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悪役令嬢の母ですが、娘が断罪されるまであと三年あるので王国ごと改革します  作者: 虹の箸


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10/24

君が負けそうになったら、私が勝手に助ける

「来ました」

執務室へ飛び込んできたクロエは、挨拶もそこそこに一枚の書類を私の机へ叩きつけた。

「財務省です。今朝、役人が工房と店舗に入りました」

やはり。

昨夜アレクシスから見せられた、財務省の調査命令。

警告だけで終わるとは思っていなかった。

「どこまで?」

「帳簿の提出。在庫と仕入れ記録の確認。それから、調査対象になった店舗については、監査が終わるまで営業停止です」

クロエが奥歯を噛む。

「帳簿に不正なんて一つもありません」

「分かっているわ」

「向こうも分かってますよ!」

珍しく声を荒らげた。

「だから腹が立つんです。あいつら、不正を見つけるために来たんじゃない。何も出なくても、調べ続ければいい。十日でも二十日でも!」

その通りだ。

違法行為をでっち上げる必要すらない。

「調査中」という名目で店を止めればいい。

工房が止まる。

納品が遅れる。

職人への賃金が滞る。

客の信用を失う。

そして最後には――。

「やはり平民相手の新興商売など信用できない」

そう囁けばいい。

随分と古典的で。

そして、効果的なやり方だ。

「このままだと三日もすれば資金繰りに影響が出ます」

クロエが数字の書かれた紙を広げる。

「職人の賃金は何があっても払います。でも、生地の仕入れが止まれば生産できない。注文を受けている客への納期も守れません」

「それが狙いね」

私は監査状を見る。

財務省の印章。

正式な書類だ。

形式上の不備はない。

だからこそ厄介だった。

「奥様」

クロエが私を見る。

「どうします?」

「まず商業ギルドのハインツ会長へ連絡を。過去五年間、同じ規模の商会に対して行われた税務監査の件数と、平均監査日数を調べてもらって」

「平均監査日数?」

「ええ」

クロエの目が光る。

「……なるほど」

「私たちだけ異常に厳しい扱いを受けているのなら、それは数字で証明できる」

「分かりました」

「それから、提出を求められた帳簿はすべて複写を取って。役人へ渡したもの、日時、担当者の名前まで記録すること」

「全部ですか?」

「全部よ」

私は微笑んだ。

「喧嘩を売られたのなら、相手がどんな売り方をしたのかまで記録して差し上げないと」

クロエが獰猛に笑った。

「了解です」

「それと――」

「その必要はない」

低い声が割り込んだ。

クロエと同時に振り返る。

いつの間にか、扉のところにアレクシスが立っていた。

「あなた」

「邪魔だったか?」

「ノックという文明をご存じ?」

「自分の屋敷で妻に会うのに許可が必要なのか?」

「少なくとも扉は叩きます」

「次から善処しよう」

絶対にしない顔だった。

クロエが私と夫を交互に見ている。

「……私、席を外した方がいいですか?」

「いて構わないわ」

「いや、下がってくれ」

夫婦で意見が割れた。

クロエは一秒考え――。

「では、旦那様に従います」

「あら?」

「公爵様の方が怖いので」

正直な女である。

一礼すると、逃げるように出ていった。

扉が閉まる。

アレクシスは私の向かいへ腰を下ろした。

「クロエ会長は優秀だな」

「でしょう?」

「君が気に入るわけだ」

そう言いながら、数枚の書類をテーブルへ置く。

「何です?」

「財務省内部の資料だ」

一枚目を見る。

監査記録。

二枚目。

資金の流れ。

三枚目で、私の指が止まった。

「……これは」

「ローゼン侯爵家と、財務省の一部官僚との金の流れだ」

顔を上げる。

「どうやって?」

「二十年政治をやっている男に、情報の集め方を聞くな」

怖い。

この人、思っていた以上に怖い。

「違法性を確定できるほどではない。だが、議会で説明を求めれば何人かは眠れなくなるだろう」

「昨夜から、これを?」

「いや」

アレクシスが平然と答えた。

「前から持っていた」

「……なぜ?」

「政治とは、使わない剣を何本持っているかで決まることもある」

怖い。

やっぱりこの人、ものすごく怖い。

そして。

ものすごく頼もしい。

「相手は行政機関だ」

アレクシスが言った。

「商売が正しいかどうかとは別の戦場になる。法令、議会、官僚、貴族間の利害。君が正しくても、手続きを長引かせるだけで殺せる」

「ええ」

「私なら今日中に止められる」

さらりと言った。

おそらく、本当にできる。

「財務省へ圧力をかけ、監査を解除させる。必要ならローゼン侯爵にも、この資料の一部を見せればいい」

灰色の瞳が私を射抜く。

「どうする、エレオノーラ」

少し間を置いて。

「助けてやろうか?」

二十年間。

この人と私は夫婦だった。

同じ屋敷に住み。

同じ娘を育て。

必要な場では並んで笑い。

それ以外では、互いの人生へ踏み込まなかった。

だから。

夫からこんな言葉を向けられたのは、初めてだった。

私は資料へ視線を落とす。

これを使えば、勝てる。

簡単に。

おそらく今日中に。

でも――。

「ありがとうございます」

「では」

「でも、結構ですわ」

アレクシスの眉が僅かに上がった。

「理由を聞こう」

「あなたの力で監査を止めれば、相手は何と言うと思います?」

「公爵家が圧力をかけた」

「ええ」

私は書類を彼へ返す。

「そうなれば、こちらがどれほど正しくても関係ない。『平民のための事業』を掲げながら、結局は公爵家の権力で勝っただけだと宣伝されます」

「……」

「それでは意味がありません」

「では、どうする?」

「相手が法律を使うなら、こちらも法律で戦います」

「ほう」

「監査そのものを拒否するつもりはありません。むしろ徹底的に調べていただきます」

アレクシスの目が細くなった。

「続けろ」

「帳簿はすべて公開します」

「……何?」

「仕入れ値。売上。納税額。職人への賃金。全部です」

アレクシスが黙った。

「不正がないのなら、隠す必要がないでしょう?」

「商売の内情まで競合に晒すことになるぞ」

「ええ。痛手です」

「なら」

「でも、それ以上に困るのは向こうです」

私は扇を開いた。

「私たちの帳簿を調べて『何もありませんでした』では終わらせません」

「……何をする気だ?」

「同じ基準で調べてもらうのです」

「誰を?」

私は笑った。

「今回、私たちの事業を問題視した方々の商会と領地を」

沈黙。

アレクシスの口元が、ゆっくり上がった。

「なるほど」

「平民相手の商売に不正があるかもしれないから調査する。それほど素晴らしい制度なのでしょう?」

「ああ」

「でしたら、当然」

扇の向こうで笑う。

「高潔な貴族の皆様にも、同じ監査を受けていただかなくては不公平ですわ」

アレクシスが額へ手を当てた。

「……エレオノーラ」

「はい?」

「君は財務省の監査を止めるのではなく」

「ええ」

「監査対象を敵全員に広げるつもりか?」

「公平とは、そういうものでしょう?」

数秒。

そして――。

「ははっ」

笑い声が響いた。

私は目を見開いた。

アレクシスが笑っている。

社交用の微笑でも。

相手を嘲る冷笑でもない。

心の底から楽しそうに。

二十年一緒にいて。

こんな笑い方をする人だとは知らなかった。

「何がおかしいのです?」

「いや……」

まだ笑っている。

「君は本当に変わったな」

「そうかしら」

「ああ」

笑いを収めた夫が私を見る。

「昔の君なら、そもそも私にこんな話をしなかった」

胸を突かれた。

「……あなたもでしょう?」

「そうだな」

否定しない。

それが私たちだった。

必要なことしか話さない。

期待しない。

求めない。

だから傷つきもしない。

――そんな夫婦だった。

「では」

アレクシスが立ち上がる。

「好きにしろ」

「もちろん」

「君のやり方で、あの古狸どもを引っ掻き回せばいい」

「そのつもりですわ」

「ただし」

彼が私の机の前まで来た。

近い。

思わず見上げる。

「何でしょう?」

「一つだけ訂正する」

「何を?」

「これはもう、君一人の戦いではない」

灰色の瞳が私を見つめる。

「君が始めた事業だが、公爵家の名も、イザベラの未来も関わっている」

「……」

「だから私は、君の許可がなければ動かない――とは約束できない」

「あなた?」

「君が勝っている間は黙って見ていよう」

その手が伸びる。

頬にかかった髪を、長い指がそっとすくった。

心臓が跳ねた。

「でも」

声が低くなる。

「君が負けそうになったら、私が勝手に助ける」

「……随分と勝手ですこと」

「夫だからな」

何ですか、その理屈は。

そう言い返そうとした、そのとき。

アレクシスが、すくい上げた私の髪へ唇を触れさせた。

「――っ」

ほんの一瞬。

それだけだった。

けれど。

完全に不意打ちだった。

夫は何事もなかったように髪を離す。

「では、健闘を祈る」

「ちょ……」

呼び止めるより先に背を向ける。

「アレクシス!」

珍しく名前で呼んでしまった。

夫が扉の前で振り返った。

笑っている。

絶対に分かってやった顔だ。

「何だ?」

「……何でもありません!」

「そうか」

「早くお仕事へお戻りください!」

「ああ」

悠然と去っていく。

扉が閉まった。

私はしばらく動けなかった。

頬が熱い。

いや。

頬ではない。

髪に触れられただけなのに、なぜこんなに動揺しているの。

「……ずるい男」

小さく呟く。

二十年間、あんなこと一度もしなかったくせに。

――本当に。

今さら何なのよ。

私は両手で頬を押さえ、深く息を吐いた。

仕事。

今は仕事だ。

「クロエ!」

扉の向こうへ声を飛ばす。

すぐに顔が覗いた。

「はい! ……奥様、顔が赤くありません?」

「気のせいよ」

「でも」

「気のせいです」

「はい」

賢い共同経営者である。

引き際を心得ている。

「ハインツ会長へ連絡して」

私は監査状を持ち上げた。

「過去五年間の監査記録。それから、財務省へ正式な照会を出します」

「何を聞くんです?」

私は微笑んだ。

「今回の監査で用いられている基準を、すべて開示していただくの」

クロエが息を呑む。

「まさか……」

「ええ」

私は監査状を机へ置いた。

「私たちだけに適用される基準など、まさか存在しませんもの」

もし同じ基準が、すべての商会と貴族へ公平に適用されるのなら。

困るのは――。

さて。

どちらでしょうね。

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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