王都から、布が消えました
南区画の工房には、今日も針を進める音が絶え間なく響いていた。
裁断台では型紙に合わせて次々と布が切り分けられ、その隣では縫い子たちが一斉に針を走らせている。裁断、縫製、仕上げ。それぞれの工程を分けることで、一人の職人が一着を最初から最後まで仕立てるより、はるかに早く服を作れるようになった。
壁には注文票がびっしりと貼られている。
セシリアが最初の一着を着て以来、注文は増え続けていた。
商売は順調。
むしろ、順調すぎるほどだった。
――だからこそ。
「……布が、入ってきません」
工房の奥に設けた小さな執務室で、クロエが一枚の紙を机へ置いた。
納品予定日も。
数量も。
価格も書かれていない。
白紙同然の納品書だった。
「王都の主要な生地問屋三軒すべてから、今後の取引を断られました」
「三軒とも?」
「はい」
私は眉を寄せた。
「支払いに問題はないでしょう?」
「もちろん。すべて期日前に支払っています。今後については前払いでもいいと伝えました。相場より高く買うとも」
「それでも?」
「売れない、と」
クロエが吐き捨てる。
「金の問題じゃありません」
その一言で察した。
「ローゼン侯爵ね」
「ええ」
クロエが拳を握る。
「『クライス公爵家の服飾事業へ布を卸した商会とは、今後一切取引しない』――保守派の貴族家が、王都中の問屋へ通達したそうです」
思わず息を吐いた。
「……そう来たの」
財務省による営業停止は失敗した。
ならば次は、営業そのものを止める必要などない。
服を作れなくすればいい。
貴族家は、膨大な量の布を消費する。
ドレス。
礼服。
カーテン。
寝具。
椅子やソファの張り地。
屋敷一つを維持するだけでも、毎年莫大な金が織物商へ流れていく。
その大口顧客を失うか。
それとも、私たち一つの新興事業を切るか。
問屋にとって、答えは残酷なほど明白だった。
「……事実上の経済封鎖ね」
今度の攻撃には、違法性すらない。
誰と取引するかは商人の自由。
貴族がどの商会から買うかも自由。
その「自由」を束ねれば、人一人を締め上げる縄になる。
厄介だ。
そして――上手い。
「一番取引の多かった問屋へ行くわ」
「奥様?」
「直接聞きたいの」
◇
王都最大級の生地問屋は、いつもと変わらず繁盛していた。
荷車から次々と布が降ろされ、店内には各地から集められた反物が積み上げられている。
――布はある。
ないのではない。
私たちにだけ、売れないのだ。
奥の商談室へ通される。
問屋の主人トーマスは、私を見るなり深く頭を下げた。
「クライス公爵夫人……」
声が震えていた。
目の下には濃い隈がある。
「本当に……申し訳ございません」
「顔を上げて」
「ですが」
「怒りに来たわけではないの」
トーマスが恐る恐る顔を上げる。
「事情を聞かせてちょうだい」
「……はい」
しばらく迷ったあと、彼は口を開いた。
「三日前です。長年お取引いただいている複数の貴族家から、同じ内容の通達が届きました」
「私たちと取引を続ければ、自分たちは手を引く?」
「……はい」
やはり。
「あなたのところでは、貴族相手の取引はどのくらい?」
「売上の七割ほどです」
想像以上だった。
「それを失えば?」
トーマスの顔が歪む。
「ひと月と持ちません」
そして、堪えていたものが切れたように頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「トーマス」
「奥様の事業が素晴らしいことは分かっています! 新しい顧客も増えた。これから王都の商売そのものが変わるかもしれないと、私も期待していました!」
拳が震えている。
「でも……」
声が掠れた。
「うちには三十二人の従業員がいます」
私は黙って聞いた。
「その家族まで入れれば、百人近い人間の生活が、この店にかかっている。私一人なら……私一人なら、奥様に賭けてもいい。でも……」
「できないわね」
「……はい」
「してはいけないわ」
トーマスが顔を上げた。
「奥様……?」
「あなたは商人である前に、三十二人の雇用主でしょう?」
「……」
「自分の信念のために従業員を路頭に迷わせることを、勇気とは呼ばないわ」
私は立ち上がった。
「今は従業員を守りなさい」
「しかし――」
「それが、あなたの仕事よ」
トーマスの目が潤んだ。
「……申し訳、ありません」
「謝らなくていいの」
むしろ。
腹が立つとすれば、彼ではない。
選択肢を奪った人間たちの方だ。
扉へ向かう。
その背中へ。
「公爵夫人!」
呼び止められた。
振り返る。
トーマスは深く頭を下げていた。
「もし……」
声を震わせる。
「もし、また自由に商売ができる日が来たら」
私は待った。
「必ず、一番最初に奥様のところへ布を持っていきます」
少しだけ笑った。
「覚えておくわ」
◇
公爵邸へ戻ると、クロエが大きな地図を広げて待っていた。
「王都が駄目なら東部です」
「私も考えたわ」
クロエの商会は、王都だけでなく東部三都市にも流通網を持っている。
そこから直接仕入れれば、王都の問屋を通す必要はない。
「それで?」
「……駄目でした」
クロエが東部の主要都市へ印をつける。
「主要な織物組合にまで話が回っています」
「もう?」
「ローゼン侯爵本人だけじゃありません。保守派の貴族家は、何十年も織物産業へ資金を入れてきた。組合の幹部にも彼らと縁の深い人間が大勢います」
「つまり」
「王都だけじゃない」
クロエが私を見る。
「国内の主要な仕入れ先を、ほぼ全部押さえられました」
思わず椅子へ深く腰を下ろした。
これが。
本気になった権力者の力か。
財務省の監査とは違う。
役人一人を追い詰めれば終わる話ではない。
長い年月をかけて築かれた人脈。
商流。
利権。
貸し借り。
そのすべてが、一本の巨大な網になって私たちを締め上げている。
ローゼン侯爵は学習したのだ。
私を法で殴れば、法を使って殴り返される。
ならば――法の外側で殺せばいい。
「……クロエ」
「はい」
「国外からは?」
「今から商路を開拓すれば、間に合いません。輸送だけで数週間。それに、急ぎだと知られれば価格を吊り上げられます」
「そう」
机の上を見る。
積み上げられた注文票。
名前。
寸法。
希望する色。
一枚一枚の向こうに、私たちの服を待っている女性がいる。
ようやく「自分が着たいものを選んでいい」と知った人たちだ。
ここで店を閉じれば、ただ一つの事業が潰れるだけでは済まない。
――やっぱり無理だった。
――貴族に逆らえばこうなる。
――私たちが何かを選ぼうとすること自体、間違いだった。
そんな諦めだけが残る。
それこそが、相手の狙いだ。
私は注文票の一枚を手に取った。
まだ若い女性の名前。
代金の一部はすでに預かっている。
「現在受けている注文は?」
「何とか作れます」
クロエが答える。
「絶対に?」
「……色や生地を一部変更してもらう必要は出るかもしれません。でも、約束した分だけは何としても」
「分かったわ」
「ただし」
クロエの声が重くなる。
「それで在庫は、ほぼ空になります」
私は顔を上げた。
「新規注文は?」
「もう受けられません」
壁一面の注文票を見る。
あれほど嬉しかった紙の山が、今は砂時計の砂に見えた。
「生産を落とせば?」
「多少は延ばせます。でも、その分だけ納品が遅れる」
「通常通り続けた場合は?」
クロエは答えなかった。
「クロエ」
「……四日です」
「え?」
「あと四日」
彼女は唇を噛んだ。
「四日後には――」
時計の針が進む。
カチ。
カチ。
カチ。
「私たちの布は、一枚もなくなります」
私は何も答えられなかった。
財務省を退けたときのような策は、まだ浮かばない。
前世の知識を探っても。
公爵夫人として二十年培った人脈を思い返しても。
今すぐ、この包囲網を破る答えが見つからない。
初めてだった。
この世界に来て――いや、前世の記憶を取り戻してから初めて。
私は、はっきりと思った。
――まずい。
残された時間は、四日。
壁一面に貼られた注文票が、静かに私を見下ろしていた。
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