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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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19/26

私は今、妻に夢中なのです

ローゼン侯爵邸の大広間には、王都でも指折りの貴族たちが集まっていた。

豪奢なシャンデリア。

磨き上げられた銀器。

最高級の葡萄酒。

表向きは「王国の商業秩序について意見を交わすための晩餐会」。

だが、この場にいる誰もが知っていた。

今夜、話し合われるのは商業ではない。

――クライス公爵夫人を、どう止めるか。

その中心に、一人の男がいた。

アレクシス・クライス。

彼の妻エレオノーラに招待状は届いていない。

当然だった。

今の彼女は、この場に集まった者たちにとって最も招きたくない人間なのだから。

「クライス公爵」

ローゼン侯爵が葡萄酒のグラスを手に近づいた。

「今宵はお越しいただき、感謝いたします」

「招待されたから来ただけです」

「相変わらずですな」

侯爵は笑う。

アレクシスは笑わない。

周囲には、何気ない会話を装いながら二人へ意識を向けている貴族たちがいる。

その中には、アレクシスが取り込もうとしていた中立派の当主もいた。

だからこそ。

ローゼン侯爵は、この場を選んだ。

「しかし、残念ですな」

「何がです?」

「奥方のお姿がない」

アレクシスが侯爵を見る。

「貴方が招待しなかったのでしょう」

「これは失礼」

ローゼン侯爵は悪びれなかった。

「最近の奥方は、随分とお忙しいようですからな」

「ええ」

「南区画でしたかな?」

「よくご存じで」

「王都で知らぬ者はいませんよ」

侯爵がグラスを傾ける。

「平民の女たちを集めて服を作らせ、自ら金を稼ぐことを教えているとか」

「何か問題でも?」

「問題」

ローゼン侯爵が小さく笑った。

「公爵。男同士、少し腹を割って話しませんか」

周囲の会話が僅かに小さくなった。

「奥方のなさっていることは、少々度が過ぎている」

アレクシスは答えない。

「服を売るだけなら、私も何も申しません。しかし今や、女性が働く権利だの、賃金を自ら管理する権利だのと……」

「耳が早いですね」

「政治とは、そういうものでしょう?」

ローゼン侯爵の笑みは崩れない。

「公爵もお分かりのはずだ。国というものは、昨日までの常識を今日いきなり捨てられるほど単純ではない」

「同感です」

意外な返答に、侯爵が僅かに眉を動かした。

「だから妻も、一日で変えようとはしていない」

「……」

「三年ほどはかけるつもりらしい」

「三年?」

「妻は気が長いのか短いのか、よく分からない女でしてね」

アレクシスは平然とグラスを傾けた。

「ですが、あれが一度やると決めたことを途中で投げ出す姿は、今のところ見たことがありません」

ローゼン侯爵が目を細める。

「だからこそ申し上げているのです」

一歩近づく。

「止められるのは、貴方だけでしょう」

「私が?」

「ええ」

侯爵は声を落とした。

「公爵夫人としての役割へ戻っていただく。それだけでいい」

「……」

「女は家庭を守り、夫を支える。それを恥じる必要などない。奥方も、以前は立派にその役目を果たしておられた」

アレクシスのグラスが止まった。

「以前は?」

「ええ」

「なるほど」

静かな声だった。

「つまり貴方は、以前の妻の方がよかったと」

「少なくとも、公爵夫人としては」

ローゼン侯爵は答えた。

そして。

「奥方の火遊びも、そろそろ止められてはいかがですかな」

広間が静まった。

あまりにも露骨な言葉だった。

だが、ここにいる多くの者が同じことを考えている。

二十年間、クライス公爵夫妻が冷え切った関係だったことも、社交界では知られている。

妻の事業など。

夫が命じれば終わる。

そう思っている。

アレクシスはしばらく黙っていた。

やがて。

「……火遊び」

小さく繰り返した。

そして笑った。

「侯爵」

「何でしょう」

「それが、貴方の敗因になるかもしれませんね」

ローゼン侯爵の笑みが初めて僅かに薄くなった。

「どういう意味です?」

「妻を軽く見すぎている」

「……」

「私もそうだった」

周囲が静まる。

アレクシスは淡々と続けた。

「二十年間、私は妻を誤解していた」

グラスをテーブルへ置く。

「公爵夫人として必要なことを完璧にこなし、それ以上を求めない女だと思っていた」

「それが何か?」

「私の見る目がなかったという話ですよ」

ざわり。

空気が動いた。

「南区画の事業計画を初めて見たとき、私は半年で結果を出せと言いました」

一人の中立派貴族が耳を傾ける。

「彼女は市場を作った。商人を味方につけ、女優を広告塔にし、職人へ賃金を払い、供給を止められれば廃棄されるはずだったドレスに新しい価値をつけた」

ローゼン侯爵を見る。

「そして貴方が一手打つたびに、次の手を考えている」

「公爵は、それを評価なさると?」

「当然でしょう」

即答だった。

「結果を出している人間を、性別を理由に評価しないほど私は愚かではない」

何人かの貴族が顔を見合わせた。

ローゼン侯爵は表情を崩さない。

「ですが、妻でしょう」

「ええ」

「夫である貴方が命じれば――」

「嫌ですよ」

あまりにも軽い返事だった。

侯爵が言葉を止める。

「……何と?」

「止めたくない」

アレクシスは言った。

「むしろ、次に何をするのか見ていたい」

「公爵」

「二十年も同じ屋敷で暮らしておきながら、私は妻のことをほとんど知らなかったらしい」

ほんの僅かに。

その声に熱が混じった。

「今になって知ることばかりだ」

政治家としての顔ではなかった。

一人の男の顔だった。

「負けても立ち上がる。正しいだけでは勝てないと分かれば、勝つ方法を覚えようとする。自分の金で解決できる問題でも、それでは意味がないと言って突っぱねる」

思い出したのか。

口元が僅かに緩む。

「実に面倒な女です」

「でしたら――」

「そして」

遮った。

「実に面白い」

ローゼン侯爵が黙る。

アレクシスは周囲を見渡した。

妻を笑っていた者。

道楽だと思っていた者。

いずれ夫が止めると考えていた者。

その全員に聞こえる声で言った。

「ですから、侯爵」

「……」

「妻を止めるつもりはありません」

静寂。

「それどころか」

一拍。

「私は今、妻に夢中なのです」

誰かがグラスを取り落としかけた。

さすがにアレクシス自身も、言ったあとで僅かに眉を動かした。

だが撤回はしなかった。

ローゼン侯爵は驚かなかった。

笑いもしなかった。

ただ。

アレクシスを見る目が変わった。

「……なるほど」

「何がです?」

「計算を修正する必要があるようです」

侯爵は静かにグラスを置いた。

「私はこれまで、奥方と貴方を別々に考えていた」

「……」

「エレオノーラ夫人の事業と、クライス公爵の政治力。二つは別物だと」

その目が冷える。

「どうやら、それが間違いだった」

アレクシスも目を細めた。

「これからは、クライス公爵家そのものを相手にする必要がある」

脅しではない。

宣言だった。

「妻の事業へ圧力をかけたことは否定なさらないのですね」

「何のことでしょう?」

ローゼン侯爵は微笑む。

証拠はない。

やはり、この男は簡単には尻尾を出さない。

「今夜は有意義でした、公爵」

「ああ」

「貴方がどちら側に立つのか、よく分かった」

「最初から決まっていますよ」

アレクシスはグラスを置いた。

「妻の隣です」

それだけ告げて、踵を返した。

◇

夜も遅くなった頃。

私は執務室で、中立派三家へ提示する資料と格闘していた。

女性の雇用によって増えた世帯所得。

南区画での消費額。

商会の売上。

税収への影響。

数字。

数字。

また数字。

政治とは、もう少し華麗なものだと思っていた。

実際は、とんでもなく地味である。

コンコン。

「どうぞ」

扉が開く。

「ただいま」

アレクシスだった。

「お帰りなさいませ」

私は資料から顔を上げる。

「どうでした?」

「何が」

「晩餐会です」

「料理は悪くなかった」

「それを聞いているのではありません」

「そうか」

この男。

「ローゼン侯爵は?」

「君を止めろと言われた」

「まあ」

予想通りだ。

「それで?」

「断った」

「でしょうね」

また資料へ視線を戻す。

「他には?」

「特にない」

「そう」

アレクシスが私の向かいへ腰を下ろした。

「数字は?」

「最悪です」

「見せろ」

資料を渡す。

夫が目を通し始めた。

そのとき。

「失礼いたします!」

扉が開いた。

入ってきたのは、晩餐会へ同行していた公爵家の従者だった。

「旦那様、お忘れ物を――」

「置いていけ」

「はい」

従者は机へ書類を置いた。

そして。

なぜか私を見る。

「……何?」

「い、いえ」

「何かしら?」

「何でもございません!」

明らかに何かある。

「待ちなさい」

逃げようとした従者が止まる。

「何を隠しているの?」

「何も……」

「言いなさい」

「エレオノーラ」

アレクシスが口を挟む。

「仕事へ戻れ」

怪しい。

ものすごく怪しい。

「言いなさい」

「……奥様」

従者が観念した。

「旦那様が今夜の晩餐会で……」

「おい」

初めて聞く夫の焦った声だった。

私はますます興味を持った。

「続けて」

「はい」

従者が姿勢を正す。

「皆様の前で、『私は今、妻に夢中なのです』と――」

沈黙。

「……」

「……」

「……はい?」

私は夫を見る。

アレクシスは無表情だった。

耳だけが。

ほんの少し赤い。

「旦那様」

「何だ」

「もう一度」

「断る」

「私、聞いておりません」

「聞く必要はない」

「本人だけ聞いていないのは不公平でしょう?」

「知らん」

私は立ち上がった。

「旦那様」

「仕事をしろ」

「アレクシス」

名前を呼ぶ。

夫が止まった。

「私に夢中なのですか?」

「……」

「どうなの?」

長い沈黙のあと。

アレクシスは深く息を吐いた。

そして。

私を真っ直ぐ見た。

「少なくとも」

「少なくとも?」

「二十年前よりは、遥かにな」

胸が。

馬鹿みたいに跳ねた。

「……ずるい答えですわ」

「政治家だからな」

「最低」

「褒め言葉として受け取ろう」

私は顔が熱くなるのを誤魔化すように、資料を掴んだ。

「仕事に戻ります!」

「ああ」

紙へ目を落とす。

数字が。

まったく頭に入ってこない。

向かいではアレクシスが何食わぬ顔で資料を読んでいる。

腹立たしい。

非常に腹立たしい。

――少しだけ、嬉しい。

その夜。

中立派を落とすための資料作りは、予定より一時間ほど遅れた。

すべて、夫のせいである。

◇

そして翌朝。

ローゼン侯爵から、一通の書簡が届いた。

宛名は――私ではない。

アレクシスでもない。

『イザベラ・クライス公爵令嬢殿』

私は封蝋を見つめた。

胸の奥で、嫌な予感がした。

敵は。

私たち夫婦を同じ陣営だと認識した。

ならば次に狙うのは――。

まだ、その陣営の外側にいると思われている人間。

私は書簡を握りしめた。

ローゼン侯爵。

今度は、私の娘に何をするつもり?

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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