あなたの前では、間違えるのが怖かった
王城の大図書室には、古い紙と革装丁の匂いが静かに漂っていた。
高い天井まで届く書架には、何世代にもわたって集められた書物が隙間なく収められ、色硝子を通して差し込む午後の陽光が、磨き込まれた床に淡い模様を落としている。
私は窓際から少し離れた閲覧席で法学書を開きながら、時折、その向こうに座る若い二人へ目を向けていた。
イザベラとエドワードである。
昨日、娘から「殿下に歴史をお教えすることになりました」と聞かされたときには、思わず聞き返してしまった。
あの二人が、二人きりで勉強?
しかもエドワードの方から頼んだという。
驚く私に、イザベラは「別に珍しいことではありませんわ」と澄ました顔をしていたが、夕食の席で普段より随分と口数が多かったことを、母親である私は見逃していない。
もっとも、婚約者同士とはいえ、まだ若い男女である。付き添いが必要だと言い出したのは私の方だった。
もちろん、娘の恋路を覗き見するためではない。
断じて。
……少なくとも、それだけが目的ではない。
「違いますわ、殿下。第四次通商条約が締結されたのは、その翌年です」
イザベラの声が、静かな室内に小さく響いた。
「翌年? いや、確かその年に北方の領土問題が決着したはずだが」
「それは停戦協定です。通商条約の締結は、その後に開かれた諸侯会議を経てからですわ」
「……そうだったな」
エドワードは苦笑し、手元のノートへ何かを書き込んだ。
「君は相変わらず、こういうことをよく覚えている」
「殿下が混同なさるところも、相変わらずですけれど」
言ってから、イザベラは少しだけ表情を曇らせた。
以前なら、こうした指摘をするたびにエドワードの機嫌が悪くなっていたのだろう。娘の指先が、開いた教科書の端を無意識に押さえている。
けれどエドワードは怒らなかった。
「耳が痛いな。昔も同じことを言われた気がする」
「……覚えていらっしゃるのですか?」
「何を?」
「わたくしが、殿下に歴史をお教えしていた頃のことです」
エドワードは答える代わりに、革表紙のノートを開いた。
その拍子に、折り畳まれた一枚の羊皮紙がページの間から滑り落ちる。
「あっ」
彼が手を伸ばすより早く、イザベラがそれを拾い上げた。
何度も開かれたのだろう。折り目は白く擦れ、端には小さな裂け目まである。
娘は何気なく紙を広げ、それから動きを止めた。
「……これ」
小さな声だった。
エドワードが気まずそうに視線を逸らす。
「古いものだ。返してくれ」
しかし、イザベラは紙から目を離さなかった。
そこには、幼い子供の丸みを帯びた文字で建国史の年号が並んでいた。重要な出来事には赤いインクで花丸が描かれ、余白には覚え方まで書き添えられている。
「……わたくしの字ですわ」
エドワードは黙っていた。
「九歳のときに作った……あの年表」
ようやく彼が頷く。
「そうだ」
イザベラはもう一度、羊皮紙へ目を落とした。
「まだ、持っていらしたのですね」
「捨てる理由がなかったからな」
「でも、こんなに古くなって……」
「よく使ったんだ」
何でもないことのように答えたエドワードだったが、その耳が僅かに赤くなっている。
イザベラは紙の折り目を指でなぞった。
「……わたくし、もうお持ちではないと思っていました」
「なぜ?」
「殿下は、いつの頃からか、わたくしと勉強するのを嫌がるようになりましたから」
エドワードの手が止まった。
イザベラは顔を上げないまま続ける。
「以前は、分からないところがあれば何でも聞いてくださったのに。いつからか、わたくしが何か申し上げるたびに、退屈そうなお顔をなさるようになって……」
言葉の終わりが、少しだけ頼りなくなる。
「きっと、口うるさいと思われているのだと」
エドワードはしばらく何も言わなかった。
大図書室の奥で、司書が書架の扉を閉める音がした。遠くの時計が時を刻む音まで聞こえるほど、二人の間には長い沈黙が流れていた。
やがてエドワードが、ゆっくりと口を開いた。
「……嫌だったわけじゃない」
イザベラが顔を上げる。
「では、どうして?」
彼はすぐには答えず、机の上に置かれた古い年表を見つめていた。
「君の作った年表は、どんな教科書より分かりやすかった。試験の前には何度も読み返したし、今でも時々、昔のことを調べるときに使っている」
「それなら……」
「だからこそ、だ」
エドワードはそこで言葉を切った。
窓から差し込む光が、彼の金髪の上に静かに落ちている。
「君の前では、間違えるのが怖かった」
イザベラの指が、羊皮紙の上で止まった。
「……怖い?」
「ああ」
彼は苦笑した。
「おかしいだろう。王太子として国中の人間の前に立つことはできるのに、君の前で歴史の年号を一つ間違えることが、ひどく恥ずかしかったんだ」
「わたくしは、そのようなことで殿下を責めたり……」
「分かっている。いや、今なら分かる」
エドワードはそこで一度目を伏せた。
「だが、あの頃は違った。君は何でもよくできた。私より早く覚え、私より正確に答える。教師たちはいつも君を褒めたあと、私にも同じようにできるはずだと言った」
イザベラの表情が変わった。
「……そんなことが」
「君には言えなかった。情けないと思われたくなかったからな」
エドワードは小さく息を吐いた。
「だから、教えてもらわなくても分かるふりをした。退屈そうにしていれば、君もそれ以上は聞かないだろうと思った」
彼の視線が、ようやくイザベラへ向けられる。
「ずいぶん、子供じみたことをした」
イザベラは何かを言おうとして、唇を閉じた。
長い間、娘は自分が嫌われていると思っていた。
その思い込みが間違いだったと知って、嬉しくないはずがない。けれど、だからといって、それまで受けてきた冷たい態度までなかったことにはできないだろう。
「……わたくしも」
しばらくして、イザベラが呟いた。
「殿下に相応しい婚約者でいなければならないと、ずっと思っていました」
エドワードは黙って耳を傾けている。
「間違えず、失敗せず、いつでも殿下のお役に立てるように。そうしていれば、いつか……」
そこで娘は言葉を飲み込んだ。
いつか、何なのだろう。
愛してもらえると?
必要としてもらえると?
私には、その続きを聞くことができなかった。
エドワードも急かさなかった。
やがてイザベラは、膝の上で指を重ねた。
「でも、殿下がそのようにお感じになっていたなんて、考えたこともありませんでした」
「……私も、君が何を考えているのか、知ろうとしなかった」
エドワードの声が低くなる。
「君が私に何か言うたび、責められていると思っていた。だから君の話を最後まで聞かずに、勝手に腹を立てて……」
彼は少し迷ってから続けた。
「リリアナといる方が気楽だと、そう言ったこともあったな」
イザベラの肩が僅かに強張った。
私も思わず、手元の本から目を上げた。
エドワードは、その変化に気づいていた。
「……あれは、君を傷つける言葉だった」
イザベラは俯いたまま答えない。
「すまなかった」
静かな謝罪だった。
けれど娘は、すぐに微笑んだりはしなかった。
「……傷つきましたわ」
少し掠れた声で、そう答えた。
「殿下がリリアナとお話ししているとき、とても楽しそうで。わたくしには一度も見せてくださらないお顔をなさるものですから」
エドワードが目を伏せる。
「ええ、嫉妬もしました。今でも、時々します」
そこまで言って、イザベラは困ったように笑った。
「情けないでしょう? リリアナは何も悪くないと分かっているのに」
「……情けなくなんかない」
エドワードはそう言ったあと、少し考えるように視線を落とした。
「少なくとも、君がそう感じていたことを、私は知らなかった」
「知ろうとなさらなかったのでしょう?」
穏やかな声だったが、鋭い指摘でもあった。
エドワードは一瞬言葉を失い、それから素直に頷いた。
「……その通りだ」
私は思わず、開いた法学書へ目を落とした。
あらまあ。
今のは、なかなか見事だった。
以前のエドワードなら、王太子としての面子を守ろうと、何かしら言い返していたかもしれない。
イザベラも、婚約者として相応しい返答を探して、本当の気持ちを飲み込んでいただろう。
けれど今、二人は少なくとも、自分の言葉で話そうとしている。
それだけでも、大きな変化だった。
「……殿下」
イザベラが、手元の羊皮紙を丁寧に折り畳んだ。
「この年表、お返しいたしますわ」
「もういいのか?」
「ええ」
娘は少しだけ微笑んだ。
「ただ……大切にしてくださっていたことは、嬉しかったです」
エドワードは受け取った年表を見つめ、しばらくしてから小さく頷いた。
「これからも大切にする」
イザベラの頬に、淡い赤みが差した。
二人はそれ以上何も言わず、再び歴史書を開いた。
けれど、しばらくするとエドワードが口を開く。
「イザベラ」
「はい?」
「次の条約も、教えてくれないか」
「もちろんですわ。どこが分かりませんの?」
「……実は、ほとんどだ」
イザベラが目を丸くする。
それから、堪えきれなくなったように笑った。
「まあ、殿下ったら」
「笑うな」
「申し訳ありません。でも……」
娘は笑みを残したまま、教科書を彼の方へ寄せた。
「では、最初からご一緒に確認しましょう」
その声には、以前のような緊張がなかった。
エドワードもまた、今度は素直に頷いている。
私はそっと本を閉じた。
二人が交わした言葉のすべてを聞き取れたわけではない。それでも、古びた羊皮紙を前にして見せた娘の表情だけで、何か大切なものが二人の間に戻ってきたのだと分かった。
もちろん、これで何もかも解決したわけではない。
娘はまだ、リリアナへの嫉妬を完全には手放せないだろう。エドワードにも、これまでの振る舞いを省みなければならないことがいくつもある。
けれど、今日の二人には、少なくとも相手の言葉を最後まで聞こうとする気持ちがあった。
それがどれほど難しいことなのか。
二十年間、夫とろくに向き合ってこなかった私には、痛いほどよく分かる。
「……人のことは言えないわね」
小さく呟いた、そのときだった。
「何がだ?」
背後から声がして、私は危うく法学書を取り落としかけた。
振り返ると、そこにはアレクシスが立っていた。
「……あなた。いつからそこに?」
「今来たところだが」
夫は私の手元の本を見て、片方の眉を上げた。
「王城の図書室で法学の勉強とは、熱心なことだな」
「ええ。少し調べたいことがありまして」
「ほう」
アレクシスが表紙へ目を落とす。
「それは古代の土地相続法だが」
「……」
「君が今進めている商業制度の改革とは、あまり関係がないように思う」
なんということだろう。
この男、こういうところだけ妙に鋭い。
「あなたこそ、どうしてこちらに?」
「陛下との会議が終わったところだ。帰る前に、君が娘の付き添いをしていると聞いたのでな」
アレクシスは少し離れた閲覧机へ目を向けた。
イザベラが何かを説明し、エドワードが真剣な顔で頷いている。
「……珍しい光景だ」
「そうでしょう?」
私は思わず微笑んだ。
「少しずつですが、あの子たちも変わってきたようです」
「そうだな」
夫はしばらく二人を眺めていたが、やがて私へ視線を戻した。
「君のおかげだろう」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「私ができたのは、あの子が自分で考えられるように、少し背中を押したことだけです」
「それが難しいのだと思うが」
思いがけず真面目な声で言われ、私は返す言葉を探してしまった。
アレクシスはそんな私を見て、僅かに口元を緩める。
「ところで」
「はい?」
「君はいつまで、娘の勉強を見守るつもりだ?」
「……まだ始まったばかりですもの」
「そうか」
夫は窓の外へ目を向けた。
「ならば、私はもう少し待つことにしよう」
「何をです?」
「君を夕食に誘おうと思っていた」
一瞬、意味が分からなかった。
「……夕食?」
「ああ」
「公爵邸で?」
「いや。王都に新しくできた店だ。以前、君が気にしていただろう」
覚えている。
クロエと商談をした帰り、馬車の窓から見かけた小さな料理店だ。
貴族向けの格式張った店ではなく、商人たちの間で評判になっているという店で、いつか行ってみたいと何気なく口にしたことがあった。
あれを、覚えていたの?
私が驚いていると、アレクシスは少しだけ不思議そうな顔をした。
「嫌なら構わんが」
その言い方に、思わず笑ってしまった。
つい先ほど、エドワードも似たようなことを言っていた気がする。
親子というのは、妙なところが似るものらしい。
「嫌とは申しておりませんわ」
答えると、アレクシスが目を細めた。
「では、決まりだな」
私は頷き、もう一度だけ娘たちの方を振り返った。
イザベラはまだ、教科書を指差しながら何かを説明している。エドワードはその横顔を見つめ、彼女が気づくと慌てて視線を本へ戻した。
……あらあら。
どうやら、歴史の勉強だけでは済まなくなりそうね。
私は小さく笑い、アレクシスと並んで歩き出した。
娘の恋を見守るつもりで来たのに、まさか自分まで夫に夕食へ誘われるとは思わなかった。
しかも、そのことを少し嬉しく感じている。
二十年も夫婦をしてきて、今さらこんな気持ちになるなんて。
人生というものは、本当に分からない。
もっとも、アレクシスにはまだ言わないでおこう。
この人は一度こちらの弱みを見つけると、しばらく楽しそうにからかってくるのだから。
お読みいただきありがとうございました。
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