手放した「特別」は、誰かの宝物になった
公爵邸の門前には、今日も馬車が並んでいた。
運び込まれてくるのは、色とりどりのドレス。
最高級の絹。柔らかな綿。繊細なレース。銀糸の刺繍。真珠や貝を削ったボタン。
一度しか袖を通されず、衣装部屋の奥で眠っていた服たちが、次々と南区画の工房へ運ばれていく。
そこで職人たちの手によって縫い糸を抜かれ、装飾を外され、一枚の「布」へ戻されていく。
最初はイザベラ一人だった。
次に、茶会へ参加した令嬢たち。
新聞に小さな記事が載ると、名前を伏せたままドレスを送ってくる貴族家まで現れ始めた。
それでも――。
「足りません」
執務室で報告書を見ていたクロエが言った。
私は顔を上げる。
「まだ?」
「ええ」
机の上には、回収されたドレスの一覧が置かれている。
数だけを見れば、かなりの量になった。
だが、すべてを再利用できるわけではない。
裁断された布には縫い跡があり、傷んだ部分もある。刺繍の位置によっては使える型も限られる。
何より、一度使えば終わりだ。
「再生服だけで事業を続けることはできません」
「そうね」
「当初の四日は越えました。でも、このままでは結局、時間を買っているだけです」
分かっている。
ローゼン侯爵が押さえているのは、国内の継続的な供給網だ。
衣装部屋に眠るドレスをいくら集めても、泉のように永遠に湧いてくるわけではない。
「……でも」
私は朝刊を広げた。
社会面に、昨日南区画の工房を取材した記者の記事が掲載されている。
『衣装部屋で眠るドレスに、第二の人生を――王都で広がる再生服』
記事には、ドレスを提供した令嬢たちの言葉と、職人たちが古い礼装を丁寧にほどく様子が紹介されていた。
「時間以外にも、手に入れたものはあるわ」
「客ですか?」
「それもある」
私は記事を指で叩く。
「物語よ」
クロエが目を細める。
「一度役目を終えた服が、別の女性のための服として生まれ変わる」
貴族のお下がりではない。
古着をそのまま売るわけでもない。
一度すべてをほどき、その人の生活に合う形へ作り直す。
同じものは二つとない。
「これまで私たちが売っていたのは、服だった」
「今は違うと?」
「ええ」
私は笑った。
「選べなかった女性が、自分のために選ぶ服よ」
クロエが少し考え、口元を上げた。
「……売れますね」
「でしょう?」
「でも、奥様」
「何?」
「その顔、完全に商人ですよ」
失礼な。
私は公爵夫人である。
たぶん。
「セシリアにも一着お願いしたわ」
「もう?」
「今夜の舞台挨拶で着てくれるそうよ」
「仕事が早すぎません?」
「時間がないもの」
十二日。
その数字は変わらない。
だからこそ、一日たりとも無駄にはできなかった。
◇
その日の午後。
南区画の店舗は、久しぶりの熱気に包まれていた。
壁には、再生服が並んでいる。
元は豪華な夜会服だったとは思えないほど軽やかな形。
一人でも着られる。
動きやすい。
それでも、生地そのものが持つ美しさは残してある。
同じ色でも、襟だけ違う。
袖だけ違う。
刺繍が残っているものもある。
二つとして同じ服はない。
イザベラは、店の隅からその光景を眺めていた。
母に頼まれたわけではない。
自分のドレスがどうなったのか、見てみたくなったのだ。
少し怖くもあった。
手放してよかった。
そう思ったのは本当だ。
でも。
本当に誰かが自分のドレスを着ている姿を見たら、どう感じるのだろう。
惜しいと思うかもしれない。
嫌だと思ってしまうかもしれない。
そんな自分が、まだどこかにいる気がした。
そのときだった。
「……あ」
試着室のカーテンが開いた。
一人の女性が、おそるおそる姿を現す。
二十代半ばほどだろうか。
日に焼けた肌。
少し荒れた指先。
毎日働いていることが、一目で分かる女性だった。
その女性が着ていたのは――。
深い青色のワンピース。
イザベラの呼吸が止まった。
知っている。
あの色を。
あの絹を。
かつて自分のドレスの胸元にあった、小さな銀糸の刺繍まで残っている。
十三歳の大夜会で着たドレスだった。
初めて王城の大広間へ出た夜。
緊張して何度も母の手を握った。
王太子と初めて正式な場で踊った。
『よく似合っている』
そう言ってもらえて、一晩中嬉しかった。
――大切だった。
胸が、ちくりと痛んだ。
やっぱり。
何も感じないわけではない。
イザベラは自分の胸元を押さえた。
すると。
鏡の前に立った女性が、青いワンピースの裾を摘まんだ。
「……私じゃないみたい」
震える声だった。
店員が微笑む。
「とてもお似合いですよ」
「でも……」
女性は鏡を見たまま動かない。
「こんな色、本当に私が着てもいいんでしょうか」
イザベラの胸が、また痛んだ。
今度は違う痛みだった。
女性の声が、あまりにもかつての自分に似ていたから。
――公爵令嬢なのだから。
――王太子妃になるのだから。
――こうでなければならない。
形は違う。
でも。
この女性もまた、「自分が着ていいもの」を誰かに決められて生きてきたのだ。
気づけば、イザベラは歩き出していた。
「とても、よくお似合いですわ」
女性が振り返る。
そして目を見開いた。
「イ、イザベラ様……?」
どうやら顔を知られていたらしい。
「ご、ごめんなさい!」
突然、女性が頭を下げた。
「どうして謝るのです?」
「だって……こんな……」
青いワンピースを掴む。
「こんな上等な絹を、私みたいな人間が……」
「あなたが選んだのですか?」
「……はい」
「ご自身で働いたお金で?」
「はい」
「でしたら」
イザベラは微笑んだ。
「誰にも謝る必要はありませんわ」
女性が顔を上げる。
「でも、私……」
唇が震えた。
「ずっと、地味な服しか着たことがなくて」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちる。
「綺麗な色は、お貴族様が着るものだって。私なんかが着たら笑われるって、母にも言われて……」
「……」
「だから、服なんて寒くなければ何でもいいと思っていました」
女性が鏡を見る。
青い絹に触れる。
「でも」
その目から。
一粒、涙が落ちた。
「この服を着て……」
イザベラは黙って待った。
「初めて、自分が綺麗だと思えました」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
イザベラは青いワンピースを見る。
かつては自分だけのものだった。
王太子に褒めてもらった、大切な思い出だった。
それを失うのが怖かった。
今だって、少し寂しい。
でも。
なくなったわけではなかった。
形を変えて。
目の前の女性を笑顔にしている。
自分が手放したものが。
誰かの人生で、新しい意味を持っている。
「……そう」
イザベラの目にも涙が浮かんだ。
「では」
そっとスカートの端を摘む。
「胸を張ってくださいませ」
女性が目を瞬く。
「あなたは、その服を自分で選んだのでしょう?」
「……はい」
「ならば、堂々と着ればよろしいのです」
イザベラは微笑んだ。
「とても綺麗ですわ」
女性の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
イザベラも。
ゆっくりとスカートの端を摘んだ。
そして――。
公爵令嬢として叩き込まれた、完璧なカーテシーをした。
女性が慌てる。
「そ、そんな! 私なんかに!」
「『私なんか』は、禁止ですわ」
「え?」
「今、決めました」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「少なくとも、その服を着ている間は」
女性が。
泣きながら笑った。
見よう見まねで、不格好な礼を返す。
イザベラも笑った。
その瞬間。
十三歳の夜会で王太子から褒められたときとは、まったく違う温かさが胸を満たした。
誰かに選ばれたからではない。
誰かより上に立ったからでもない。
自分が選んだことで、誰かが笑った。
ただ、それだけ。
なのに。
こんなにも嬉しい。
(……お母様)
まだ怖いことはある。
殿下のことだって、考えれば胸が苦しくなる。
リリアナを見れば、きっとまた嫉妬する日もあるだろう。
十五年間信じてきたものを、全部捨てられたわけではない。
でも。
一つだけ分かった。
(誰かが綺麗になっても――)
自分が消えるわけではない。
その日、イザベラは初めて。
誰かに譲ったものを、惜しいと思いながら――。
それでも、手放してよかったと心から思えた。
◇
同じ日の夜。
王都ローゼン侯爵邸。
「……再生服?」
ローゼン侯爵が新聞を机へ置いた。
記事には、南区画の店へ並ぶ女性たち。
その中央には、再生されたドレスを着たセシリア・ベルの姿がある。
「はい」
報告に来た男が頭を下げる。
「公爵令嬢たちから提供された古い礼装を解体し、新しい服へ仕立て直しているようです」
「どれほど持つ」
「現在確認できている量では……長くとも十数日かと」
ローゼン侯爵は黙った。
失敗ではない。
供給網はまだ押さえている。
放っておけば、いずれ布は尽きる。
それなのに。
侯爵の表情は険しかった。
「……面倒な女だ」
布を止めれば、古い服を商品にする。
監査を入れれば、監査そのものを公開する。
攻撃するたびに。
あの女は、それを別の価値へ変えてしまう。
「侯爵様。このまま待てば、いずれ――」
「待たん」
低い声だった。
「え?」
「十日もあれば、人の心は動く」
新聞を見る。
記事の中心にいるのは、エレオノーラではない。
若い令嬢たちだ。
そこが厄介だった。
これはもう、一人の公爵夫人の道楽ではない。
「……なるほど」
ローゼン侯爵が呟いた。
「布を止めるだけでは足りんか」
ゆっくりと立ち上がる。
「では次は――」
窓の外。
夜の王都を見る。
「服を作る人間を、いなくしてやればいい」
翌朝。
南区画の工房で――。
三人の縫い子が、姿を消した。
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