ではは、皆様にも同じ監査を受けていただきましょう
南区画の店舗は、いつもの賑わいが嘘のように静まり返っていた。
客の姿はない。
店内にいるのはクロエと数人の従業員。そして、財務省から派遣された監査官たちだけ。
「帳簿の提出だけでは不十分です」
主任らしき監査官が、冷たい声で告げた。
「監査が完了するまで、対象店舗の営業を停止していただきます。在庫の移動、商品の販売、新規の仕入れも認めません」
「監査が終わるのはいつです?」
クロエが尋ねる。
「さて」
男は薄く笑った。
「一月で済むか。半年かかるか。それは調べてみなければ分かりませんな」
クロエの頬が引きつった。
「半年……?」
「何しろ、公爵家が出資する新規事業です。不正な資金流入がないか、慎重に調査する必要がありますから」
なるほど。
随分と分かりやすい。
私は店の入口で、そのやり取りを聞いていた。
「半年も調べてくださるなんて」
店内の視線が一斉にこちらへ向く。
私はゆっくり中へ入った。
「財務省の皆様は、本当に仕事熱心でいらっしゃるのね」
「ク、クライス公爵夫人……」
監査官たちの姿勢が変わる。
「これは財務省の公務です。恐れ入りますが――」
「存じておりますわ」
私は微笑んだ。
「ですから、協力に参りましたの」
クロエを見る。
「用意は?」
一瞬だけ目が合う。
「――もちろんです」
クロエが笑った。
奥から運び出されたのは、分厚い帳簿の束だった。
どさり。
カウンターへ積み上げられる。
「こちらが開業以来の帳簿です」
私は一冊へ手を置いた。
「出資額、仕入れ、生地代、運送費、売上、納税額、職人へ支払った賃金。記録してあるものは、すべてご確認いただけます」
監査官の口元が緩んだ。
「それは助かりますな」
「複写も用意しております」
男の手が止まった。
「……複写?」
「ええ。いつ、どの帳簿を、どなたへお渡ししたかも記録いたします」
「……」
「大切な商売の記録ですもの。紛失したら困りますでしょう?」
「当然です」
笑顔が消えた。
いい顔になってきた。
「それから」
私は入口を見る。
「監査の公平性を確認していただくため、立会人もお願いしました」
「立会人?」
扉が開く。
最初に入ってきたのは、王都商業ギルドのハインツ会長だった。
その後ろには、数人の男たち。
新聞記者だ。
監査官の顔色が変わった。
「な……なぜ記者が!」
「なぜ?」
私は首を傾げた。
「我が商会の潔白を王都の皆様へ知っていただく、よい機会ではありませんか」
「監査は見世物ではありません!」
「もちろんです」
私は即座に答えた。
「ですから監査の妨げはいたしません。記者の皆様にも、許可された範囲から一歩も出ないようお願いしてあります」
逃げ道は塞いである。
「それに」
私はハインツを見る。
「商業ギルドとしても、今回の監査には大変関心がおありなのでしょう?」
「ええ」
ハインツが腹を揺らして頷いた。
「当然ですな」
普段の愛想のいい商人の顔ではない。
ギルドを束ねる男の顔だった。
「財務省が新興商会に対し、営業を止めてまでこれほど厳格な監査をなさる。ならば我々としては、その基準を正確に把握しておかなければなりません」
「基準?」
監査官の声が掠れた。
「はい」
ハインツが一枚の書類を取り出した。
「過去五年間に行われた、王都商業ギルド加盟商会への税務監査記録を調べました」
私は内心で笑う。
仕事が早い。
「同規模の商会に対する監査期間は、平均六日」
ざわり。
記者たちが一斉にペンを走らせる。
「営業を全面的に停止させた事例は?」
監査官が黙る。
ハインツが続けた。
「私どもが確認できた範囲では、重大な不正の証拠が事前に存在した場合を除けば、ございませんでした」
記者のペンがさらに速くなる。
監査官の額に汗が浮かんだ。
私は微笑んだ。
「まあ」
扇を開く。
「それでは、我が商会には何か重大な不正の証拠が?」
「それは……これから調査を」
「証拠があるから営業を止めるのではなく、証拠があるか調べるために営業を止める?」
「……」
「しかも、通常は六日ほどで終わる監査を、半年かける可能性があると?」
沈黙。
私は責め立てない。
ただ事実を並べる。
その方が、ずっと逃げにくい。
「もちろん」
私は帳簿を監査官の前へ押し出した。
「財務省が必要と判断されたのでしたら、どうぞ」
「……」
「半年でも一年でも、徹底的にお調べくださいませ」
クロエが私を見る。
監査官も見る。
そして私は、笑った。
「ただし」
来た。
そんな顔を全員がした。
「今後、同規模の商会に対しても、同じ基準を適用なさるのですよね?」
「……何?」
「公平な行政とは、そういうものでしょう?」
「監査対象を決定する権限は財務省にあります!」
「もちろん」
私は頷く。
「ですが、我が商会だけが特別に厳しい監査を受ける合理的な理由がないのでしたら?」
記者たちの視線が監査官へ集中する。
「王都には、我が商会よりはるかに大きな商会がいくつもございますわね」
「……」
「例えば」
一拍置く。
「ローゼン侯爵家と取引の深い、西区画の絹織物商会など」
監査官の顔から血の気が引いた。
分かりやすい。
「近年、随分と取引額を伸ばしていると伺いました」
「それとこれは――」
「同じですわ」
私は遮った。
「急成長した商会の資金の流れを調べる必要がある。それが今回の監査理由なのでしょう?」
「……」
「でしたら、当然あちらも対象になる可能性がある」
「公爵夫人!」
「それとも」
私は扇を閉じた。
パチン。
乾いた音が響く。
「財務省の監査基準は、商会によって変わるのですか?」
完全な沈黙が落ちた。
監査官が何か言えば、記者が書く。
監査を強行すれば、ギルドが基準の公開を求める。
私たちだけを狙えば、不公平な行政介入を自ら認めることになる。
そして。
本当に同じ基準を適用すれば――。
困る商会はいくらでもある。
「さあ」
私は帳簿を差し出した。
「どうぞ、お仕事を」
監査官は帳簿を見る。
私を見る。
記者を見る。
ハインツを見る。
そして――。
「……営業停止については」
絞り出すように言った。
「適用の妥当性を、上級部署へ照会します」
「まあ」
「回答が出るまで、執行は保留とする」
クロエが息を呑んだ。
「監査そのものは?」
私が尋ねる。
「通常の手続きに従い、帳簿の確認を行います」
「もちろんですわ」
私はにっこり笑った。
「全面的に協力いたします」
監査官は悔しそうに唇を噛んだ。
だが、それ以上は何も言わなかった。
◇
監査官たちが帰ったあと。
「……やりましたね」
クロエが呟いた。
「まだよ」
「でも営業は続けられます」
「ええ。それが今日の目的」
監査そのものを消す必要はない。
むしろ調べてもらえばいい。
不正などないのだから。
「それにしても……」
クロエが私を見る。
「自分から帳簿を全部見せて、『だったら他も同じように調べろ』ですか」
「あら」
「やっぱり奥様、喧嘩の仕方がえげつないですよ」
「失礼ね」
「褒めてます」
「なら許します」
店内に笑い声が戻った。
けれど。
私は分かっていた。
これは勝利ではない。
最初の一撃を防いだだけ。
こちらが相手の剣を受け止めた以上――。
次は、もっと鋭いものが来る。
◇
その日の夕刻。
ローゼン侯爵邸。
「――営業停止は執行できなかった、と?」
ローゼン侯爵は静かに尋ねた。
「……はい」
報告役の男が頭を垂れる。
「商業ギルドが過去の監査記録を持ち出し、新聞記者まで同席しておりました。このまま強行すれば、財務省による恣意的な監査だと騒がれる可能性が……」
「それで退いた」
「申し訳ございません」
侯爵は怒鳴らなかった。
机を叩きもしない。
ただ。
目を閉じた。
「あなた」
傍らにいたベアトリス夫人が声を上げる。
「このままでは、あの女の思う壺ですわ! 財務省に圧力をかけて、今度こそ――」
「黙れ」
短い一言だった。
ベアトリスが口を閉ざす。
侯爵はゆっくり目を開いた。
「私が間違っていた」
「……あなた?」
「あの女を、ただの公爵夫人だと思っていた」
窓の外へ視線を向ける。
「娘可愛さに妙な慈善事業を始めた、退屈な貴婦人だとな」
声に怒りはない。
だからこそ、怖かった。
「だが違う」
侯爵は机の上の新聞を手に取った。
一面には、南区画で起きた監査についての記事が載っている。
「商人を味方につけた」
新聞を置く。
「役者を使って民衆を動かした」
指先で紙面を叩く。
「王太子殿下への働きかけにも成功し、今度は新聞を使って財務省の手まで縛った」
「……」
「そして何より厄介なのは」
侯爵の目が細くなる。
「自分では権力を振るっていないように見せながら、周囲を動かしていることだ」
部屋が静まり返った。
「エレオノーラ・クライス」
初めて。
その名を、はっきりと口にする。
「もはや、公爵夫人の気まぐれではない」
低い声だった。
「政敵として扱う」
ベアトリスの表情が変わる。
「では、次は……」
「財務省はもう使わん」
侯爵は即答した。
「一度手の内を見せた駒を、もう一度使うほど愚かではない」
「では?」
侯爵はしばらく考え――。
「商売には、客が必要だ」
「……はい」
「工房には、職人が必要だ」
「ええ」
「そして服を作るには――」
ゆっくりと笑った。
「布が必要だな」
◇
翌朝。
公爵邸の執務室へ飛び込んできたクロエの顔を見た瞬間。
私は悟った。
来た。
第二波だ。
「奥様」
クロエが息を切らしながら言った。
「生地が――」
一度息を吸う。
「王都中の生地問屋から、うちとの取引を断られました」
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