ローゼン侯爵。あなたは一つ、大きな勘違いをなさっています
王国の政治の中枢、貴族院。
重厚な石造りの壁に囲まれた大会議場には、朝から普段以上の熱気が満ちていた。
半円形に連なる議席には、各地の領主や有力貴族たちが顔を揃え、中央の演壇へと視線を注いでいる。
本日は、私たちクライス公爵家が提出を準備している法案について、議会が意見を聴取する日だった。
もっとも、まだ正式な法案審議に入ったわけではない。
アレクシスが中立派の議員たちと協議を重ねた結果、まずは法案の趣旨と必要性について、議会の場で説明する機会を設けることになったのである。
本来、議席を持たない私が演壇に立つことはできない。
けれど今回は、法案の請願者として、議長から特別に発言の許可を得ていた。
そして、その機会を誰よりも待ち構えていた人物がいる。
「諸卿。私は、女性が働くことそのものを否定するつもりはありません」
議場の中央に立つローゼン侯爵が、よく通る声で語りかけていた。
白髪の混じる頭を堂々と上げ、居並ぶ貴族たちをゆっくりと見渡している。
「領地の農家では、古くから夫婦が共に畑を耕してまいりました。商家においても、妻が店を支えることは珍しくありません。家族が力を合わせて働くことは、我が国の美しい伝統の一つです」
保守派の議席から、賛同するような頷きが返された。
私はアレクシスの隣に設けられた傍聴席で、その演説を静かに聞いていた。
(……なるほど。そう来たのね)
以前のローゼン侯爵なら、女性は家を守るべきだと、もっと露骨に主張していたかもしれない。
けれど今日は違う。
女性の労働を認める姿勢を示したうえで、私たちの法案だけを問題視しようとしているのだ。
「しかし、クライス公爵家が提案する法案については、慎重に考えねばなりません」
侯爵の声が、わずかに低くなった。
「この法案は、家族や雇用主が女性の働き方について異議を唱えることまで、法の力で封じようとするものではないのか。家族の中には、他人には分からぬ事情があるものです」
一人の伯爵が、深く頷いた。
「そのとおりですな」
「夫婦の意見が食い違うこともある。親が娘の将来を案じ、仕事を辞めるよう諭すこともありましょう。それらをすべて不当な妨害と見なすならば、国は家庭の中にまで口を出すことになります」
侯爵はそこで、ゆっくりと両手を広げた。
「諸卿。我々が守るべきは、目新しい理想ではありません。長い年月をかけて築かれてきた、家族の信頼と秩序なのです」
拍手が起こった。
決して議場全体からではない。
それでも、保守派を中心とする議席からは、かなりの数の賛同が寄せられている。
私は膝の上で、そっと指を組んだ。
(……上手いわね)
正面から女性の就労を否定すれば、すでに女性を雇用している商人や領主まで敵に回してしまう。
そこで侯爵は、家族の自主性を守るという、誰もが反対しにくい立場を選んだのだ。
しかも、その主張には一定の理がある。
家族の間で意見が食い違ったからといって、すべてを法律で裁くことなどできない。
問題は、私たちの法案がそもそもそこを対象としていないことだった。
「……先手を打たれたね」
隣でアレクシスが囁いた。
私は頷いた。
「ええ。ですが、想定していた範囲ですわ」
「ほう?」
夫がこちらを見る。
「ご家族の絆を守りたいという侯爵のお考えには、私も賛成ですもの」
アレクシスは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「……なるほど。そういうことか」
私は夫に微笑み返した。
「ええ。せっかくですから、侯爵にもご協力いただきましょう」
そのとき、議長が木槌を鳴らした。
「それでは、請願者であるクライス公爵夫人に発言を許可する」
議場の視線が、一斉にこちらへ向いた。
私はゆっくりと立ち上がった。
高い天井、重厚な柱、幾重にも連なる貴族たちの顔。
その光景を前にして、心臓が少しだけ速く打ち始める。
無理もない。
私は公爵夫人ではあるけれど、議員ではない。
今日ここにいる者の多くは、この国の政治を何十年も動かしてきた人々だ。
私のような女が国の法律について意見を述べること自体、不愉快に思っている者もいるだろう。
けれど、引き返すつもりはなかった。
(……大丈夫)
私は胸の中で、そっと自分に言い聞かせた。
前世では、会議室で何度も企画を説明した。
もちろん、数百人の貴族を相手にするのは初めてだけれど。
伝えたいことを整理し、相手の言葉を聞き、必要な事実を示す。
やるべきことは、案外変わらない。
私は演壇へ進み、議長に一礼した。
そして、ローゼン侯爵へ視線を向けた。
「侯爵。本日は貴重なご意見をありがとうございます」
侯爵の眉が、わずかに動く。
「これはご丁寧に。公爵夫人」
「ただ、一つ、大きな勘違いをなさっていますわ」
議場の空気が、ぴんと張り詰めた。
「……勘違い、ですと?」
侯爵の声が低くなる。
私は穏やかに微笑んだ。
「ええ。侯爵は先ほど、家族の意見が食い違うことまで法律で規制するのではないかとご心配なさいました」
「その危険があると申し上げたのです」
「ですが、今回の法案が対象としているのは、家庭内の意見の相違ではございません」
私は持参した資料の一枚を掲げた。
「合法的に働いている者に対して、その労働を妨害する目的で、本人や家族の生活を脅かす。そうした第三者による不当な圧力を規制するためのものです」
議場の一角から、低いざわめきが起こった。
「例えば、妻が働くことについて、夫婦で意見が違うといたしましょう。それは、まず当人同士で話し合うべき問題です」
私は一度、言葉を切った。
「けれど、妻の勤め先が気に入らない第三者が、夫の雇い主に働きかけ、『妻を辞めさせなければ夫を解雇する』と脅したら、どうでしょうか」
何人かの議員が、顔を上げた。
「それは家族の話し合いではございません。家族の生活そのものを、外から脅かしているのです」
「……具体的な事例があるのですかな?」
ローゼン侯爵が尋ねた。
待っていた質問だった。
私は机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「ございます」
議場が静まり返る。
「先日、私が南区画で運営する工房から、三十人の女性職人が退職いたしました」
その人数を耳にして、何人かの議員が眉をひそめた。
「三十人も?」
「それは経営に問題があったのではないか?」
そんな声が聞こえてくる。
私は頷いた。
「もちろん、経営に問題がなかったかどうかは、私自身も検証しなければなりません。ですが、今回の退職については、それとは別の事情がございました」
私は用意した証言録を開いた。
「退職した女性たちの中には、家族の勤め先を通じて、仕事を辞めるよう圧力を受けたと話す者が複数おります」
議場のざわめきが強くなった。
私はそこで、資料を閉じた。
「ただし、ここで三十人全員の名前を申し上げるつもりはございません」
侯爵が目を細める。
「ほう。証言者の名前も出せない話を、我々に信じろと?」
「ごもっともな疑問ですわ」
私は落ち着いて答えた。
「だからこそ、本人が議会への提出を承諾した証言については、担当書記に原本をお預けしております。退職の日付や、工房の雇用記録と照合できる部分もございます」
私は議長へ視線を向けた。
「ただ、証言者のご家族は今も働いております。名前を公にすれば、さらに不利益を受けるおそれがあるため、この場では伏せさせていただきました」
議長が静かに頷いた。
「原本については、必要な範囲で確認することとする」
私は一礼した。
ここで誰かの名前を公表すれば、演説には迫力が出るかもしれない。
けれど、そのために縫い子たちの生活を危険にさらすつもりはない。
彼女たちは政治の駒ではないのだ。
「証言の一つをご紹介いたします」
私は、本人が匿名での使用を認めた文章を読み上げた。
「『私は仕事を続けたかったのです。でも、夫が勤め先から、私が工房を辞めなければ仕事を失うかもしれないと言われました。子供もおりますので、夫の仕事までなくなるわけにはいきませんでした』」
議場が静かになった。
「この女性は、自分の仕事が嫌になって辞めたのではございません」
私は静かに続けた。
「家族の暮らしを守るために、自分の仕事を諦めたのです」
議員たちの表情を、一人ずつ確かめるように視線を巡らせた。
「もちろん、この証言だけで、誰がどのような指示を出したのか、すべてが明らかになるわけではありません。今後の確認も必要でしょう」
そこで、私はローゼン侯爵へ向き直った。
「ですが、侯爵。もし、このような圧力が実際に行われたのだとしたら、あなたはどうお考えになりますか?」
「……どう、とは?」
「家族を守るために働いている夫の職を人質に取り、妻に仕事を辞めさせる。それは、あなたが先ほどおっしゃった家族の信頼と秩序を守る行為なのでしょうか」
侯爵は、すぐには答えなかった。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「そのような脅迫があったとすれば、感心できる行為ではありませんな」
「ええ。私もそう思います」
「ですが、それを理由に新しい法律を作る必要があるかどうかは、別問題です。既存の制度で対処できないのですかな?」
さすがだ。
簡単には隙を見せてくれないらしい。
私は頷いた。
「まさに、その点が問題なのです」
私は別の資料を開いた。
「現在の制度でも、明白な脅迫や不当な解雇について争える場合はございます。しかし、第三者が家族の雇用関係を利用して、別の者の合法的な就労を妨げた場合、責任の所在や救済の方法が曖昧になっております」
議席の一角で、何人かが資料へ目を落とした。
「その隙間を埋めることが、今回の提案の目的です」
私は一呼吸置いた。
「決して、家族が話し合う自由を奪うためではございません」
「……なるほど」
中立派の席から、低い声が上がった。
「それならば、当初聞いていた内容とは随分違うな」
「家庭の権限そのものを廃止するわけではないのか」
私は小さく頷いた。
「ええ。そのような法案ではございません」
すると、後方の席から一人の伯爵が立ち上がった。
「公爵夫人。では、確認させていただきたい」
議長の許可を得て、伯爵が続ける。
「雇い主が経営上の都合で従業員を解雇することまで、禁じるおつもりではありますまいな?」
「もちろんです」
私は答えた。
「正当な経営上の判断と、他人の就労を妨害するための脅迫は区別しなければなりません。その線引きを明確にすることも、今後の審議で必要だと考えております」
伯爵はしばらく考え込んだ。
「……ならば、条文をよく確認する必要がありそうですな」
「ぜひ、お願いいたします」
私は深く頭を下げた。
その姿を見て、別の議員も資料に目を通し始めた。
先ほどまでのように、保守派の演説にただ頷くだけではなく、自分の言葉で疑問を確かめようとしている。
私は胸の奥で、小さく息を吐いた。
(……よし)
まだ誰も、法案に賛成すると約束してくれたわけではない。
けれど、議論の中心を「女性が家族に逆らうことの是非」から、「第三者による脅迫をどう防ぐか」へ移すことはできた。
それだけでも、大きな前進だ。
「……公爵夫人」
ローゼン侯爵が、再び口を開いた。
私は彼へ向き直った。
「何でしょうか?」
「先ほどの証言について、一つだけ伺いたい」
その顔には、相変わらず余裕のある笑みが浮かんでいた。
「夫の職を失わせると脅した者がいるとして、その者が私の関係者だとお考えですかな?」
議場の空気が、わずかに張り詰めた。
私はその質問を聞き、心の中で静かに息を吐いた。
やはり、そこを突いてくるか。
退職した三十人のうち、二十七人の家族の勤め先は、ローゼン侯爵と経済的なつながりを持つ事業者の系列に属していた。
その事実は、すでにクロエたちの調査で確認している。
けれど、それだけでは侯爵自身が圧力を命じた証拠にはならない。
ここで憶測を口にすれば、むしろ私の発言の信用が失われる。
私は侯爵の目を真っ直ぐに見返した。
「いいえ」
議場がざわめいた。
侯爵の眉がわずかに上がる。
「……ほう?」
「現時点で、侯爵ご自身が関与なさったと断定できる証拠はございません。ですから、そのような主張をするつもりもありませんわ」
私はゆっくりと続けた。
「ただ、誰が行ったか分からないからこそ、同じことを繰り返させない仕組みが必要なのです」
侯爵は、しばらく私を見つめていた。
「……なるほど。慎重なお方だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
私は微笑んだ。
「侯爵も、家族の生活を脅かすような行為には反対してくださるのでしょう?」
今度こそ、侯爵の口元から笑みが消えた。
「……当然です」
「ありがとうございます」
私は議場へ向き直った。
「皆様。私は、女性だけを特別扱いしてほしいと申し上げているのではございません」
声を張り上げる必要はなかった。
議場は、すでに十分静かだった。
「働く人が、自分の仕事を理由に家族を脅される。そのようなことが許されれば、誰も安心して働くことができません」
私は一度、言葉を切った。
「今日は女性の就労について申し上げておりますが、このような圧力は、決して女性だけの問題ではないはずです」
何人かの議員が、静かに頷いた。
「自分の家族を守るために、他人の理不尽な要求に従わなければならない。それが当たり前になれば、次に脅されるのは、皆様の領地で働く者かもしれません」
私は、ローゼン侯爵へ視線を向けた。
「侯爵。あなたは先ほど、家族の信頼と秩序を守るべきだとおっしゃいました」
「ああ」
「私も同じ考えです」
侯爵は何も言わなかった。
「だからこそ、その家族の生活を外から脅かす行為を、放置してはならないと思うのです」
その言葉のあと、議場にはしばらく沈黙が流れた。
やがて、中立派の席から声が上がった。
「……少なくとも、検討する価値はあるのではないか」
「そうですな。脅迫と家族内の意見の相違は、分けて考えるべきでしょう」
「ただし、条文の定義は慎重にする必要がある」
賛成とも反対ともつかない声が、少しずつ増えていく。
私は議席を見渡した。
ローゼン侯爵の主張をそのまま受け入れていた者たちが、今は資料を読み、自分の言葉で考え始めている。
(……これなら)
少なくとも、法案の提出すら認められずに終わる事態は避けられるかもしれない。
私はそう思った。
そのときだった。
「……実に見事ですな」
低い声が、議場に響いた。
ローゼン侯爵だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、私へ向けて小さく拍手をした。
乾いた音が、石造りの議場に響く。
「クライス公爵夫人。なるほど、よく分かりました」
侯爵は笑っていた。
けれど、その目には先ほどまでとは違う、鋭い光が宿っている。
「あなたがおっしゃるように、不当な圧力から働く者を守ることには意味があるのでしょう」
私は慎重に頷いた。
「ありがとうございます」
「ですが」
侯爵は、そこで言葉を切った。
「あなたは、まだ一つ、大切な問題に答えておられません」
議場の空気が変わった。
「……何でしょうか?」
侯爵は、自分の席に置かれていた資料を一枚取り上げた。
「女性が働き続けやすくなる。それ自体は結構。しかし、その結果、働き手が増えたとき、市場で何が起こるかはお考えですかな?」
私は眉を寄せた。
「……労働市場への影響、でしょうか」
「そのとおり」
侯爵はゆっくりと頷いた。
「仕事を求める者が増えれば、雇い主はより多くの者から働き手を選べるようになる。場合によっては、賃金を引き下げることもできるでしょう」
議場の一角から、同意するような声が上がった。
「既に働いている男性たちにとっては、競争相手が増えることになる。賃金が下がれば、その家族の暮らしにも影響が出る」
侯爵はさらに続けた。
「もちろん、仕事が増える業種もあるでしょう。しかし、そうならない業種は? 働き手が余っている地域は? 安い賃金で働く者を増やさなければ利益を出せない小さな工房は?」
私は黙って聞いていた。
先ほどまでのような、家族の権威を守るという抽象的な話ではない。
雇用と賃金。
経営者として、私自身も無視できない問題だった。
「加えて、法案によって新しい義務が生じれば、雇い主にも負担がかかりますな」
侯爵は資料を机へ置いた。
「何が不当な圧力に当たるのか。それを誰が判断するのか。疑いをかけられた雇い主は、どのように潔白を証明するのか」
その問いに、何人かの議員が顔を見合わせた。
「大商会ならば、記録を残す事務員を雇えるでしょう。しかし、従業員が数人しかいない店や工房はどうです? 争いが起きるたびに、役所へ出向いて説明せねばならないとしたら?」
私は唇を引き結んだ。
この男は、ただ闇雲に法案を否定しているわけではない。
規制が必要だとしても、その運用には費用がかかる。
しかも、制度の作り方を誤れば、本来守るべき小さな事業者や労働者に負担が及ぶ可能性がある。
侯爵は、そこを正確に突いてきたのだ。
「公爵夫人」
彼が私を見た。
「私は、働く女性を守ることが間違いだと申しているのではありません」
低く、よく通る声だった。
「ただ、国を動かす者は、理想がもたらす利益だけでなく、そのために誰が何を失うのかまで考えねばならないと申し上げているのです」
私は何も答えなかった。
議場は静まり返っていた。
侯爵は、ゆっくりと続けた。
「あなたの工房では、女性たちが働くことで利益が生まれたのでしょう。それは結構なことです」
そして、わずかに目を細めた。
「では、同じことを王国全体で行えば、すべての者が豊かになるとお考えですかな?」
その問いに、胸の奥が小さく跳ねた。
(……違う)
そんな単純な話ではない。
前世で学んだ経済の知識からしても、働き手が増えれば必ず賃金が下がるわけではない。
需要が増え、新しい事業が生まれ、生産性が上がることもある。
実際、私たちの工房が新しい市場を開拓できたのは、それまで十分に活用されていなかった技術と人手を結びつけたからだ。
けれど、その反対に、仕事の増加が追いつかず、一部の労働者が厳しい競争にさらされる場合もある。
産業や地域によって、結果は異なる。
そして何より、今回の法案は、女性が一斉に労働市場へ参入することを義務づけるものではない。
すでに働いている者が、不当な圧力で仕事を奪われないようにするための法律だ。
侯爵の主張には、法案の影響を必要以上に大きく見せている部分がある。
それは確かだった。
けれど。
(……すべてが的外れというわけでもない)
新たな規制が事業者にどれほどの負担をかけるのか。
実際の雇用や賃金に、どのような影響が及ぶのか。
私は、その点について十分な数字を持ち合わせていなかった。
ローゼン侯爵は、私の沈黙を見逃さなかった。
「どうなさいました、公爵夫人?」
私は顔を上げた。
「先ほどまでの威勢は、どこへ行かれたのですかな?」
保守派の議席から、かすかな笑い声が漏れた。
私はゆっくりと息を吸った。
……まったく。
なんて厄介な相手なのだろう。
けれど、ここで腹を立てても仕方がない。
大切なのは、相手を言い負かすことではないのだから。
「……ローゼン侯爵」
私は静かに口を開いた。
「ご指摘の中には、検討すべき問題がございます」
議場がざわめいた。
侯爵も、少し意外そうな顔をした。
「ほう。お認めになるのですかな?」
「ええ」
私は頷いた。
「新しい制度を設ける以上、その運用に費用がかかることも、雇用への影響を調べる必要があることも、否定するつもりはございません」
その言葉に、侯爵の口元がゆっくりと上がった。
「では、法案には重大な欠陥があると?」
「いいえ」
私は、はっきりと答えた。
「欠陥がないと証明するためにも、詳しく調べる必要があると申し上げているのです」
侯爵の眉が、わずかに動いた。
「今回の法案によって、どれほどの事業者に新たな負担が生じるのか。雇用や賃金にどのような影響があるのか。その点については、今後の審議で確かめなければなりません」
私は議場を見渡した。
「ですが、まだ調べていないことがあるからといって、今まさに不当な圧力を受けている人々の問題まで、なかったことにはできません」
誰も口を挟まなかった。
私は続けた。
「雇う側にも、働く側にも、守るべき生活がございます。だからこそ、どちらか一方に無理を押しつける制度にはしたくありません」
そして、侯爵へ視線を戻した。
「そのための議論を、私はお願いしているのです」
議場に静けさが落ちた。
ローゼン侯爵は、しばらく私を見つめていた。
やがて、薄く笑った。
「……結構。では、公爵夫人」
その声に、嫌な予感がした。
「次の審議までに、お示しいただきましょう」
「……何を、でしょうか?」
侯爵は、居並ぶ議員たちへゆっくりと視線を巡らせた。
「この法案を施行した場合、どのような費用が発生するのか。小規模な事業者にどれほどの負担を強いるのか。そして、その負担を誰が引き受けるのか」
私は黙って聞いていた。
「理念だけではなく、具体的な数字と実行可能な仕組みでご説明いただきたい」
侯爵は、そこで私を真っ直ぐに見た。
「もし新しい制度によって、仕事を失う者や、生活が苦しくなる家族が出たとき――」
その声が、議場の隅々にまで響いた。
「**公爵夫人。あなたは、その責任を一体誰が、どうやって取るとお考えなのですかな?**」
議場が、再びざわめきに包まれた。
私は演壇の上で、静かに指を握りしめた。
……なるほど。
ここまで来て、ようやく分かった。
ローゼン侯爵は、単に法律を潰そうとしているだけではない。
私たちに、改革の費用と責任を引き受ける覚悟があるのかを問うているのだ。
もちろん、その問いが純粋な善意から発せられたものだとは思わない。
けれど、問いそのものが間違っているわけではなかった。
(……数字と、仕組み)
前世で企画を提出するとき、私が何度も求められたものだ。
どれほど魅力的な提案でも、実行に必要な費用や、失敗した場合の対処が説明できなければ、承認は得られない。
それは、企業でも王国でも変わらない。
私は傍聴席へ視線を向けた。
アレクシスが、黙ってこちらを見つめていた。
心配そうな顔ではない。
かといって、代わりに答えてくれそうな様子もなかった。
ただ、私がどう答えるのかを待っている。
……本当に、この人は。
私は小さく笑いそうになった。
夫は私を守ってくれる。
けれど、私が自分で立つことまで奪おうとはしない。
それが今は、ありがたかった。
私は再びローゼン侯爵へ向き直った。
「……承知いたしました」
侯爵が、わずかに目を細める。
「ほう?」
「次の審議までに、可能な限りの資料を揃え、具体的な対策をお示しいたします」
議場が静かになった。
「ただし、侯爵」
私は微笑んだ。
「一つだけ、お約束いただけませんか?」
「……何ですかな?」
「私がその説明を果たしたときには、法案の内容そのものについて、公平に議論していただきたいのです」
侯爵の笑みが、わずかに深くなった。
「……当然でしょう。私は最初から、そのつもりですとも」
私は一礼した。
「ありがとうございます」
そのとき、議長が木槌を鳴らした。
「本日の意見聴取は、ここまでとする。提出予定の法案については、追加資料の確認を経たうえで、改めて取り扱いを協議する」
私は演壇を降りた。
足元に敷かれた赤い絨毯が、先ほどより少し長く感じられる。
議場を出れば、また大量の資料と向き合うことになるだろう。
商会の帳簿を調べ、工房の収支を確かめ、各地の雇用事情についても聞き取りを行わなければならない。
それも、ただ都合のよい数字を集めるのでは意味がない。
ローゼン侯爵の指摘が正しい部分も、正しくない部分も、きちんと見極める必要がある。
(……簡単にはいかないわね)
私は小さく息を吐いた。
そのとき、傍聴席の近くでアレクシスが待っているのが見えた。
「お疲れ様、エレオノーラ」
「……あなた」
「いい演説だったよ」
私は苦笑した。
「最後は、すっかり侯爵に主導権を握られてしまいましたけれど」
「そうかな?」
夫は少し楽しそうに首を傾げた。
「少なくとも、今朝まで君の法案を頭から否定していた者たちが、今日は内容を確認する必要があると言い始めた」
私は振り返った。
議場では、まだ何人かの議員が資料を手に話し込んでいた。
「それは、前進ではありませんこと?」
「……ああ。間違いなくね」
アレクシスは頷いた。
「ただし、ローゼンも本気だ。次はもっと厳しくなるだろう」
「承知しておりますわ」
私は夫を見上げた。
「ですから、お願いがあります」
「何だい?」
「あなたの議会での知識と人脈を、もう少しお借りしたいのです」
アレクシスは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……喜んで」
その返事を聞いて、私は微笑んだ。
以前の私なら、夫に頼ることをためらっていたかもしれない。
けれど、もうそんな意地を張る必要はない。
夫には夫の得意なことがある。
私には私の経験がある。
クロエには商人としての知恵があり、ハインツには王都の商業を見てきた目がある。
そして今は、イザベラやエドワードたちも、自分にできることを探している。
一人で全部を背負う必要など、最初からなかったのだ。
私は議場の出口へ向かいながら、胸の中でそっと呟いた。
(……ローゼン侯爵)
あなたの言うことにも、一理あります。
法律を変えるというのは、綺麗事だけで済む話ではない。
新しい仕組みを作れば、必ず誰かの仕事や暮らしに影響が出る。
その責任から逃げるつもりはありません。
けれど。
だからといって、何も変えない理由にはしませんわ。
守るべき人々がいるのなら、そのために何が必要なのか、最後まで考え抜いてみせる。
……そして、できることなら。
改革のために誰かを犠牲にするのではなく、これまで見過ごされてきた人々も、一緒に豊かになれる道を探したい。
それこそが、私の目指す改革なのだから。
議事堂の扉が開き、秋の冷たい空気が頬を撫でた。
私は夫の隣に並び、まっすぐ前を見据えた。
次に必要なのは、理想を語る言葉ではない。
**理想を現実に変えるための、数字と仕組みだ。**
そして、その答えを出すためには、私たちがこれまで築いてきた商売そのものを、もう一度見つめ直す必要がありそうだった。
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