お母様。その法案、わたくしにもお手伝いさせてください
第25話 お母様。その法案、わたくしにもお手伝いさせてください
王立学園の創立祭から、数日が過ぎた。
あの夜、エドワード殿下と手を取り合って踊っていたイザベラの姿は、今でも目を閉じれば鮮やかに蘇ってくる。
娘があんなに楽しそうに笑うのを見たのは、いつ以来だっただろう。
できることなら、もうしばらく幸せな余韻に浸っていたかった。
けれど、残念ながら現実というものは、母親の感傷など待ってはくれないらしい。
「……やはり、厳しいわね」
公爵邸の執務室で、私は議会の議員名簿を前にため息をついた。
広い机の上には、各貴族の所属する派閥、領地の産業、親族関係、そして過去の議決記録をまとめた資料が並んでいる。
そのうち、今回の法案に賛成する見込みの薄い議員には赤い印がつけられていた。
……ずいぶんと赤い。
まるで、答案用紙を採点した教師が怒りに任せて筆を走らせたような有様である。
「だから言っただろう。正しいことを言えば賛成してもらえるほど、議会は素直な場所ではないと」
向かいの席で資料を読んでいたアレクシスが、苦笑まじりに告げた。
「ええ。身に染みておりますわ」
私は名簿の一枚を持ち上げた。
現在、私たちが成立を目指しているのは、女性の労働を不当に妨害する行為を規制するための法案だ。
本来なら、働く意思のある女性が、自分の労働によって賃金を得ることなど、何もおかしな話ではない。
しかし、この国では事情が違う。
家族や雇用主、あるいは有力貴族の意向によって、女性が仕事を辞めざるを得なくなることは珍しくなかった。
実際、私たちの工房でも三十人もの縫い子が、家族の仕事や生活を盾に圧力をかけられ、退職を余儀なくされている。
彼女たちの生活を守るため、私は退職を認めた。
けれど、それで問題が解決したわけではない。
同じことが起きれば、また誰かが仕事を失う。
だからこそ、法律が必要なのだ。
もっとも、女性の財産権や相続制度まで一度に変えようとすれば、保守派の反発はさらに激しくなる。
今はまず、合法的な就労契約を第三者が不当な圧力によって妨害する行為を規制し、被害を訴えられる仕組みを整える。
その第一歩を踏み出すことさえ、容易ではなかった。
「こちらの伯爵は、女性の就労そのものには反対していないようですが……」
「領地の織物業者から反発を受けている。安価な労働力を自由に扱えなくなると考えているらしい」
「では、こちらの子爵は?」
「ローゼン侯爵の縁戚だ。少なくとも今は動かないだろう」
「……こちらは?」
「息子の婚姻について、ローゼン家の仲介を受けている」
私はそっと資料を置いた。
「あなた。これ、議会の名簿ではなく、ローゼン侯爵の親戚一覧ではありませんこと?」
アレクシスが声を立てて笑った。
「なかなか的確な指摘だね」
「笑い事ではありませんわ」
もっとも、私も本気で怒っているわけではない。
貴族社会において、政治と婚姻と経済が密接に結びついていることなど、公爵夫人として二十年も暮らしていれば嫌というほど理解している。
問題は、その複雑な利害関係をどう動かすかだった。
「中立派との協議では、一定の理解は得られましたわね」
「ああ。ただし、賛成を確約した者はまだ少ない」
「やはり、ローゼン侯爵の顔色を窺っているのでしょうか」
「それだけではない。法案の内容を正確に理解していない者もいる。家族が娘を働かせるかどうか決める権利まで奪われる、と考えている議員もいるようだ」
私は眉をひそめた。
「そのような条文はありませんのに」
「法案の内容より、誰が何を失うかという噂の方が広まりやすいものさ」
なるほど。
前世の会社でも、新しい制度を導入しようとすると、内容を読まないまま反対する人は少なくなかった。
まして、この国では法律そのものが貴族の権益と深く結びついている。
正論を並べるだけでは、人は動かない。
相手にとっての利益と不利益を整理し、誤解を解き、それでも反対する者には別の道を示さなければならない。
(……分かってはいるのだけれど)
私は議員名簿を見つめた。
ローゼン侯爵は布の供給封鎖に失敗して以来、表立った妨害を控えている。
けれど、決して諦めたわけではない。
むしろ、私たちが議会へ働きかけ始めたことで、彼の警戒はさらに強まっているはずだった。
商売で一度勝ったからといって、政治でも同じように勝てるとは限らない。
何か、もう一つ手が必要だ。
そう考えていたときだった。
控えめなノックの音が、執務室に響いた。
「お入りなさい」
扉が開き、姿を現したのはイザベラだった。
淡い水色の昼用ドレスに身を包み、プラチナブロンドの髪を丁寧に結い上げている。
創立祭の夜に見せた柔らかな笑顔とは違い、今は少し緊張しているようだった。
「失礼いたします、お父様、お母様。お話ししたいことがございます」
「あら、イザベラ。どうしたの?」
「お二人とも、お忙しいところ申し訳ございません」
娘は美しいカーテシーをすると、胸元に抱えていた手帳を両手で持ち直した。
その指先が、わずかに強張っている。
私は思わず姿勢を正した。
どうやら、ただの世間話ではなさそうだ。
「……お母様」
イザベラは一度だけ息を吸い、真っ直ぐに私を見つめた。
「その法案、わたくしにもお手伝いさせてください」
思いがけない言葉に、私は瞬きをした。
隣では、アレクシスも資料から顔を上げている。
「……イザベラ。あなたが?」
「はい」
「でも、あなたには学園でのお勉強もあるでしょう?」
「もちろん、学業を疎かにするつもりはございません」
娘はそこで一度言葉を切った。
「ですが、わたくしにもできることがあると思うのです」
その真剣な眼差しを見て、私はすぐに返事ができなかった。
嬉しくないはずがない。
あれほど身分や格式を重んじていた娘が、今では母親の改革に自分から参加したいと言っているのだ。
けれど、同時に胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
(……待って、イザベラ)
この法案は、単なる慈善活動ではない。
ローゼン侯爵をはじめとする保守派貴族の利害に、真正面から触れるものだ。
私が矢面に立つことと、十五歳の娘をそこへ送り出すことは、まったく意味が違う。
「イザベラ。あなたの気持ちは嬉しいわ」
私はできるだけ穏やかな声で告げた。
「でも、政治の世界は、あなたが思っているよりずっと厄介なのよ。お母様の事業に協力することと、議会の争いに関わることは別なの」
「……はい」
「ローゼン侯爵から、以前あなたにも手紙が届いたでしょう? あの方は、あなたの婚約や将来を利用して、私たちに圧力をかけようとなさったのよ」
娘の表情が、わずかに曇った。
あの手紙を読んだとき、イザベラがどれほど不安そうにしていたか、私は忘れていない。
王太子妃の座を失うことは、今でもあの子にとって大きな恐怖なのだ。
「あなたが表立って関われば、また同じことが起こるかもしれないわ。それでも?」
イザベラはすぐには答えなかった。
手帳を抱く指に、少しだけ力がこもる。
やがて娘は、静かに頷いた。
「……怖くないと申し上げれば、嘘になります」
その正直な答えに、私は胸を突かれた。
「今でも、王太子妃に相応しくないと言われるのは怖いです。殿下のお隣に立てなくなるかもしれないと思うと……」
イザベラはそこで口を閉じた。
頬が、ほんのりと赤くなる。
(……あら)
どうやら、創立祭の夜の出来事は、娘の心に相当大きな変化をもたらしたらしい。
けれど、次に口にした言葉は、私が予想していたものとは違っていた。
「ですが、お母様。わたくしは、王太子妃になるためだけに生きているわけではないと、教えていただきました」
娘はゆっくりと顔を上げた。
「それでも、わたくしは今も、エドワード殿下のお隣に立ちたいと思っております」
「……ええ」
「でしたら、そのお隣に立つ者として、何ができるのかを考えたいのです」
私は何も言えなかった。
イザベラは少し照れたように微笑んだ。
「殿下に選んでいただくことだけを考えるのではなく、わたくし自身が、どのような国にしたいのかを考えたいのですわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ああ。
この子は、本当に変わり始めている。
誰かに価値を認めてもらうためではなく、自分が大切だと思うもののために行動しようとしているのだ。
「……それで?」
不意に、アレクシスが口を開いた。
「お前には、何ができると思う?」
その声は、普段娘に向けるものより少し硬かった。
イザベラが背筋を伸ばす。
「お父様?」
「気持ちは分かった。だが、議会の議員たちを動かすには、具体的な方法が必要だ」
アレクシスは机の上の名簿を指さした。
「我々でさえ、賛成票を集めるのに苦労している。お前が加わることで、何が変わる?」
厳しい問いだった。
けれど、娘は目を逸らさなかった。
「……お父様もお母様も、今の当主の方々を説得しようとしていらっしゃいますわね」
「ああ」
「でしたら、わたくしは、そのご子息やご令嬢たちとお話ししたいと思います」
アレクシスの眉が、わずかに動いた。
「……続けなさい」
イザベラは抱えていた手帳を開き、机の上に置いた。
そこには、貴族の令息や令嬢たちの名前が、丁寧な文字で書き込まれていた。
私は思わず身を乗り出した。
見覚えのある名前がいくつも並んでいる。
以前、娘が古いドレスの提供を呼びかけた際に協力してくれた令嬢たちだ。
その中には、保守派に属する貴族の娘も含まれていた。
「先日の創立祭で、何人かの方からドレスについて尋ねられました」
イザベラが説明を始めた。
「わたくしとリリアナ様が、同じ生地を使ったドレスを着ていたことに、皆様とても驚いていらしたのです」
「そうでしょうね」
「それで、工房のことをお話ししました。平民の女性たちが、どのように生地を選び、裁断し、縫い上げてくださったのかを」
娘の声が少し弾んだ。
「すると、以前ドレスを提供してくださった方が、おっしゃったのです。自分の古いドレスも、あのような美しい服になったのだろうか、と」
私は思わず微笑んだ。
「それで、あなたは何と答えたの?」
「もちろんです、と。皆様のおかげで、たくさんの女性が新しい服を手にすることができたのだとお伝えしました」
イザベラは嬉しそうに続けた。
「そうしたら、その方は……また協力できることがあれば教えてほしいと、おっしゃってくださったのです」
私は手帳に視線を落とした。
なるほど。
娘が見つけたのは、単なる貴族令嬢の名簿ではない。
自分の行動によって誰かの暮らしが変わる喜びを、すでに知っている少女たちの名前だった。
「ですから、まずは彼女たちをお茶会にお招きしたいのです」
イザベラは続けた。
「工房で働く女性たちのことや、今回の法案について、わたくしたちが知っていることをお話ししたいと思います」
「……お茶会で政治の話をするのか?」
アレクシスが尋ねる。
「はい。ただし、最初から賛成をお願いするつもりはございません」
娘は少し考えてから答えた。
「わたくし自身、以前は平民の女性が働くことについて、ほとんど何も知りませんでした。ですから、皆様にも、まず知っていただきたいのです」
「知ったところで、家の方針に逆らえるとは限らないぞ」
「承知しております」
イザベラは頷いた。
「ですが、ご家族とお話しすることはできるかもしれません。ご兄弟や婚約者の方々にも、考えていただけるかもしれません」
そこで、娘は少しだけ口元を緩めた。
「それに、お父様。ご令嬢たちのお話を、当主の方々がいつも聞き流していらっしゃるとは限りませんでしょう?」
アレクシスが一瞬、言葉に詰まった。
私は思わず笑いそうになった。
なにしろ、つい先ほどから娘の言葉に真剣に耳を傾けている当主が、目の前に一人いるのだから。
「……なるほど」
アレクシスは小さく咳払いをした。
「確かに、そういう家もあるだろうな」
「ええ。少なくとも、我が家はそうですもの」
私が口を挟むと、夫は少し困ったように笑った。
けれど、すぐに真剣な表情へ戻る。
「着眼点は悪くない。ただし、若い世代の意見が、そのまま議会の票になるわけではない。家の事情を優先する者もいるだろうし、お前の考えに反対する者もいるはずだ」
「はい」
「それに、保守派の家の子女を集めれば、ローゼン侯爵の耳にも入る」
イザベラの指先が、わずかに動いた。
「……覚悟しております」
「覚悟だけでは足りない。参加者を危険にさらさない配慮も必要だ」
その言葉に、娘はしばらく考え込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「では、最初は少人数にいたします。わたくしが直接お話しできる方だけをお招きして、無理に賛同を求めることはいたしません」
「うむ」
「それから、家の方針に逆らうようお願いすることもいたしません。まずは、働く女性たちがどのようなことで困っているのかを知っていただきたいのです」
私は静かに息を吐いた。
娘は、母親の改革を手伝うために、誰かを犠牲にしようとはしていない。
そのことが、何より嬉しかった。
「……よく考えたわね、イザベラ」
私が告げると、娘は少し照れたように微笑んだ。
「実は、もう一つお願いがございます」
「何かしら?」
イザベラは一瞬だけ視線を落とした。
そして、頬をほんのりと染めながら言った。
「エドワード殿下にも、ご協力をお願いしたいのです」
私は思わず夫と顔を見合わせた。
「……殿下に?」
「はい」
「もう、お話ししたの?」
娘は少しだけ首を傾げた。
「創立祭の夜に、少しだけ」
(……まあ)
私は扇を持っていなかったことを、心から残念に思った。
あの夜、庭園で二人が話していたことは、どうやら幼い頃の思い出だけではなかったらしい。
「殿下に、お母様の工房で起きたことをお話ししたのです」
イザベラは続けた。
「働きたい女性たちが、家族の仕事を失わせると脅されて、辞めざるを得なくなったことを」
その声から、先ほどまでの照れが消えた。
「殿下は、とても驚いていらっしゃいました」
「……そう」
「そして、なぜそのようなことが許されるのか、とお尋ねになったのです」
私は少し意外に思った。
エドワードは王太子として教育を受けている。
けれど、王城で学ぶ政治と、平民の女性が日々直面する現実は、必ずしも同じではない。
「それで、あなたは?」
「わたくしも、まだすべてを理解しているわけではないと申し上げました」
イザベラは少し恥ずかしそうに笑った。
「ですから、一緒に勉強していただけませんか、と」
その言葉に、私は思わず目を細めた。
以前の娘なら、王太子にそんなことを頼めただろうか。
自分が知らないことを認めるなど、王太子妃候補としての威厳を損なうと考えたかもしれない。
けれど、今のイザベラは違う。
知らないことを、知らないと言える。
そして、好きな人に一緒に考えてほしいと頼める。
それは、どんなに立派な礼儀作法よりも、ずっと大切な成長のように思えた。
「殿下は、何と?」
私が尋ねると、娘の頬がさらに赤くなった。
「……君に教えてもらうことばかりだな、と」
「まあ」
「でも、今度は自分も調べてみると、おっしゃってくださいました」
イザベラは少しだけ俯いた。
「それから……次にお会いするときは、わたくしが知らないことを一つくらい教えられるようにしておく、と」
その言葉を聞いた瞬間、私はとうとう笑ってしまった。
「ふふっ……」
「お母様?」
「ごめんなさい。少し嬉しくなってしまって」
あのエドワードが。
イザベラの前で間違えることを恐れ、勉強を教わることから逃げていた青年が、自分から学ぼうとしている。
なんとも微笑ましい話ではないか。
もっとも、王太子が法律や経済を学ぶのは、本来当然のことなのだけれど。
「……それで、殿下はお茶会の共同主催者になってくださると?」
アレクシスが尋ねた。
イザベラは首を横に振った。
「いいえ。そこまでは、まだお願いしておりません」
その答えに、私は内心ほっとした。
さすがに王太子が政治的な集まりを主催するとなれば、王宮の意向を無視するわけにはいかない。
「ですが、殿下がご自身でもお調べになったあと、若い貴族たちと意見を交わす場を設けられないか、ご相談したいと思っております」
「……なるほど」
アレクシスは腕を組んだ。
「それならば、まず殿下ご自身のお考えを確認する必要があるな。王宮との調整も欠かせない」
「はい。わたくし一人で決めるつもりはございません」
「それに、王太子の名を使って賛同を集めるようなことは避けるべきだ」
夫の声が、少し厳しくなった。
「殿下に逆らえないから賛成する者が増えても、それでは意味がない。いずれ反発を招くだけだ」
イザベラは真剣な表情で頷いた。
「……はい。わたくしも、そう思います」
その返事を聞いて、アレクシスはようやく表情を緩めた。
「よろしい」
彼は机の上の手帳を取り上げ、しばらく中身に目を通した。
「ただし、最初の集まりは私たちの監督のもとで行うこと。招待する相手についても、事前に確認させてもらう」
「はい!」
「それから、法案について説明するなら、内容を正確に理解しておかなければならない。反対意見を言われたとき、感情だけで答えてはいけないぞ」
「承知しております」
「……本当に分かっているのか?」
アレクシスが少し意地悪く尋ねた。
すると、イザベラは胸を張って答えた。
「でしたら、お父様。法案について、わたくしにもお勉強をつけてくださいませ」
夫が目を瞬かせた。
「……私が?」
「はい。お父様は議会のことを、誰よりもよくご存じなのでしょう?」
その言葉に、アレクシスはしばらく娘を見つめていた。
やがて、口元がゆっくりと緩んだ。
「……まったく」
彼は小さく笑った。
「誰に似たのか、ずいぶんと人の使い方が上手になったものだ」
「まあ、あなた。それはどういう意味かしら?」
私が尋ねると、夫はわざとらしく視線を逸らした。
「さあ。心当たりでも?」
「……後でゆっくりお話ししましょうね」
そのやり取りを見て、イザベラがくすくすと笑った。
私はその笑顔を見つめながら、不意に胸がいっぱいになった。
少し前まで、この執務室で夫とこんなふうに冗談を交わすことなど、想像もできなかった。
娘が自分の考えを父親にぶつけ、父親がそれを一人の人間の意見として受け止めることも。
何もかもが、少しずつ変わっている。
けれど、その変化が嬉しいからこそ、私は娘に伝えておかなければならないことがあった。
「……イザベラ」
私が呼びかけると、娘は笑うのをやめてこちらを向いた。
「はい、お母様」
「一つだけ、約束してほしいの」
「何でしょうか?」
私は椅子から立ち上がり、娘の前へ歩み寄った。
「あなたは、私の改革を成功させるために生きているわけではないのよ」
イザベラが目を見開いた。
「お母様……?」
「お母様のために無理をする必要はないわ。政治の争いが怖くなったら、いつでも離れていい。誰かに責められたら、私に相談してちょうだい」
私は娘の手を取った。
細く、まだ少し幼さの残る指先だった。
「あなたが協力してくれるのは、とても嬉しい。でも、あなたの将来を犠牲にしてまで、この法案を通したいとは思わないの」
イザベラは黙って私を見つめていた。
その青い瞳が、わずかに揺れる。
「……お母様」
「なあに?」
「わたくし、以前は……お母様が何をなさろうとしているのか、よく分かりませんでした」
娘はゆっくりと言葉を選んだ。
「平民の女性たちが美しい服を着ることも、働いてお金を得ることも、どうしてそれほど大切なのか、理解できなかったのです」
「……ええ」
「でも、今は少しだけ分かります」
イザベラは私の手を握り返した。
「自分で選べることが、嬉しいのですわね」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「どんな服を着るか。誰とお話しするか。何を学ぶか。……誰と踊りたいか」
最後の言葉を口にしたとき、娘の頬がほんのりと染まった。
私は思わず微笑んだ。
「そうね」
「わたくしは、ずっと王太子妃に相応しい人間にならなければと思っておりました。けれど、最近は……自分が何をしたいのかも、考えるようになりました」
イザベラは少し照れたように笑った。
「ですから、これはお母様のためだけではありません。わたくし自身が、やってみたいことなのです」
その瞬間、私は娘を抱きしめたい衝動に駆られた。
けれど、どうにか堪えた。
今のイザベラは、母親に守られるだけの幼い子供ではない。
自分の意思で新しい道へ踏み出そうとしている、一人の少女なのだ。
……もっとも。
「……イザベラ」
「はい?」
「一度だけ、抱きしめてもいいかしら?」
娘は驚いたように目を瞬かせた。
それから、少し困ったように笑った。
「もう、お母様ったら」
そう言いながらも、娘は自分から私の腕の中へ入ってきた。
柔らかな髪が頬に触れる。
幼い頃、何度も抱き上げた娘の身体は、いつの間にかこんなにも大きくなっていた。
「……ありがとう、イザベラ」
私が囁くと、娘は小さく首を振った。
「こちらこそ、ありがとうございます。お母様」
しばらくして身体を離すと、イザベラの目元が少し赤くなっていた。
……きっと、私も同じ顔をしているのだろう。
「さて」
背後から、アレクシスの声が聞こえた。
「親子の感動的な時間を邪魔するようで申し訳ないが、少し相談がある」
振り返ると、夫は机の上の名簿と、イザベラの手帳を並べていた。
「イザベラ。お前が最初に招こうと考えている令嬢たちの中に、マーガレット嬢の名前があるな」
「はい。以前、ドレスの提供にも協力してくださいました」
「彼女の父親は、ローゼン侯爵に近い立場だ」
イザベラの表情が引き締まる。
「……存じております」
「だが、彼女自身は、領地の水害で救援活動に参加した経験がある。働く者たちの苦労を、まったく知らないわけではないだろう」
アレクシスは名簿の一箇所を指さした。
「彼女がどう考えているか、まずは話を聞いてみるといい」
私は夫の意図を理解した。
マーガレットは、以前のドレス再利用運動でも、最初から積極的に賛成していたわけではない。
だからこそ、彼女が納得できる説明を用意することには意味がある。
「ただし、賛成してもらうことを目的にしてはいけないわ」
私は娘に告げた。
「反対する理由があるなら、それも聞いてきてちょうだい。そこに、私たちが見落としている問題があるかもしれないから」
「……はい!」
イザベラは大きく頷いた。
その顔には、先ほどまでの緊張とは違う、生き生きとした光が宿っていた。
「では、まずマーガレット様にお手紙を書いてみます。お茶会にお招きして、お話を伺いたいと思いますわ」
「ええ。お願いするわ」
娘は手帳を胸に抱き、もう一度丁寧に一礼した。
そして扉へ向かいかけたところで、不意に振り返った。
「……あの、お母様」
「なあに?」
「エドワード殿下にも、今日のことをお伝えしてよろしいでしょうか?」
私は思わず口元を緩めた。
「もちろんよ。ただし、殿下にもご自分で考えていただくのよ?」
「はい!」
イザベラは嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見ていると、つい意地悪を言いたくなってしまう。
「……それにしても、最近は殿下とお話しする機会が増えたのね」
「お、お母様!」
娘の頬が、一瞬で真っ赤になった。
「そ、それは……歴史のお勉強もございますし、今回の法案についても……!」
「ええ、分かっているわ。お勉強は大切ですものね」
「もうっ!」
イザベラは珍しく頬を膨らませた。
その姿があまりにも可愛らしくて、私はとうとう笑ってしまった。
娘は恥ずかしそうに顔を背けると、逃げるように執務室を出ていった。
扉が閉まる。
私はしばらくその扉を見つめていた。
「……本当に、大きくなったわね」
ぽつりと呟くと、アレクシスが隣に立った。
「ああ」
夫は静かに頷いた。
「私たちが思っていた以上にね」
その声には、父親としての誇らしさが滲んでいた。
私は夫の横顔を見上げた。
「……あなた。イザベラの提案、どう思われます?」
「政治的には、十分に検討する価値がある」
アレクシスは机の上の名簿へ視線を戻した。
「今の議員を説得することと、次の世代に理解を広げることは、必ずしも別の話ではない。家族の意見が判断に影響することもあるだろう」
「ええ」
「ただし、結果を急いではいけない。若い者たちの交流を、我々の票集めの道具にしてしまえば、娘の信頼を損なう」
私は頷いた。
「……そうですわね」
アレクシスは少しだけ笑った。
「それに、イザベラは我々が思うほど従順ではないらしい」
「まあ。今頃お気づきになったの?」
「君によく似ている」
「……それは、褒め言葉と受け取ってよろしいのかしら?」
「もちろんだとも」
夫はそう言って、私の手を取った。
以前なら、こんな何気ない仕草さえ考えられなかった。
「エレオノーラ」
「はい?」
「君が始めたことが、少しずつ広がっているね」
私は机の上の資料を見つめた。
布を買えなくなったとき、娘は自分のドレスを差し出してくれた。
縫い子たちが仕事を奪われたとき、私は法律を変えようと決意した。
そして今、娘は自分の友人たちと話し合い、新しい道を探そうとしている。
最初は、ただ娘を救いたかった。
三年後の断罪を防ぎ、あの子を生き延びさせることだけが目的だった。
その思いは、今も変わらない。
けれど、娘が自分の未来を選ぼうとする姿を見ていると、私は一つのことに気づかされる。
あの子を救うというのは、処刑される未来を消すことだけではないのだ。
誰かの顔色を窺い、誰かに選ばれることだけを人生の目的にするのではなく、自分が望む幸せを選べるようにしてやること。
きっと、それも母親としての大切な役目なのだろう。
「……あなた」
私は夫の手を握り返した。
「私、少し怖いのです」
アレクシスがこちらを向く。
「イザベラが、自分から危険な場所へ踏み出そうとしていることが」
「……ああ」
「嬉しいのに、怖いの。あの子には何も知らず、幸せに笑っていてほしいと思ってしまう」
夫はしばらく黙っていた。
やがて、私の手を包み込むように握った。
「それは、私も同じだよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「だが、あの子が自分で選んだ道なら、我々はその道を歩けるように支えてやるしかないのだろうね」
「……ええ」
「もちろん、危険があれば守る。そこは譲るつもりはない」
私は思わず笑った。
「ふふっ。あなたも、随分と過保護なお父様ですこと」
「君ほどではないさ」
「まあ!」
夫が楽しそうに笑った。
私も、つられて笑った。
二十年間、こんなふうに同じ心配を分かち合うことさえ、私たちはしてこなかったのだ。
窓の外では、午後の日差しが庭園を柔らかく照らしている。
その光の中を、侍女に何かを尋ねながら足早に歩くイザベラの姿が見えた。
きっと、もうお茶会の準備を始めるつもりなのだろう。
(……本当に、誰に似たのかしらね)
私は思わず微笑んだ。
けれど、すぐに机の上の名簿へ目を戻した。
娘が自分の役目を見つけたのなら、私にもやるべきことがある。
「さて、あなた」
私は夫に向き直った。
「中立派の議員たちへの説明資料、もう一度見直しましょう」
「何か考えがあるのかい?」
「ええ。反対している方々が、何を恐れているのかを整理したいのです」
私は議員名簿を開いた。
「女性の就労を認めれば家の秩序が崩れると考えている方もいれば、単純に人件費が増えることを恐れている方もいる。全員を同じ言葉で説得するのは無理ですわ」
「……なるほど」
「それに、法案が成立すれば、労働契約を不当に妨害される危険が減る。雇う側にとっても、働き手を安定して確保できる利点があるはずよ」
アレクシスの瞳が、興味深そうに細められた。
「商人らしい考え方だね」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
私は微笑んだ。
「ローゼン侯爵が身分秩序を守るために反対するのでしたら、私は王国の産業を守るために必要な法律だと説明いたします」
正義だけでは、議会は動かない。
ならば、利益を示せばいい。
それでも動かない者には、動かない理由を聞けばいい。
一つずつ、丁寧に。
それが遠回りに見えても、確実に前へ進むための方法なのだから。
「……頼もしいな、エレオノーラ」
夫が微笑んだ。
「では、私も負けてはいられないね」
私たちは再び机に向かい、資料を広げた。
そのとき、ふと一枚の名簿が目に留まった。
ローゼン侯爵と親しい議員の名前。
そして、その隣に記された家族構成。
(……あら?)
私は指を止めた。
そこには、先ほどイザベラが見せてくれた手帳にも載っていた名前があった。
マーガレット伯爵令嬢。
彼女の父親は、これまでローゼン侯爵の方針に沿って行動してきた人物だ。
けれど、マーガレット自身は、以前のドレス提供にも協力してくれている。
もちろん、娘が協力的だからといって、父親まで賛成するとは限らない。
むしろ、家の方針と娘の考えが異なれば、余計な軋轢を生む可能性もある。
それでも。
(……少なくとも、話を聞く価値はあるわね)
私はその名前の横に、小さな印をつけた。
娘が開こうとしているお茶会が、どのような結果をもたらすのかは分からない。
けれど、これまで見えていなかった道が、一本増えたことだけは確かだった。
三年後、王立学園の卒業パーティーで、イザベラは断罪される。
前世のゲームでは、あの子の言葉に耳を傾ける者は、ほとんどいなかった。
けれど、今は違う。
娘には、自分の意思で話せる相手がいる。
自分の考えを聞いてくれる友人がいる。
そして、少しずつではあるけれど、もう一度向き合おうとしてくれている婚約者がいる。
その一つ一つが、三年後の未来を変える力になるかもしれない。
私は名簿を閉じ、窓の外を見つめた。
(……ローゼン侯爵)
あなたは、私たちの改革を止めるために、あらゆる手を使ってくるのでしょう。
けれど、私もただ待っているつもりはありません。
今度はこちらから、あなたが当然だと思っている秩序に問いかけてみせる。
あなたの守ろうとしているものは、本当に、次の世代まで守りたいと願っているものなのかと。
その答えがどうなるのか。
まずは、娘たちの声を聞いてみようではありませんか。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




