悪役令嬢になるはずの娘が、王太子にダンスへ誘われています
王立学園の創立祭は、学生たちが日頃の学びを披露するだけの催しではない。
王国各地の有力貴族が招かれ、次代を担う若者たちの振る舞いを見定める、いわば社交界の縮図である。なかでも初日の夜に行われる舞踏会は、王太子の婚約者であるイザベラにとって、決して失敗の許されない晴れ舞台だった。
そして、私にとっては。
(……できれば、二度と迎えたくなかった日ね)
講堂の二階に設けられた来賓席から、私は華やかな会場を見下ろしていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが幾百もの光を散らし、磨き上げられた大理石の床には、色とりどりのドレスが花畑のように広がっている。弦楽器の調べに混じって聞こえてくるのは、若い令嬢たちの笑い声と、彼女たちの将来を品定めする大人たちの囁きだった。
美しい光景だと思う。
ただし、この場所で三年後に娘の命を奪う悲劇の種が蒔かれると知っていなければ、の話だけれど。
前世で遊んだ乙女ゲームでは、創立祭の舞踏会はイザベラの悪評を決定づける重要なイベントだった。
王太子エドワードが最初のダンスの相手に選ぶのは、婚約者であるイザベラではなく、男爵令嬢のリリアナ。
大勢の貴族が見守るなか、婚約者に選ばれず取り残されたイザベラは、屈辱と嫉妬に耐えきれず、リリアナのドレスにわざとワインをこぼしてしまう。
当然、エドワードは激怒する。
人々の前で厳しく叱責されたイザベラは、謝罪するどころかリリアナを責め立て、周囲からの同情さえ失ってしまうのだ。
あのときのゲーム画面は、今でも鮮明に思い出せる。
俯いたリリアナの傍らで、冷たい目をしたエドワードがイザベラを見据えていた。
そして、誰も娘の味方をしなかった。
(……冗談じゃないわ)
私は扇を開き、口元を隠した。
あの子が嫉妬に駆られて誰かを傷つけることは、もちろん許されない。けれど、大勢の前で婚約者を蔑ろにしておきながら、その心が傷つくことなど想像もしない王太子にも、私は言いたいことが山ほどある。
もっとも、今のエドワードは以前とは少し違う。
先日、王城の大図書室で見せた不器用な誠実さを、私はこの目で確かめている。
だからこそ、期待してしまう自分もいた。
とはいえ、娘の人生を若い王太子の気まぐれに賭けるほど、私は楽観的な母親ではない。
すでに、必要な手は打ってあった。
「例の方には、話が通っているのね?」
隣に控えていたクロエに小声で尋ねると、彼女は人目を避けるように頷いた。
「ええ。先方も事情は承知しています。王太子殿下が別のご令嬢を誘われた場合、すぐにイザベラ様をダンスへお誘いする手はずです」
「ありがとう。無理を聞いてもらったわね」
「まったくです。商人の私が、まさか公爵令嬢の舞踏会のお相手まで手配することになるとは思いませんでした」
クロエは呆れたように肩をすくめたものの、その琥珀色の瞳には楽しげな光が宿っていた。
私が頼んだのは、中立派に属する伯爵家の令息だった。
彼にはあらかじめ事情を説明し、イザベラ本人の意思を尊重することを条件に協力をお願いしている。もちろん、娘にも彼から誘いがあるかもしれないとは伝えてあった。
王太子がリリアナを選んだとしても、イザベラを一人きりで取り残させない。
婚約者に捨てられた哀れな令嬢ではなく、誰に選ばれずとも自分の足で立てる公爵令嬢として、堂々と舞踏会を楽しんでもらう。
それが私の用意した保険だった。
ただ、できることなら使わずに済んでほしい。
私はそう願いながら、一階のホールへ視線を戻した。
ひときわ人目を引く蒼いドレスが、壁際の柱のそばに見えた。
イザベラだ。
プラチナブロンドの髪を上品に結い上げ、首元には小粒の真珠を一連だけ。身にまとっているのは、南区画の工房で仕立てた新しいドレスだった。
深い蒼色の生地は、光を受けるたびに水面のような艶を帯び、無駄な装飾を抑えた細身のシルエットが、娘の凛とした美しさを引き立てている。
王太子妃候補の衣装としては、ずいぶん控えめだろう。
けれど、あの子は自分で選んだのだ。
「お母様、わたくしはこのドレスが好きです」
工房で試着したとき、鏡の前に立ったイザベラは、少し照れたようにそう言った。
「宝石が少なくても、わたくしらしくいられる気がします」
その言葉を聞いたとき、私は危うく縫い子たちの前で泣きそうになった。
かつての娘なら、王太子妃に相応しいかどうかを真っ先に気にしたはずなのだから。
少し離れた場所には、リリアナの姿もあった。
柔らかな乳白色のドレスに、淡い蒼のリボンがよく映えている。
二人のドレスには、同じ仕入れ先から届いた生地が使われていた。
最初にその案を出したのは私だったが、驚いたことに、イザベラも自分から意見を述べてくれた。
「同じ生地を使うからといって、同じ形にする必要はありませんわ。リリアナ様には、もっと柔らかな線の方がお似合いだと思います」
そう言って、クロエが広げたデザイン画を指さした娘の横顔を、私はよく覚えている。
かつて恋敵と見なしていた少女の美しさを、娘は自分の言葉で認めたのだ。
もちろん、それだけで嫉妬が消えたわけではないだろう。
けれど、相手を傷つけずに自分の気持ちと向き合おうとする娘を、私は誇らしく思っていた。
今夜のドレスには、工房の宣伝という役割もある。
しかし、それ以上に大切なのは、イザベラが自分の意思で選んだ衣装を着て、胸を張ってこの場所に立っていることだった。
やがて開会の挨拶が終わり、楽団が最初のワルツの準備を始めた。
会場の空気がわずかに変わる。
人々の視線が、自然と王太子の姿を探し始めた。
(……さあ、どう出るのかしら)
私は扇の陰から、エドワードを見つめた。
彼はホールの中央付近で数人の貴族に囲まれていたが、やがて会話を切り上げると、こちらへ向かって歩き始めた。
その先には、リリアナがいる。
私は無意識に扇を握り直した。
(やっぱり、そう簡単には変わらない……?)
けれど、次の瞬間。
エドワードはリリアナの少し手前で進路を変え、そのまま真っ直ぐに歩いていった。
蒼いドレスをまとった、一人の少女のもとへ。
「……イザベラ」
聞き慣れた声に、娘が顔を上げた。
エドワードは彼女の前で足を止めると、何か言いかけて口を閉じた。
ほんのわずかな沈黙。
それから、彼は右手を差し出した。
「最初のダンスを、僕と踊ってくれないか」
私は思わず瞬きをした。
(……え?)
周囲の貴族たちも、驚いたように二人へ視線を向けている。
本来、王太子が婚約者を最初のダンスに誘うのは、ごく自然なことだ。むしろ、それが礼儀というものだろう。
しかし、ここ数年の二人を知る者にとっては、決して当たり前の光景ではなかった。
壁際で待機していた伯爵令息が、こちらを見上げる。
私は小さく首を振った。
彼は事情を察したように微笑み、静かに人波の向こうへ下がっていった。
どうやら、私の用意した保険は必要なくなりそうだ。
……いえ、まだ分からない。
肝心なのは、娘がどう答えるかだった。
「殿下……」
イザベラは差し出された手を見つめていた。
その表情は、私のいる場所からではよく見えない。ただ、胸元で重ねられた指先が、ドレスの生地を小さく握りしめているのが分かった。
「わたくしで、よろしいのですか?」
娘の問いに、エドワードが少し眉を寄せた。
「君以外に、誰がいるんだ?」
「……リリアナ様を、お誘いになるのかと思っておりました」
その名前を口にするとき、イザベラの声がわずかに揺れた。
エドワードは何かを言いかけ、唇を引き結んだ。
きっと、以前の彼なら気まずそうに目を逸らしていただろう。
あるいは、婚約者なのだから当然だと、王太子らしい言葉で済ませていたかもしれない。
けれど、今夜の彼は逃げなかった。
「そう思わせたのは、僕だね」
エドワードは静かに言った。
「これまでの僕の振る舞いを考えれば、君がそう思うのも無理はない」
イザベラが顔を上げる。
「……殿下」
「すぐに信じてもらえるとは思っていない。でも、今日は君を誘いたかったんだ」
そこで一度言葉を切り、彼は少し困ったように笑った。
「実は、さっきから何度も声をかけようとしていた。どう言えばいいのか考えているうちに、ずいぶん時間が経ってしまったけれど」
その告白に、イザベラの表情がわずかに和らいだ。
「殿下にも、そのようなことがあるのですね」
「君の前では、昔からそうだっただろう?」
エドワードが苦笑する。
娘は何かを思い出したように目を伏せた。
王城の大図書室で、二人が古い年表を挟んで向き合っていた日のことだろうか。
九歳のイザベラが一生懸命に作った建国史の年表を、エドワードは何年もの間、大切に持っていた。
あの小さな羊皮紙が、長いすれ違いの中で失われていた言葉を、二人のもとへ少しだけ取り戻してくれたのだ。
「……わたくし、今日はいつもと違うドレスを着ておりますの」
イザベラが静かに口を開いた。
「王太子妃に相応しい豪華な宝石も、何重にも重ねた飾りもありません。お母様の工房で働く女性たちと相談して、自分で選んだものです」
「うん。よく似合っている」
あまりにも自然な返事だった。
イザベラは驚いたように目を瞬かせる。
「……本当に?」
「本当だよ」
エドワードは彼女のドレスに目を向け、それから少し照れくさそうに続けた。
「君が好きで選んだのなら、それが一番いいと思う。それに……」
「それに?」
「今日の君は、いつもより楽しそうに見える」
イザベラは答えなかった。
ただ、ドレスの裾を握っていた指が、ゆっくりとほどけていく。
私は二階席からその様子を見守りながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
ああ、そうなのだ。
娘が欲しかったのは、王太子妃に相応しいと褒められることだけではなかった。
自分で選んだものを、好きな人に認めてもらうこと。
きっと、そんな当たり前の喜びさえ、あの子は長い間、我慢してきたのだろう。
「……殿下」
イザベラは、まだ差し出されたままの手を見つめた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「何だい?」
「もし、わたくしがステップを間違えたら、どうなさいます?」
エドワードは意外そうに目を見開いた。
それから、ほんの少し考えて答えた。
「たぶん、僕も間違えると思う」
「まあ」
「君に足を踏まれないようにするので精一杯かもしれない」
「殿下。それでは、わたくしの方が下手だとおっしゃっているように聞こえますわ」
「そ、そういう意味じゃない!」
慌てて弁解するエドワードに、イザベラはとうとう笑い出した。
大きな声ではない。
けれど、口元を押さえながら肩を震わせる娘の姿は、私が長い間見ていなかったものだった。
「……本当に、殿下は昔から不器用でいらっしゃいますね」
「君ほど器用じゃないことは、認めるよ」
「いいえ」
イザベラはゆっくりと首を振った。
「わたくしも、ずっと不器用でしたわ」
その言葉のあと、娘は一度だけ視線を落とした。
再び顔を上げたとき、青い瞳にはまだ迷いが残っていたけれど、そこには確かな意志も宿っていた。
「……お受けいたします、エドワード様」
そして、差し出された手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「わたくしも、殿下と踊りたいです」
エドワードの表情が、驚くほど柔らかくなった。
「ありがとう、イザベラ」
その一言を聞いた瞬間、私は思わず扇で顔を隠してしまった。
(……ちょっと、待って)
困る。
これは非常に困る。
あの二人が、あんなふうに笑い合うなんて。
しかも、娘があんなに嬉しそうな顔をするなんて。
(……お母様、泣いてしまいそうなのだけれど)
ここで涙をこぼしたら、クロエに何を言われるか分かったものではない。
私は何事もなかったように背筋を伸ばし、静かに息を整えた。
楽団がワルツを奏で始める。
エドワードに手を引かれ、イザベラがホールの中央へと進んでいった。
二人が最初のステップを踏むと、周囲の貴族たちから小さな感嘆の声が漏れた。
それは見事なダンスだった。
長年の教育で身につけた所作は美しく、二人の足取りは軽やかで、蒼いドレスの裾が音楽に合わせて優雅な弧を描く。
けれど、私が目を奪われたのは、洗練されたステップではなかった。
エドワードが何かを囁くたび、イザベラが少しだけ眉を上げる。
娘が言い返すと、今度は彼が困ったように笑う。
一度、エドワードの足がわずかに遅れた。
以前なら、イザベラは何事もなかったように完璧な姿勢を保ち、相手の失敗を誰にも気づかせまいとしただろう。
しかし今夜は違った。
娘は彼の手を握り直し、何かを囁いた。
エドワードが笑う。
つられるように、イザベラも笑った。
ただ、それだけのことだった。
けれど私には、どんな宝石よりも眩しく見えた。
「……驚きましたね」
隣でクロエが呟いた。
「ええ。本当に」
「奥様の予想は外れたようですが」
「そうね。見事に外れたわ」
私は扇を閉じた。
「……こんなに嬉しい誤算は、初めてかもしれない」
クロエが私の顔を覗き込む。
「泣いていらっしゃいます?」
「まさか。少し目に埃が入っただけよ」
「このように綺麗に掃除された来賓席で?」
「商人というのは、時々余計なことまで見抜くものなのね」
「お褒めにあずかり光栄です」
まったく、可愛げのない共同経営者である。
けれど、彼女が隣にいてくれてよかった。
一人だったら、私は今頃、年甲斐もなく声を上げて泣いていたかもしれない。
やがて最初の曲が終わり、会場に拍手が広がった。
エドワードはイザベラの手を取ったまま、丁寧に一礼する。
そのとき、少し離れた場所にいたリリアナと目が合った。
彼女は二人に向かって微笑み、そっと拍手を送っていた。
イザベラも、その姿に気づいたらしい。
ほんの一瞬、娘の表情が曇った。
エドワードの隣に立つリリアナを見て、何度も胸を痛めてきたのだから、仕方のないことだろう。
けれど、イザベラは目を逸らさなかった。
やがて小さく微笑み返すと、リリアナに向かって軽く会釈した。
リリアナも嬉しそうに頭を下げる。
それだけの短いやり取りだった。
しかし私は、娘が今夜エドワードの手を取ったことと同じくらい、その光景を嬉しく思った。
誰かを好きになることと、別の誰かを憎むことは、同じではない。
あの子はようやく、その違いを自分の心で確かめ始めているのかもしれない。
「……それにしても、奥様」
クロエが声を潜めた。
「今夜のドレス、相当な反響ですよ」
言われてみれば、ホールのあちこちで令嬢たちがイザベラとリリアナの衣装に目を向けている。
豪華な装飾で身分を誇示する従来のドレスとは異なり、二人の衣装はそれぞれの魅力を引き立てることを第一に考えて仕立てられていた。
同じ生地を使いながら、まるで違う印象を与える二着。
その意図に気づいた令嬢たちが、興味深そうに囁き合っている。
「明日から問い合わせが増えるでしょうね」
「増えるだけなら嬉しいのだけれど。今の工房では、注文を受けすぎても困るわ」
「分かっています。納期と生産数はこちらで調整します」
クロエはそう答えたあと、少し声を落とした。
「……ただ、あまり喜んでいない方々もいらっしゃるようです」
彼女の視線を追うと、ホールの一角に数人の貴族が集まっていた。
ローゼン侯爵に近い顔ぶれだ。
彼らの表情は、少なくとも祝福に満ちたものではなかった。
当然だろう。
公爵家の令嬢が平民の工房で仕立てたドレスをまとい、王太子と最初のダンスを踊ったのだ。
身分の秩序を守るために服飾事業を妨害してきた人々にとって、今夜の光景は面白いはずがない。
けれど、私は彼らに向かって勝ち誇る気にはなれなかった。
今は、そんなことよりも大切なものが目の前にある。
「クロエ。今夜は商売の話を少しお休みにしましょう」
「珍しいことをおっしゃいますね」
「娘の晴れ姿を見逃したくないの」
そう告げると、クロエは少し驚いたあと、穏やかに微笑んだ。
「……それは、そうですね」
私はもう一度、ホールへ目を向けた。
イザベラはエドワードと並んで、何か楽しそうに話している。
以前の娘なら、王太子の隣で笑うときでさえ、周囲からどう見られるかを気にしていただろう。
今夜のあの子は、少し違う。
好きな人に選ばれた喜びを隠しきれず、それでも時折、戸惑うように視線を伏せている。
その姿が、たまらなく愛おしかった。
(……よかったわね、イザベラ)
私は胸の中で、そっと語りかけた。
あなたは、誰かに選ばれなければ価値がない娘ではない。
けれど、好きな人から手を差し出されることが、こんなにも嬉しいのだという気持ちまで、否定する必要はないのよ。
どうか、その喜びを大切にしてほしい。
そして、いつか傷つくことがあったとしても、自分自身の価値まで見失わないでほしい。
そのとき、背後から低い声が聞こえた。
「ずいぶん嬉しそうだね、エレオノーラ」
振り返ると、アレクシスが立っていた。
今夜は濃紺の礼服をまとい、いつものように隙のない身なりをしている。けれど、その灰色の瞳には、以前よりもずっと柔らかな光が宿っていた。
「あなた。いつからいらしたの?」
「少し前から。君が娘の姿を見つめて、今にも泣き出しそうになっているところからかな」
「……見ていらしたのなら、声をかけてくださればよかったのに」
「邪魔をするのは無粋だと思ってね」
そう言って、彼は私の隣に立った。
二人でホールを見下ろす。
娘はまだエドワードと話していた。
「……あの子が、あんなふうに笑うなんて」
思わず漏れた言葉に、アレクシスは静かに頷いた。
「君のおかげだよ」
「いいえ」
私は首を振った。
「私だけではないわ。あの子自身が、勇気を出したのよ」
アレクシスはしばらく娘を見つめ、それから私へ視線を戻した。
「それでも、君があの子に選ぶ自由を教えたことは確かだ」
「……そうかしら」
「少なくとも、私にはできなかった」
その言葉には、微かな悔いが滲んでいた。
私は夫の横顔を見つめた。
二十年間、私たちは互いの役割を果たすことばかり考えてきた。
公爵として、公爵夫人として、そして親として。
けれど、その役割の向こう側にいる一人の人間を、どれほど見つめてきただろう。
「……私だって、できなかったことばかりよ」
そう答えると、アレクシスがこちらを向いた。
「でも、これからは少しずつ変えていけると思うの」
彼は何も言わず、ただ微笑んだ。
それから、周囲に気づかれないほどさりげなく、私の手に自分の手を重ねた。
手袋越しに伝わる温もりに、胸が小さく跳ねる。
四十歳にもなって、こんなことで動揺するなんて。
……まったく、困った夫である。
「エレオノーラ」
「はい?」
「今夜の君も、とても綺麗だ」
不意打ちだった。
私は危うく扇を取り落としかけた。
「……あなた、そういうことは、もう少し前置きをしてからおっしゃって」
「前置きがあれば、言ってもいいのかな?」
「そういう問題ではありません!」
夫が声を立てずに笑った。
二十年間、ほとんど見ることのなかった笑顔だった。
私は顔が熱くなるのを感じながら、慌ててホールへ視線を戻した。
(……本当に、親子揃って)
不器用な男の人に振り回されている気がする。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
やがて次の曲が始まり、ホールには再び華やかな音楽が満ちていった。
私は夫と並んで、娘の姿を見つめていた。
今夜、ゲームで起きるはずだった悲劇は起こらなかった。
イザベラはリリアナを傷つけず、エドワードも婚約者を人前で辱めることなく、自分の意思で彼女の手を取った。
それは、私が用意した筋書きとは違う結末だった。
そして、私が想像していたよりも、ずっと幸せな結末でもあった。
けれど、これで三年後の未来が消えたと考えるほど、私は甘くない。
リリアナの教科書がなくなった理由も、まだ分かっていない。
ローゼン侯爵は健在で、女性たちの働く権利を守る制度も、これから議会で議論の土台を築かなければならない。
工房の布も人手も十分ではなく、私たちの改革を快く思わない人々は、今もこの会場のどこかでこちらを見ている。
何より、乙女ゲームで描かれていなかった出来事が、これから先に何一つ起こらないという保証はないのだ。
それでも。
(……少しだけ、信じてみてもいいかしら)
私がすべての危険を取り除いてやらなくても、娘は自分で考え、迷いながら選ぶことができる。
そして、間違えたときには、やり直すことだってできる。
今夜のあの子を見ていると、そんな当たり前のことが、ようやく信じられる気がした。
「エレオノーラ」
アレクシスが私の手を軽く握った。
「そろそろ、私たちも戻ろうか。ローゼン侯爵が、先ほどからこちらを気にしている」
「……まあ」
私は扇を開き、会場の奥へ目を向けた。
そこには、見慣れた侯爵の姿があった。
私と目が合うと、ローゼン侯爵はわずかにグラスを掲げた。
穏やかな笑み。
けれど、その目は少しも笑っていない。
私は同じように微笑み返した。
「そうね。いつまでも娘の晴れ姿に見とれているわけにはいかないわ」
「残念だね。もう少し君と二人で眺めていたかったのだけれど」
「でしたら、次の機会に。……私たちには、まだ時間があるでしょう?」
そう答えると、アレクシスは一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんだ」
夫に手を引かれ、私は来賓席の奥へと歩き出した。
階下では、イザベラがもう一度エドワードの手を取ろうとしていた。
二人がどんな言葉を交わしたのか、ここからでは分からない。
けれど、娘の頬がほんのりと赤く染まっているのは見えた。
(……イザベラ)
三年後、あなたを待っているはずの未来が、どれほど残酷なものだったとしても。
お母様は、決して諦めない。
あなたが自分の足で歩いていけるようになるまで、何度でも道を切り開いてみせる。
そして、いつか私の手が必要なくなったとしても。
そのときは、今日のように笑って送り出してあげたい。
私は最後にもう一度だけ振り返り、蒼いドレスをまとった娘の姿を目に焼きつけた。
その夜のイザベラは、誰よりも幸せそうに笑っていた。
そして私はまだ知らなかった。
今夜、娘の手を取った王太子の小さな勇気が、やがて王国の未来を左右する、もっと大きな選択へと繋がっていくことを。
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