あなたから、客がいなくなったのです
「お母様」
公爵邸の私室へ、イザベラが一通の封書を持ってきた。
封蝋に刻まれているのは、ローゼン侯爵家の紋章。
「ベアトリス様から?」
「いいえ」
イザベラの表情は硬い。
「ローゼン侯爵ご本人からですわ」
私は受け取り、封を切った。
内容は、一見すれば礼儀正しいものだった。
『昨今のクライス公爵家の活動について、王都では様々な声が上がっております』
『公爵令嬢という高貴な身分にある貴女まで、市井の商いへ深く関与なさることを危惧する者も少なくありません』
『いずれ王太子妃として王家を支える御身であればこそ、母君とは異なる冷静なご判断をなさるものと信じております』
最後まで読んで、私は感心した。
上手い。
「お母様?」
「この人、本当に政治家なのね」
「……褒めていらっしゃるの?」
「ええ。少しだけ」
どこにも「事業をやめろ」とは書いていない。
婚約を破棄させるとも書いていない。
ただ、十五歳の少女が最も恐れているものを正確に突いている。
――母親についていけば、王太子妃になれなくなるかもしれない。
そう思わせるためだけの手紙だ。
「イザベラ」
「はい」
「怖い?」
娘はすぐには答えなかった。
やがて。
「……少し」
正直に答えた。
「殿下との婚約がなくなるかもしれないと考えれば……怖いです」
「ええ」
「わたくしはまだ、殿下のことが好きですから」
胸が少し痛んだ。
それでもイザベラは、私を真っ直ぐ見る。
「でも」
手紙を指差した。
「だからといって、この方の言う通りにしたいとは思いません」
「……そう」
「お母様」
今度は娘が尋ねる。
「わたくしは、どうすればいいのでしょう?」
以前なら。
私が答えを与えていたかもしれない。
でも。
「あなたは、どうしたい?」
イザベラが黙る。
しばらく考えて。
「……考えます」
「ええ」
「殿下のことも、お母様のことも、自分の将来のことも。全部」
私は笑った。
「それでいいわ」
十五年間信じてきたものを、一通の手紙で捨てられる必要などない。
自分で考える。
それだけでも、以前とは違う。
私はもう一度、手紙へ目を落とした。
そして。
「ふふっ」
笑いが漏れた。
「お母様?」
「ごめんなさい」
「何がおかしいのです?」
「だって」
手紙を机へ置く。
「ローゼン侯爵ったら、まだ勘違いしているんですもの」
「勘違い?」
「ええ」
私は立ち上がった。
「まだ自分が、私たちの首を絞めているつもりなのよ」
イザベラが目を瞬く。
私は机の引き出しから、別の書類を取り出した。
ここ数日、クロエから届いていた報告書。
それを見て。
笑う。
「もう十分ね」
「何がです?」
「守るのは、ここまで」
扇を開く。
「そろそろこちらから攻めましょう」
◇
二日後。
王都の高級サロンには、新聞各紙の記者と商業関係者が集まっていた。
そして。
「これはまた、随分と大仰な会ですな」
ローゼン侯爵もいた。
招待状を送ったのは私だ。
来ない可能性も考えていたが、彼は来た。
当然だろう。
私が何を企んでいるのか確認しなければならない。
「お越しいただき光栄ですわ、侯爵」
「公爵夫人直々のお招きとあれば、断るわけにもいきますまい」
相変わらず余裕がある。
それでいい。
私は記者たちの前へ進んだ。
「本日は、新しいお取引について発表いたします」
ローゼン侯爵の眉が僅かに動く。
「取引?」
「ええ」
私はクロエを見る。
彼女が大きな地図を広げた。
王都。
東部三都市。
そして――さらにその外側。
これまで大手繊維商や有力ギルドが主要取引先として扱ってこなかった、小さな町や農村に印が付けられている。
「……これは?」
「新しい仕入れ先ですわ」
ローゼン侯爵が地図を見る。
「馬鹿な」
その声は小さかった。
「東部の主要な繊維商は、どこも貴女との取引を断ったはずだ」
私は笑った。
「ええ」
否定しない。
「ですから、大手とは取引しておりません」
侯爵が私を見る。
「何?」
「大手の問屋も、有力な織物商も、主要なギルドも、すべて駄目でした」
実際、クロエは一度敗北している。
王都だけではない。
地方へ伸びた既存の流通網にも、ローゼン侯爵家と繋がる貴族たちの影響力があった。
だから。
「もっと小さいところへ行きましたの」
地図に散らばる、小さな印。
家族経営の織り手。
農閑期に麻布を作る村。
品質は悪くないのに、大手問屋と継続契約を結べずにいる工房。
規模が小さすぎて、王都の商人から相手にされてこなかった生産者たち。
ローゼン侯爵が目を細める。
「そんな零細の生産者を何十軒集めようと、安定供給などできまい」
「その通りですわ」
私は即答した。
「一軒なら」
「……」
「だから、まとめました」
クロエが新しい書類を記者へ配る。
「生地の幅を三種類に統一。品質基準を設定。納期を共通化。検品はクロエ商会が一括で行います」
侯爵の表情が変わった。
「さらに」
私は続ける。
「こちらから一定量を購入すると、先に約束しました」
「購入保証……」
さすがだ。
一瞬で意味を理解した。
小さな生産者にとって最大の恐怖は、作った布が売れないこと。
なら。
先に売り先を作ればいい。
「資金はどうした」
ローゼン侯爵が鋭く聞いた。
「クライス公爵家か?」
来た。
私は笑った。
「いいえ」
はっきり答える。
「夫のお金は一枚も入っておりません」
記者たちがざわめいた。
「では、どこから?」
「お客様です」
「……客?」
「再生服の予約販売を始めましたの」
前世なら、珍しくもない。
これから作る商品に対して、先に注文を受ける。
予約時に一部を預かり、それを次の生産へ回す。
もちろん、無制限には受けない。
納期。
生産可能数。
返金条件。
すべて明記する。
「それにクロエ商会の資金を加えました」
クロエが肩をすくめる。
「売れると分かっている商品に投資しない商人はいませんので」
「そして」
私は一着の服を持ってこさせた。
新しい服。
再生品ではない。
まだ大量生産には程遠い。
けれど。
新しく織られた布から作った、最初の一着。
「昨日、届きました」
記者たちが立ち上がる。
「第一便です」
誰かが呟いた。
「……布が、入ったのか」
「ええ」
私は答える。
「入りました」
ローゼン侯爵は服を見ている。
その顔から、笑みは消えていた。
だが。
震えてはいない。
怒鳴りもしない。
さすがに、この程度で崩れる男ではない。
「なるほど」
静かに言った。
「既存の流通網そのものを迂回したか」
「ええ」
「小規模生産者を束ねて、貴女自身が新しい流通網を作った」
「正確にはクロエが、ですわ」
「奥様、人に押しつけないでください」
「事実でしょう?」
記者の何人かが笑った。
ローゼン侯爵だけは笑わない。
「ですが」
私は彼を見る。
「侯爵。まだ一つ、お礼を申し上げておりませんでした」
「礼?」
「ええ」
一歩。
前へ出る。
「ありがとうございました」
「……何のことだ」
「私たちへの布を止めてくださって」
完全な静寂。
「もし普通に布を買えていたら、私は既存の流通網を疑いもしなかったでしょう」
「……」
「王都の大手問屋から買って、服を作って、売る。それで満足していた」
地図を見る。
「でも、売っていただけなくなった」
だから。
探した。
見つけた。
変えた。
「おかげで知ることができましたわ」
「何を?」
「この国には、良いものを作れるのに、売る場所を持っていない人がこんなにもいるということを」
ローゼン侯爵の瞳が僅かに細くなる。
「侯爵」
私は微笑んだ。
「あなたは、私から布を奪ったつもりだったのでしょう?」
「……」
「逆ですわ」
「何がですかな」
今度こそ。
私は言った。
「あなた方から、客がいなくなったのです」
記者たちのペンが一斉に走った。
ローゼン侯爵は何も言わない。
だから私は続ける。
「これまで小規模な生産者は、大手問屋へ安く卸すしかなかった」
「……」
「ですが今後は、私たちが直接買います」
適正な価格で。
継続的に。
そして売れる商品へ変える。
「つまり」
クロエが横から楽しそうに言った。
「侯爵家と親しい大手問屋さんを通さなくても、商売できるようになっちゃったんですよね」
「クロエ」
「はい?」
「言い方」
「すみません」
まったく反省していない顔だ。
「……面白い」
ローゼン侯爵が呟いた。
私は彼を見る。
笑っていた。
ただし。
これまでの余裕に満ちた笑みではない。
初めて私を、本当の敵として見る男の顔だった。
「私が道を塞いだことで、新しい道を作ったというわけですか」
「ええ」
「ならば次は、その道を塞げばいい」
「どうぞ」
即答した。
侯爵の眉が動く。
私は地図を指す。
「今度は何十もの村と工房を、一つずつ止めて回ります?」
「……」
「それとも」
記者たちを見る。
「『ローゼン侯爵家は、自分たちと取引しない農村にまで圧力をかけている』と、明日の新聞に書かれても構わないのでしたら」
今度は。
侯爵が黙った。
一秒。
二秒。
そして。
「……一本取られましたな」
その言葉に、会場がざわめいた。
私は笑った。
「一本だけ?」
「欲張りですな、公爵夫人」
「商人ですもの」
「公爵夫人では?」
「最近、私も分からなくなってまいりました」
侯爵が小さく笑った。
そして踵を返す。
「本日は失礼する」
「ええ」
「ですが」
足を止める。
振り返らずに言った。
「戦いが終わったとは思わないことです」
「もちろん」
私は答えた。
「次は私から参りますわ」
侯爵が初めて振り返った。
その目にあったのは、怒りではない。
警戒だった。
それで十分。
ようやく。
攻守が入れ替わった。
◇
その日の夜。
私は久しぶりに早く自室へ戻った。
机の上には、山ほどの書類。
新しい仕入れ先。
予約注文。
生産計画。
縫い子の問題も、まだ解決していない。
何一つ終わってはいない。
でも。
今日は勝った。
一つくらい、自分を褒めてもいいだろう。
「……疲れた」
椅子へ身体を預ける。
そのとき。
ふと。
机の端に置かれた卓上暦が目に入った。
「……」
何気なく見る。
日付。
そして。
身体が固まった。
「……嘘」
椅子から立ち上がる。
もう一度確認する。
間違いない。
忘れていた。
いや。
忘れていたわけではない。
ただ。
あまりにも目の前のことに追われていた。
ゲームでは。
今日だった。
イザベラがリリアナの教科書を破り捨てる。
二人の対立が、初めて学園中へ知れ渡る日。
イザベラが「悪役令嬢」として本格的に認識され始める、最初の大きな事件。
「イザベラ……!」
私は立ち上がった。
勝利の余韻など、一瞬で消えた。
商売なんて後だ。
ローゼン侯爵も後。
私がこの世界を変えようとしている理由は、一つしかない。
娘を。
死なせないためだ。
「馬車を!」
扉を開ける。
「学園へ行くわ!」
◇
王立魔法学園。
私は息を切らしながら廊下を進んだ。
公爵夫人が突然現れたことで、生徒たちが驚いて道を開けていく。
覚えている。
ゲーム画面。
廊下。
泣いているリリアナ。
床に散らばった、破られた教科書。
そして。
その前に立つイザベラ。
『身の程を知りなさい』
冷たく言い放つ娘。
その事件を境に。
イザベラは少しずつ、戻れない場所へ進んでいく。
駄目。
絶対に。
教室の扉が見えた。
私は勢いよく開ける。
「イザベラ!」
全員が振り返った。
「……お母様?」
いた。
イザベラ。
その向かいには――リリアナ。
机の上には。
教科書。
破れていない。
二人は並んで座っていた。
「どうなさいましたの?」
「……」
私は答えられない。
リリアナが困ったように笑う。
「今、イザベラ様に古代語を教えていただいていたんです」
「また同じところを間違えていましたのよ」
イザベラが呆れたように言う。
「だって難しいんですもの」
「昨日も説明しました」
「イザベラ様の説明、先生より厳しいです」
「でしたら先生に聞けばよろしいでしょう?」
「でも、イザベラ様の方が分かりやすいです」
「……仕方ありませんわね」
娘が。
笑った。
リリアナも笑う。
私は。
二人を見る。
机を見る。
教科書を見る。
もう一度、日付を思い出す。
間違っていない。
今日だ。
本来なら。
ここで。
運命が動き始めるはずだった。
でも。
何も起きていない。
私が止めたのではない。
先回りして潰したわけでもない。
私の知らないところで。
イザベラ自身が――。
「お母様?」
娘が首を傾げる。
「本当にどうなさいましたの?」
「……いいえ」
私は笑った。
なぜか。
泣きそうになった。
「何でもないわ」
未来が。
変わっている。
三年後、処刑台へ続いていたはずの道が。
初めて。
私の知らないところで、消えた。
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