだ。
「……あなた」
「何だい?」
「私、やっぱり、この国を変えたいわ」
アレクシスは黙って私を見つめた。
「働きたい人が安心して働けることも、家を守りたい人が誇りを持って暮らせることも、どちらも大切にできる国にしたいの」
私は窓の向こうへ視線を向けた。
「もちろん、すぐにできるとは思っていません。今の私たちにできることなんて、まだ小さなことばかりですもの」
「……ああ」
「でも、小さなことを積み重ねれば、いつか大きな変化になるかもしれないでしょう?」
アレクシスは、しばらく黙っていた。
やがて、私の手を少しだけ強く握った。
「……君なら、きっとやり遂げるだろうね」
私は首を振った。
「いいえ」
夫が目を瞬かせる。
私は微笑んだ。
「**私たちなら、ですわ**」
アレクシスは一瞬だけ言葉を失った。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そうだね」
その声が、夜の静かな廊下に優しく響いた。
私は夫の隣に並び、再び歩き出した。
ローゼン侯爵が突きつけた問題は、まだ何一つ解決していない。
新しい仕入れ網も、試験的な事業計画も、これから結果を確かめなければならない。
法案の運用に必要な費用も、雇用への影響も、調べることは山ほど残っている。
次の議会で、侯爵がどのような反論をしてくるのかも分からない。
けれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。
自分にできることを、一つずつ。
必要なら、仲間の力を借りながら。
そうやって前へ進めばいいのだ。
(……待っていなさい、ローゼン侯爵)
私は胸の中で、そっと呟いた。
あなたが求めた数字も、仕組みも、きちんと示してみせますわ。
ただし、私の改革は、あなたが思っているような単純なものではありません。
女性の仕事を守るために、男性の仕事を奪うつもりなどない。
誰かの取り分を一方的に増やして、別の誰かを苦しめるだけの改革にもしたくない。
私が目指しているのは、もっと多くの人が、自分の力を生かせる社会なのだから。
もちろん、理想を現実にするのは簡単ではない。
だからこそ、まずは一つの工房から。
一つの商会から。
そして、一人の働き手から。
できることを、確かめていこう。
私は夫の手を取り、温かな食事の待つ部屋へと向かった。
明日もきっと、忙しい一日になる。
けれど今夜だけは、仕事のことを少し忘れて。
二十年かけてようやく近づき始めた、この人との時間を大切にしようと思った。
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