お母様。私のドレスをほどいてください
「お母様。私のドレスを売ってください」
執務室の扉が開くなり、イザベラはそう言った。
私は手にしていたペンを止めた。
娘の腕には、一着のドレスが抱えられている。
淡い青の絹に銀糸の刺繍。王城の夜会で一度だけ袖を通した、最高級の礼装だ。
その後ろには侍女たちが並び、それぞれ何着ものドレスを抱えていた。
「……イザベラ?」
「全部、私のものです」
娘は少し緊張した顔で、それでも真っ直ぐ私を見た。
「売ってください」
どうやら、昨日の話をどこかで聞いていたらしい。
私は小さく息を吐いた。
「気持ちは嬉しいわ」
「では――」
「でも、駄目」
イザベラの表情が固まった。
「どうしてですか?」
「これはあなたの財産よ」
私は立ち上がった。
「私の事業が苦しいからといって、娘の財産を取り上げて穴埋めするわけにはいかないでしょう?」
「でも、お母様だってご自分の財産を――」
「……聞いていたのね?」
しまった、という顔をした。
分かりやすい。
「申し訳ありません。盗み聞きをするつもりでは……」
「怒っていないわ」
私は苦笑した。
「それに、あなたのお父様にも同じことを言われたところよ。経営者だけがすべてを犠牲にしていいわけではない、と」
「でしたら」
「だからこそ、あなたにも同じことをするつもりはないの」
私は娘が抱えるドレスへ触れた。
柔らかな絹。
細かな銀糸。
職人が何日もかけて縫い上げた刺繍。
「それに、あなたにとってドレスは単なる服ではないでしょう?」
イザベラが黙る。
「公爵令嬢として人前へ立つための鎧だった」
かつての娘なら、それを当然だと答えただろう。
公爵令嬢には公爵令嬢に相応しい装いがある。
平民とは違う。
自分は特別なのだから、と。
「だから、気持ちだけいただくわ」
そう言って背を向けようとした。
「違います」
声がした。
「え?」
「お金にするのではありません」
イザベラはドレスをソファへ置いた。
「服を、服にするのです」
意味が分からず、娘を見る。
イザベラはドレスの裾を大きく広げた。
「このドレスには、こんなに布が使われています」
幾重にも重なるスカート。
長い裾。
装飾のためだけに使われたレース。
背中には大きなリボン。
「ローゼン侯爵たちは、新しい布を買えないようにしたのでしょう?」
「ええ」
「でしたら」
娘の指が、絹の表面を撫でる。
「すでにある布を使えばいいのではありませんか?」
私は息を止めた。
「……イザベラ」
「私の衣装部屋には、ほとんど着ていないドレスが何十着もあります」
一度しか着ていないもの。
流行が変わったもの。
季節が合わなくなったもの。
成長して寸法が合わなくなったもの。
公爵令嬢として「必要だから」と作られ、役目を終えた途端に衣装部屋へ押し込められた服たち。
「全部ほどけば……」
イザベラが私を見る。
「何着分の服になりますか?」
頭の中で計算する。
ドレス一着に使われている布量は、私たちが売っている簡素な服とは比較にならない。
装飾部分を除いても相当量が取れる。
しかも素材は最高級。
「……何着どころではないわ」
思わず呟いた。
ただし問題もある。
裁断済みの布だから、すべてをそのまま再利用できるわけではない。
染色や傷み、縫い跡もある。
だが――使える。
少なくとも、何もしないより遥かに多くの服を作れる。
「でも」
私は娘を見る。
「本当にいいの?」
「はい」
答えは早かった。
早すぎた。
だから、もう一度聞く。
「本当に?」
イザベラの唇が止まった。
「……」
やはり。
私は何も言わずに待った。
やがて娘が、青いドレスへ視線を落とした。
「……少し」
小さな声だった。
「少しだけ、惜しいです」
胸が締めつけられる。
「このドレス……好きでした」
「ええ」
「初めて王城の大夜会に出たとき、お母様が選んでくださったものだから」
覚えている。
十三歳だった。
緊張で朝から何も食べられなくなった娘を宥めながら、一緒に選んだ。
「綺麗だと言っていただけて、嬉しかった」
イザベラが笑った。
少し寂しそうに。
「だから、捨てるのは嫌です」
「なら――」
「でも」
娘が顔を上げる。
「捨てるわけではないのでしょう?」
私は黙った。
「別の服になる」
「……ええ」
「別の誰かが着てくれる」
「そうね」
「その人が、その服を着て嬉しいと思ってくれるかもしれない」
「ええ」
イザベラはもう一度、ドレスを見た。
そして。
「だったら、その方がいいです」
今度の声には迷いがなかった。
「お母様が教えてくださったではありませんか」
「私が?」
「誰かが美しい服を着ても、私の価値が減るわけではないと」
あの日の言葉。
覚えていたのか。
「まだ……全部分かったとは言えません」
イザベラが正直に言った。
「今でも、殿下がリリアナ様と笑っているのを見ると苦しいですし、平民の女性が私と同じものを持つことに、何も感じないと言えば嘘になります」
それでいい。
十五年間かけて覚えた価値観が、数日で全部消える方がおかしい。
「でも」
娘は胸へ手を当てた。
「前よりは、分かるようになりました」
「何が?」
「私が三か国語を話せることも。歴史を学んだことも。礼儀作法を身につけたことも」
少し照れたように笑う。
「全部、ここに残っています」
胸を指した。
「ドレスをほどいても、なくなりません」
――ああ。
危ない。
泣きそうだ。
「だから」
イザベラは青いドレスを私へ差し出した。
「お母様」
「……何?」
「私のドレスを、ほどいてください」
その言葉は。
ただ布をほどいてほしいという意味には聞こえなかった。
十五年間、娘を縛ってきたもの。
公爵令嬢なのだから。
王太子妃になるのだから。
平民とは違うのだから。
完璧でなければならない。
そんな無数の糸を――。
自分の手でほどこうとしている。
私はドレスを受け取った。
「分かったわ」
声が少し震えた。
「預からせてもらいます」
イザベラの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「でも、一つだけ」
「はい?」
「これは寄付ではありません」
娘が瞬く。
「事業へ提供する資材として、正式に買い取ります」
「お母様!」
「駄目です」
「でも私は――」
「あなた自身が言ったでしょう? これはあなたの財産だと」
「……」
「娘だからといって、無償で取り上げるつもりはありません」
私は微笑んだ。
「商売ですもの」
数秒。
イザベラも笑った。
「……分かりました」
「交渉成立ね」
そのときだった。
「ちょっと待ってください」
扉のところから声がした。
クロエだ。
いつからいたのだろう。
「聞いていたの?」
「最後の方だけです」
部屋へ入り、ソファのドレスを持ち上げる。
裏返し。
縫い目を見る。
裾を見る。
完全に商人の目だ。
「使えます」
「でしょう?」
「ただし、全部じゃない」
やはり。
「縫い跡が残る部分もありますし、裁断済みです。大きな型は取れない。刺繍の位置も邪魔になる」
「小さなパーツへ使えば?」
「いけます。襟、袖、切り替え、装飾……組み合わせればかなり作れる」
クロエの目が輝き始めた。
「それに」
「何?」
「面白いですよ、これ」
ドレスを広げる。
「王都の女性が憧れていた貴族のドレスを、解体して新しい服にする」
商人の顔になった。
「同じものは二度と作れない」
「……一点物」
私が呟く。
「ええ」
クロエが笑った。
「普通の既製服より、高く売れます」
「駄目よ」
「え?」
「高級品だけにしたら意味がないでしょう」
私はドレスを見る。
「一着のドレスから、できるだけ多くの人が着られる服を作る」
少し考える。
「ただし、端切れも捨てない」
「端切れ?」
「襟飾り。リボン。小物。髪飾り」
クロエが指を折る。
「なるほど」
「全部使うの」
一枚のドレスを、最後の一片まで。
貴族の衣装部屋で眠っていた布を、王都の女性たちの手へ戻す。
「……いける」
クロエが呟いた。
「少なくとも、時間は稼げます」
そう。
解決ではない。
イザベラの衣装だけで、今後ずっと続く生産を支えられるわけではない。
でも。
「四日は越えられる?」
「やってみます」
「違うわ」
クロエを見る。
「越えるのよ」
「……はい」
笑った。
そのとき。
「でも」
イザベラが呟いた。
私たちは娘を見る。
「私のドレスだけでは、足りないのでしょう?」
「ええ」
正直に答えた。
イザベラは考え込んだ。
「だったら」
「何?」
「集めればいいのではありませんか?」
「……どこから?」
イザベラが不思議そうに首を傾げた。
「皆様のお屋敷からです」
私とクロエは同時に固まった。
「私だけではありません」
イザベラが言う。
「貴族の令嬢なら、誰でも同じですわ。毎年新しいドレスを作って、少し流行が変わっただけで着なくなる」
確かに。
「衣装部屋に何十着も眠らせているのは、私だけではありません」
「でも、皆が譲ってくれるかしら」
「分かりません」
イザベラは即答した。
「だから、私がお願いします」
「あなたが?」
「はい」
娘が胸を張る。
「これは、お母様の事業でしょう?」
「ええ」
「でも」
少しだけ笑った。
「最初にドレスを出したのは、私です」
その表情は。
私が知っていた『悪役令嬢』のものではなかった。
ましてや、誰かに守られるだけの少女のものでもない。
「でしたら」
イザベラは言った。
「次は、私の仕事ですわ」
その日の午後。
王都の貴族令嬢たちのもとへ、一通ずつ手紙が届けられた。
差出人は――。
イザベラ・クライス。
そして翌朝。
王都の社交界を、誰も予想しなかった一つの言葉が駆け巡ることになる。
――『ドレスを、ほどきませんか?』
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