正しいだけでは、一票にもならない
「この国で女性が自分の名義で働き、稼ぎ、財産を持つために――何を変えなければならないのか教えてください」
私の言葉を聞いたアレクシスは、しばらく黙っていた。
机の上には、工房を辞めた三十人の名前。
夫の勤め先。
父親の商会。
婚約者の家。
彼女たちへ圧力をかけた者たちの情報が、クロエによって整理されている。
やがて夫は、その一枚を指で叩いた。
「まず、一つ訂正しよう」
「何を?」
「君は欲張りすぎだ」
「……はい?」
開口一番、失礼な夫である。
「女性が自分の意思で働く権利。賃金を本人が管理する権利。婚姻後の財産権。そして、女性の就労を理由として家族へ不利益を与える行為の禁止」
私が考えていたものを、すらすらと並べていく。
「全部必要なのでしょう?」
「必要だ」
「でしたら」
「だからといって、全部まとめて議会へ出せば通ると思うのか?」
言葉に詰まった。
アレクシスが椅子を引いた。
「座れ」
「ここは私の執務室ですけれど」
「知っている」
なぜあなたが主人のような顔をするのか。
腹は立つが、素直に座る。
クロエも少し離れた席へ腰を下ろした。
アレクシスは白紙を一枚取り出した。
そして中央に線を引く。
「まず、議会の話をしよう」
左側へいくつかの家名を書いた。
「保守派。ローゼンを中心に、旧来の貴族制度から大きな利益を得ている連中だ」
次に右。
「改革派。数は少ない。教育や商業制度の改革には比較的前向きだ」
そして中央。
最も多くの名前が並んだ。
「中立派」
「ずいぶん多いのね」
「当然だ。政治家の大半は、思想のために生きてはいない」
「では、何のために?」
「領地だ」
即答だった。
「領地?」
「領民を食わせる。税収を増やす。道路を直す。飢饉に備える。後継者へ少しでも豊かな土地を残す」
アレクシスが私を見る。
「彼らに『女性の権利は大切です』と言ってみろ」
「……反対される?」
「もっと悪い」
「何です?」
「興味を持たれない」
ぐさりと刺さった。
「正しいかどうか以前に、自分たちの領地と何の関係があるのか分からんからだ」
「でも、国全体の――」
「エレオノーラ」
遮られる。
「正しいだけでは、一票にもならない」
静かな声だった。
「政治とは、正しさを競う場所ではない。違う事情を抱えた人間に、『それなら自分にも利益がある』と思わせる場所だ」
私は紙を見る。
「……つまり」
少し考える。
「女性のための法律として売り込んでは駄目なのね」
アレクシスの口元が上がった。
「続けろ」
「女性が働けば、世帯所得が増える」
クロエを見る。
彼女も気づいたらしい。
「消費も増えます」
「ええ。服を買う。食べ物を買う。家財を買う」
「商人の売上が増えれば、領地の税収も増える」
「働き手も増えるわ」
私は立ち上がった。
頭の中で、点が線になっていく。
「戦争や病気で夫を亡くした女性も、慈善だけに頼らず生活できる」
クロエが続ける。
「孤児院を出た女性にも職があります」
「貧困も減る」
「税を納められる人間が増える」
私はアレクシスを見る。
「女性の権利ではなく――」
「経済政策」
アレクシスが言った。
「そういうことだ」
鳥肌が立った。
同じ政策なのに。
見せ方一つで、まるで違って見える。
「……政治って、詐欺みたいですわね」
「今さら気づいたのか?」
「否定してくださいませ」
「できん」
クロエが吹き出した。
「でも」
私は再び席につく。
「それでも、今の法案をそのまま出すのは難しいのでしょう?」
「難しいのではない」
アレクシスは淡々と言った。
「負ける」
断言だった。
「今の議会で、既婚女性が夫から完全に独立して財産を管理する権利まで一気に認めさせようとすれば、保守派だけではなく中立派の多くも敵に回る」
「……」
「君は国を三年で変えるつもりなのだろう?」
心臓が跳ねた。
三年。
その期限を、夫には本当の意味では説明していない。
私は表情を変えないようにした。
「ええ」
「なら、なおさら一度の大勝負に賭けるな」
アレクシスは紙の端に、小さな印を一つ付けた。
「楔を打て」
「楔?」
「最初から城壁を倒そうとするな。まず、一本だけ打ち込む」
夫が辞職者の一覧を示した。
「今回、最も議会で説明しやすい被害は何だ?」
考える。
「……本人ではなく、家族に圧力をかけて退職させたこと」
「そうだ」
「でも、違法ではないのでしょう?」
「今はな」
アレクシスの目が細くなる。
「ならば、そこを変える」
私は息を呑んだ。
「女性の権利全般を議論するな。まず、合法的な商業活動へ従事する者を辞職させる目的で、家族や取引先へ不利益を与える行為を規制する」
「それなら……」
クロエが身を乗り出した。
「女性だけの法律ではない」
「そうだ」
アレクシスが頷く。
「男にも適用される。商人にも、職人にもだ」
分かった。
「商取引の自由を守る法律として出すのね」
「その方が票を取れる」
「商人を抱える貴族も賛成しやすい」
「自分たちが同じ手を使われる可能性もあるからな」
なるほど。
女性のためだけの法律ではない。
けれど成立すれば、今回エマたちへ使われた手段の一部を封じられる。
小さい。
私が最初に望んだ改革と比べれば、あまりにも小さい。
でも。
「……一歩になる」
「ああ」
「ここから、次へ進める」
「そういうことだ」
私は紙に書かれた小さな印を見る。
城壁に打ち込む、最初の楔。
「では、票を集めましょう」
「簡単に言うな」
「難しいの?」
「当然だ」
アレクシスが中立派の家名を三つ丸で囲んだ。
「この三家なら可能性がある」
「理由は?」
「一つは織物産業を育てたい。もう一つは戦争未亡人の貧困に悩んでいる。最後は商業都市を領内に抱えている」
「……全部、私たちの事業と繋がる」
「ようやく政治家らしい顔になってきたな」
「まだ公爵夫人です」
「服屋では?」
「それもです」
クロエがぼそりと言った。
「肩書き、多すぎません?」
まったくだ。
「まず、この三家を味方につける」
アレクシスが続ける。
「そのために必要なのは演説ではない」
「数字ね」
「そうだ」
雇用した女性の人数。
平均賃金。
彼女たちが得た所得。
その所得がどこで消費されたか。
店の売上。
納税額。
孤児院から職業訓練へ進んだ人数。
全部。
「クロエ」
「はい」
「出せる?」
商会主の顔になった。
「三日ください」
「二日」
「鬼ですか?」
「十二日しかないのよ」
「……分かりました。二日で出します」
アレクシスが小さく笑った。
「それから」
今度は別の家名を指す。
「こいつには私から話を通す」
私は夫を見る。
「それは――」
「勘違いするな」
先回りされた。
「票を命令するつもりはない。会う席を作るだけだ」
「……」
「君は、自分の力で勝ちたいのだろう?」
あの言葉を。
覚えていた。
「ええ」
「なら、勝て」
あまりにも簡単に言う。
「随分と無責任ですこと」
「負けそうになったら、私が勝手に助ける」
思わず目を見開いた。
以前、彼が言った言葉だった。
アレクシスは何でもないことのように資料へ視線を戻している。
ずるい。
「……旦那様」
「何だ」
「最近、少し格好良すぎません?」
万年筆が止まった。
クロエも固まった。
しまった。
声に出ていた。
「……」
「……」
「忘れてくださいませ」
「断る」
「忘れなさい」
「嫌だ」
「命令です」
「私は君の夫だぞ」
「だから何です?」
「もう一度言え」
「絶対に嫌です!」
クロエが両手で顔を覆った。
「私、帰ってもいいですか?」
「駄目よ!」
「帰らせてやれ」
「あなたは黙っていて!」
アレクシスが笑った。
声を上げて。
ほんの僅かではあるけれど。
私は初めて聞いた気がした。
二十年も夫婦だったのに。
知らなかった。
この人は、こんなふうに笑うのだ。
胸の奥が。
少しだけ、くすぐったくなった。
◇
翌朝。
クロエが調査結果の第一報を持ってきた。
「奥様」
顔が険しい。
「何?」
「辞めた縫い子たちの家族へ圧力をかけた商会や組合について、繋がりを調べました」
机の上へ、一枚の紙が置かれる。
そこには、複数の商会。
運送組合。
貸家の所有者。
雇用主。
一見すると、何の関係もない名前が並んでいる。
だが。
その横に記された名前を見て。
私は息を止めた。
「……全部?」
「はい」
クロエが頷く。
「直接ではありません。でも、出資、融資、取引、縁戚――形は違っても」
指が、一つの家名を示した。
ローゼン。
「三十人のうち、確認できた二十七人までが繋がっています」
偶然ではない。
証拠としては、まだ足りない。
だが。
線は見えた。
「……なるほど」
私は紙を持ち上げた。
「私たちが票を集め始める前に」
ローゼン侯爵は、もう盤面を作っていたのだ。
その日の午後。
王都の貴族たちのもとへ、一通の招待状が届いた。
差出人は――ローゼン侯爵。
名目は、王国の商業秩序について意見を交わすための晩餐会。
招待された者の中には。
アレクシスが最初に味方へ引き入れようとしていた三家の名も、すべて含まれていた。
私は招待客の一覧を見つめた。
そして。
笑った。
「……やっと、同じ盤面に上がってきてくださったのね」
今度の戦場には。
布も。
針も。
ドレスもない。
あるのは――票だけだった。
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