女が働くと、家族が不幸になるそうです
残された時間は、あと九日。
南区画の工房は、朝から慌ただしい熱気に包まれていた。
令嬢たちから集められたドレスをほどき、使える絹やレース、ボタンを選別し、新しい服へ仕立て直す。
裁断。
縫製。
仕上げ。
限られた布を一片たりとも無駄にしないよう、職人たちは必死に手を動かしていた。
――そのはずだった。
「……少ないわね」
工房へ入った瞬間、違和感に気づいた。
音が足りない。
いつもなら聞こえてくる、布を裁つ鋏の音。
針を進めながら交わされる女たちの話し声。
笑い声。
そのすべてが、半分ほどしかない。
「クロエ」
「……はい」
彼女の顔色を見た瞬間、嫌な予感が確信へ変わった。
「何人?」
「今朝だけで、三十人です」
「三十……」
予想以上だった。
「来ていないの?」
「いえ」
クロエが唇を噛む。
「何人かは来ました」
「だったら」
「辞めるために、です」
私は黙った。
「昨日までは普通に働いていました。今朝になって突然です。泣きながら辞めたいと言ってくる人もいました」
「理由は?」
「聞いても、ほとんど話してくれません」
クロエが拳を握る。
「皆、怯えているんです」
布を止めても、私たちは古いドレスを使った。
ならば次に止めるのは――。
「……人」
思わず呟いた。
クロエが顔を上げる。
「服を作る人間そのものを、工房から追い出しに来たのね」
「私も、そう思います」
ローゼン侯爵なら、誘拐などという下策は使わない。
そんなことをすれば証拠が残る。
犯罪として追及することもできる。
もっと簡単で。
もっと卑劣で。
そして、法では裁きにくい方法がある。
「話を聞きましょう」
◇
工房へ入る。
残った縫い子たちは黙々と手を動かしていた。
いや。
動かそうとしている。
何人もの指が震えている。
その中に、エマがいた。
この工房ができた頃から働いてくれている女性だ。
手先が器用で仕事が早く、最近では新人へ縫い方を教えることも増えていた。
いつも明るい彼女の目が、今日は真っ赤に腫れている。
「エマ」
肩が跳ねた。
「……奥様」
私は彼女の隣へ腰を下ろした。
立ったまま見下ろしたくなかった。
「無理に話さなくていいわ」
「……」
「でも、私にできることがあるなら、教えてほしいの」
唇が震える。
しばらくして。
「……ごめんなさい」
涙が落ちた。
「私も……今日で辞めさせてください」
「分かったわ」
エマが顔を上げた。
「え?」
「辞めたいのなら、止めない」
「理由を……聞かないんですか?」
「話したくないなら、聞かないわ」
その瞬間。
堪えていたものが切れた。
「夫が……!」
エマが両手で顔を覆った。
「夫が、仕事を失うんです」
私は黙って待った。
「夫は東区画の運送組合で働いています。昨日、上の人から呼ばれて……」
震える息。
「『妻が南区画の工房を辞めないなら、お前に回す仕事はない』って」
「……」
「うちには子供が二人います」
エマが泣く。
「私のお給金だけじゃ、四人で暮らしていけません。夫まで仕事を失ったら……」
「もういいわ」
私はそっと彼女の背中へ手を置いた。
「でも私、この仕事が好きでした」
「ええ」
「初めてだったんです」
顔を上げる。
「夫からもらったお金じゃなくて、自分で稼いだお金で、娘に靴を買ったんです」
胸が詰まった。
「娘が……『お母さんが買ってくれたの?』って……」
涙が次々と落ちる。
「嬉しかった……」
私は何も言えなかった。
「でも」
エマが首を振る。
「そのせいで夫が仕事を失ったら……意味がないじゃないですか」
「……ええ」
その通りだ。
私が彼女に「戦え」と命じることなどできない。
理想のために家族を危険に晒せと言えるほど、私は傲慢ではない。
「奥様」
別の声がした。
若い縫い子だった。
まだ十七、八だろう。
「私も……辞めます」
「あなたも?」
「婚約者の家から手紙が来ました」
俯く。
「ここで働き続けるなら、結婚はなかったことにするって」
「……」
「『女が外で金を稼ぐことを覚えれば、夫に従わなくなる』って」
乾いた笑いが漏れた。
「私、ただ……結婚したあとも、自分で少しお金を稼げたらいいなって思っただけなのに」
別の女性が口を開く。
「うちは父が……」
また一人。
「弟の奉公先から……」
次々と。
声が上がった。
夫。
父親。
兄。
婚約者。
家族が勤める商会。
借金の保証人。
借りている家の大家。
直接彼女たちへ「辞めろ」と命じた者は、ほとんどいない。
その必要がないのだ。
この国では、女性一人の生活が、あまりにも多く男性の立場に結びつけられている。
そこを一つ押せばいい。
夫の仕事を奪う。
父親の取引を止める。
婚約を破棄すると脅す。
それだけで。
女は、自分から仕事を捨てざるを得なくなる。
「……上手いやり方ですね」
背後でクロエが呟いた。
怒りで声が震えている。
「本人には触らない。犯罪にもならない。でも、逃げ道だけ全部塞いでいく」
「ええ」
ようやく分かった。
布を止めたのも。
職人を追い出したのも。
根は同じだ。
選択肢を奪う。
人間が自分で選べなくなるまで、周囲から道を塞いでいく。
イザベラも、そうだった。
公爵令嬢だから。
王太子妃になるのだから。
こう生きなさい。
こう振る舞いなさい。
この人を愛しなさい。
完璧でありなさい。
それ以外の道を、最初から見せない。
そして今。
この女性たちも言われている。
女なのだから。
夫に従いなさい。
家族を優先しなさい。
自分で金を稼ぐ必要などない。
それ以外を選べば――。
お前のせいで、家族が不幸になるぞ、と。
「……そういうこと」
私の中で。
何かが、はっきりと繋がった。
私が戦っている相手は、ローゼン侯爵一人ではない。
もっと大きい。
この国そのものが、長い時間をかけて作り上げてきた「当たり前」だ。
私は立ち上がった。
「皆、聞いて」
針の音が止まった。
工房にいる女性たちが、一斉に私を見る。
「まず、辞めたい人を引き止めることはしません」
ざわめきが起こる。
「家族を守るために辞める。それを恥じる必要もない」
エマが泣きながら私を見る。
「あなたたちに、私の理想のために家族を犠牲にしろなんて絶対に言わないわ」
一人ずつ見る。
「今日辞めても、今月分の賃金は全額支払います」
「奥様!」
クロエが驚く。
分かっている。
ただでさえ資金繰りは厳しい。
それでも。
ここだけは譲れない。
「それから」
私は続けた。
「今までここで働いたことを、恥じないで」
静かに。
一言ずつ。
「あなたたちは施しを受けていたわけではない」
エマを見る。
「働いた」
若い縫い子を見る。
「技術を身につけた」
全員を見る。
「服を作った」
壁には、完成した再生服が並んでいる。
「そして、その仕事で正当な賃金を得た」
私は胸を張った。
「それの何が恥なの?」
誰も答えない。
「女が働いたら、夫に逆らうようになる?」
少し笑った。
「随分と自信のない殿方ですこと」
何人かが、泣きながら小さく笑った。
「女が金を持てば、家族が壊れる?」
首を振る。
「エマは、自分で稼いだお金で娘さんに靴を買ったのでしょう?」
「……はい」
「家族を壊した?」
エマが首を振った。
「娘さんは?」
「……喜びました」
「なら」
私は微笑んだ。
「それが答えよ」
静寂。
「私は、あなたたちに残れとは言わない」
これは彼女たち自身が決めることだ。
「でも」
声を強める。
「女が自分で稼ぐことを、恥だとは絶対に言わせない」
誰かが泣いた。
その隣の女性が手を握る。
私はその光景を見ながら思う。
――なるほど。
ローゼン侯爵。
ようやく分かった。
あなたが恐れているものが。
服ではない。
平民でもない。
女性でもない。
選べる人間だ。
自分で働く。
自分で稼ぐ。
自分で買う。
自分で人生を決める。
そういう人間が増えれば。
「身分だから」
「女だから」
「昔からそうだから」
そんな言葉だけでは、人を従わせられなくなる。
だから、怖いのだ。
◇
「……さて」
全員を帰したあと。
執務室へ戻った私は、机に紙を広げた。
クロエが向かいに座る。
「残った職人は?」
「半分ほどです」
「生産量は?」
「このままなら、半分以下」
「納期は守れる?」
「無理です」
即答だった。
当然だ。
精神論で服は縫えない。
「つまり、私たちは負けかけている」
「……はい」
認めなければならない。
演説で職人は増えない。
ローゼン侯爵の一手は、確実に効いている。
「奥様」
クロエが言う。
「どうします?」
私は机の上へ、一枚ずつ紙を並べた。
辞めた女性の名前。
家族の職場。
圧力をかけてきた人物。
婚約破棄をちらつかせた家。
「まず調べるわ」
「何を?」
「本当に偶然なのかを」
クロエの目が変わった。
「三十人が、同じ日に辞めた」
「……」
「夫の職場も、父親の商会も、婚約者の家も全部違う。それなのに、同じ日に同じ方向へ動いた」
私は一枚の紙を指で叩いた。
「誰かが繋いでいる」
「証拠を探すんですね」
「ええ」
財務省のときとは違う。
今回、表向きはすべて民間の判断だ。
だからこそ。
命令の流れを見つけなければならない。
「ハインツにも頼んで。辞めた人たちの家族が属している商会や組合を洗って」
「分かりました」
「誰から圧力が来たか。いつ来たか。何と言われたか。全部記録する」
「はい」
「それと――」
私は一瞬だけ迷った。
そして。
「アレクシスを呼んで」
クロエが目を丸くした。
「旦那様を?」
「ええ」
「……公爵家の権力を使うんですか?」
「違うわ」
私は首を振った。
夫の金で事業を救うつもりはない。
公爵家の権威で商人を脅して、こちらへ寝返らせるつもりもない。
それをやれば、ローゼン侯爵と同じになる。
「知りたいの」
「何を?」
私は辞職者の一覧を見る。
「この国で、女が働くことを邪魔されたとき――」
そこで初めて気づいた。
私は、この国の法律を二十年間見てきた。
貴族の財産。
相続。
領地。
婚姻。
商取引。
でも。
「働きたい女性を守る法律って、何があるのかしら」
クロエが黙った。
長い沈黙。
「……私の知る限り」
彼女が言う。
「ほとんど、ありません」
やっぱり。
私は椅子へ深く腰掛けた。
これは工房だけの問題ではない。
ローゼン侯爵を倒しても終わらない。
次のローゼン侯爵が現れれば、同じことができる。
なら。
「変えなきゃ」
「え?」
「法律を」
クロエが固まった。
「奥様」
「何?」
「さっきまで服屋の話をしてましたよね?」
「ええ」
「どうして法律を変える話になってるんです?」
「私にも分からないわ」
本当に。
三か月前の私に教えてあげたい。
あなた、服を売り始めたら法律を変えることになりますよ、と。
絶対に信じないだろう。
「でも」
私は辞職者の名簿を閉じた。
「必要なのでしょう?」
なら、やるしかない。
そのとき。
コンコン。
今度こそ、はっきりと扉が叩かれた。
「入りなさい」
扉が開く。
そこに立っていたのは――。
呼びに行かせたはずの、アレクシスだった。
「早いですわね」
「廊下で使いの者に会った」
相変わらず間がいい。
彼は部屋へ入り、机に並んだ紙へ目を落とした。
「事情は?」
「三十人の職人が辞めました」
「理由は」
「家族への圧力」
アレクシスの目が冷える。
「……なるほど」
「あなたに二つ、お願いがあります」
「言え」
私は指を一本立てた。
「ローゼン侯爵から、どこへ命令が流れたのか調べてください」
「分かった」
即答。
二本目。
「それから」
私は夫を見る。
「この国で女性が自分の名義で働き、稼ぎ、財産を持つために――何を変えなければならないのか教えてください」
アレクシスが。
初めて、少しだけ目を見開いた。
「……エレオノーラ」
「はい」
「君は服屋を始めたのではなかったか?」
「私もそのつもりでしたわ」
「そうか」
しばらく私を見る。
そして。
夫は笑った。
ほんの僅かに。
「なら、議会の地図を教えてやる」
その言葉に。
クロエが息を呑んだ。
「議会……?」
アレクシスは私の前へ椅子を引いた。
「法律を変えたいのだろう?」
「ええ」
「なら、敵はローゼン一人では済まん」
机の上へ、一枚の紙を置く。
「ここから先は――」
灰色の瞳が私を射抜いた。
「国が相手だ」
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