教科書は、破り捨てられてはいませんでした
王立学園の教室の扉をそっと押し開けたところで、私は足を止めた。
放課後の校舎には昼間の賑わいが嘘のような静けさが戻り、傾き始めた陽が、窓から細長く差し込んでいる。その柔らかな光の中で、二人の少女が机を寄せ合っていた。
一人は、窓からの光を受けてプラチナブロンドの髪を淡く輝かせる我が娘、イザベラ。
その隣には、亜麻色の髪を緩く編んだリリアナがいる。
二人の間には一冊の分厚い教科書が開かれていて、イザベラが羽ペンの先で何かを示すたび、リリアナが感心したように頷いていた。
「ですから、ここだけ年号で覚えようとするから混乱するのです。先に北方戦争が終結した理由を覚えなさい」
「理由から?」
「そうですわ。その結果として条約が結ばれたのですから、順番で覚えれば年号は後からついてきます」
「あ……本当だ」
「でしょう?」
少し得意そうな娘の横顔を眺めながら、私は扉の陰で眉を寄せた。
あまりにも穏やかだった。
だからこそ、おかしい。
前世で遊んだ乙女ゲームの記憶が正しければ、今日はこんな放課後を迎えるはずではなかった。
リリアナの教科書がなくなる。
困り果てた彼女は授業をまともに受けられず、やがてイザベラの取り巻きたちによる嫌がらせだったことが示唆される。そこへエドワードが介入し、イザベラを問い詰める。
ゲームの中では小さな事件だった。
けれど、それを境にイザベラとエドワードの溝は深くなり、彼女は少しずつ「悪役令嬢」として周囲から見られるようになっていく。
そのはずなのに。
目の前では、その悪役令嬢になるはずの娘が、恋敵になるはずの少女に歴史を教えている。
……どういうことかしら。
私は教室へ入り、二人へ近づいた。
「イザベラ」
「あ、お母様」
振り向いた娘の顔が、ぱっと明るくなる。
リリアナも慌てて椅子から立ち上がり、スカートを摘んで丁寧に頭を下げた。
「ごきげんよう、クライス公爵夫人」
「ごきげんよう、リリアナ。勉強の邪魔をしてしまったかしら」
「いいえ。むしろ助けていただいていたところです」
「助けて?」
私は何気ない顔を作りながら、机の上を見る。
教科書は一冊しかない。
胸の奥に、かすかなざわめきが生まれた。
「そういえばイザベラ。今日、何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
娘はしばらく考え、やがて思い出したように手を合わせた。
「そういえば、お昼休みのあと、リリアナの歴史の教科書がなくなりましたわ」
心臓が一つ、大きく鳴った。
「……なくなった?」
「はい。机の中にも鞄にもありませんでした」
答えたのはリリアナだった。
「朝は確かに持ってきたんですけど……」
やはり。
事件そのものは、なくなっていない。
「それで?」
努めて平静を装って尋ねると、イザベラは不思議そうに私を見た。
「それで、と申されましても……授業で使うのですから、わたくしのものを貸しましたわ」
「……あなたのを?」
「ええ」
さも当然という顔で答える。
「一冊しかないのですから、机を並べるしかないでしょう? そうしたらリリアナが授業の内容をあまり理解できていないことが分かりまして」
「イザベラ様」
「事実でしょう?」
「そうですけど……」
リリアナが恥ずかしそうに俯くと、イザベラは口元を緩めた。
「ですから、そのまま放課後まで復習していただけですわ」
あまりにも簡単な話だった。
私はしばらく、娘の顔を見ていた。
ゲームの中でイザベラが何をしたのか、細部まで覚えているわけではない。それでも、少なくとも私の記憶にある彼女なら、困っているリリアナへ自分から教科書を差し出したりはしなかった。
それが今は、当たり前のように一冊の本を分け合っている。
私が今日ここへ来なくても。
私が何も知らなくても。
この子は、自分で違う行動を選んでいた。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
守らなければならないと思っていた。
三年後に死ぬ娘を、自分が救わなければならないのだと。
けれど――。
もしかすると私は、この子を少し見くびっていたのかもしれない。
「お母様?」
「いいえ」
私は笑った。
「何でもないわ」
「変なお母様」
そう言ってイザベラも笑う。
その笑顔を見ながら、私は机の上の一冊の教科書へ視線を落とした。
事件は起きた。
それなのに、結果だけが変わった。
だとすれば、これから先も同じなのだろうか。
ゲームの記憶は未来を教えてくれる地図ではあっても、そこに描かれた道を皆が必ず歩くとは限らない。
まして、私が知っているのは画面の向こうから見た出来事だけだ。
教科書を誰が隠したのか。
なぜ隠したのか。
本当にゲームで示唆されていた通りだったのか。
分からない。
知らないことの方が、ずっと多い。
その事実には少しだけ怖さがあった。
けれど同時に、妙な安堵もあった。
決められた未来ではないのなら。
変えられる。
そのときだった。
「――ここで何をしている!」
静かな教室に、荒い声が響いた。
勢いよく扉が開き、エドワードが飛び込んでくる。いつもなら一分の隙もなく整えられている金髪が僅かに乱れ、肩で息をしていた。
よほど急いで来たらしい。
彼の視線が教室を走り、まずリリアナを捉え、それからイザベラへ移る。
そして止まった。
「……何をしている?」
先ほどより、ずいぶん小さな声だった。
「見れば分かるでしょう。勉強ですわ」
イザベラが答える。
「君たちが?」
「殿下」
娘の眉が、すっと上がった。
「それはどういう意味ですの?」
ああ。
まずい。
以前なら、ここから綺麗に喧嘩が始まるところだ。
二人とも相手の言葉を悪い方へ受け取ることにかけては、妙な才能がある。
ところが。
「殿下、聞いてください」
何も知らないリリアナが、明るい声を上げた。
「イザベラ様、教えるのがとてもお上手なんです。私、建国史が苦手だったんですけど、さっき教えていただいたら、今まで分からなかったところが全部繋がって」
「……昔から、そうだ」
エドワードがぽつりと言った。
イザベラの眉から険が消えた。
「え?」
「教え方が上手いんだ」
エドワードはまだ少し息を切らしながら、どこか遠いものを見るように机の教科書へ目を落とした。
「歴史を年号だけで覚えるなって、昔から言っていた。戦争が起きた理由と、終わった理由を先に覚えろって」
イザベラが動かなくなった。
開いた窓から風が入り、白金の髪をひと房だけ揺らした。
「……覚えていらしたの?」
その声は、先ほどまでよりずっと小さい。
エドワードもようやく自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「ああ……まあ」
急に視線を逸らす。
「昔のことだからな」
「昔って……」
イザベラは何かを思い出すように瞬きをした。
「もしかして、あの年表?」
「……」
「わたくしが作った?」
「他に何がある」
「まだ持っていらっしゃるの?」
「捨てる理由もないだろう」
今度はイザベラが黙った。
頬が、ほんの少し赤い。
私には覚えがなかった。
おそらく二人がもっと幼かった頃のことなのだろう。
母親の知らない思い出が、この二人にはある。
当たり前のことなのに、なぜか少し嬉しかった。
「殿下」
リリアナが目を輝かせる。
「では、殿下もイザベラ様に教えていただいたんですね」
「昔の話だ」
「殿下、歴史が苦手だったんですか?」
「リリアナ」
王太子の声が低くなった。
「はい?」
「それ以上は国家機密だ」
「まあ」
リリアナが吹き出した。
一瞬遅れて、イザベラの口元も綻ぶ。
エドワードは不服そうな顔をしていたが、怒ってはいなかった。
こんな三人の姿を、ゲームの中で見たことはなかった。
やがてエドワードは、自分が慌てて駆け込んできたことを思い出したのか、急に居心地が悪そうに咳払いをした。
「……邪魔したな」
「もうお帰りですの?」
イザベラが尋ねる。
その言葉に、エドワードの足が止まった。
「何だ。帰ってほしくないのか?」
「どうしてそうなりますの」
「君が聞いたんだろう」
「もう!」
また始まった。
けれど、不思議だった。
以前と同じような言い合いなのに、今日はどこか空気が柔らかい。
エドワードは扉へ向かいかけ、そこで何かを迷うように指先を止めた。
ほんの数秒。
けれど彼にとっては、随分長い時間だったのかもしれない。
「……イザベラ」
「はい?」
「今度」
振り返らないまま言う。
「俺にも、教えてくれないか」
「……何を?」
「歴史だ。近隣諸国の近代史が……その、少し」
「少し?」
「点が落ちた」
イザベラが目を丸くする。
「殿下が?」
「そんなに驚くな」
「だって殿下、昔からわたくしに勉強を教わるのを嫌がっていたでしょう?」
「……嫌だったわけじゃない」
イザベラの瞳が揺れた。
エドワードは相変わらず背中を向けている。
耳だけが、少し赤かった。
「嫌だったわけじゃないんだ。ただ……」
そこまで言って、やめた。
「いや。何でもない」
「殿下」
「嫌ならいい」
逃げるような言葉だった。
だからだろうか。
「嫌とは申しておりません!」
イザベラの声が、思いのほか大きく教室へ響いた。
本人も驚いたらしい。
慌てて口元を押さえ、みるみる頬を赤くしていく。
エドワードも振り返った。
二人の視線がぶつかる。
どちらも何も言わない。
窓から差し込む夕陽だけが、二人の間に長い影を落としていた。
先に目を逸らしたのは、エドワードだった。
「……では、明日の放課後」
「はい」
「ここで」
「分かりましたわ」
それだけ言って、今度こそエドワードは教室を出ていった。
足音が廊下の向こうへ消えていく。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてリリアナが、隣のイザベラを覗き込む。
「イザベラ様」
「……何ですの」
「お顔が赤いです」
「夕陽です!」
私は窓を見る。
夕陽は、イザベラとは反対側から差していた。
「そう」
「お母様まで何ですの!」
「私は何も言っていないわよ」
「顔が言っています!」
困った。
娘というものは、母親の顔をよく見ている。
私は扇を開いて口元を隠した。
その向こうで、どうしても笑みがこぼれてしまう。
三年後、この子は処刑される。
そう知った日から、私は未来というものを、こちらへ向かって落ちてくる巨大な岩のように思っていた。
止めなければならない。
砕かなければならない。
私が守らなければ、この子は押し潰される。
けれど今日、初めて思った。
未来は、そんな一方的なものではないのかもしれない。
私が手を伸ばさなくても、イザベラ自身が選んだ小さな行動一つで、道は少しずつ形を変えていく。
そしてその道の先で、ずっと背中を向け合っていた二人が、もう一度互いを見ることだってある。
机の上には、一冊の教科書が開かれている。
本来なら二人を引き裂くはずだった一冊が、今は二人を隣同士に座らせていた。
人生というものは、本当に分からない。
「お母様。まだ笑っていますわね?」
「笑ってないわよ」
「嘘です!」
私は扇をもう少し高く上げた。
どうやら今日は、娘に顔を見せない方がよさそうだった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




