殿下、そんなことまで…覚えてらっしゃったの?
創立祭の舞踏会は、まだ終わっていなかった。
講堂からは華やかなワルツの調べが流れ、開け放たれた扉の向こうには、色とりどりのドレスが音楽に合わせて揺れている。
けれど、その賑わいから少し離れた庭園へと続く回廊で、私は思いがけない光景を目にしていた。
エドワードが、イザベラの手を取って歩いていたのだ。
先ほどのダンスを終えたあと、二人はしばらく楽しそうに話していた。それだけでも母親としては十分すぎるほど嬉しかったのだけれど、どうやら今夜の王太子殿下には、もう少し勇気を振り絞るつもりがあるらしい。
(……まあ。今度は二人きりでお話しするつもり?)
私は思わず足を止めた。
本来なら、そっとしておくべきなのだろう。
いくら母親とはいえ、十五歳の娘の恋愛にいつまでも首を突っ込むわけにはいかない。まして相手は王太子である。護衛も近くに控えているだろうし、必要以上に心配することもない。
……ないのだけれど。
(でも、あのエドワード殿下ですものねえ)
つい先日まで、娘の気持ちをまるで理解していなかった青年である。
一度ダンスに誘ってくれたからといって、全面的に信用するほど私は人がよくない。
そんなことを考えているうちに、二人は庭園へ降りる階段の手前で立ち止まった。
私は回廊の柱の陰に身を寄せた。
……ええ、分かっている。
褒められた行為ではない。
けれど、娘を心配する母親という生き物は、ときとして自分でも呆れるほど往生際が悪いものなのだ。
「……すまない。急に誘ってしまって」
エドワードの声が、夜風に乗って聞こえてきた。
「いいえ。わたくしも、少し静かなところで休みたいと思っておりましたから」
イザベラの返事は、いつものように落ち着いていた。
けれど、私の目には、娘が普段より少しだけぎこちなく見えた。
人前では完璧な礼儀作法を披露できる二人なのに、いざ向かい合うと、どちらから話し始めればいいのか分からないらしい。
しばらく、噴水の水音だけが響いた。
「あの……」
「イザベラ」
二人の声が重なった。
エドワードが慌てて口を閉じると、イザベラも困ったように微笑んだ。
「殿下から、どうぞ」
「いや、君から……」
「殿下」
「……分かった」
エドワードは小さく息を吐き、庭園の花壇へ視線を向けた。
そこには秋の花々が咲いていた。
「君は、昔のことをどれくらい覚えている?」
「昔、ですか?」
「ああ。僕たちが、まだ七つか八つくらいだった頃のことだ」
イザベラは不思議そうに首を傾げた。
「何かございましたか?」
「……花冠を作ってくれたことがあっただろう」
その言葉に、娘の肩がわずかに動いた。
「花冠……?」
「王城の庭で、白い小さな花を摘んで。君が僕の頭に載せてくれたんだ」
エドワードは少し照れくさそうに笑った。
「僕はあのとき、王子様というより花屋の看板みたいだったと思う」
思わず、私も口元を緩めてしまった。
王太子の頭に花冠。
なかなか愉快な光景ではないか。
けれど、イザベラは笑わなかった。
「……あ」
小さな声が漏れた。
娘は何かを思い出そうとするように、ゆっくりと目を伏せた。
「そういえば……ございましたわね」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
「君は、ずいぶん上手に編んでくれた」
エドワードが続けた。
「僕が喜んでいたら、君も嬉しそうに笑って……それから、家庭教師の先生が来たんだ」
イザベラの指先が、ドレスの生地を握った。
「……ええ」
「王太子にそのようなものを載せるなんて失礼だと、君は叱られた」
夜風が、花壇の葉を揺らした。
「僕は何も言えなかった。君が泣きそうになっているのに、ただ立っていた」
エドワードはそこで言葉を切った。
「……すまなかった」
イザベラはしばらく黙っていた。
やがて、噴水の方へ目を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「わたくし、あの日のことを……忘れたつもりでおりました」
その声に、私は胸の奥が痛くなった。
「先生に叱られたあと、お部屋に戻って、ずっと泣いていたのです。どうして殿下が喜んでくださったのに、いけないことをしたのだろうって」
娘は小さく笑った。
けれど、その笑みはどこか寂しげだった。
「次にお会いしたとき、殿下に謝りましたわね。もう二度と、あのような失礼はいたしませんと」
「ああ」
「殿下は、何もおっしゃいませんでした」
エドワードが俯いた。
「……何と言えばいいのか、分からなかったんだ」
「わたくしは、それがとても怖かった」
イザベラは静かに続けた。
「殿下も、あの花冠をお嫌だったのだと思いました。わたくしが勝手なことをして、殿下を困らせてしまったのだと」
「違う」
エドワードが顔を上げた。
「嬉しかったんだ。本当に」
その声には、先ほどまでのためらいがなかった。
「僕は、君が作ってくれた花冠が好きだった。あの日、庭で遊んだことも、君が笑っていたことも」
イザベラがゆっくりと振り返る。
「……殿下」
「でも、僕は何も言わなかった。君が謝ってくれたときも、違うと言えなかった」
エドワードは自分の手を見つめた。
「だから、君が僕の前で笑わなくなったことに気づいても、どうしていいか分からなかったんだ」
「……」
「そして、いつの間にか僕まで、君の前では間違えてはいけないと思うようになっていた」
彼は苦笑した。
「馬鹿みたいだろう。君が僕を嫌っていると思い込んで、君の方も、僕に嫌われないようにしていたなんて」
イザベラは答えなかった。
ただ、俯いたまま、何度か瞬きをしていた。
その横顔を見て、私はようやく気づいた。
あの子は、あの日のことを覚えていたのだ。
ただ、思い出したくなかったのかもしれない。
好きな人を喜ばせようとして、初めて自分の気持ちを否定された日のことなど。
「……でも、殿下」
しばらくして、イザベラが口を開いた。
「それと、リリアナ様のことは別ですわ」
エドワードが顔を上げる。
「殿下は、リリアナ様とお話しするとき、とても楽しそうでいらっしゃいました」
娘の声が、わずかに震えた。
「わたくしには、いつも堅苦しいとおっしゃっていたのに。彼女が少し作法を間違えても、殿下は笑って許していらした」
「……ああ」
「わたくしだって、間違えることはあります。疲れてしまう日も、何も考えずに笑いたい日もありますわ」
イザベラはそこで言葉を切り、胸元で手を握りしめた。
「でも、わたくしが同じことをしたら、きっと殿下に嫌われてしまうと思っていました」
エドワードは黙って聞いていた。
「……ずるいと、思ってしまったのです」
娘の声が、少しだけ小さくなる。
「リリアナ様は、何も悪くありませんのに」
その言葉を聞いた瞬間、私は柱の陰で目を閉じた。
ああ、イザベラ。
あなたは、そこまで自分の気持ちを見つめられるようになったのね。
誰かを羨ましく思うことも、嫉妬することも、決して珍しい感情ではない。
大切なのは、その気持ちを理由に相手を傷つけないことだ。
そして今、娘はそれを自分の言葉で伝えようとしている。
「……君の言う通りだ」
エドワードが静かに答えた。
「僕は、リリアナといると気楽だった。王太子としての振る舞いを、いちいち気にしなくて済んだから」
イザベラは何も言わない。
「でも、その気楽さに甘えて、君を傷つけていた。君がどう感じるか、考えようともしなかった」
彼は一度、言葉を切った。
「図書室でも謝ったけれど……謝っただけで、なかったことにはできないと思っている」
イザベラが顔を上げた。
「……では、どうなさるおつもりですか?」
その問いに、エドワードはすぐには答えなかった。
しばらく考えたあと、少し困ったように笑った。
「正直に言うと、まだ分からない」
「まあ」
「でも、君と話す時間を増やしたい。昔のように、一緒に勉強したり、庭を歩いたり……君が嫌でなければ、だけれど」
エドワードはそこで視線を逸らしかけ、思い直したように娘を見た。
「それから、君が嫌だと思ったことは、ちゃんと聞きたい。僕がまた間違えたら、教えてほしい」
イザベラは少しだけ眉を上げた。
「……殿下は、わたくしを家庭教師か何かと勘違いしていらっしゃるのではなくて?」
「そういうつもりじゃないんだけど……」
「歴史の年号も、まだ間違えていらっしゃいましたものね」
「イザベラ、それはもう許してくれないか」
エドワードが情けない声を出した。
その顔を見て、イザベラはとうとう笑った。
今度は、先ほどのような寂しげな笑みではなかった。
口元を押さえながら、楽しそうに肩を揺らしている。
「……仕方ありませんわね」
娘は小さく息を吐いた。
「では、もう一度だけ、お勉強にお付き合いいたします」
「本当かい?」
「ただし、殿下」
イザベラは人差し指を立てた。
「わたくしも、もう完璧な婚約者を演じ続けるつもりはございません。間違えることもありますし、時には腹を立てることだってありますわ」
「うん」
「それでも、よろしいのですか?」
エドワードは、今度こそ迷わず頷いた。
「もちろん」
その返事を聞いて、イザベラは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……では、よろしくお願いいたします。エドワード様」
「ああ。こちらこそ」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
私は柱の陰で、そっと息を吐いた。
よかった。
本当によかった。
……けれど。
(そろそろ、退散した方がよさそうね)
これ以上は、いくら母親でも野暮というものだ。
私は音を立てないように踵を返し、講堂へ戻ろうとした。
そのときだった。
「……エレオノーラ」
背後から声をかけられ、私は危うく飛び上がりそうになった。
振り返ると、そこにはアレクシスが立っていた。
「……あなた」
「何をしているんだい、こんなところで」
夫は私の顔を見て、それから庭園の方へ視線を向けた。
すべてを察したらしい。
口元に、なんとも意地の悪い笑みが浮かぶ。
「なるほど。娘の恋路を見守っていたわけか」
「……人聞きの悪いことをおっしゃらないで」
「違うのかい?」
「偶然、通りかかっただけですわ」
「ずいぶん長い偶然だったようだね」
まったく。
最近のこの人は、どうしてこうも私をからかうのが上手になったのだろう。
以前の無口で近寄りがたい公爵様は、いったいどこへ行ってしまったのかしら。
「……あなたこそ、こんなところで何をしていらっしゃるの?」
「君を探していた」
あまりにもあっさりと答えられ、私は言葉に詰まった。
アレクシスは私の隣に並ぶと、庭園へ視線を向けた。
そこでは、イザベラとエドワードが噴水のそばをゆっくり歩いていた。
「……楽しそうだね」
「ええ」
私は小さく頷いた。
「本当に、楽しそう」
アレクシスはしばらく黙って娘を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「私は、あの子に随分と窮屈な思いをさせてきたのかもしれない」
その声には、普段の公爵らしい威厳よりも、父親としての悔いが滲んでいた。
「王太子妃になるのだから、誰よりも優秀でなければならない。そう教えることが、あの子のためになると思っていた」
「……私も同じよ」
私は答えた。
「立派な公爵令嬢に育てることばかり考えて、あの子が何を好きで、何を嫌がっているのか、ちゃんと聞いてあげられなかった」
夜風が回廊を吹き抜けた。
遠くから、舞踏会の音楽が聞こえてくる。
「でも、これからは違うわ」
私は庭園を見つめたまま続けた。
「私たちが思っていたより、あの子はずっと強い。自分で考えて、自分で選べる子なのよ」
アレクシスが静かに頷いた。
「……そうだね」
そのとき、肩にふわりと温かいものが掛けられた。
夫の上着だった。
「あなた?」
「冷えてきた。風邪を引いては困るだろう」
「……ありがとうございます」
私は上着の襟元をそっと押さえた。
まだ夫の体温が残っている。
それだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
「エレオノーラ」
「はい?」
「君も、随分と変わったね」
私は夫を見上げた。
「……そうかしら」
「ああ。以前の君なら、娘の将来を心配しても、それを私に話そうとはしなかった」
思い当たる節がありすぎて、返す言葉がなかった。
二十年間、私たちは必要なことしか話してこなかった。
公爵家の運営、社交の予定、娘の教育。
互いの気持ちについては、驚くほど何も知らなかったのだ。
「……あなたも変わりましたわ」
私は小さく笑った。
「以前なら、私を探しに来てくださることなんて、ありませんでしたもの」
アレクシスは少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように微笑んだ。
「それは、耳が痛いな」
「お互い様ですわね」
「……ああ。本当に」
夫の手が、私の手にそっと重なった。
今度は、私も逃げなかった。
手袋越しの温もりを確かめるように、静かに握り返す。
しばらく、私たちは何も言わなかった。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
「……ところで、エレオノーラ」
やがてアレクシスが口を開いた。
「明日の件だが」
私は小さく息を吐いた。
「ええ。いよいよですわね」
明日、私たちは議会の中立派議員たちとの会合を予定していた。
目的は、女性の就労を妨害する行為に対して、一定の規制を設けるための法案について、具体的な協議を始めること。
まだ正式な提出には至っていない。
けれど、これまでの商業活動で得た記録や、縫い子たちが受けた圧力の実態を、ようやく政治の場へ持ち込めるところまで来たのだ。
「ローゼン侯爵も、黙ってはいないだろう」
アレクシスが静かに言った。
「当然でしょうね」
私は微笑んだ。
「けれど、あの方がどれほど反対なさろうと、働きたい女性たちの声まで消すことはできませんわ」
「……頼もしいな」
「あなたが味方でいてくださるのなら、なおさらです」
そう告げると、アレクシスは一瞬だけ驚いたように私を見つめた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「もちろんだ。君が望むなら、私は何度でも力を貸そう」
「……ありがとうございます」
私は夫の手を、もう一度だけ握り返した。
そのとき、庭園から小さな笑い声が聞こえてきた。
視線を向けると、イザベラが何かを言いながら、エドワードの腕を軽く叩いていた。
エドワードは困ったように笑っている。
あの二人は、これから何度もすれ違うだろう。
きっと、喧嘩もする。
嫉妬したり、傷ついたり、思ってもいないことを口にしてしまう日だってあるかもしれない。
けれど、それでいいのだ。
誰かを好きになるというのは、相手にとって完璧な人間になることではない。
間違えたときに謝り、傷つけたときに向き合い、それでも一緒にいたいと思えるかどうか。
二十年もかかって、ようやくそんな当たり前のことに気づき始めた私には、あの子たちの不器用さが少し眩しかった。
「……帰りましょうか、あなた」
私は夫を見上げた。
「もう、あの子たちの邪魔をするのはやめましょう」
アレクシスが微笑む。
「ようやく、子離れする気になったのかな?」
「……それとこれとは別ですわ」
私は澄ました顔で答えた。
「娘を泣かせるようなことがあれば、王太子殿下であろうと容赦いたしませんもの」
「それは心強い」
「あなたも、父親としてしっかり見守ってくださいませ」
「もちろんだよ」
夫が笑った。
私も、つられて笑った。
講堂へ戻る途中、私はもう一度だけ庭園を振り返った。
月明かりの下、イザベラとエドワードが並んで歩いている。
二人の間には、まだ少し距離があった。
けれど、その距離は以前よりもずっと近い。
(……よかったわね、イザベラ)
私は胸の中で、そっと呟いた。
三年後の断罪を回避するために始めた改革は、いつの間にか、娘が自分の幸せを選ぶための道にもなっていた。
それが嬉しくて、少しだけ寂しい。
けれど、私はもう知っている。
娘を守るというのは、いつまでも手を引いて歩くことではない。
いつか自分の足で歩き出せるように、その道を整えてやることなのだと。
私は夫の腕にそっと手を添え、明るい講堂へと歩き出した。
明日からは、また新しい戦いが始まる。
娘たちが手に入れようとしている未来を、誰にも奪わせないために。
今度は、私たち大人が自分の役目を果たす番だった。
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