「離婚なさいます?」「逆だ」
「エレオノーラ。君は今日、何か変なものでも食べたのか?」
失礼な夫である。
私は二十年間連れ添った夫、クライス公爵アレクシスを無言で見つめ返した。
王宮から帰宅したばかりの彼は、いつものように隙なく整えられた黒髪に、感情の読めない灰色の瞳をしている。四十歳になった今も、その端正な容貌と冷たい威圧感は少しも衰えていない。
この国で、王家に次ぐとも言われる権力者。
そして――私とは二十年間、ほとんど夫婦らしい会話をしてこなかった男だ。
「変なものは食べておりませんわ」
「では、熱でもあるのか?」
「平熱です」
「医師を呼ぼう」
「必要ありません」
「なら説明してくれ」
アレクシスは執務机の椅子に腰を下ろし、私を真正面から見据えた。
「十年ぶりに私の書斎で待ち伏せしていた妻から、いきなり『この国を変えたい』と言われた夫は、どう反応するのが正解なのだ?」
「協力すると仰ってくだされば満点ですわ」
「なるほど。医師ではなく神官を呼ぶべきだったか」
本当に失礼な夫である。
だが、腹を立てている時間はない。
娘が処刑されるまで、あと三年なのだから。
「では、具体的なお話をいたしましょう」
私は用意していた三枚の書類を、彼の前へ差し出した。
アレクシスは受け取らない。
「これは?」
「王都南区画における新規事業の企画書です」
「……新規事業?」
そこで初めて、彼の眉が動いた。
「ええ。まずはこちらをご覧ください」
半ば強引に差し出すと、アレクシスは渋々書類を受け取った。
前世の私が会社員時代に散々作らされた企画書の形式を参考にしながら、この世界の商習慣に合わせてまとめたものだ。
もっとも、前世の知識だけで作ったわけではない。
私は二十年間、公爵夫人としてこの家の社交と家政を取り仕切ってきた。
どの商会が伸びているか。どの地区に人が集まっているか。貴族夫人たちが何に金を使い、その流行がどのように富裕な平民へ広がっていくか。
これまで「公爵夫人の仕事」として眺めていただけの情報が、前世の記憶を取り戻したことで一本の線に繋がったのだ。
目的。
必要資金。
予想収益。
人員。
販路。
そして想定されるリスク。
アレクシスの視線が、一行ずつ文字を追っていく。
やがて――彼の表情が変わった。
ほんの僅かだったが、二十年も夫婦をやっていれば分かる。
驚いている。
「……南区画の孤児院を支援し、その隣接地に服飾工房を設立する?」
「はい」
「そこで孤児に読み書きと計算を教え、平民の女性を職人として雇用する。さらに商業ギルドと提携し、中流層向けの既製服を販売……」
アレクシスが顔を上げた。
「エレオノーラ」
「はい」
「君は公爵家を服屋にするつもりか?」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「服屋を支配する側になるのです」
沈黙が落ちた。
今度は明らかに、アレクシスの目つきが変わった。
「……続けろ」
食いついた。
私は内心で小さく拳を握る。
「現在、王都の高級服飾市場は貴族向けの注文服が中心です。けれど商人階級が豊かになるにつれ、その妻や娘たちも上質な服を求めるようになっています」
「それくらいは知っている」
「ですが、彼女たちが貴族と同じ仕立屋を使うには高すぎる。そこで、ある程度形や寸法を統一した服を工房で作り、価格を抑えて販売します」
前世でいうところの既製服だ。
完全な大量生産には、この世界の技術ではまだ難しい。
それでも型紙を規格化し、工程を分業するだけで生産効率は大きく上げられる。
「裕福な商人だけではありません。少し背伸びをすれば手の届く価格帯まで下げられれば、市場そのものを広げられます」
「その労働力として、平民の女を使うのか」
「使う、ではありません」
私は即座に訂正した。
「雇うのです。正当な賃金を支払って」
アレクシスの眉が上がる。
「何が違う?」
「大違いですわ」
女性自身が働き、収入を得る。
自分の意思で使えるお金を持つ。
今のこの国では、それだけでも小さな革命になる。
もっとも――。
「慈善事業をしたいわけではありません」
先回りして言うと、アレクシスが僅かに目を細めた。
「彼女たちが稼げば、そのお金を市場で使います。服を買う。食べ物を買う。子供に教育を受けさせる。消費が増えれば商人が潤い、税収も増える」
私は企画書の数字を指で示した。
「労働力を確保し、新しい顧客を生み、まだ誰も押さえていない市場を先に取る。公爵家にとって、十分な利益になると思いません?」
アレクシスは答えなかった。
ただ、書類を最初から読み直し始めた。
一度目より、ずっとゆっくりと。
やがて低い声が落ちた。
「……誰の入れ知恵だ?」
「私です」
「嘘をつくな」
灰色の瞳が鋭く私を射抜く。
「君は二十年間、領地経営にも投資にも興味を示さなかった」
「興味がなかったわけではありません」
「では、なぜ今まで黙っていた?」
痛いところを突かれた。
前世を思い出したから――とは言えない。
だから私は、一番嘘の少ない答えを選んだ。
「必要がなかったからです」
「……何?」
「これまでは、あなたが完璧にやってくださっていましたもの」
アレクシスが言葉を失った。
「領地経営も、投資も、政争も。あなたは一度として私の助けを必要としなかった。ですから私は、公爵夫人として求められた役割だけを果たしてきました」
「では、今は必要だと?」
「ええ」
私は彼の目を見る。
「守りたいものができましたから」
「守りたいもの?」
「イザベラです」
その名を出した瞬間、アレクシスの表情から僅かに険が消えた。
この男は冷たい。
少なくとも、私はずっとそう思ってきた。
けれどイザベラを愛していないわけではない。
それだけは知っている。
「これから先、血筋と権威だけで公爵家を守れる時代が永遠に続くとは思えません。盤石な経済基盤。そして貴族だけではなく、商人や平民からも必要とされる家になること。それがイザベラを守る盾になります」
ゲームでは三年後、娘の断罪とともにクライス公爵家も没落する。
王太子によって『腐敗した旧貴族の象徴』として切り捨てられるのだ。
ならば、その前提そのものを壊す。
クライス公爵家を、この国にとって切り捨てられない存在にしてしまえばいい。
アレクシスは長い間、何も言わなかった。
やがて――。
「……半年だ」
「え?」
「半年間、君にこの事業を任せる」
思わず目を瞬いた。
「初期資金も出す。ただし、無制限ではない」
彼は企画書の余白にさらさらと数字を書き込んだ。
「この額を上限とする。三か月で工房を稼働。半年以内に継続可能だと判断できる数字を出せ。無理なら撤退する」
「利益が出なければ、ではなく?」
「新規事業が半年で黒字化するとは限らん。その程度のことも分からない夫だと思っていたのか?」
「……いいえ」
少しだけ驚いた。
ゲームの中では、アレクシスは『悪役令嬢の父親』としてしか描かれなかった。
娘を甘やかし、権力を笠に着て、最後には共に没落する公爵。
けれど現実の彼は違う。
少なくとも目の前にいる男は、数字を読み、リスクを測り、可能性があれば未知の計画にも金を出せる。
(この人……思っていたより、ずっと使えるわね)
「今、失礼なことを考えなかったか?」
「まさか」
「そうか」
アレクシスは万年筆を走らせ、承認の署名を書き込んだ。
「ありがとうございます、旦那様」
書類を受け取り、私は立ち上がる。
第一関門は突破した。
ここからだ。
商業ギルドを取り込み、工房を作り、女性が自分で稼げる仕組みを作る。
小さな歯車を一つずつ変えていく。
やがてそれが、この国そのものを動かす巨大な歯車になるまで。
「では、失礼いたします」
一礼して背を向ける。
そのときだった。
「エレオノーラ」
足を止めた。
「何でしょう?」
振り返ると、アレクシスは私を見ていた。
先ほどまでの『公爵』の目ではない。
奇妙なものを見る目でもない。
二十年間連れ添った妻を、まるで初めて知ろうとしているような目だった。
「最近の君は……昔とは違うな」
「……お気に召しません?」
「いや」
私は少し考えてから、冗談めかして尋ねた。
「離婚なさいます?」
「逆だ」
即答だった。
「……はい?」
「いや。何でもない」
今度はアレクシスの方が視線を逸らした。
珍しい。
けれど今は、夫の不可解な態度を分析している暇はない。
「では、計画を進めますわ」
「ああ」
扉を開ける。
「エレオノーラ」
また呼び止められた。
「今度は何でしょう?」
「商業ギルドへ行くなら、明日の午前にしろ」
「なぜ?」
「ギルド長のハインツは午後になると酒を飲む。酔うと話が三倍長くなる」
「……有益な情報をありがとうございます」
私は執務室を後にした。
廊下を歩きながら、手元の承認書を見る。
これで最初の武器を手に入れた。
資金。
公爵家の名。
そして――夫の協力。
(まずは商業ギルドね)
王都の商人たちは、一筋縄ではいかない。
貴族だからと頭を下げてくれる者ばかりでもないだろう。
けれど、望むところだ。
前世では何度、無茶な要求をする取引先に笑顔で頭を下げ、上司の無理難題をかわし、会議で企画を通してきたことか。
私は微笑んだ。
(営業スマイルなら、貴族の微笑みより年季が入っていますもの)
――そして翌朝。
私はまだ知らなかった。
王都商業ギルドで待っていたのが、単なる商談相手ではないことを。
私がこの国を変えるために必要となる、最初の『共犯者』との出会いになることを。
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