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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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13/31

「金なら出す」「ダメです」

生地が尽きるまで、あと三日。

新規注文の受付を停止した南区画の店舗は、数日前までの熱気が嘘のように静まり返っていた。

客がいないわけではない。

今日も何人もの女性が店を訪れ、入口に掲げられた『新規注文受付停止』の札を見て、残念そうに帰っていく。

売れる。

欲しい人もいる。

作る職人もいる。

なのに――布だけがない。

「……奥様。このままでは、今月末には運転資金が尽きます」

公爵邸の執務室。

クロエが帳簿から顔を上げた。

いつもの勝ち気な表情はない。

「現在受けている注文を納品すれば、まとまった売上は入ります。ただ、その後がありません。布が入らない以上、新しい服を作れない。売上が止まっても、職人の賃金、店舗の賃料、工房の維持費は毎日出ていきます」

「ええ」

分かっている。

分かっているからこそ、数字を見るのが怖い。

「そこで」

クロエが一度、目を伏せた。

「一つ、提案があります」

嫌な予感がした。

「言って」

「職人の日当を、一時的に二割下げます」

私は黙った。

「もちろん、事業が回復した時点で差額は補填します。今だけです」

クロエが早口になる。

「人件費を二割削れば、少なくとも一月は延命できます。その間に国外の仕入れ先を探す。あるいはローゼン侯爵の包囲網を崩す方法を――」

「却下よ」

クロエが顔を上げた。

「奥様!」

「駄目」

「ですが、綺麗事で店は守れません!」

「分かっているわ」

「いいえ!」

珍しく、クロエが私に声を荒らげた。

「分かっていません! 商売は金が尽きれば終わりです! 理念も理想も、店が潰れれば何の意味もない!」

正しい。

悔しいほど正しい。

だから私は怒らなかった。

「クロエ」

「……はい」

「あなた、本当に賃金を下げたい?」

「それは……」

答えられなかった。

「縫い子たちに、自分で言える?」

クロエの拳が震える。

「『貴族に布を止められて苦しくなったから、あなたたちの給料を減らします』って」

「……言えません」

小さな声だった。

「でも」

顔を上げる。

「誰かが言わなければ、全員が仕事を失います」

ああ。

この人は。

自分が嫌われる役を引き受けようとしていたのだ。

私は席を立った。

クロエの前まで歩き、その冷えた手を取る。

「ありがとう」

「……何がです?」

「私の代わりに、嫌なことを言おうとしてくれたでしょう?」

クロエの目が揺れた。

「でも、駄目」

「奥様……」

「女性が自分で稼いで生きられる社会を作ると言っておいて」

私は彼女の手を握る。

「苦しくなった最初の日に、女性の賃金を削るの?」

「……」

「それでは、私たちが変えようとしている人たちと同じよ」

「でも、お金がなければ――」

「分かっている」

私は頷いた。

「だから、別のものを削る」

「何を?」

「私のお金よ」

クロエが目を見開いた。

◇

クロエを帰したあと、私は自室で一人、資産目録を広げていた。

公爵家の財産ではない。

結婚の際に持参した資産。

実家から相続したもの。

この二十年、私個人の名義で運用してきた資金。

これなら使える。

「ここを処分して……こちらの債券も現金化すれば……」

計算する。

「……足りない」

もう一度。

「ここまで崩せば……」

駄目。

「……計算が合わないわね」

現在の雇用を維持するだけなら、しばらく耐えられる。

でも、それだけだ。

布は増えない。

売る商品も増えない。

資産を食い潰しながら、死ぬ日を先延ばしにしているだけ。

「……困ったわね」

「金なら出す」

「ひゃっ!?」

思わず変な声が出た。

顔を上げる。

アレクシスがいた。

「あなた!」

「何だ」

「いつからそこに!?」

「少し前から」

「ノックしてくださいませ!」

「した」

「嘘」

「三回した」

……本当に?

「君が『計算が合わない』と呟きながら数字と睨み合っていたから、気づかなかっただけだ」

恥ずかしい。

アレクシスは私の向かいへ腰を下ろした。

「状況は聞いている」

「クロエから?」

「いや。私には私の情報網がある」

でしょうね。

「ローゼンは王都だけでなく、地方の織物組合にも圧力をかけたらしいな」

「ええ」

「職人の賃金を削る案も拒否した」

「……そこまで?」

「クロエ会長が帰り際に『あの人は馬鹿です』と言っていた」

「まあ」

「そのあと、『だから一緒にやっているんですけどね』とも言っていた」

思わず笑ってしまった。

まったく。

いい共同経営者を持ったものだ。

「それで?」

アレクシスが資産目録を指差す。

「今度は自分の財産を食い潰すつもりか」

「食い潰すとは人聞きの悪い」

「違うのか?」

「……投資です」

「利益の見込みが立たないものへ際限なく金を入れるのは、投資とは言わん」

痛い。

「では何と?」

「意地だ」

もっと痛い。

「金なら私が出す」

「……」

「必要な額を言え。私個人の資産から貸す」

即答だった。

「利息が必要なら取る。契約書も作る。返済期限も決めればいい」

なるほど。

単なる援助ではなく、融資という形にするつもりか。

相変わらず抜け目がない。

それなら、事業会計と公爵家の資産も分離できる。

理屈としては完璧だ。

それでも。

「駄目です」

「なぜだ」

「ここであなたのお金に頼れば、相手の思う壺です」

アレクシスの眉が僅かに動く。

「説明しろ」

「私たちは、『女性が自分で働き、自分で稼ぎ、自分で選べる』という市場を作ろうとしている」

「知っている」

「その事業が危機に陥った途端、筆頭公爵である夫の財産で生き延びたら?」

「……」

「ローゼン侯爵は喜ぶでしょうね。『結局、公爵夫人のお遊びだった。夫の金がなければ何もできない』と」

アレクシスは黙った。

「だから嫌なのです」

「意地ではないと?」

「誇りです」

「同じようなものだ」

「違います」

「君にとっては、だろう」

腹が立つ。

でも。

少しだけ笑ってしまった。

「本当に可愛げがないな」

「あら」

私は眉を上げた。

「二十年前に気づいてくださいませ」

「……そうだな」

意外にも、素直に認めた。

「私も随分と見る目がなかったらしい」

「まあ」

「これほど面白い女を妻にしておきながら、二十年もろくに話さなかった」

心臓が。

一度だけ、大きく鳴った。

「……今さらですわ」

「ああ」

「遅すぎます」

「それも認める」

ずるい。

そんなふうに素直に言われると、怒れないではないか。

アレクシスが資産目録へ目を落とした。

「だが、一つだけ約束しろ」

「何でしょう」

「自分の財産をすべて注ぎ込むな」

「でも」

「君は今、職人たちに言ったのだろう?」

灰色の瞳が私を見る。

「生活を犠牲にしてまで、この事業を守らせないと」

言葉に詰まった。

「……」

「ならば経営者である君だけが、すべてを犠牲にしていい理由もない」

完全に一本取られた。

「……卑怯ですわ」

「何が?」

「私の言葉を使うなんて」

「使えるものは使う。政治の基本だ」

この男は。

「分かりました」

渋々、資産目録を閉じる。

「全部は使いません」

「よろしい」

「子供扱いしないでくださいませ」

「していない」

アレクシスが立ち上がる。

「金も出さん」

「ええ」

「君がそう望むならな」

扉へ向かう。

その背中を見ながら、ふと不安になった。

「あなた」

「何だ」

「本当に、それだけ?」

アレクシスが振り返る。

「私に黙ってローゼン侯爵家を潰したりしません?」

「……」

「なぜ黙るのです?」

「潰しはしない」

「『は』?」

「政治は私の領分だと言っただろう」

嫌な予感しかしない。

「君は商売を続けろ」

「アレクシス」

「顔を上げて前だけを見ていればいい」

声から冗談が消えた。

「君が表で戦うなら、背中くらいは私が守る」

「……」

「泥を被る役目は、二十年政治をやっている男の方が上手い」

その言葉に。

胸の奥が、少しだけ熱くなった。

「……ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早い」

扉へ手を掛ける。

「それと、エレオノーラ」

「はい?」

「答えが見つからないなら、今日は寝ろ」

「……」

「三時間同じ数字を見ても、布は増えん」

「分かっています!」

「ならいい」

扉が閉まった。

本当に。

腹の立つ夫である。

でも――。

一人ではない。

そう思えるだけで、随分と違った。

私は再び机を見る。

残された時間は三日。

資金を入れたところで、布そのものがなければ意味がない。

国外から仕入れるには時間が足りない。

国内の主要な織物組合は押さえられている。

どうする?

どうすれば――。

答えは、まだ出なかった。

◇

その頃。

執務室の扉から少し離れた廊下に、一人の少女が立っていた。

イザベラだった。

母へ届けるつもりだった茶器を、両手で抱えている。

来客中だと分かり、声を掛けずに待っていただけだった。

盗み聞きをするつもりなどなかった。

けれど。

聞こえてしまった。

『職人の賃金を削る案も拒否した』

『自分の財産を食い潰すつもりか』

『あと三日』

イザベラは、閉じた扉を見つめた。

母が。

あの母が。

自分のために国を変えようとしていることは、もう知っている。

平民の女性たちのために店を作り。

貴族たちを敵に回し。

今度は、自分の財産まで失おうとしている。

「……お母様」

胸が痛んだ。

何かしたい。

でも。

十五歳の自分に何ができる?

政治は分からない。

商売も分からない。

お金だって、母ほど持っていない。

自分にあるものなんて――。

そこまで考えて。

イザベラは、自分が抱えている茶器へ目を落とした。

そして。

ふと、顔を上げた。

視線の先。

廊下の向こうには、自分の部屋がある。

その奥には。

公爵令嬢として十五年間与えられ続けた、大きな衣装部屋がある。

何十着ものドレス。

ほとんど使っていない礼装。

流行が過ぎただけで袖を通さなくなった服。

高価な絹。

レース。

刺繍。

宝石のようなボタン。

イザベラの目が、大きく見開かれた。

「……ある」

小さく呟いた。

「布なら――」

少女は茶器を抱えたまま、自室へ向かって駆け出した。

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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