君が負けそうになったら、私が勝手に助ける
「来ました」
執務室へ飛び込んできたクロエは、挨拶もそこそこに一枚の書類を私の机へ叩きつけた。
「財務省です。今朝、役人が工房と店舗に入りました」
やはり。
昨夜アレクシスから見せられた、財務省の調査命令。
警告だけで終わるとは思っていなかった。
「どこまで?」
「帳簿の提出。在庫と仕入れ記録の確認。それから、調査対象になった店舗については、監査が終わるまで営業停止です」
クロエが奥歯を噛む。
「帳簿に不正なんて一つもありません」
「分かっているわ」
「向こうも分かってますよ!」
珍しく声を荒らげた。
「だから腹が立つんです。あいつら、不正を見つけるために来たんじゃない。何も出なくても、調べ続ければいい。十日でも二十日でも!」
その通りだ。
違法行為をでっち上げる必要すらない。
「調査中」という名目で店を止めればいい。
工房が止まる。
納品が遅れる。
職人への賃金が滞る。
客の信用を失う。
そして最後には――。
「やはり平民相手の新興商売など信用できない」
そう囁けばいい。
随分と古典的で。
そして、効果的なやり方だ。
「このままだと三日もすれば資金繰りに影響が出ます」
クロエが数字の書かれた紙を広げる。
「職人の賃金は何があっても払います。でも、生地の仕入れが止まれば生産できない。注文を受けている客への納期も守れません」
「それが狙いね」
私は監査状を見る。
財務省の印章。
正式な書類だ。
形式上の不備はない。
だからこそ厄介だった。
「奥様」
クロエが私を見る。
「どうします?」
「まず商業ギルドのハインツ会長へ連絡を。過去五年間、同じ規模の商会に対して行われた税務監査の件数と、平均監査日数を調べてもらって」
「平均監査日数?」
「ええ」
クロエの目が光る。
「……なるほど」
「私たちだけ異常に厳しい扱いを受けているのなら、それは数字で証明できる」
「分かりました」
「それから、提出を求められた帳簿はすべて複写を取って。役人へ渡したもの、日時、担当者の名前まで記録すること」
「全部ですか?」
「全部よ」
私は微笑んだ。
「喧嘩を売られたのなら、相手がどんな売り方をしたのかまで記録して差し上げないと」
クロエが獰猛に笑った。
「了解です」
「それと――」
「その必要はない」
低い声が割り込んだ。
クロエと同時に振り返る。
いつの間にか、扉のところにアレクシスが立っていた。
「あなた」
「邪魔だったか?」
「ノックという文明をご存じ?」
「自分の屋敷で妻に会うのに許可が必要なのか?」
「少なくとも扉は叩きます」
「次から善処しよう」
絶対にしない顔だった。
クロエが私と夫を交互に見ている。
「……私、席を外した方がいいですか?」
「いて構わないわ」
「いや、下がってくれ」
夫婦で意見が割れた。
クロエは一秒考え――。
「では、旦那様に従います」
「あら?」
「公爵様の方が怖いので」
正直な女である。
一礼すると、逃げるように出ていった。
扉が閉まる。
アレクシスは私の向かいへ腰を下ろした。
「クロエ会長は優秀だな」
「でしょう?」
「君が気に入るわけだ」
そう言いながら、数枚の書類をテーブルへ置く。
「何です?」
「財務省内部の資料だ」
一枚目を見る。
監査記録。
二枚目。
資金の流れ。
三枚目で、私の指が止まった。
「……これは」
「ローゼン侯爵家と、財務省の一部官僚との金の流れだ」
顔を上げる。
「どうやって?」
「二十年政治をやっている男に、情報の集め方を聞くな」
怖い。
この人、思っていた以上に怖い。
「違法性を確定できるほどではない。だが、議会で説明を求めれば何人かは眠れなくなるだろう」
「昨夜から、これを?」
「いや」
アレクシスが平然と答えた。
「前から持っていた」
「……なぜ?」
「政治とは、使わない剣を何本持っているかで決まることもある」
怖い。
やっぱりこの人、ものすごく怖い。
そして。
ものすごく頼もしい。
「相手は行政機関だ」
アレクシスが言った。
「商売が正しいかどうかとは別の戦場になる。法令、議会、官僚、貴族間の利害。君が正しくても、手続きを長引かせるだけで殺せる」
「ええ」
「私なら今日中に止められる」
さらりと言った。
おそらく、本当にできる。
「財務省へ圧力をかけ、監査を解除させる。必要ならローゼン侯爵にも、この資料の一部を見せればいい」
灰色の瞳が私を射抜く。
「どうする、エレオノーラ」
少し間を置いて。
「助けてやろうか?」
二十年間。
この人と私は夫婦だった。
同じ屋敷に住み。
同じ娘を育て。
必要な場では並んで笑い。
それ以外では、互いの人生へ踏み込まなかった。
だから。
夫からこんな言葉を向けられたのは、初めてだった。
私は資料へ視線を落とす。
これを使えば、勝てる。
簡単に。
おそらく今日中に。
でも――。
「ありがとうございます」
「では」
「でも、結構ですわ」
アレクシスの眉が僅かに上がった。
「理由を聞こう」
「あなたの力で監査を止めれば、相手は何と言うと思います?」
「公爵家が圧力をかけた」
「ええ」
私は書類を彼へ返す。
「そうなれば、こちらがどれほど正しくても関係ない。『平民のための事業』を掲げながら、結局は公爵家の権力で勝っただけだと宣伝されます」
「……」
「それでは意味がありません」
「では、どうする?」
「相手が法律を使うなら、こちらも法律で戦います」
「ほう」
「監査そのものを拒否するつもりはありません。むしろ徹底的に調べていただきます」
アレクシスの目が細くなった。
「続けろ」
「帳簿はすべて公開します」
「……何?」
「仕入れ値。売上。納税額。職人への賃金。全部です」
アレクシスが黙った。
「不正がないのなら、隠す必要がないでしょう?」
「商売の内情まで競合に晒すことになるぞ」
「ええ。痛手です」
「なら」
「でも、それ以上に困るのは向こうです」
私は扇を開いた。
「私たちの帳簿を調べて『何もありませんでした』では終わらせません」
「……何をする気だ?」
「同じ基準で調べてもらうのです」
「誰を?」
私は笑った。
「今回、私たちの事業を問題視した方々の商会と領地を」
沈黙。
アレクシスの口元が、ゆっくり上がった。
「なるほど」
「平民相手の商売に不正があるかもしれないから調査する。それほど素晴らしい制度なのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、当然」
扇の向こうで笑う。
「高潔な貴族の皆様にも、同じ監査を受けていただかなくては不公平ですわ」
アレクシスが額へ手を当てた。
「……エレオノーラ」
「はい?」
「君は財務省の監査を止めるのではなく」
「ええ」
「監査対象を敵全員に広げるつもりか?」
「公平とは、そういうものでしょう?」
数秒。
そして――。
「ははっ」
笑い声が響いた。
私は目を見開いた。
アレクシスが笑っている。
社交用の微笑でも。
相手を嘲る冷笑でもない。
心の底から楽しそうに。
二十年一緒にいて。
こんな笑い方をする人だとは知らなかった。
「何がおかしいのです?」
「いや……」
まだ笑っている。
「君は本当に変わったな」
「そうかしら」
「ああ」
笑いを収めた夫が私を見る。
「昔の君なら、そもそも私にこんな話をしなかった」
胸を突かれた。
「……あなたもでしょう?」
「そうだな」
否定しない。
それが私たちだった。
必要なことしか話さない。
期待しない。
求めない。
だから傷つきもしない。
――そんな夫婦だった。
「では」
アレクシスが立ち上がる。
「好きにしろ」
「もちろん」
「君のやり方で、あの古狸どもを引っ掻き回せばいい」
「そのつもりですわ」
「ただし」
彼が私の机の前まで来た。
近い。
思わず見上げる。
「何でしょう?」
「一つだけ訂正する」
「何を?」
「これはもう、君一人の戦いではない」
灰色の瞳が私を見つめる。
「君が始めた事業だが、公爵家の名も、イザベラの未来も関わっている」
「……」
「だから私は、君の許可がなければ動かない――とは約束できない」
「あなた?」
「君が勝っている間は黙って見ていよう」
その手が伸びる。
頬にかかった髪を、長い指がそっとすくった。
心臓が跳ねた。
「でも」
声が低くなる。
「君が負けそうになったら、私が勝手に助ける」
「……随分と勝手ですこと」
「夫だからな」
何ですか、その理屈は。
そう言い返そうとした、そのとき。
アレクシスが、すくい上げた私の髪へ唇を触れさせた。
「――っ」
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど。
完全に不意打ちだった。
夫は何事もなかったように髪を離す。
「では、健闘を祈る」
「ちょ……」
呼び止めるより先に背を向ける。
「アレクシス!」
珍しく名前で呼んでしまった。
夫が扉の前で振り返った。
笑っている。
絶対に分かってやった顔だ。
「何だ?」
「……何でもありません!」
「そうか」
「早くお仕事へお戻りください!」
「ああ」
悠然と去っていく。
扉が閉まった。
私はしばらく動けなかった。
頬が熱い。
いや。
頬ではない。
髪に触れられただけなのに、なぜこんなに動揺しているの。
「……ずるい男」
小さく呟く。
二十年間、あんなこと一度もしなかったくせに。
――本当に。
今さら何なのよ。
私は両手で頬を押さえ、深く息を吐いた。
仕事。
今は仕事だ。
「クロエ!」
扉の向こうへ声を飛ばす。
すぐに顔が覗いた。
「はい! ……奥様、顔が赤くありません?」
「気のせいよ」
「でも」
「気のせいです」
「はい」
賢い共同経営者である。
引き際を心得ている。
「ハインツ会長へ連絡して」
私は監査状を持ち上げた。
「過去五年間の監査記録。それから、財務省へ正式な照会を出します」
「何を聞くんです?」
私は微笑んだ。
「今回の監査で用いられている基準を、すべて開示していただくの」
クロエが息を呑む。
「まさか……」
「ええ」
私は監査状を机へ置いた。
「私たちだけに適用される基準など、まさか存在しませんもの」
もし同じ基準が、すべての商会と貴族へ公平に適用されるのなら。
困るのは――。
さて。
どちらでしょうね。
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