「金なら出す」「ダメです」
生地が尽きるまで、あと三日。
新規注文の受付を停止した南区画の店舗は、数日前までの熱気が嘘のように静まり返っていた。
客がいないわけではない。
今日も何人もの女性が店を訪れ、入口に掲げられた『新規注文受付停止』の札を見て、残念そうに帰っていく。
売れる。
欲しい人もいる。
作る職人もいる。
なのに――布だけがない。
「……奥様。このままでは、今月末には運転資金が尽きます」
公爵邸の執務室。
クロエが帳簿から顔を上げた。
いつもの勝ち気な表情はない。
「現在受けている注文を納品すれば、まとまった売上は入ります。ただ、その後がありません。布が入らない以上、新しい服を作れない。売上が止まっても、職人の賃金、店舗の賃料、工房の維持費は毎日出ていきます」
「ええ」
分かっている。
分かっているからこそ、数字を見るのが怖い。
「そこで」
クロエが一度、目を伏せた。
「一つ、提案があります」
嫌な予感がした。
「言って」
「職人の日当を、一時的に二割下げます」
私は黙った。
「もちろん、事業が回復した時点で差額は補填します。今だけです」
クロエが早口になる。
「人件費を二割削れば、少なくとも一月は延命できます。その間に国外の仕入れ先を探す。あるいはローゼン侯爵の包囲網を崩す方法を――」
「却下よ」
クロエが顔を上げた。
「奥様!」
「駄目」
「ですが、綺麗事で店は守れません!」
「分かっているわ」
「いいえ!」
珍しく、クロエが私に声を荒らげた。
「分かっていません! 商売は金が尽きれば終わりです! 理念も理想も、店が潰れれば何の意味もない!」
正しい。
悔しいほど正しい。
だから私は怒らなかった。
「クロエ」
「……はい」
「あなた、本当に賃金を下げたい?」
「それは……」
答えられなかった。
「縫い子たちに、自分で言える?」
クロエの拳が震える。
「『貴族に布を止められて苦しくなったから、あなたたちの給料を減らします』って」
「……言えません」
小さな声だった。
「でも」
顔を上げる。
「誰かが言わなければ、全員が仕事を失います」
ああ。
この人は。
自分が嫌われる役を引き受けようとしていたのだ。
私は席を立った。
クロエの前まで歩き、その冷えた手を取る。
「ありがとう」
「……何がです?」
「私の代わりに、嫌なことを言おうとしてくれたでしょう?」
クロエの目が揺れた。
「でも、駄目」
「奥様……」
「女性が自分で稼いで生きられる社会を作ると言っておいて」
私は彼女の手を握る。
「苦しくなった最初の日に、女性の賃金を削るの?」
「……」
「それでは、私たちが変えようとしている人たちと同じよ」
「でも、お金がなければ――」
「分かっている」
私は頷いた。
「だから、別のものを削る」
「何を?」
「私のお金よ」
クロエが目を見開いた。
◇
クロエを帰したあと、私は自室で一人、資産目録を広げていた。
公爵家の財産ではない。
結婚の際に持参した資産。
実家から相続したもの。
この二十年、私個人の名義で運用してきた資金。
これなら使える。
「ここを処分して……こちらの債券も現金化すれば……」
計算する。
「……足りない」
もう一度。
「ここまで崩せば……」
駄目。
「……計算が合わないわね」
現在の雇用を維持するだけなら、しばらく耐えられる。
でも、それだけだ。
布は増えない。
売る商品も増えない。
資産を食い潰しながら、死ぬ日を先延ばしにしているだけ。
「……困ったわね」
「金なら出す」
「ひゃっ!?」
思わず変な声が出た。
顔を上げる。
アレクシスがいた。
「あなた!」
「何だ」
「いつからそこに!?」
「少し前から」
「ノックしてくださいませ!」
「した」
「嘘」
「三回した」
……本当に?
「君が『計算が合わない』と呟きながら数字と睨み合っていたから、気づかなかっただけだ」
恥ずかしい。
アレクシスは私の向かいへ腰を下ろした。
「状況は聞いている」
「クロエから?」
「いや。私には私の情報網がある」
でしょうね。
「ローゼンは王都だけでなく、地方の織物組合にも圧力をかけたらしいな」
「ええ」
「職人の賃金を削る案も拒否した」
「……そこまで?」
「クロエ会長が帰り際に『あの人は馬鹿です』と言っていた」
「まあ」
「そのあと、『だから一緒にやっているんですけどね』とも言っていた」
思わず笑ってしまった。
まったく。
いい共同経営者を持ったものだ。
「それで?」
アレクシスが資産目録を指差す。
「今度は自分の財産を食い潰すつもりか」
「食い潰すとは人聞きの悪い」
「違うのか?」
「……投資です」
「利益の見込みが立たないものへ際限なく金を入れるのは、投資とは言わん」
痛い。
「では何と?」
「意地だ」
もっと痛い。
「金なら私が出す」
「……」
「必要な額を言え。私個人の資産から貸す」
即答だった。
「利息が必要なら取る。契約書も作る。返済期限も決めればいい」
なるほど。
単なる援助ではなく、融資という形にするつもりか。
相変わらず抜け目がない。
それなら、事業会計と公爵家の資産も分離できる。
理屈としては完璧だ。
それでも。
「駄目です」
「なぜだ」
「ここであなたのお金に頼れば、相手の思う壺です」
アレクシスの眉が僅かに動く。
「説明しろ」
「私たちは、『女性が自分で働き、自分で稼ぎ、自分で選べる』という市場を作ろうとしている」
「知っている」
「その事業が危機に陥った途端、筆頭公爵である夫の財産で生き延びたら?」
「……」
「ローゼン侯爵は喜ぶでしょうね。『結局、公爵夫人のお遊びだった。夫の金がなければ何もできない』と」
アレクシスは黙った。
「だから嫌なのです」
「意地ではないと?」
「誇りです」
「同じようなものだ」
「違います」
「君にとっては、だろう」
腹が立つ。
でも。
少しだけ笑ってしまった。
「本当に可愛げがないな」
「あら」
私は眉を上げた。
「二十年前に気づいてくださいませ」
「……そうだな」
意外にも、素直に認めた。
「私も随分と見る目がなかったらしい」
「まあ」
「これほど面白い女を妻にしておきながら、二十年もろくに話さなかった」
心臓が。
一度だけ、大きく鳴った。
「……今さらですわ」
「ああ」
「遅すぎます」
「それも認める」
ずるい。
そんなふうに素直に言われると、怒れないではないか。
アレクシスが資産目録へ目を落とした。
「だが、一つだけ約束しろ」
「何でしょう」
「自分の財産をすべて注ぎ込むな」
「でも」
「君は今、職人たちに言ったのだろう?」
灰色の瞳が私を見る。
「生活を犠牲にしてまで、この事業を守らせないと」
言葉に詰まった。
「……」
「ならば経営者である君だけが、すべてを犠牲にしていい理由もない」
完全に一本取られた。
「……卑怯ですわ」
「何が?」
「私の言葉を使うなんて」
「使えるものは使う。政治の基本だ」
この男は。
「分かりました」
渋々、資産目録を閉じる。
「全部は使いません」
「よろしい」
「子供扱いしないでくださいませ」
「していない」
アレクシスが立ち上がる。
「金も出さん」
「ええ」
「君がそう望むならな」
扉へ向かう。
その背中を見ながら、ふと不安になった。
「あなた」
「何だ」
「本当に、それだけ?」
アレクシスが振り返る。
「私に黙ってローゼン侯爵家を潰したりしません?」
「……」
「なぜ黙るのです?」
「潰しはしない」
「『は』?」
「政治は私の領分だと言っただろう」
嫌な予感しかしない。
「君は商売を続けろ」
「アレクシス」
「顔を上げて前だけを見ていればいい」
声から冗談が消えた。
「君が表で戦うなら、背中くらいは私が守る」
「……」
「泥を被る役目は、二十年政治をやっている男の方が上手い」
その言葉に。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
扉へ手を掛ける。
「それと、エレオノーラ」
「はい?」
「答えが見つからないなら、今日は寝ろ」
「……」
「三時間同じ数字を見ても、布は増えん」
「分かっています!」
「ならいい」
扉が閉まった。
本当に。
腹の立つ夫である。
でも――。
一人ではない。
そう思えるだけで、随分と違った。
私は再び机を見る。
残された時間は三日。
資金を入れたところで、布そのものがなければ意味がない。
国外から仕入れるには時間が足りない。
国内の主要な織物組合は押さえられている。
どうする?
どうすれば――。
答えは、まだ出なかった。
◇
その頃。
執務室の扉から少し離れた廊下に、一人の少女が立っていた。
イザベラだった。
母へ届けるつもりだった茶器を、両手で抱えている。
来客中だと分かり、声を掛けずに待っていただけだった。
盗み聞きをするつもりなどなかった。
けれど。
聞こえてしまった。
『職人の賃金を削る案も拒否した』
『自分の財産を食い潰すつもりか』
『あと三日』
イザベラは、閉じた扉を見つめた。
母が。
あの母が。
自分のために国を変えようとしていることは、もう知っている。
平民の女性たちのために店を作り。
貴族たちを敵に回し。
今度は、自分の財産まで失おうとしている。
「……お母様」
胸が痛んだ。
何かしたい。
でも。
十五歳の自分に何ができる?
政治は分からない。
商売も分からない。
お金だって、母ほど持っていない。
自分にあるものなんて――。
そこまで考えて。
イザベラは、自分が抱えている茶器へ目を落とした。
そして。
ふと、顔を上げた。
視線の先。
廊下の向こうには、自分の部屋がある。
その奥には。
公爵令嬢として十五年間与えられ続けた、大きな衣装部屋がある。
何十着ものドレス。
ほとんど使っていない礼装。
流行が過ぎただけで袖を通さなくなった服。
高価な絹。
レース。
刺繍。
宝石のようなボタン。
イザベラの目が、大きく見開かれた。
「……ある」
小さく呟いた。
「布なら――」
少女は茶器を抱えたまま、自室へ向かって駆け出した。
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