わたくしも、同じことを考えておりました
翌日の午後。
クライス公爵邸のサロンには、王都の有力貴族の令嬢たちが十数名集まっていた。
テーブルには焼き菓子と紅茶。
窓辺には秋の花。
表面だけを見れば、ごく普通の令嬢たちのお茶会だ。
ただ一つ違うのは――。
「皆様。本日は、一つお願いがあってお集まりいただきましたの」
主催者であるイザベラの足元に、何着ものドレスが置かれていることだった。
私も同席しようとしたのだが、娘に断られた。
『これは、わたくしにやらせてください』
だから私はサロンに隣接した温室にいた。
扉は僅かに開いている。
何かあればすぐ出られる距離。
……過保護?
母親とはそういうものである。
「お願い?」
一人の令嬢が首を傾げる。
イザベラは頷いた。
「皆様のお屋敷にある、もうお召しにならないドレスを譲っていただきたいのです」
紅茶のカップを置く音が、妙に大きく響いた。
「……ドレスを?」
「ええ」
「何になさいますの?」
イザベラは一瞬も躊躇わなかった。
「ほどきます」
沈黙。
「……はい?」
「ドレスを一度解体して、生地、レース、ボタンなど使える部分を取り出します。それを南区画の工房で、新しい服へ仕立て直すのです」
まだ誰も理解していない。
イザベラが続ける。
「主に、働く平民の女性たちが着られる服へ」
空気が変わった。
最初に反応したのは、マーガレット伯爵令嬢だった。
ローゼン侯爵家と親しい家の娘で、社交界でも保守的な考えを隠さない少女だ。
「……つまり」
扇が開く。
「わたくしたちのドレスを、平民に着せるということですの?」
「そのまま着せるのではありません。一度ほどいて――」
「同じことでしょう!」
鋭い声が飛んだ。
何人かの令嬢が頷く。
「イザベラ様。クライス公爵家が南区画で変わった商売を始められたことは存じておりますわ」
マーガレットが扇越しにイザベラを見る。
「ですが、わたくしたちまで巻き込まないでいただけます?」
「……」
「貴族のドレスですよ?」
「ええ」
「最高級の絹も、レースも、刺繍も。それを平民の服にするなんて」
別の令嬢も口を開いた。
「わたくしも抵抗がありますわ」
「同じ布を平民が着るなんて……」
「それでは、貴族と平民の違いがなくなってしまうのではなくて?」
次々と声が上がる。
「そもそも平民に、そんな上等なものが必要なの?」
その言葉に。
イザベラの指先が僅かに動いた。
私は見逃さなかった。
怒ったのではない。
傷ついたのでもない。
おそらく――。
思い当たったのだ。
自分も、同じだったと。
「……分かります」
静かな声だった。
令嬢たちが黙る。
「皆様のおっしゃること、よく分かりますわ」
マーガレットが怪訝そうな顔をした。
「でしたら――」
「わたくしも、同じことを考えておりましたから」
空気が止まった。
「……イザベラ様が?」
「ええ」
イザベラは笑わなかった。
取り繕いもしなかった。
「平民の女性が貴族のような服を着るなんて、身分不相応だと思っていました」
私は黙って娘を見る。
「平民まで美しく着飾れるようになったら、わたくしたち貴族の特別さがなくなってしまうのではないかと」
そこで一度、言葉が止まる。
「……怖かったのです」
何人かの令嬢が顔を上げた。
「怖い?」
「ええ」
イザベラは自分の胸へ手を置いた。
「わたくしはずっと、公爵令嬢だから価値があるのだと思っていました。誰より美しいドレスを着て、誰より正しく振る舞って、失敗せず、王太子殿下の隣に相応しい令嬢でいなければならないと」
そこまで言って。
僅かに目を伏せる。
「そうでなければ、わたくしには何も残らないのではないかと」
誰も笑わなかった。
笑えるはずがない。
ここにいる少女たちも、多かれ少なかれ同じ世界で育ってきたのだから。
「でも、最近」
イザベラが続ける。
「少しだけ、違うのかもしれないと思うようになりました」
少しだけ。
その言葉に、私は胸の奥が温かくなった。
そう。
それでいい。
十五年間信じてきたものを、数日ですべて捨てる必要などない。
「わたくしは三か国語を学びました。歴史も、法律も、外交儀礼も勉強しました」
令嬢たちを見る。
「皆様もそうでしょう?」
誰かが小さく頷いた。
「領地について学んでいる方もいる。音楽を学んでいる方も、慈善院を手伝っている方もいる。将来、家を支えるために会計を学んでいる方も」
マーガレットを見る。
「マーガレット様は、昨年の洪水の際、ご実家の領地で避難所の食料配給を手伝われたそうですわね」
「……どうして、それを」
「存じておりますわ」
イザベラは微笑んだ。
「素晴らしいことだと思いましたもの」
マーガレットが黙る。
「それらは全部」
イザベラが自分のドレスへ手を置いた。
「このドレスを脱いだら、なくなるものなのでしょうか?」
誰も答えなかった。
「平民の女性が同じ絹を身につけたら、マーガレット様が洪水のときに助けた人たちの数が減るのでしょうか?」
「……いいえ」
小さな返事だった。
「わたくしが覚えた外国語を、忘れるのでしょうか?」
沈黙。
「だったら」
イザベラは言った。
「少なくとも、わたくしたちの価値のすべてが、ドレスにあるわけではないと思うのです」
――上手い。
いや。
違う。
これは交渉術ではない。
この子自身が、ようやく見つけ始めた答えなのだ。
「それに」
イザベラは足元の青いドレスを持ち上げた。
「これは、わたくしが十三歳のときに着たものです」
「あら……覚えていますわ」
一人の令嬢が言った。
「王城の大夜会でお召しになった」
「ええ」
イザベラの指が絹を撫でる。
「大好きなドレスでした」
声に僅かな寂しさが混じった。
「でも、もう着られません」
成長して寸法も合わない。
流行も変わった。
「このままなら、衣装部屋の奥で朽ちていくだけです」
そこでマーガレットを見る。
「マーガレット様」
「……何ですの?」
「春の夜会でお召しになっていた、青いドレスを覚えています」
マーガレットの表情が僅かに緩む。
「あれは王都で一番の職人に仕立てさせましたの」
「とても素敵でした」
「……当然ですわ」
「もう一度、お召しになります?」
マーガレットの口が止まった。
「……着ませんわ」
「なぜ?」
「一度大きな夜会で着たものを、もう一度着るなんて……」
そこで言葉が途切れた。
イザベラは責めなかった。
「でしたら」
優しく言う。
「もう一度だけ、誰かに着てもらいませんか?」
マーガレットが目を瞬く。
「そのままではありません。ほどいて、新しい形にして」
「……」
「マーガレット様が選んだ美しい青い絹が、今度は働く誰かの一番好きな服になるかもしれません」
イザベラは笑った。
「わたくしは、それも素敵だと思うようになったのです」
長い沈黙。
私は息をするのも忘れていた。
やがて。
「……わたくしは嫌ですわ」
一人の令嬢が立ち上がった。
空気が張り詰める。
「申し訳ありません、イザベラ様。どうしても……自分のドレスを平民が身につけることには抵抗があります」
イザベラはその少女を見る。
そして。
「分かりました」
それだけだった。
「……よろしいの?」
「もちろんです。無理にお願いするつもりはありませんもの」
「でも」
「これは皆様ご自身のドレスです。どうするかを決めるのも、皆様ですわ」
少女は戸惑いながら一礼し、サロンを出ていった。
その背中を、誰も責めなかった。
私は小さく息を吐く。
よかった。
ここで娘が「正しいことなのだから従え」と言えば、結局それは別の押しつけになってしまう。
「……わたくしも」
今度は別の令嬢だった。
「まだ、全部は納得できません」
「ええ」
「でも……着ないドレスがあるのは本当です」
少し考える。
「一着だけなら」
「ありがとうございます」
そして。
「……仕方ありませんわね」
マーガレットが扇を閉じた。
「マーガレット様?」
「勘違いなさらないで」
頬が少し赤い。
「平民のためではありませんわ」
「では?」
「まだ着られる絹を腐らせるなど、貴族としてあまりに無駄だと思っただけです」
「ええ」
イザベラが笑う。
「それで十分ですわ」
「それに」
マーガレットがぼそりと言った。
「……イザベラ様のドレスだけが新しい服になるのも、少し癪ですもの」
何人かが吹き出した。
「でしたら、わたくしも!」
「私も一着くらいなら」
「うちには姉のものもありますわ。聞いてみます」
次々と声が上がる。
全員ではない。
十数人のうち、はっきり協力すると答えたのは半分ほど。
それでも――十分だった。
「ありがとうございます」
イザベラが頭を下げた。
公爵令嬢が。
同年代の令嬢たちへ。
深く。
「大切に使わせていただきます」
その姿を見ながら、私は気づいた。
娘は、勝ったのではない。
誰かを論破したわけでもない。
ただ。
自分が変わり始めた姿を見せた。
だから、何人かが一緒に一歩を踏み出してくれたのだ。
◇
お茶会が終わったあと。
私はようやくサロンへ入った。
「お母様」
イザベラがこちらを見る。
「聞いていらしたのですね」
「ええ」
「……最初から?」
「最初から」
「まあ!」
「ごめんなさい。心配だったの」
「もう」
頬を膨らませる。
まだ十五歳の少女だった。
それが、妙に嬉しかった。
「でも、すごかったわ」
「……本当ですか?」
「ええ」
「お母様なら、もっと上手に説得できたと思います」
「いいえ」
私は首を振った。
「私では駄目だった」
「どうして?」
「私はもう三十八歳の公爵夫人だもの」
同じことを言っても、説教になる。
でもイザベラなら違う。
同じ価値観の中で育った十五歳の少女が、自分も怖かったと認めたから届いた。
「あなたにしかできない仕事だったわ」
娘の顔が。
ぱっと輝いた。
「……はい!」
その日の夕方。
最初の荷馬車がクライス公爵邸へ到着した。
積まれていたのは、十二着のドレス。
翌朝には、さらに八着。
昼には五着。
中には、手紙だけを添えて匿名で送られてきたものまであった。
『名前は出さないでください。でも、娘が一度しか着ていないものです。捨てるよりは、誰かに使っていただければ』
小さな変化だった。
王都全体から見れば、ほんの僅かな量だ。
ローゼン侯爵が築いた供給網の封鎖を破ったわけでもない。
これだけで今後何年も服を作り続けられるわけでもない。
それでも。
「奥様!」
工房から戻ったクロエが、珍しく走って執務室へ入ってきた。
「計算できました!」
「どのくらい持つ?」
クロエが紙を机へ置く。
「傷んだ部分を除いて、使える生地を全部再利用すれば――」
指で数字を示す。
「四日は越えられます」
私は息を吐いた。
「どのくらい?」
クロエが笑った。
「今のところ、十二日」
十二日。
たった十二日。
でも。
昨日まで、私たちには四日しかなかった。
「それに」
クロエが続ける。
「まだドレスは届いています」
窓の外を見る。
ちょうど門をくぐってきた馬車から、新しい箱が降ろされていた。
一箱。
また一箱。
古いドレスが運び込まれてくる。
「……面白くなってきたわね」
「はい?」
「ローゼン侯爵は、新しい布を止めた」
「ええ」
「でも」
私は届いたドレスを見る。
「王都には、もう布が溢れていたのよ」
ただ。
衣装部屋の中で眠っていただけ。
その日の午後から、南区画の工房では奇妙な作業が始まった。
完成された豪華なドレスを。
職人たちが、一着ずつ丁寧にほどいていく。
縫い糸を抜き。
レースを外し。
ボタンを取り。
絹を一枚の布へ戻していく。
それはまるで。
この国が何百年もかけて縫い上げてきた「身分」という服を、一本ずつほどいているように見えた。
そして翌朝。
王都の新聞に、小さな記事が載った。
『公爵令嬢たち、着なくなったドレスを南区画へ提供』
その記事には、イザベラのこんな言葉が添えられていた。
『捨てるくらいなら、誰かのお気に入りになった方が、ドレスも幸せでしょう?』
その日から。
クライス公爵邸の門前には――。
昨日までとは比べものにならない数の馬車が、並び始めた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




