働かない女性には価値がないとおっしゃるの?
第26話 働かない女性には、価値がないとおっしゃるの?
公爵邸の大サロンには、午後の柔らかな日差しが降り注いでいた。
白亜の柱の間に設けられた窓から秋の庭園が見渡せ、磨き上げられたテーブルには、焼き菓子と香り高い紅茶が並んでいる。
一見すれば、ごく普通の貴族の茶会だ。
ただし、今日の招待客たちが手にしているのは、流行のドレスを紹介する冊子でも、婚約相手の家系図でもない。
私たちが議会への提出を目指している、就労妨害規制法案の説明資料だった。
(……さて。どうなるかしらね)
私はサロンに隣接する小部屋で、少しばかり落ち着かない気持ちを抱えていた。
今日の茶会を企画したのは、娘のイザベラだ。
招待状の文面を考え、出席者を選び、説明資料を用意したのも、すべてあの子自身である。
もちろん、私とアレクシスも内容を確認しているし、参加者の家にも事前に趣旨を伝えてある。
王太子の婚約者が主催する茶会で、政治に関わる話をするのだ。保護者として、何も知らない顔をしているわけにはいかない。
とはいえ、主役はイザベラである。
娘からも、できるだけ自分たちで話し合いたいと頼まれていた。
そこで私は、必要があればすぐに出られるよう隣室に控え、扉を少し開けて様子を見守ることにしたのだ。
……決して、娘が心配で覗き見をしているわけではない。
たぶん。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
サロンの中央で、イザベラが丁寧に頭を下げた。
蒼い瞳には、いつもの社交の場とは違う緊張が浮かんでいる。
けれど、その声はよく通っていた。
「今日は、皆様にお願いをするためだけにお招きしたのではございません。わたくし自身も、まだ勉強しているところです。ですから、どうか率直なお考えをお聞かせくださいませ」
集まったのは、以前のドレス再利用に協力してくれた令嬢たちを中心とする、十人ほどの若い貴族だった。
令嬢の兄や婚約者にあたる令息も数名いる。
そして、その中にはマーガレット伯爵令嬢の姿もあった。
彼女は以前、イザベラの呼びかけに応じて古いドレスを提供してくれたものの、最初から積極的な協力者だったわけではない。
むしろ、身分に相応しい装いを重んじる、ごく伝統的な考え方の持ち主だ。
その彼女が、今日も背筋を伸ばしてイザベラを見つめている。
私はそっと紅茶を口に運んだ。
(……最初の難関は、やっぱりマーガレット嬢かしら)
予想は、ほどなく的中した。
「イザベラ様。一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんですわ」
マーガレットは手元の資料を持ち上げた。
「今回の法案は、女性が結んだ合法的な雇用契約について、第三者が不当な圧力を加え、就労を妨げることを規制するもの……という理解でよろしいですか?」
「ええ。その通りです」
「例えば、ある女性が工房で働いていたとして、その夫の雇い主が『妻を辞めさせなければ、お前の仕事をなくす』と脅した場合も、対象になるのですね」
「はい。そうした事例が、実際に起きています」
イザベラの声が、わずかに硬くなった。
私は、南区画の工房を去っていった縫い子たちの顔を思い出していた。
その中には、娘の靴を買えたことを嬉しそうに話してくれたエマもいる。
彼女たちは働く意欲を失ったわけではない。
家族の生活を守るために、仕事を諦めざるを得なかったのだ。
「……なるほど」
マーガレットは資料を置いた。
「そのような脅しが許されるべきではないという点には、わたくしも異論はございません」
私は内心で少し驚いた。
思っていたより、話が通じている。
けれど、マーガレットはそこで言葉を切り、イザベラを真っ直ぐに見つめた。
「ですが、もう一つ伺いたいことがございます」
「何でしょうか?」
「イザベラ様は、女性が働き、自分の力で生きていける社会を目指していらっしゃるのですね」
「はい」
「では……」
マーガレットは膝の上で手を重ねた。
「外で働かない女性には、価値がないとおっしゃるの?」
サロンの空気が、わずかに変わった。
令嬢たちが顔を見合わせ、令息の一人が資料から目を上げる。
私は思わずカップを置いた。
(……来たわね)
その問いは、決して意地悪から発せられたものではなかった。
マーガレットの声には、むしろ切実な響きがあった。
「わたくしたちは、幼い頃から家を守るための教育を受けてまいりました。使用人を統率し、領地の帳簿を読み、親族との付き合いを維持し、いずれは子供たちを育てる」
彼女は静かに続けた。
「それらは、決して簡単な務めではございません。けれど、女性が外で賃金を得ることばかり評価されるようになれば、家を守るために生きてきた女性たちは、何を誇りにすればよいのでしょうか」
私は思わず背筋を伸ばした。
なるほど。
彼女が恐れているのは、単に古い制度が変わることではない。
自分がこれまで努力して身につけてきたものを、時代遅れだと否定されることなのだ。
それは、決して軽く扱っていい感情ではない。
私自身、公爵夫人として二十年間、家政や社交、娘の教育に携わってきた。
その仕事を、誰かから「自分で稼いでいないのだから価値がない」と言われたら、きっと腹が立つだろう。
(……イザベラ。あなたなら、どう答える?)
娘はすぐには口を開かなかった。
マーガレットの言葉を考えるように、しばらく手元の資料へ目を落としている。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……マーガレット様。まず、お礼を申し上げます」
「お礼、ですか?」
「ええ。わたくしが考えなければならないことを、教えてくださいましたから」
マーガレットが目を瞬かせた。
イザベラは少しだけ微笑んだ。
「わたくしも、以前は家を守ることが、貴族の女性にとって最も大切な務めだと思っておりました」
「……はい」
「そして、その務めを果たせない女性は、立派な令嬢とは呼べないのだと」
娘の言葉に、私は胸を突かれた。
あの子が自分の価値を王太子妃という立場に結びつけ、どれほど苦しんでいたか。
私は知っている。
「けれど、南区画の工房で働く女性たちにお会いして、考えが変わりました」
イザベラは続けた。
「皆様、それぞれに事情を抱えていらっしゃいました。家族を養うために働く方もいれば、仕事そのものが好きだという方もいらっしゃいました」
その声には、静かな温かさがあった。
「そして、働いて得たお金でお子様に靴を買えたことを、とても嬉しそうに話してくださった方も」
エマのことだ。
私は思わず目を細めた。
娘は、あの小さな出来事を覚えていたのだ。
「その方は、お母様でもあり、縫い子でもありました。どちらか一つしか選べないわけではありません」
マーガレットは黙って聞いていた。
「もちろん、家庭を守ることに誇りを持つ女性もいらっしゃるでしょう。わたくしは、その生き方を否定したくありません」
イザベラは、そこで一度言葉を切った。
「ただ……家庭を守ることが尊いからといって、ほかの道を選ぶことが許されないのは、おかしいと思うのです」
サロンに静けさが落ちた。
「わたくしが大切だと思うのは、どちらが立派かということではございません」
娘はマーガレットを真っ直ぐに見つめた。
「働く女性も、家庭を守る女性も、どちらも自分で選べることが大切なのです。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ああ。
この子は、ちゃんと分かっている。
私が始めた改革の意味を、私とは違う経験から、自分自身の言葉で見つけているのだ。
「……自分で選ぶ」
マーガレットが、小さく繰り返した。
「ええ」
イザベラは頷いた。
「今回の法案は、すべての女性に外で働くよう求めるものではありません。すでに働いている方が、脅しによって仕事を奪われないようにするためのものです」
「……そうでしたわね」
「財産の管理や相続についても、いずれ考えなければならない問題だと思います。けれど、まずは今、困っている方々を守るところから始めたいのです」
マーガレットは資料を見つめた。
その表情から、先ほどまでの強張りが少しだけ薄れていた。
けれど、彼女はすぐに賛成とは言わなかった。
「……イザベラ様のお考えは、理解できました」
そう言って、顔を上げる。
「ですが、もう一つ問題がございます」
「何でしょうか?」
「家の者が、女性に働いてほしくないと考えること自体は、禁じられるのですか?」
今度は、同席していた令息たちも真剣な顔になった。
マーガレットは続けた。
「例えば、結婚した女性が仕事を続けたいと望み、夫は家にいてほしいと考えた場合です。意見が対立することもあるでしょう」
イザベラは少し考え込んだ。
「……その場合は、まず話し合うべきだと思います」
「では、話し合っても意見が一致しなかったら?」
娘はすぐには答えなかった。
私はその沈黙を、少しだけ嬉しく思った。
以前のイザベラなら、王太子妃候補として正しい答えを示さなければならないと考え、無理にでも何かを言おうとしただろう。
けれど、今の娘は違う。
「……申し訳ありません。そこまでは、わたくしにもまだ答えが出せません」
マーガレットが、わずかに目を見開いた。
イザベラは続けた。
「ただ、意見が違うことと、相手の生活を脅かして従わせることは、別だと思うのです」
「……」
「今回の法案で問題にしているのは、後者です。夫婦や家族がどう話し合うべきかまで、法律で決めようとしているわけではございません」
マーガレットはしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。わたくし、少し勘違いしておりました」
その声には、先ほどよりも柔らかな響きがあった。
「ですが、父が同じように理解してくれるかは分かりません」
「ええ。わたくしも、簡単なことだとは思っておりません」
「父は、女性が家の外で働くこと自体を好ましく思っていないのです」
マーガレットは少し困ったように笑った。
「わたくしが今日のお話を持ち帰れば、きっと余計なことに首を突っ込むなと叱られるでしょう」
イザベラは、静かに彼女を見つめた。
「でしたら、無理にお話しなさらなくても構いませんわ」
「……え?」
「マーガレット様を困らせるために、お招きしたのではございませんもの」
その言葉に、マーガレットは意外そうな顔をした。
「わたくしは、皆様に知っていただきたかっただけです。賛成するかどうかは、それぞれに考えていただければ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、マーガレットは小さく息を吐いた。
「……本当に、変わられましたわね。イザベラ様」
娘が少し驚いたように目を瞬かせる。
「以前のあなたなら、賛成しない者を許さなかったでしょうに」
……なかなか手厳しい。
けれど、イザベラは怒らなかった。
少しだけ頬を赤くして、苦笑した。
「……お恥ずかしいことですわ」
「いいえ」
マーガレットは首を振った。
「今のイザベラ様の方が、わたくしはお話ししやすいです」
その言葉に、娘の表情がぱっと明るくなった。
私は思わず、口元を押さえた。
(……ああ、もう)
本当に、困ったものだ。
娘が褒められただけで、どうしてこんなに嬉しくなってしまうのだろう。
そのとき、サロンの扉が控えめに叩かれた。
侍女が入室し、イザベラに何事かを告げる。
娘が驚いたように顔を上げた。
「……殿下が?」
私は思わず背筋を伸ばした。
(……あら?)
まさか。
いや、でも。
扉の向こうから現れたのは、予想どおりの人物だった。
「失礼するよ」
エドワード王太子である。
令嬢たちが一斉に立ち上がり、令息たちも慌てて姿勢を正した。
イザベラだけが、驚いたように彼を見つめている。
「殿下……本当にいらしてくださったのですね」
「ああ。遅くなってすまない」
エドワードは少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「王宮での用事が長引いてしまって」
私は内心でほっとした。
事前に王宮と調整したうえで、非公式の学習会として短時間だけ参加することになっていたのだ。
とはいえ、王太子の登場が若い貴族たちに与える影響は小さくない。
そのことは、エドワード自身にも十分に理解してもらわなければならない。
「皆、楽にしてほしい」
彼は集まった若者たちへ穏やかに声をかけた。
「今日は王太子として何かを命じに来たわけではないんだ。僕も、皆と一緒に学びたいと思っている」
その言葉に、場の緊張が少しだけ和らいだ。
エドワードはイザベラの隣に立つと、手にしていた薄い冊子を差し出した。
「……これを持ってきた」
「まあ。何でしょう?」
「以前、君が話してくれたことが気になってね。王宮の書庫で、女性が領地の管理に携わった事例を調べてみたんだ」
イザベラが目を見開いた。
「殿下……」
「もちろん、閲覧できる記録の範囲だけれど」
エドワードは少し照れくさそうに笑った。
「思っていたより、ずっと難しかったよ」
私は思わず微笑んだ。
あのエドワードが、自分から調べ物をするなんて。
しかも、歴史の年号を覚えるためではなく、娘が大切にしている問題を理解するために。
(……少しは、成長したじゃないの)
もっとも、ここで感動して甘やかしてはいけない。
この青年には、まだまだ学んでもらうことが山ほどあるのだから。
「例えば、この記録では、夫を亡くした女性が一定期間、領地の管理を任されている」
エドワードは冊子を開いた。
「その間に灌漑設備の修繕を進め、収穫量を回復させた事例があるんだ」
マーガレットが興味深そうに身を乗り出した。
「……女性が、領地の管理を?」
「ああ。特例として認められたものらしい」
エドワードは頷いた。
「ただし、すべての領地で同じ結果が出ているわけではない。成功した例もあれば、苦労した例もある」
彼はそこで一度言葉を切った。
「だから、女性に任せれば必ずうまくいく、とは言えないと思う」
私は思わず感心した。
都合のよい事例だけを取り上げて、自分の主張を正当化しようとしていない。
少なくとも、資料の扱い方としては悪くない。
「でも、性別だけを理由に能力がないと決めつけるのも、違うんじゃないかな」
エドワードは静かに続けた。
「僕は、そう思ったんだ」
サロンに、しばらく沈黙が落ちた。
マーガレットが冊子へ視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「……興味深いお話ですわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
エドワードは少しだけ安堵したように笑った。
「僕自身、まだ知らないことばかりだからね」
その言葉に、イザベラが小さく微笑んだ。
「殿下。以前、わたくしにおっしゃったことを覚えていらっしゃいますか?」
「……何だい?」
「次にお会いするときは、わたくしが知らないことを一つくらい教えられるようにしておく、と」
エドワードの耳が、みるみる赤くなった。
「……ああ」
「本当に、調べてきてくださったのですね」
イザベラの声は、いつになく柔らかかった。
「ありがとうございます。とても嬉しいですわ」
エドワードは一瞬、言葉を失ったようだった。
それから、照れくさそうに視線を逸らした。
「……君にばかり教わっているのも、悔しいからね」
「まあ」
イザベラがくすくすと笑った。
「では、次はわたくしも負けないように勉強しなくては」
「……お手柔らかに頼むよ」
二人のやり取りに、周囲からも小さな笑い声が漏れた。
私はそっと胸を押さえた。
(……ああ、もう)
政治の話をしているはずなのに、どうしてあんなに微笑ましいのかしら。
このまま二人を眺めていたら、母親としての理性がどこかへ飛んでいってしまいそうである。
けれど、そんな私の感傷とは裏腹に、茶会の議論はまだ終わっていなかった。
「……イザベラ様」
マーガレットが、再び口を開いた。
「今日のお話、わたくしなりに考えてみたいと思います」
娘が顔を上げる。
「マーガレット様……」
「ただ、すぐに父を説得できるとは申し上げられません」
「ええ。もちろんですわ」
「それでも、少なくとも今回の法案が、家庭を守る女性の価値を否定するものではないことは理解できました」
マーガレットは少しだけ微笑んだ。
「父に話す機会があれば、その点は伝えてみようと思います」
「……ありがとうございます」
イザベラが嬉しそうに頭を下げた。
ほかの令嬢たちも、少しずつ意見を交わし始める。
「わたくしの領地でも、女性が織物の仕事をしておりますわ」
「うちでは、家族が反対して辞めてしまった方がいると聞いたことがあります」
「でも、雇い主が家族の仕事まで脅かすのは、やはりおかしいのでは?」
賛成する者もいれば、まだ迷っている者もいる。
反対意見を口にする令息もいた。
けれど、誰もそれを理由に席を立とうとはしなかった。
互いの考えを聞き、時には首を傾げながら、自分の言葉で話し合っている。
私はその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。
(……これでいいのよ)
今日、全員を賛成派に変える必要などない。
大切なのは、これまで当然だと思っていたことを、少しだけ疑ってみることだ。
そして、自分と違う立場の人間が何を考えているのか、知ろうとすること。
その小さな積み重ねが、いつか社会を変える力になるのだと思う。
茶会が終わりに近づいた頃、私はようやく小部屋を出た。
参加者たちが帰り支度を始め、イザベラは一人ひとりに丁寧な挨拶をしている。
エドワードも、令息たちからの質問に答えていた。
その姿を見ていると、先日の創立祭の夜が思い出される。
あのとき、娘は初めて自分の意思で王太子の手を取った。
そして今日は、自分の意思で友人たちに語りかけた。
(……本当に、大きくなったわね)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
けれど、そのときだった。
「……クライス公爵夫人」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
そこに立っていたのは、マーガレットだった。
「まあ、マーガレット様。今日は来てくださってありがとう」
「こちらこそ、お招きいただき光栄ですわ」
彼女は丁寧に一礼した。
けれど、その表情には少し迷いが浮かんでいる。
「……実は、一つだけお伝えしておきたいことがございます」
「何かしら?」
マーガレットは周囲を確かめるように視線を動かした。
それから、声を落とした。
「父が、先日ローゼン侯爵のお屋敷へ招かれましたの」
私は表情を変えずに頷いた。
「……そう」
「詳しいお話は存じません。ただ、帰宅した父が、母にこう話しているのを耳にしました」
マーガレットは一度言葉を切った。
「クライス公爵夫人の法案について、議会で議論する前に、止める方法を考えなければならない、と」
私は静かに息を吸った。
……なるほど。
やはり、ローゼン侯爵は動いていたらしい。
「その方法については、何か聞いていらっしゃる?」
「いいえ。申し訳ございません」
マーガレットは小さく首を振った。
「それ以上は、分かりません。ただ……」
彼女は少しだけ俯いた。
「今日、イザベラ様のお話を伺って、何もお伝えしないのは違うと思いました」
その言葉に、私は胸を突かれた。
マーガレットにとって、父親は大切な存在だろう。
その父親が関わる話を、私に伝えるのは簡単なことではなかったはずだ。
私は彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
「ありがとう、マーガレット様」
「……公爵夫人」
「でも、これ以上無理をする必要はないわ。あなたがご家族と争うことは、私も望んでいません」
マーガレットは驚いたように顔を上げた。
私は微笑んだ。
「今日、あなたがイザベラに率直な意見を聞かせてくださったこと。それだけでも、十分にありがたかったのよ」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ表情を緩めた。
「……イザベラ様が変わられた理由が、分かった気がいたします」
「まあ」
「きっと、公爵夫人に似ていらっしゃるのですね」
私は思わず笑ってしまった。
「それは、あの子にとって褒め言葉になるのかしら?」
「もちろんですわ」
マーガレットは、今度こそ自然な笑顔を見せた。
そして、丁寧に一礼してサロンを後にした。
私はその背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……ローゼン侯爵)
やはり、あなたは簡単には引き下がらないのね。
布の供給を止めることも、縫い子たちを辞めさせることも、私たちの事業そのものを潰すこともできなかった。
だから今度は、法律が生まれる前に、その芽を摘もうというわけだ。
もっとも、侯爵が何を企んでいるのか、まだ分かったわけではない。
ここで勝手な憶測を重ねるのは危険だろう。
私は公爵夫人として二十年、この国の貴族社会を見てきた。
相手の思惑を決めつけた者から、足元をすくわれる。
それくらいは知っている。
「……お母様?」
振り返ると、イザベラがこちらを見つめていた。
少し疲れた様子だったが、その表情は晴れやかだった。
「今日のお茶会、いかがでしたか?」
私は娘の顔を見つめた。
その青い瞳には、期待と不安が入り混じっている。
きっと、私の評価が気になっているのだろう。
以前の私なら、もっと上手に話す方法や、改善すべき点を先に伝えていたかもしれない。
けれど、今日は違う。
「……とても立派だったわ、イザベラ」
そう告げると、娘の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。特に、マーガレット様の質問にすぐ答えなかったところがよかったわ」
「……え?」
娘は不思議そうに首を傾げた。
「分からないことを、分からないと言えたでしょう?」
私は微笑んだ。
「誰かを説得するために、何でも知っているふりをする必要はないのよ。相手の話を聞いて、一緒に考えることも大切なの」
イザベラはしばらく私を見つめていた。
やがて、少し照れたように微笑んだ。
「……ありがとうございます、お母様」
そのとき、背後からエドワードが近づいてきた。
「公爵夫人。本日はありがとうございました」
「こちらこそ、殿下。お忙しいところをお越しいただき、感謝しております」
私は丁寧に頭を下げた。
すると、エドワードは少しだけ困ったように笑った。
「実は、今日の資料を調べるのに、思っていたより時間がかかりまして」
「あら」
「歴史の年表なら、もう少し簡単に読めると思ったのですが……税収の記録は、なかなか手強いものですね」
その言葉に、イザベラが小さく笑った。
「殿下。次はわたくしも一緒に調べますわ」
「……いいのかい?」
「もちろんです。わたくしも、まだ知らないことばかりですもの」
エドワードは一瞬だけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、イザベラ」
娘も、柔らかく微笑み返した。
私はその様子を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
以前の二人なら、互いに弱さを見せることなど考えられなかっただろう。
けれど、今は違う。
分からないことを認め、一緒に学ぼうとしている。
それは、将来この国を担う二人にとって、何より大切なことかもしれない。
(……さて)
私は心の中で、小さく息を吐いた。
娘たちが自分の未来を考え始めたのなら、私も負けてはいられない。
ローゼン侯爵がどのような手を打ってくるのかは分からない。
けれど、こちらにも準備はある。
議会の中立派に働きかけ、法案の誤解を解き、賛成してもらえる理由を一つずつ積み上げていく。
そして何より、工房を去らざるを得なかった女性たちの声を、決してなかったことにはしない。
私は窓の外へ目を向けた。
秋の庭園には、柔らかな陽光が降り注いでいる。
三年後、娘が断罪されるはずだった未来は、まだ完全に消えたわけではない。
けれど、今日また一つ、新しい道が生まれた。
誰かを敵として打ち負かすためではなく、違う考えを持つ者同士が、同じテーブルについて話し合うための道が。
(……ローゼン侯爵)
あなたが守ろうとしている古い秩序は、本当に、次の世代の人々が望んでいるものなのかしら。
その答えは、まだ分からない。
けれど、私は確かめてみたい。
そして、もし変える必要があるのなら。
今度こそ、誰かの人生を犠牲にしなくても済む仕組みを作ってみせる。
娘が自分の未来を選べるように。
そして、あの子と同じ時代を生きる人々も、自分の人生を選べるように。
私は静かに微笑み、サロンの扉へ向かって歩き出した。
次に向き合うべき相手は、議会の貴族たちだ。
今度は、私自身が自分の言葉で、彼らに問いかける番だった。
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